第471話 堕天
「はぁ……はぁ……」
情けないほどに息を上げながら、俺は森の中を彷徨っていた。
雪に包まれた静かな白い森は、果てしなく続いているような錯覚に陥る。体力の限界を訴えて軋む足が止まるのが先か、それとも寒さで凍えるのが先か。なけなしの上着を一枚脱いだ俺に、この寒さは堪える。
「くそ……もう、陽が落ちる……」
一面の銀世界は、刻一刻と闇夜が支配する暗黒へ変わろうとしていた。
いくら夜目の効く俺でも、光源が一切なければ流石に何も見えない。この体に残された魔力では、疑似火属性による小さな灯火さえ、十分と経たずに燃え尽きてしまいそうだ。
どうする、凍死覚悟で野宿でもするか? 俺の体なら一晩眠れば多少は回復してくれるかもしれない。それとも、今の消耗しきった状態じゃあ、冬の寒さにあっけなく敗北するか……あまり賭けたい気持ちにはならないな。
そんなことをぼんやり考えていた、その時、目の前にポっと白い光が灯る。
「……悪いな、助かる」
「いえ」
俺の代わりに、サリエルが灯火(ト-チ)を使ってくれた。
背負った彼女の体は、手足が欠けているせいか、酷く軽い。それでも、背中には確かに生命の温かさを感じる。まぁ、俺のタートルネックのセーターみたいな上着は、保温性だけは抜群だ。ついでに、XLオーバーなサイズのこれを小柄なサリエルに被せれば、痛ましい下着姿もすっぽりと覆えて、目の毒にならずに済む。
それにしても、灯火が使えるとは、やはり魔力は残っているということだ。魔法として行使するのは辛そうではあるが、魔力そのものが底を突いた俺に比べればマシだろう。残った妖精の霊薬をサリエルにつぎ込んで、手足の傷を塞いだ甲斐はあったと思うことにしよう。
お蔭で、灯りの心配はせずに済んだが……彼女と助け合うこの状況に、俺はまたしても複雑な感情を覚えるのだった。
そう、俺は結局、サリエルを殺すことができなかった。
あと三秒、『逆干渉』の記憶再生があの日まで遡るのが遅れていたら、サリエルは死んでいた。窒息ではなく、首の骨を折られて。
あれを見てしまったら、サリエルの本当の正体を知ってしまったら……俺の腕にはもう、一切の力は入らなかった。
サリエルはただの人造人間じゃない。その中身、魂は異邦人のものだ。俺が異世界召喚ならば、彼女は異世界転生というべきか。
白崎百合子。
彼女は俺が倒れた直後、同じく頭痛に襲われ気絶し、そして、次に目覚めた時にはもう、サリエルの体となっていたのだ。亜麻色の髪と黒い瞳の愛らしい少女の面影はなく、人形めいた美貌の人造人間の肉体へと彼女は転生させられた。
記憶を見る限りでは、そういう風にしか見えなかった。
今はもう、『逆干渉』の効果はすっかり収まっている。これ以上サリエルの、いや、白崎さんの記憶の秘密を覗き見ることはない。
「……」
俺とサリエルの間に、会話はない。互いにひたすら沈黙を貫き、俺は雪深い森を当て所もなく突き進み続け、彼女はまた、眠ったように規則正しい小さな吐息を発する。
俺は歩くことだけに集中して、他のことは、何も考えなかった。いや、考えられない、というべきか。この奇妙な状況下において、俺はどうすればいいのか、何をすればいいのか。全く思考がまとまらない。
ただ一つだけ確かなことは、俺にはもう、サリエルを殺す意思が潰えてしまったということ。正確には、拒絶反応、とでもいうべきか。
本当は、サリエルを殺すべきだ。
初志貫徹、というワケではないが、使徒を生き残らせることがどういう意味か、俺はよく知っている。だからこそ、無茶を承知で『天送門』に飛び込んだんだ。
そして何より、あとほんの少しでも彼女が力を取り戻せば、真っ先に俺は殺されるだろう。
安全という一点でのみ考えても、サリエルの殺害は最善策である。
殺そう、もう、正体なんか関係ない、白崎さんだろうと誰だろうと、使徒は殺す――だが、いざ腕を動かそうと思えば、やはり、ピクリとも力が入らないのだ。一度は絞め殺す気で握った彼女の首に、俺はもう、手をかけることさえできなかった。
ああ、認めよう。俺は、サリエルを殺したくない。白崎百合子という、顔の見知った相手を、殺したくないのだ。
これまで散々、人を殺してきたというのに、とんだお笑い草だ。何が悪魔だ、狂戦士だ。
同郷の顔見知り。たったそれだけの理由で、俺は人を殺すことができなくなった。何という愚かしさ。何という、弱さ。
どれだけ思い悩んで、自身を苛んでも、彼女を殺せない事実に変わりはない。
じゃあ、俺はどうすればいいんだよ。
結局そこで、思考は止まる。答えの出ない、堂々巡り――
「――あれ」
そんな無為な思考の渦に囚われ続けていたが、ふと気づく。
「何だ、ここ……見覚えが……」
既視感、というヤツだろうか。
冬の森を歩くというのも、ラストローズ討伐の際、アスベル山脈登山で経験している。そうでなくとも、森なんてのは冒険者なら新人にだってなじみ深いフィールドだ。見覚えがある、どころの話ではない。
そういえば俺の冒険者デビューである『リキセイ草採取』の初クエストだって、リリィと一緒に妖精の森に――
「そうか、ここは……妖精の森だ」
すっかり夜の帳がおり、灯りはサリエルの今にも消えそうな小さな灯火だけ。それでも、薄ぼんやりと照らし出される森の景色に、俺は見覚えがあることを確信する。
雪が降っていても、見違えることはない。妖精の森はイルズ村で過ごした僅か三ヶ月という期間だが、それでもほとんど毎日歩いたダンジョンである。思えば、それだってまだ半年前だ。その時の記憶がもう薄れてしまうほど、俺は耄碌しちゃいない。
「ここからなら、近いな」
行く先は、すぐに決まった。それ以外はもう、今の俺には考えられない。
久しぶりに帰ろう、俺とリリィの家に。
「おお……あった!」
その雪に埋もれるように建つ小さな、本当に小さな小屋を見つけた瞬間、俺は思わず声を弾ませた。
そのまま扉を蹴破らんばかりの勢いで飛び込もうとするが、降り積もった雪が邪魔をする。誰も住んでいないのだから当然、除雪なんてされているわけがない。
仕方なしに俺は、扉だけでも開くようスコップ無しの雪かき作業という苦行に挑む。
分厚い雪をかき分けて、ようやくドアを開けられるという時には、俺の息は絶え絶え。このままドアの前でぶっ倒れるんじゃないかという消耗ぶり。
せめてサリエルだけでも下ろしておけばもうちょっと楽だったんじゃないかと気づいたのは、ゼェーゼェー言いながらドアノブを握った瞬間であった。
まぁいい。確か、カギはかかっていないはず。
「はぁ……はぁ……た、ただいま……」
暗く冷たい室内からは、「おかえり」と返ってくる温かい言葉はない。
それでもこの懐かしさすら感じる部屋に、俺の心はほんの少しだけ温かくなった。
「少し埃っぽいな……換気するか、いや、暖炉をつけるのが先か……」
そのままくつろぐには、半年分の汚れが積もりに積もった部屋というのは躊躇する。
とりあえず俺は天上から吊るされているランプに火を入れる。良かった、まだ油は残ってる。無事に点灯してくれた温かなオレンジの光に、ようやく人心地がついた。
「うん、やっぱり掃除が先だな」
決断した俺は、まずベッドに畳まれている毛布とシーツを掴んで、再び外に。
家に帰ったことでほんの少しだけ戻って来た活力を消費して、バンバンと埃叩き。とりあえず、こんなもんでいいだろう。
暫定的に清潔な寝床を確保した俺は、シーツと毛布をホテルマンのように丁寧に引いてから、ようやく背負ったサリエルを下ろすことができた。
「ちょっと騒がしいかもしれないが、我慢してくれ」
もっとも、テレビゲームの真っ最中に狙ったかのようにオカンが掃除機をブォンブォン鳴らして乱入された時の俺みたいに、ケチの一つがサリエルから飛んできたとしても、清掃の手を止めることはないだろうが。
寒さを堪えて、俺は小屋にある窓を全開にし、それから奥の方に仕舞い込んであった箒とチリトリと雑巾バケツのセットを発掘し、完全武装を整えた。
まずは埃落としと掃き掃除。
ここを引き払う時にあらかた整理しておいたから、ゴミらしいゴミは一つも落ちてはいない。それを思えば、動物やモンスターに侵入されることもなかったことが分かる。
思い出の場所が荒らされてなくて、本当に良かった。
それから、小屋のすぐ裏手にある凍った小川からなんとか水を調達し、目につくところをざっと拭き掃除。たった一拭きで驚きの黒さに。半年でこれなら、もう一年、二年と経過していれば、掃除しようという気力すら湧かなかったかもしれないな。
「ふぅ……まぁ、こんなもんでいいか」
ツルツルピカピカ、とまではいかないが、とりあえず一晩過ごすのには気にならない程度には綺麗になった。また明日、体力が回復したら本格的に掃除しよう。リリィは綺麗好きだったしな、この小屋を汚れっぱなしにしておくのは、大いに気が引ける。
そんなことを思いながら、俺はどっこいしょと疲労を感じさせる枕詞を思わず口にしながら、ベッドへ腰かけた。
「……クロノ・マオ」
「なんだよ」
「私を、殺してください」
「寒いな、窓、閉めないと」
もう掃除は終わったし、開けっ放しの吹き曝しじゃあ、毛布にくるまっていても凍え死にそうだ。気合いを入れ直して、俺は再び立ち上がる。
「……殺して、ください」
「あー、次は暖炉に火ぃつけなきゃいけないか、結構な重労働になりそうだなー」
汚れたまんま点火したら、燃えたらまずいモノまで燃えちゃいそうだ。折角綺麗にしたのに、異臭と黒煙の波状攻撃に晒されるのは勘弁願いたい。下手すればちょっとしたボヤ騒ぎである。大家さんに何て説明すればいいんだ。
「っていうかコレ、どうやって使うんだ」
当たり前のことだが、俺とリリィがのほほんと平和に暮らしていた頃は、ちょうど春から夏にかけて。この小屋に見合った小さなサイズの暖炉を使う機会は一度たりともなかった。勿論、現代日本でも暖炉に火を入れる経験なんてあるはずもない。
さて、どうしたもんか――
「――『火矢』」
覗き込んだ真っ暗の暖炉に、俄かに赤々とした火が灯った。
「私はもう、下級攻撃魔法を行使できる程度には、魔力を回復しています」
凄い凄い。流石は使徒。暖炉も魔法で一発点火か。
「このまま一晩経てば、もう貴方の力で私を殺害することは不可能でしょう」
「そうかよ」
「はい、ですから、今の内に私を殺してください」
俺は今度こそ真っ直ぐ見つめられる赤い視線から、逃れることはできなかった。まるで呪いだ。無視するのも、誤魔化すのも、もう、限界だ。
「なぁ、サリエル……お前は、何なんだよ」
そんな漠然とした問い掛けをしながら、俺は再びベッドへ戻る。
「私は、第七使徒サリエル。異邦人の白崎百合子ではありません」
そんなことは知っている。
コイツはただ白崎さんが『思考制御装置』によって洗脳され、操られているわけじゃあない。一度倒せば、正気を取り戻すだとか、そんな都合の良いことはありえない。
俺は他でもない自分自身が『思考制御装置』の支配がどういうものか経験しているから、分かる。白崎百合子という人格はとっくの昔に消滅し、それに代わり、この出来の悪いアンドロイドみたいな性格のサリエルという使徒としての人格が上書きされたのだと。
俺もあのまま実験を最後まで終えていたら、コイツみたいに喜怒哀楽の欠けた無表情の仮面を被った人形となっていただろう。それは『生ける屍』とどんな違いがあるというのか。
けれど、だからこそサリエルは使徒なのだ。白崎さんでもなければ、また別に普通の少女としてでもない。白き神が誇る究極の手駒である使徒として最も相応しいのは、一切の感情を持たず、ただ敵を殺戮する戦闘マシンなのだから。
「なら、どうして死にたがる」
故に、それが一番の疑問。
「記憶の封印が解けたところで、お前は白崎さんに戻ったわけじゃない。第七使徒のままでいるなら、何故、自ら死を望む。どうして、俺を殺さない」
その気になればサリエルは、俺を殺せただろう。森を歩いている時点で、『白杭』の一発くらいは撃てたはずだ。
俺は無防備にもサリエルを背負っている。ゼロ距離で心臓を貫くのは容易い。
「……私は、白崎百合子の意志に逆らえない」
「どういう、意味だ」
「私にも、よく分かりません。ですが、貴方が私を殺そうとしないのと、同じ、ような気がします」
サリエルにしては、えらく曖昧な答えが返って来たもんだ。本当に、自分でも心変わりの理由がよく分かってないのだろう。分からないが、それでも俺を殺す、つまり、使徒としての働きをする気は起きないといったところか。
「彼女は、貴方の死を望みはしない。まして、自分の手で殺すことなど、決して許しません」
「どうかな。自分の命が助かるためなら、たかが俺如き、気にもしないだろう。いや、白崎さんは優しかったからな、少しくらいは躊躇してくれるかもな」
「いいえ、その選択はありえません。彼女は必ず、己の死を省みず貴方を助けます」
「お前に、白崎さんの何が分かるってんだよ」
「白崎百合子は、貴方を愛していた」
まるで、ラストローズの夢の続きだ。
けれど、俺は夢でも幻でもなく、確かに、彼女の告白を聞いた。
「私、黒乃くんのこと――好きなの」
その言葉の意味を勘違いするほど鈍くはないし、疑うほど捻くれてもいない。それに、あの日のやり取りをよく考えてみれば、辻褄は合う。
五月十四日の金曜日。白崎さんは俺に告白するため、部活のミーティングがあると嘘をついて二人きりになるよう誘導した。その前段階で、文芸部員一同には根回しは済ませてあるのだろう。もしかしたら、部室の外で息を潜めて全員待機していたかもしれない。
ともかく、白崎さんには俺に告白するだけの好意を抱いていたのは、間違いない。
「貴方を愛している。ずっと、貴方だけを見つめていた」
「やめろっ!」
お前が、彼女の愛を語るな。
白崎さんがどうして俺なんかを好いてくれたのか、とんと見当はつかない。一体どうして――気になる、とても気になる理由だが、その答えは本人の口以外から、語られるべきではない。まして、コイツの口からは絶対に、聞きたくない。
気づけば俺は、怒りのままにサリエルの胸倉を思い切り掴み上げ、額を付き合わせて無感動な真紅の瞳を睨んでいた。
「いいか、勘違いするなよサリエル。俺がお前を殺さないのは、その体に彼女の魂が宿っているからだ!」
もう自我なんざとっくにないのは分かってる。本当は魂なんてモノさえ、綺麗さっぱり消滅してしまっているのかもしれない。
けど、それでも、目の前にある神の人形が、かつて白崎百合子だった。ただ、それだけで俺は……俺は、サリエルを殺せないんだ。
「今すぐお前を殺してやりたい。今度こそ、その首へし折って、二度と蘇らないように死体を消し去ってやる。十字軍が俺の仲間にしたのと同じようになっ!」
サリエルの体を投げ捨てる。それでも、思い切り床に叩き付けてやることさえできない自分に、余計に苛立つ。
サリエルは大して痛くもないだろうし、まして俺の剣幕にビビるなんてことはもっとありえないだろう。彼女はさっきと同じく、だらしなく寝そべるおねむなリリィと同じように、ゴロンとベッドに転がるのみ。
「……貴方は私を殺すべきです」
「だから、できないと言ってるだろ」
「彼女もそれを望むでしょう」
「うるせぇ」
「殺してください」
「黙ってろ!」
それきり、サリエルは馬鹿正直に黙った。
いまだかつて、これほど重苦しい沈黙を経験したことはない。怒って喚いているのは俺の方なのに、どうしようもなく、泣き出したい気分だった。
「……私は、どうすればよいのですか」
どうしたらいいかだと? そんなの、俺が聞きたいよ。
「私にはもう、貴方を殺す意思はありません。しかし、神はそれを許しはしないでしょう」
「お前にその気がなくとも、殺しにかかってくるってか?」
「はい。この身に宿る加護の力をもってすれば、私の意に反して戦闘させることは可能でしょう」
あながち突飛な発想ではない。使徒くらい強力な加護を受けているならば、大元である神の意志にも強く影響される可能性は高い。
そうでなくとも、『天送門』に飛び込む時、サリエルは意識を失ったまま動き出していた。恐らく、ジュダスが仕掛けた魔法の一部なんだろうが、あれと同じようにサリエルが突如として襲い掛かってくる危険性は嫌でも想像させられる。
そして、コイツが俺を殺せるに足る魔力を回復するのは、今晩だけで十分。たった一晩悩む時間さえ、俺には残されていなかった。
「……本当に、お前はどこまでも俺の敵だな」
「はい、この身に宿した加護が消えない限り、私は貴方の敵です」
「ははっ、加護が消えれば味方にでもなってくれるのかよ」
「私に貴方と敵対する意思は、もうありません」
「そいつはいいな、最高だ……もうお前と戦わずに済むっていうなら、こんなに楽なことはねぇよ」
けど、そんな都合の良い解決方法なんて、あるわけな――
「では、力づくというなら命の代わりに純潔も奪えますね。乙女であることは、シスターにとって最も重要な条件だそうですから」
悪魔が、囁いた。
不意に思い浮かんだのは、いつもの眠そうな顔で雑談に興じるフィオナの顔。そう、あれは確か、ガラハド要塞に向かう道中で話したことのように思える。
そこで俺はフィオナに聞いたんだ。
「でもさ、十字教がパンドラ神殿みたいに厳しい戒律あるんだったら、使徒の中には本当に戒律違反だけで加護が消えるヤツもいるんじゃないか?」
使徒の加護消滅の可能性について。
そして、フィオナの寄越した解答が、ソレ――つまり、純潔を奪う。犯す、という行為である。
「サリエル、お前、処女か?」
気が付けば、俺はそんな質問を口にしていた。男が女に向けるものとしては、最低の部類に入る。
それでも、言わずにはいられなかった。視線を逸らすこともなく、俺は真っ直ぐベッドに転がるサリエルの顔を見下ろしたまま、聞き間違いなどしないようハッキリと言った。
「はい」
何故、どうして、そんな疑問を差し挟むこともなければ、デリカシーどころか常識が欠けていると怒ることもなく、サリエルは答えた。
見つめ返す真紅の瞳には、何の揺らぎもない。恥ずかしげもなく、ただ与えられた質問に回答しただけという態度。
そしてその答えを、疑う必要はない。
なぜなら、すでに俺は彼女の記憶を覗き見ているのだ。その中では一度たりともサリエルは誰かと閨を共にすることはなかった。男も女も、両方だ。
「処女じゃなくなったら、加護は消えるのか?」
「……分かりません」
今度は、即答ではなかった。それも当然か、今まで考えもしなかったことだろう。まして、貞操の危機に晒される状況なんて、あるはずもない。一体何処に、コイツを力づくで押し倒せる男が存在するというのか。
「分かりませんが、可能性はあります」
「なら、使徒の加護が消滅した事例は、存在するのか?」
「ありません。少なくとも、私は知りません」
そりゃあまた、一気に可能性が潰れる話だな。
けど、コイツがただ雰囲気に合わせて「できるかも」なんて曖昧なことを言うようなことはしないだろう。何かしらの理由は、あるはずだ。
「私は創られた使徒です。白き神の意志のみによって加護を与えられてはいません」
ジュダスの野郎が具体的にどうやって加護を獲得させたのかについては、俺には全く分からない。記憶の中で理解できたことといえば、俺と同じような人体実験によって、ひたすら戦闘能力を高めることと、あとは何となく思い描く聖職者のイメージの通り、規則正しい質素な生活を送っていたということ。
サリエルは基本的に戦地にいるが、その中でも日々のお祈りは欠かさず行っていた。他に特別なことは、これといって見当たらない。強いていえば、コイツの戦果がいつも異常ってことくらいか。俺のガラハド戦争の活躍が霞むほどに。
「ですから、十字教の教義に反する行為を行った場合、直ちに加護が消滅する可能性は、私に限っては非常に高い」
「俺達の推測は、概ねアタリってことか」
やはり使徒も黒き神々と同じように、条件如何によっては加護の消滅もありうるのだ。
「私にとって純潔の喪失は、最も重大な背神行為。すでに邪神の加護を宿す貴方が相手ならば、神は決して私を許しはしないでしょう」
「助けるどころかキレるとは、心の狭い野郎だな」
処女じゃなくなったら、今度は別の娘を使徒にすればいいとか思っているのだろうか。反吐がでる考えであるが、男の使徒も存在することを思えば、使徒は単なる神様の美少女コレクションってわけでもないのだろう。
使徒覚醒の条件は、未だに不明だな。
「……試して、みますか?」
その問いに思わず目を逸らしてしまったのが、俺という人間の限界を示していたように思える。
サリエルを犯す。分かった上で言い出したものの、俺にとってその行為はまるで現実感の湧かない、それこそ正にラストローズの夢の如しである。
俺には経験がないから……というのは、まぁ、理由の一つかもしれないが、一番問題なのは相手がよりによってサリエルということだろう。
「俺は、お前ら使徒を倒すために、強くなった」
そして、それは成った。俺達は力の限りを尽くし、ついにサリエルを追い詰めることができたのだから。
「八つ裂きにしてもまだ足りないほど、お前が憎い」
実際に手足をバラバラにしてやった。満身創痍に四肢の欠けた痛ましい姿のサリエルに、俺は執拗な追撃を止める気は、あの最後の瞬間まではついに持ち得なかった。俺の恨みは、本物だった。
「そして俺にとってサリエル、お前は最強の敵だった」
二度に渡って俺を圧倒したサリエルだからこそ、一番の目標たりえた。ずっとその背中を、追っていたと言ってもいい。
「そんなお前を、俺は……」
「貴方は優しい。白崎百合子が、思った通りの人」
俺の葛藤などそしらぬように、サリエルは冷たく口を挟む。
「なんだと」
「彼女は、貴方の心が傷つくこともまた、望まない。苦しむくらいなら、一思いに私を殺――」
「黙れ! 勝手に人の気持ちを知ったような口を利くな、この人形女がっ!」
ああ、全く、その通りだよサリエル。俺はどうしようもないほど、悩み、苦しんでいる。お前に手をかけることは、一生トラウマになってもおかしくないほどだ。
間違ってない。お前も、白崎さんも、俺という人間がこんなに弱いことを、よく見ぬいたものだ。
思わず叫ぶほどに怒っているのは、完璧な指摘をしたサリエルにではなく、自分の情けなさに他ならない。
「俺を舐めるなよ、サリエル。いいか、白崎さんだったお前は殺さない。そして、俺はお前に殺されたりもしない。お前を生かす、俺も生きる。どっちも絶対に、譲らない――」
逸らした視線を、逃げた気持ちを、もう一度サリエルへと向ける。
「――だから俺が、お前を神から奪ってやる」
そんなことは、できない。俺だったら。俺一人の力だったら。
こんな気持ちでその気になれってのは、無理な話だろう。いくらやろうと思っても、俺はきっと奮い立つことはない。
だから、そんな俺だから……この『力』を与えたんだろう、古の魔王ミア・エルロード。
「そう、ですか」
相変わらずの冷たい無表情を貫くサリエルへ、俺は手を伸ばす。左手で軽く抱き起し、右手で彼女の全身をすっぽり包むセーターを剥ぐ。
再び、サリエルの雪よりも真っ白い体が、俺の前へと曝け出される。
ついさっきまで力の限りを尽くして殺し合っていた。フィオナに焼かれて、右手はない。俺に斬られて、両足がない。体は泥やら血やらで随分と薄汚れている。特にパンツの方は、両足切断時の出血で、ほとんどドス黒い赤に染まって酷いものだ。
対する俺も、五体満足ではあるが、血塗れ具合は似たようなもの。槍で刺された腹と左肩の傷は、特に深い。
それでもお互い『妖精の霊薬』のお蔭で、どうにかこうにか、傷は塞がり出血だけは止まっている。
リリィに感謝すべき、なのだろうか。
いや、もう二度とリリィに顔向けできないような罪悪感に、俺は心が押し潰されそうだ。
これから俺は、短いながらも彼女との思い出がいっぱいに詰まったこの小屋で、殺すはずだった敵を抱こうとしているのだから。二人で毎日一緒に眠ったこのベッドには、小さなリリィの代わりに、サリエルがいる。
「貴方に、私の全てを委ねます」
そうして俺は、真紅の瞳を見つめながら、ただ一言だけ唱える。『色欲』の試練を乗り越えて得た、第四の加護。それを発動させる、魔法の呪文を。
「――『愛の魔王』」