第468話 エレメントマスターVSサリエル(3)
「……戻ってきたか」
目を開ければ、そこには灼熱の煉獄山が連なる赤い風景はなく、吹き抜ける風が冷たく肌を刺すガラハド山脈の雪景色が広がっている。無論、大自然の雄大さやら、白銀の風光明媚を感じさせることはまるでない、いまだに激しい怒声と剣戟と爆発音が響きわたる、苛烈な戦場であることに変わりはなかった。
しかし、今の俺には周囲でどんな激闘が繰り広げられていようとも、他へ注意を向けられるほどの余裕はなかった。
恐らく、俺の戦いはまだ、終わっていないだろうから。
ここまでの流れは、予定通り。
俺とリリィの『妖星墜』が、そこに秘める全ての破壊力を解放しきってから、フィオナの『煉獄結界』は解除された。
もっとも、サリエルに究極の一発技である『妖星墜』を直撃させられたことは、ほとんど奇跡に近いだろう。
巨大な暗黒の塊に禍々しい赤光を瞬かせる妖星が、サリエルの頭上に落ちて行くのを俺は確かに見た。インパクトの瞬間には、展開させていた『光翼神盾』の片翼は完全に結晶化していたのも確認している。
その直後に、失明せんばかりに眩い光の大爆発が起こり――今に至る。
「リリィ、無事か?」
「うーん……だいじょうぶー」
あんまり大丈夫ではなさそうなリリィは、胸元が破けたワンピースをその身にまとい、ちょっとグッタリした様子で俺の足にしがみつくようによりかかっていた。
『妖精合体』を発動させるのはリリィ本人であるからして、それに必要な魔力も消耗されるから、変身を維持できなくなるほど疲れ切ってしまうのは当然の帰結だ。
もっとも、俺自身もかなり足元がおぼつかないほど、この体に重たい疲労感と倦怠感を伴っているのだが。『妖星墜』は勿論、合体中に加護連発、そうでなくともただサリエルと戦っているだけで、ガンガン魔力を消費していったからな。
俺とリリィの二人分を合わせてもマトモに戦闘するのにギリギリな魔力量、という凄まじい燃費の悪さである。
「クロノはー?」
「リリィほど消耗しちゃいないが、結構つらいな」
ちゃんと男の体と装備に戻っていることは、わざわざ報告するまでもないだろう。リッチ討伐の際に、合体解除で元に戻るというのは確認済みだ。
でもちょっと不安だったりもした。何かの手違いで、女の体から戻らないんじゃないかと。合体中は本当に、完全無欠に女体と化しているからな。
「それでも、やった甲斐はあっただろ……」
鉛のように重くなった体のせいで、少しばかり重苦しい息を吐きながら、俺は現実世界に戻っても、いまだ黒煙の立ち込める爆心地を睨んだ。
濛々と噴き上がる煙は濃く、その向こう側にサリエルの姿を隠している。あるいは、もう消滅したと思いたいところだが――
「ちっ、やっぱりまだ生きてるか」
漂う黒煙の渦に、俄かに白い輝きが走る。
その二色は決して混じり合って灰色となることはなく、揺らぐ煙に白色のオーラが絡まるようにとぐろを巻いていた。
さながら噴火口から蘇る怪獣のような存在感を放ちながら、白い少女は現れる。
「けど、流石に無傷じゃあ済まなかったようだな」
再び姿を現したサリエルは、街道で第八使徒アイとの決闘でボロボロになったかつての俺を想起させる有様であった。
その身から迸る白色魔力のオーラに衰えは見られないが、それでも、体の方はついていけてないのは明らかだ。
「はっ……はぁ……」
あのサリエルが、息を乱している。
ほんの僅か、かすかな変化であるが、赤い目はやや伏し目がちとなり、ついに無表情の仮面が崩れ、疲労の色を映し出していた。
だが最も大きな変化、ダメージを確信させるのは、彼女の体。
今のサリエルは、飾り気のない白い下着だけとなっている。つまり、あの風に美しくひるがえる純白の法衣が、完全に消え去っていたのだ。かつて俺が『悪魔の抱擁』を失ったのと同じように。
人形ではなく生身であることを証明するように、煤けながらも白くか細い裸体を晒す彼女は酷く無惨で、これ以上ないほどの同情を人々から引くだろう。
だが、そんな格好で騙されるヤツなど一人としていはしない。
サリエルの手には、いまだに白刃煌めく十字の槍が握られている。アイツはまだ、戦う力と意思が残っているのだ。
「さぁ、第二ラウンドを始めようか、サリエル」
俺は手に残った『絶怨鉈「首断」』を握りしめ、重い一歩を踏み出す。
『極悪食』の方は、サリエルから離脱する際にそのまま置いて来てしまった。恐らく、その辺に転がっているだろうが、回収する余裕はないだろう。
「ク、クロノぉ……」
「無理するな、リリィは下がってろ。後は任せたぞ」
「イエス、マイロード」
任せる、との言葉に対して返ってくる声は、無機質な男のものだった。
俺はすでに、リリィ謹製の『生ける屍』が背後に控えていることを知っている。
『妖精合体』解除後は、もうリリィが戦えないほど消耗しきってしまうというのは想定済み。この戦場から安全に離脱するために、彼らは存在するのだ。
この安全策のためだけに、一体たりとも損失させないよう今までの戦いには出さなかったのである。
サリエルの奮闘のお蔭か、周囲では十字軍の一部が殿部隊として果敢に応戦を始めていた。この辺でもまだまだ激しい、というより明らかに並みの兵士以上の実力者が戦っている高密度の魔力の気配も感じる。何にせよ、いまだ乱戦模様となる戦場において、『生ける屍』という護衛を残しておいた意味はあった。
「うぅ……クロノ、気を付けて……無茶したら、ダメ、だよぉ……」
俺は屈強なスマイル鉄仮面の僕に連れられて下がっていくリリィを、ちらりと一度だけ振り返って見送った。
返す言葉は、なかった。
悪いなリリィ。あのサリエルをここまで追い詰めたんだ。あと、ちょっとくらいの無茶をしてでも、俺はやる。
再び前へと視線を戻せば、サリエルも俺と同じく、ちょっと重そうな足取りでもって、歩き始めていた。
「……行くぞ」
二歩目で駆けだす。休息を求める両足の悲鳴を無視して、強引に、力づくで脚力を引き出す。
対するサリエルも、白いオーラを猛然と噴き出しながら走り始めていた。まだ動けるのか、と驚くよりも、それくらいできて当然だろうといった心境だ。
「赤凪」
間合いが重なる前に、先制攻撃。ガラハド戦争だけでも散々に敵兵を斬ったお蔭で、血の刃を形成する材料は潤沢に蓄えられている。
鉈そのものから血飛沫でも噴き出るような勢いで、硬く鋭く結晶化した血の刀身がサリエルへ迫る。
しかし流石は使徒というべきか、疲労した体でありながらも攻撃をヒラリと華麗にかわす――だけでは、済まなかった。
「……突撃」
一瞬、姿を見失う。
気づいたのは、ギラつく穂先が文字通りに目の前へ突きつけられていたその時。
「雷の魔王っ!」
止まって見えるはずの世界で、ハッキリ分かるほどに前進を続ける十字の刃。第三の加護がなければ、俺はあっけなく顔面を貫かれていたことだろう。
驚くべきは、ただ走るのみならず、まだこれほどの踏込みを見せたことだ。サリエルが走り去った後に、彼女が地面につけた足跡からドっと雪が舞い散る。
『突撃』は真っ直ぐ走って敵を突き刺すという、最初の移動も含めて一つの技としている槍の武技である。決闘する時は最初の一撃としてよく使われるというが……ただの『突撃』だけでこれほど素早く間合いを侵略できる奴は、一体どれほどいるだろう。まるでガンマンの早撃ち勝負の世界だ。
そんな風に肝を冷やしつつ、俺は首がもげるんじゃないかという勢いで頭を横に逸らす。
寸でのところで回避成功。左耳がザックリ裂かれたが、それでも、致命傷じゃないなら回避成功と言い切ろう。
「うぉおおおっ!」
すかさず反撃。すでに血の刃が消え去った鉈を、全力で返して懐へと飛び込んだ格好のサリエルを狙う。
振るった二の太刀は、やはりというべきか、サリエルが早くも引き戻した槍の柄によってあえなく弾かれる。絶妙な角度で刃を捉え、滑るように軌道を逸らされる。
向かう先は虚空。正しく、空を切ったという状態。
慌てて三の太刀――なんて、許してくれるほど、彼女は甘い相手じゃあない。
「スティンガー」
サリエルが選んだのは貫手。ほとんど密着状態のゼロ距離だから、槍で突くよりも、手を伸ばす方が早かったのだろう。
いつの間にか柄を手放した左手は、白魚のような指先を綺麗に揃えて繰り出される。さながら、一振りの白刃。向かう先はただ一点、心臓。
「鋼の魔王――が、あぁああああああっ!!」
究極の防御手段である第二の加護。発動はした。だが、そこで限界だった。
胸元に漂うのは、そよ風で吹き飛んでしまいそうなほどに薄い鋼のオーラ。それでも、魔王のガードは恐ろしき使徒の魔の手を防いでくれた。
業物の刃が如き指先は、ピタリと胸先で止まっている。あとほんの一センチ食い込めば、この『悪魔の抱擁』を貫いたんじゃないかというほど、きつめに爪先が当たっていた。
破れてない。貫かれていない。けれど、迸った衝撃は、俺の胸の奥底で鼓動を刻む急所を震わせた。一瞬、心臓が止まるかと思ったほどに。
そうしてサリエルが口にした『スティンガー』という貫手の武技は防ぎ切った段階で、『鋼の魔王』は完全にその効果を消失させた。もう、加護を顕現させられる魔力が、底を突いたのだ。
絶対防御を失った俺の身に、すでにして当てられた使徒の手を止める手立てはなかった。
「ぉおおっ!?」
サリエルは胸に当てた手を、そのまま突き刺すのではなく、振り下ろした。本当に自分の手が剣に、いや、これぞ本物の手刀だとでもいうように。
そんな馬鹿げた攻撃で、俺の『悪魔の抱擁』が破れる。
胸元から真っ直ぐ下に、腰を通り過ぎて。物理的にも魔法的にも強靭な耐性を誇る悪魔の革は、あっけなく引き裂かれたのだ。
「こ、んのぉ!」
そこまでの装備破壊を許してから、ようやく俺の三の太刀が届く。足元で小さくかがむような格好となっているサリエルの白髪頭を、そのままかち割るような振り下ろし。
今度は槍でガードできるほどの空間的な余裕もない。だが、受ける必要などそもそもない、とばかりにサリエルは刃を潜り抜けた。思い切り立ち上がるように体を跳ね上げたサリエルのすぐ脇を、まるで表面を滑って行くかのように鉈の刃が通り過ぎて行く。
それはきっと、特別な武技でも魔法でもない。俺の攻撃が完全に見切られていた、というだけの話だろう。
全く、生身に戻った途端にこれだ。本当に使徒との力量差を実感させられる。
息も絶え絶え、下着姿という無様な格好になりながらも、サリエルはそうしてさらに実力を見せつけてくる。彼女の動きは、ただの回避ではなく、次なる攻撃に繋がっていた。
再び伸ばされたサリエルの左手が掴んだのは、コートの胸倉。
なんだ、と思った次の瞬間には、フワリと体が宙を舞った。
投げられている――そう理解が追いついたのは、サリエルの頭上を通過している真っ最中の時だった。
胸倉を掴んで、そのまま強引に投げ捨てる豪快なモーションでありながら、柔道の達人が無抵抗の相手にしかける一本背負いのような淀みのなさもある。力強くも、綺麗な投げ技だ。
このままの勢いで地面に叩きつけられた瞬間、そこで俺は致命的な隙を晒すことになるだろう。頭っから地面に突っ込んだ衝撃を受けながら、即座に回避か防御に移るのは不可能。サリエルは今度こそ俺の心臓でも頭でも、好きな急所をまだしっかりと右手に握る槍で一突きである。
だから逃げた。まだ叩きつけられる前、投げられている真っ最中である、今、この瞬間に。
俺は脱皮するかのように『悪魔の抱擁』を脱ぎ去った。すでに前が破れていたのも幸いした。鉈を手放し、両腕を袖から抜けば脱せられる。
それにしたって、自分でもどうやったのか、ちょっと不思議に思えるほど華麗に抜け出た。まるで忍者の変わり身の術のような鮮やかさ。あるいは、『悪魔の抱擁』が俺を逃がしてくれたと考えてもいいかもしれない。
そうして俺は、前方に転がるようにサリエルの投げ技から逃れることに成功。
だが、これをただ凌いだだけでは、後は続かない。俺は最も頼れる防具を一枚失ったのだ。これ以上、サリエルと正面切ってやりあえば、次の一合で再び追い詰められるのは目に見えている。
使うなら、今しかない。
即断した俺は着地と同時にさらに地面でもう一回転しつつ、腰元に左手を伸ばす。ベルトの脇に吊るされている『妖精の霊薬』が入った薬袋と『蒼炎の守護』を通り過ぎ、ちょうど腰の真後ろにソレはある。
双銃口の『デュアルイーグル』だ。
その内に秘めるのは、榴弾でもなく通常弾頭でもない。サリエル殺しの専用弾丸。
「……」
抜き放った銃は、サリエルの頭へ向けられる。
対して、彼女の槍は、俺の喉元へと突きつけられている。
互いに必殺の武器を突きつけ合ったのは同時。まるで示し合わせたかのように、俺もサリエルもピタリと動きを止めていた。不気味な沈黙。
「……刺さないのか? 戦いはまだ、終わってないぞ」
「いいえ、終わりです」
もう勝った気でいやがる。けど、それもそうか。コイツならば、この超至近近距離でも撃った弾を見切って避けてもおかしくない。
あるいは、俺がトリガーを引くよりも先に、穂先で喉を貫けるということか。
「やはり、貴方の力は危険すぎる。貴方も、貴方の仲間も、全て殺します」
「ふっ、馬鹿め……気づくのが遅すぎるんだよ」
そして俺は、トリガーを引いた。サリエルの赤い目が動いたのを、俺は見逃さない。
ヤツの真紅の視線が、この瞬間、俺から外れたのだ。
「ぐうっ!」
突き出された十字の槍は、俺の左肩を深く抉る。しかし、元より定められていた急所たる喉からは逸れている。
対して俺の放った弾丸は――外れた。かすりもしない。僅かに体を傾げた上で、大きく首を曲げることでサリエルは難なく射線より逃れていた。
『デュアルイーグル』より走る二発の弾丸は、冬の空へと虚しく消える。
「――っ!?」
だがしかし、サリエルに弾は当たった。
命中。側頭部。
「流石、いい腕だ」
最高のタイミングで、シモンの狙撃が炸裂したのだった。