第466話 エレメントマスターVSサリエル(1)
「な、なんだこれぇーっ!?」
麗しい女の声の絶叫が、煉獄に響き渡る。
目の前には、突如として地下墳墓の最終階層から地獄の世界に変貌を遂げたことで、不安げに周囲をキョロキョロしているアンデッド王リッチが立っていた。
だが俺の驚きは、彼の比ではないだろう。
「やったわクロノ! 『妖精合体』は成功よ!」
無邪気に弾むリリィの声が耳元で響く。横を見れば、すぐそこに見慣れた少女リリィの顔――のはずだが、あれ、何だ、リリィちょっと透けてない?
「憑依するって言ったでしょ? 魔力だけで体が構成されているから、今の私は半人半魔の妖精じゃなくて、クロノにとり憑く守護霊になったのよ」
初めて出会った時と同じ、裸の姿でリリィが教えてくれる。勿論、生々しく白肌が露わになっているのではなく、妖精特有の光のヴェールのようなものに包まれた見た目であるが。
完全な魔法生命へと変化したから、エンシェントビロードのワンピースも着られないということだろう。
「そうか、なるほど。確かに、リリィの意志が俺の中にあるのが分かる――って、そうじゃなくて、俺の体、どうなってんだよ!?」
「え? どうって……とっても綺麗だと思うけど?」
「容姿の感想じゃなくて、何で女になってるんだってところから聞きたいんだが」
そう、気が付けば俺の体は、女になっていた。
声を出せばやたらセクシーなお姉さまみたいなボイスが出るし、ちょっと下を向けばデカい胸の谷間が見える。足元が見えんぞ。
「それは妖精の私と合体するから、クロノの体もより妖精に近くなるよう変化しているんだと思うよ」
妖精は可愛い女の子しか存在しないから、無理なく同化するために、合体者が女になるということか。
とんでもない理屈と変化であるが、これはただの魔法ではなく、神が授けた奇跡の加護である。どんなぶっ飛んだ効果が発揮されても、不思議じゃあない。
それに聞くところによれば、かつて古代遺跡から性別を逆転させる魔法具が発掘されたこともあるという。魔法で性別を変えることが可能ということは、すでに証明されているのだ。
だがしかし、理解はできてもそうそう簡単に納得いかないのは当然だろう。インフォームドコンセントの概念はリリィにはないようだ。
「いや、でも、だからって……」
思わず、こぼれんばかりにたわわに実った自分の巨乳を触ってみる。指が沈むような極上の柔らかさを掌いっぱいに感じる。両手でも掴み切れないほどの大きさは、疑いようもなく天然モノ。
だがしかし、感覚としては風呂上りに「おお、やっぱり俺の胸筋って結構立派だな」とか触ってみた時となんら変わりない。自分の胸を触る、という行為そのものは同じだからなのだろう。
女性の乳を揉むという、男として大変ありがたい行為を果たした俺だが、一抹の虚しさしか感じられない。股間がどうなっているかまで、確かめてみる気は起きなかった。
「いいじゃない、お世辞抜きで、本当にクロノは綺麗よ。絶世の美女、と言っても大袈裟じゃあないわ」
「そういう慰めはいらないよ、リリィ……」
何の覚悟もないまま、男として大事なものを失ってしまったような気分である。せめて、事前説明が欲しかった。
いや、あらかじめ「女になる」と言われていたら、それはそれで尻込みしそうになるが。
体のこともそうだが、気が付けばナチュラルに俺の服装も『悪魔の抱擁』からリリィのエンシェントビロードのワンピースになってるし。
ああ、ちくしょう、めっちゃ股座がスースーするんですけど。凄まじい心もとなさ。
強いて幸運な点を挙げるなら、感覚的にどうやらパンツはちゃんと履いているということ。しかし、結構きわどい角度で股に食い込んでいる感触からいって、一体いかなるデザインのモノであるか、確かめてみる勇気は湧かない。やはり股間は不可侵領域ということにしておこう。
もう一つ幸いなのは伸縮の魔法がかけられているから、少女リリィよりも一回り以上も大きい俺でも、ピッタリのサイズとなっていることだろう。
それにしても、変身解除で男に戻った時も、まさかこの格好のままじゃあないよな。自動的に元の装備に戻ると、俺は信じている。
「ほら、どうかしら? 色気という点でいえば、私も負けちゃうわよ」
リリィが思い悩む俺の顔の前に、スイスイと半透明な指先を躍らせるや、大きな光のレンズを作り出す。縦に長い楕円形のソレは、ピカピカに磨き抜かれた鏡と同じ機能を発揮し、そこに立つ俺の姿を映し出してくれた。
「うおお……マジで、女になってる……」
黒髪ロングに切れ長な瞳を持つ美女が、そこにいる。クールな美貌はしかし、ショックを受ける俺のリアクションをモロに反映した愕然とした表情となり、どこか間抜けだ。
「それにしても、この顔、どこかで見覚えが……」
俺が現実逃避のあまり即座に鏡から顔を背けることなく、しげしげと観察したのは、それが原因だった。
確かに、この顔は自分であるという致命的な要素を差し引いて考えれば、間違いなく美人であろう。背も高い、足も長い、腰もくびれているし、何より胸もデカい。男女とも理想にしそうな姿である。
さて、そんな人物なんてテレビの中でしか見たことのない海外のスーパーモデルくらいしか可能性はないのだが――すぐに、俺は思い至る。それはきっと、誰よりも身近な人物だからだろう。
「ふぅん、クロノのお母様に似ているのね」
「ああ、ソックリだ」
流石に、実年齢十七歳の俺が変身しているから、本物より多少は若く見えるのだが。それでも、もし街中でこれと同じ姿の女性を見かければ、俺は間違いなく「なにやってんだ母さん、そんなリリィのワンピースみたいな格好して」と険しい表情で声をかけるだろう。
「そういえばリリィ、俺の母さんの顔なんて知らないんじゃないか?」
「今はクロノと一つになっているから、分かるわよ。何を考えているか、何を思い浮かべているか。そして、記憶の中にある光景もね。うふふ、本当にクロノとよく似ているわね、目元がソックリじゃない」
うわ、これは早々、迂闊なことは考えられないぞ。
合体すれば、普段よりも遥かに思考を読まれるという説明はあったが、実際に経験すると凄まじく後ろめたい感じがしてならない。
「でも、クロノは受け入れてくれたでしょう? ありがとう、本当は私、ちょっと不安だったの」
「リリィなら、大丈夫だ。他の奴じゃ絶対ムリだけどな」
「ふふ、私もクロノだけだよ!」
嬉しそうに首に腕を回して抱き着いてくるリリィ。だが、物理的に肌の感触は何も感じない。けれど、見ていなくてもリリィがどう動いているか分かる。何とも不思議な感覚。
しかし、なるほど、これが合体ということなのかもしれない。今はリリィが、まるで俺の体の一部であるかのように感じられるのだ。
ついでに、思い出そうと思えばリリィの記憶も見られると感覚的に理解できる。それこそ正に自分の思い出であるかのように鮮明にして克明な記憶の数々は、正確に思い出そうと集中すれば、思わず自分を見失ってしまいそうな気がする。
とりあえず、俺は目の前の現実に対してのみ意識を集中して、極力リリィの記憶は探らないように務めることにした。
「けど、なるほどな……これはあんまり長く持ちそうにないな」
「ええ、初めての合体だから、まだまだ不安定よ」
「それなら、早いところ力を試すとしようか――」
リリィの作り出した鏡を、俺が自らの意志で消しながら、煉獄の大地に所在なさげに佇むリッチを睨む。
不思議なものだ。俺には逆立ちしたって使えないと思っていた光魔法が、今は黒魔法と同じように当たり前に手馴れた感覚で操れる。
だから、鏡を消せるし、その気になれば、同じモノを作り出すことだってできる。
そしてそれは、俺の体と一体化したリリィも同じ。彼女は俺の黒魔法を、今なら自由自在に行使できる。もしかしたら、俺より上手く使いこなしてしまうかも。
「それじゃあ、何からいく?」
「そうだな、前から一度、これを使ってみたかったんだ――」
二回り以上は細くなってしまった、自分の右腕を煉獄の赤い天に向かって伸ばす。即座に俺の意を汲んでくれたリリィが同じく手を伸ばしてくれた。
体内で急速に高まる光の魔力を感じながら、俺は憧れの魔法を叫んだ。
「――『星墜』」
「魔剣・裂刃戦列」
「全弾発射」
サリエルが出てきた時のために、これまで一度も使わず影空間に溜めこんでいた赤熱黒化剣を解放する。
とりあえず百数十の裂刃としてサリエルにぶつけてみるが――
「流石に、リッチの時のようにはいかないか」
吹き抜ける煉獄の風によって晴らされる爆煙の向こうから、白銀のオーラを濛々と立ち上らせる無傷のサリエルが現れる。
「けど、割と本気でガードはしたみたいよ。ダイダロスの時とは、違うわ」
確かに、ダメージこそ与えられなかったが、サリエルは全力で迎撃の槍を振るったようだ。俺を相手にする時はいつもロクに構えもせずに片手持ちだったのが、今は歴戦の騎士を思わせる、堂に入った両手持ちの構えで十字の槍を握りしめている。
よく見れば、オーラに紛れてガラス片のようなものがキラキラと舞っているのが確認できる。槍で叩き落としただけでなく、死角を防御魔法でカバーしたのだろう。
「よし、このまま一気に畳み掛けるぞ」
「うん!」
こっちには合体と煉獄の両方に時間的な制約があるのだ。呑気に様子見に徹している暇などあるはずもない。
次なる魔剣は俺が呼び出しながら、そしてリリィは本来扱う光魔法である光球を次々と周囲に出現させ、風船のように漂わせる。
対するサリエルも、俺と同じように攻撃魔法を放つ体勢へと移っていた。脱走時には背中と足を、ダイダロスの時にはローブの裾を城壁に縫いとめた、例の白杭だ。
まるで魔弾と同じように、体の周囲を取り巻くように白い弾丸を展開していた。
「全弾発射!」
俺の第二射を叫ぶ声と同時に、剣と光と弾の応酬が始まった。
渡り鳥の群れのように飛びゆく裂刃に、嵐の如く白杭が叩き込まれる。何十もの黒化剣は目標に着弾することもなく爆散してゆきながらも、俺は少しでも迎撃の弾丸から逃れるようにパっと大きく散らせた。
さらにその隙間を縫うように、リリィの精密なコントロール下にある光球が蛍のように輝く尾を引いて飛翔する。
流石のサリエルも、俺とリリィを合わせた二人分の手数を捌き切ることはできなかったようだ。大きく横へ走り出す回避行動に移る。
それを追いかけるように、というわけではないが、俺の足はすでに力強く地を蹴って走り出していた。
第二射は牽制のようなもの。サリエルを仕留めるには、ただの攻撃魔法じゃ火力不足だろう。『星墜』以上の一発でもなければ、致命傷には至らない。そして大技ほど当てるのは難しい。
ヒットさせるには、アイの時のように拘束するか、動きを鈍らせるほど消耗させるより他はない。
槍使いであるサリエルに接近戦を挑むのは危険ではあるが……それでも、真正面から斬り合わなければ勝機はない。
自分に向かって駆け寄る俺を認識したサリエルは、途切れず連射し続けている白杭の矛先を、まとわりつく黒化剣と光球から、直接こちらに変えた。その気になれば、ガードは槍一本でも十分ってことかよ。
的確に自分へと追いすがる刃と光を突き砕きながら進むサリエルに、改めて実力の一端を思い知らされる心持ちになりながら、俺も回避へ移る。
すでに目の前には白い弾幕がいっぱいとなって、この身を打ち砕かんと迫り来ているのだから。
「飛ぶぞ、リリィ!」
「任せて!」
スっと首元にいたリリィの姿が完全に消え去る。そして、彼女の代わりとでもいうように、俺の背中から、二対の羽が生えた。
形は細長い葉っぱのような、リリィと同じ妖精の羽。
しかし、透明感のある輝く色とは対照的に、俺の羽はタールのように黒々とした不気味な色と質感だ。勿論、漆黒の翼膜にはドクドクと脈打つ血管のように、真紅の光が走る。
淡く綺麗なリリィの羽と大きく異なる、暗く、鈍く、重々しく見える俺の羽だが、これでも発揮する飛行能力に変わりはない。
走り幅跳びのようにドンと一歩を踏込み、力強く跳躍したまま、俺の体は重力の軛に囚われることなく、空中を走り始めた。
上空にまで攻撃範囲をカバーしていなかった白杭の嵐は、虚しく俺の足の下を通り過ぎるのみ。
サリエルの赤い目が俺の姿を追って見上げる。直後の反応は、新たに白杭の対空砲火を浴びせることではなく、真っすぐ槍の穂先を構える方向転換であった。
すでに遠距離で撃ち落とすよりも、手にする刃で直接迎え撃つ方が確実というほどに、間合いが迫っているとサリエルは瞬時に判断を下したのだろう。
事実、俺はリリィが与えてくれる高機動な妖精の飛行能力を駆使して、『絶怨鉈「首断」』を振りかぶり、頭上から斬りかかるモーションに早くも入っていたのだから。
「黒凪っ!」
「一穿」
サリエルが初めて見せる武技は、上空より重力と妖精飛行の加速を合わせた勢いの『黒凪』を真っ向から弾くだけの威力が籠っていた。
衝撃でブレる体は、自前のバランス感覚とリリィの浮力サポートによって、そのまま次の攻撃を繰り出せるだけの体勢を維持し続ける。地面に足がつくや、俺は即座に追撃を振るう。
「二連黒凪」
「薙払」
半回転しながら、右手の『首断』がサリエルの胴を両断しようと黒い軌跡を描いて走る。
すさかず迎え撃つのは、突きの『一穿』と並ぶ槍の基本武技である薙ぎの『薙払』。
白い剣閃を輝かせながら、十字の穂先は華麗に呪いの刃を絡め捕る。まるで鉈だけが激しく外側へ吸いこまれていくような力の流れに、思わず手放してしまいそうだ。どういう力加減でやれば、こんな弾き方ができるというのだろうか。
力押し剣術の俺とは一線を画す技量というものを感じながらも、頼れるパワーで強引に二連撃目を繋ぐ。
左手に握るのは、白色魔力のオーラを食い破る、餓えた狼の大剣。
俺が武技を発動させると同時にリリィが影空間を開いて、この『暴食牙剣「極悪食」』を握らせてくれていた。ヒツギのような、いや、彼女よりもコンマ一秒早い的確なアシストである。
さらにもう半回転しながら、ギチギチと唸りをあげて牙の刃が疾走する。
「――ふっ」
かすかな呼気をもらして、サリエルは『極悪食』をも手にした槍で弾いて見せた。
すでに『首断』を受けていたはずなのに、間髪容れずに繰り出された二連撃を同じ一本の武器で防ぐとは、とんでもない切り替えしの速さ。やはり、コイツの攻撃速度は異常だ。
難なく『二連黒凪』を凌いだサリエル。手にする槍はちょうど振り上げられていて、十字の刃をそのまま下ろせば俺の脳天に直撃する位置にあった。
「雷の魔王っ!」
使用はほんの一瞬だけでいい。死神の鎌が如く、真っ直ぐ振り下ろされる刃をギリギリでかわす余裕が作れれば。
ああ、いや、待て、ギリギリだったらまずい。胸が引っかかる!
瞬き一つするほどの効果時間延長を重ねて、大きくのけ反るように槍の斬撃を辛くも避ける。穂先が大きく突き出た胸をなぞるように通り過ぎて行ったのを感じるが、回避成功。ワンピースの胸元を裂かれることもなく、完璧に避けきった。
空を切った十字の刃は、そのまま俺の足元に広がる影を縫いとめるかのように、深々と地面に突き刺さる。
だが、サリエルならばここから瞬時に槍を引き戻し、さらなる攻撃へ繋げることができるだろう。
対して俺は、仰向けに沿った不自然な体勢。追撃に移るには、ワンテンポ遅れる。そのまま返す刀でサリエルに突かれて終わり――というのは、俺が一人で戦っていればの話だ。
「流星剣――」
その瞬間、俺の肩から身を乗り出すようにリリィの姿が現れる。振りかぶった右手には、真っ赤に輝く大きな宝玉。
「――『アンタレス』!」
妖精女王の秘宝たる『紅水晶球』は、そこから真紅の光を伸ばし、一振りの光刃を作り出す。
流星剣とはそもそも、妖精女王イリスがまだ普通の妖精だった頃に愛用していた技であるらしい。
普通に使えば、妖精が持つ強力な光の魔力によって刃を形成する単純なもの。更に、これに大魔法具級の魔石で強化を果たすことで、流星剣は真価を発揮する。
それは利用する魔石ごとに異なる色で、呼び名は変わる。そして、その中で真紅に輝く剣を『アンタレス』とイリスは名付けたという。
どうして彼女がさそり座の赤色超巨星の名を知っているのかは大いに気になるところであるが……今は、リリィがそんな由緒正しい技を正統に受け継いでいるということが分かっていれば、それでいい。
繰り出された『流星剣・アンタレス』は、正にさそり座を知る者が思い浮かべるような眩い真紅の煌めきを発しながら、サリエルに迫る。
「――白戦槍」
横薙ぎの赤き一閃はサリエルの胴を両断する寸前、一本の白い細槍によって阻まれる。
右手はメインウェポンである十字の槍を握ったまま。つまり空いた左手で、ガードを果たしていた。
その簡単にポッキリ折れてしまいそうなほどに細身の槍は、ダイダロス城壁でサリエルと戦った際、丸腰の彼女が俺の相手をすべく魔法で作り出した白色魔力の槍と全く同じものだ。あの時は『呪鉈「辻斬」』とマトモに打ち合ってもヒビ一つ入らなかった。凄まじく強固な物質化で構成されているサリエルの細槍、改め『白戦槍』は、きっと今も変わらぬ強度を保っているに違いない。いや、今回は魔法名を唱えて作ったからには、前よりも強固な術式構成となっているはず。
だがしかし、リリィもまた俺と同じく、あの時とは違うとでも言わんばかりに、赤き光の剣を強引に押し込んだ。
キィン、と澄んだ音色が聞こえると共に、『流星剣・アンタレス』は『白戦槍』をあっけなく切り裂いた。
「――んっ」
堪らず、とでも言うべきか。サリエルは地面に刺さった十字槍を引き抜くことさえ諦めて、そのまま大きく後ろに跳ぶ。翻った白い法衣の裾が、わずかに赤光で裂かれていた。
「畳み掛けるぞっ!」
武器を手放した今がチャンス。
両手の『首断』と『極悪食』を構え直し、俺はすでに次なる攻撃体勢を整えている。サリエルが槍を召喚術で自在に手元に戻せることは、遠目に『鉄鬼団』との戦いを見ていて知っているが、それでも一瞬の隙が発生することに変わりはない。
この機会を逃さぬとばかりに、俺は正しく飛ぶ勢いで無手のサリエルへ肉薄すべく踏み込むが――
「待って!」
上ずった叫び声を上げたのはリリィ。実体のない体でありながら、俺の首元にしがみついて必死に後ろに引くという動きをしていた。
何だ、と問うような間抜けな真似はしない。ただそれだけで、俺に方向転換を決断させるには十分だった。
前へ駆け出すために踏み込んだ一歩は、一瞬の内に籠める脚力のベクトルを逆転させ、バックステップへと派生させた。
彼女は攻撃魔法でも撃ち出すかのように、真っ直ぐに掌を俺に向けたまま、小さな口を動かす。
しかし、放たれたのは攻撃ではない。そもそも、俺を狙ってさえいなかった。
「تدمير غزو الفضاء الأبيض――『破空』」
現代魔法においては聞き覚えのない魔法名。だが、その効果は一目瞭然どころか、発動した瞬間に嫌でも理解させられた。
まず、サリエルが地面に刺しっぱなしになっていた十字の槍、その刃が強烈な武技でも繰り出すかのように眩く発光を始めた。その直後に俺は気付く。
その輝く刃は、未だに俺の影をも縫いとめていることに。
そこにはもう何もありはしないはずなのに、丸く残り続ける黒々とした影。
俺が異常を察した時には、もう、浸食は始まっていた。
どこに? 決まっている。俺の影、すなわちそれは『影空間』。頼れる呪いの武器達に、これから繰り出す数百本もの赤熱黒化剣、妖精の霊薬やハイポーションなどのアイテム類。その他諸々を全て厳重に保管してある、万能なる武器庫。
それが今、破られようとしていた。
そう、『破空』とは、空間魔法を破壊する魔法だったのだ。
「くっ……ちくしょう……」
突き刺さった槍を起点に、サリエルの白色魔力がもたらす白い閃光と俺の黒色魔力を反映する赤黒い爆炎が、混沌と入り混じった大爆発が巻き起こる。
間違いなく、内部にあった赤熱黒化剣が誘爆したのだろう。さながら、戦艦の火薬庫に直撃弾を喰らった艦長になった気分だ。
「最初から、これを狙っていやがったな」
ダイダロスで戦った時、影空間を使う所を散々に見せたツケなのだろうか。そりゃあそうか、ヤツの右手をぶち抜いたバジリスクの骨針も、ギリギリまで影に潜ませていたのだから。
同じ空間魔法を使っているなら、警戒して当然。真っ先に潰しにかかって然るべき、である。
俺は濛々と噴き上がる爆煙から、噴火した溶岩が飛んでくるように、赤々とした欠片が周囲にまき散らされていくのを見ながら、そんな後悔とも分析ともとれない無意味な思考を走らせた。
ああ、あの一際に大きく燃える破片は『ザ・グリード』の残骸なのだろうか。本当に、後悔ばかりが降り積もる。
「気を付けてクロノ、次は本気でこっちを狙ってくるわよ」
だが、リリィにそう言われれば、いつまでも女々しく失ったモノに悲しんでいるワケにもいかないだろう。体は女だが、心は男である。格好悪いところは、見せられない。
元より、サリエルを相手にする以上、どんな損失も受け入れる覚悟である。まだ、数ある武器の幾つかを失ったに過ぎない。
「ああ、上等だ。堂々と真正面から斬り合ってやるよ――行くぞ!」
そうして俺は、残された二振りの刃を携えて、再びサリエルへと立ち向かっていった。