第463話 悪魔の存在証明
「よう、久しぶりだな。再会の時を待っていた」
時間にすれば、およそ半年ぶりといったところだろうか。当たり前だが、彼女は俺の記憶にある姿と、全く変わらぬ様子で佇んでいた。
真っ白い髪と肌と服。その中で、血のように真っ赤な真紅の瞳だけが、不気味に輝く。人形のような無機質な美しさの少女。
そして、使徒の証たる白銀のオーラをまとう、最強の人間だ。
最初に浴びせた渾身の『闇凪』さえ難なく弾いて防いだのは、今をもっても俺と彼女を隔てる実力差を感じさせてくれる。
やはり、強い。
だが、俺は再び宣言する。ダイダロスの城壁の上で、刃を向けた時と同じように。
「サリエル、今度こそお前を……殺すっ!」
「そう、ですか……」
あの時も、確か同じような冷めた返答をくれたはずだ。
だが、今は何か思うところでもあるのだろうか。サリエルは赤い目を一度だけ、パチリと瞬きさせてから、言った。
「貴方は十字軍を殺しすぎました。二度も貴方を見逃したのは、使徒として許されざることです」
「俺に礼でも言って欲しかったのか? それとも、懺悔ってやつか?」
「分かりません。私はもう、貴方を見逃すことはできない――」
そうして、サリエルはゆっくりと槍を両手で構えた。俺と戦った時は、脱走の一度目も、ダイダロス城壁の二度目も、槍を構えることはなかった。
「クロノ・マオ、貴方を殺します」
それは、初めて向けられたサリエルの殺意だ。
鮮やかに敗北の記憶が蘇る。脳裏に刻まれた白の戦慄が、俺に訴えかける。逃げろ、と。
「サリエル、俺は前にも言ったはずだ。殺すつもりで、かかって来いってな」
だが、俺の胸に去来する恐怖を、魂の奥底から湧き上がる歓喜が塗り潰した。
「これで、ようやく対等だ」
サリエルはついに、俺を敵と認めたのだ。もう、俺が一方的に突っ掛る、道化みたいな戦いではない。
全ては、この一戦の為に。
今日こそ俺は――いや、俺達は、使徒を倒す。
「行くぞ、フォーメーション『逆十字』!」
鉈を構えたその瞬間、サリエルを紅白の閃光が襲う。
右方、白く輝くビームはリリィの『閃光白矢』。左方、猛る紅蓮の竜巻はフィオナの『火焔長槍』。二人とも、今は俺の後ろに立っているから姿こそ見えないものの、背中にビリビリ感じる魔力の気配が、これ以上ないほど心強い仲間の存在を現していた。
そうして放たれた上級攻撃魔法に左右から挟撃されるサリエルは、フっと軽く地面を蹴って後ろに飛ぶ姿を見せた、次の瞬間に着弾。炎と光の大爆発の彼方へ姿を消す。
「――黒土防壁」
白光と灼熱の爆炎が吹き荒れる最中、俺は追撃の榴弾砲撃ではなく疑似土属性の防御魔法を選んだ。
大地がそのまま隆起したように漆黒の土壁が高々とそそり立つと同時、その壁面を強かに打ちつける鈍い音が響く。
「相変わらず、下級の癖にとんでもねぇ威力だな」
『白杭』と呼んでいた、無詠唱の下級攻撃魔法に、俺はかつて成す術もなく撃ち貫かれていた。だが今は、展開させた防壁に、大きく食い込み鋭い先端をこちらに覗かせながらも、ギリギリで止まっている。
ほとんど不意打ち気味の挟撃に晒されながらも、即座に反撃をぶち込んでくるとは、やはり、少しばかり強くなった程度で太刀打ちできる相手じゃない。
「だが、その反撃は悪手だ」
風に散らされ黒煙が晴れた向こう、何食わぬ顔でサリエルは姿を現す。やはり無傷。純白の法衣には焦げ跡一つもない。
しかし、俺もリリィもフィオナも、あれでダメージを与えようなんざ思っちゃいない。こっちの目的はただ一つ。サリエルに、この場から全力で距離をとらせる、という可能性を潰すこと。
適当に攻撃をぶち込んでおけば、サリエルは必ずマトモに反撃してくる。先手を譲るのは危険すぎるし、馬鹿正直にこっちが動きを見せなければ、警戒もされる。
まぁ、実行するにはそれほど難しい誘導でもないんだが。要はここから百メートル以上、サリエルが離れなければそれでいいのだから。
たったそれだけの条件で成功させられるほど、フィオナの魔法は優秀だった。
「それではクロノさん、リリィさん、御武運を」
どこか他人事のようなエールを送るフィオナに対して、俺は余裕を持って振り返る。
「ああ、任せろ」
そう答える俺の視線の先に、フィオナは立っていた。淡い水色の長い髪――そう、風になびくロングヘアがどこまでも印象的な、フィオナがいる。
その姿を見るのは二度目。そして、抱く感想も同じだった。
悪魔のような姿だ、と。
「行きますよ――『煉獄結界』」
長い髪のフィオナがつぶやいたその瞬間、世界の全ては、紅蓮の炎に包まれた。
ランク3ダンジョン『復活の地下墳墓』最終階層。アンデッドモンスターがひしめくコロシアムのような広場、その中央に佇むダンジョンの主たるリッチを前に、俺達は今、授かった加護の力を試す。
「行くぞ、リリィ、フィオナ――フォーメーション『逆十字』」
最初に動いたのはフィオナ。このフォーメーションの第一段階を担うのは彼女である。
真に加護の力を発動させるのは今が初めてなのだろうが、その表情はいつもと変わらず茫洋としており、緊張などまるで感じさせない。
そうして、彼女は静かに口ずさむ。
「原罪よりも深き悪――『黒魔女・エンディミオン』」
俄かにフォオナの体から、黒い靄のようなものが噴き上がる。それは呪いのように禍々しくもあり、聖なる奇跡のように神々しくもある、黒い光のオーラだった。
どうやら、加護は正常に発動したらしい。だが、これにはまだ、続きがある。
「『悪魔の存在証明』」
その何とも邪悪な名前の魔法は、一種の強化であると、事前にフィオナからは聞いている。だから、あまり驚かないでくれ、とも言っていた。
しかし、それは無理な相談だったと、俺はこの時、思い知る。
何故なら、その魔法は強化というよりも、むしろ、変身であった。
黒のオーラが弾けるように吹き上がると、それは一本の柱となり、フィオナの体を包み込む。目を閉じ、ぐっすりと眠っているような安らかな表情。完全に無防備な格好に見えるが、リッチから攻撃は飛んでこない。
恐らくヤツは、無駄だと分かっているのだ。神の力の発露であるオーラ、それが高密度で展開されている今は、いわば次元の壁で隔絶されているのと同じ。現世の攻撃は、神の世界には届かない。
そんな世界の狭間で、フィオナの体は変化を始める。
まず、髪が伸びた。彼女のトレードマークともいえるような水色のショートヘアは、初めからその長さでくくっていたかのように、瞬く間にバサリと大きく広がった。
腰を超えて長く伸びる青髪は、まるで清流が静かに落ちる滝のような美しさと煌めきをたたえている。
そして、美の結晶のような髪とは対照的に、おぞましい力を象徴するように、角が生えた。
ねじくれた大きな二本角。バフォメットのようなと言うべきか、それともディアボロスみたいと呼ぶべきか。どちらにせよ、水晶のように透き通った色合いに、淡い燐光を放つ角は、どこまでも悪魔的な形状をしていた。
側頭部から、頭にかぶった三角帽子を突き破り、雄々しく突き立つ。
「……どうやら、上手くいったようですね」
まるで、呪いの意志のように魂まで響く強烈な力の籠った声音でつぶやきながら、長い髪と角を生やしたフィオナは、目覚めの時を迎える。
開かれた目を見た瞬間に、ゾっと背筋に悪寒が走った。
太陽のように綺麗な黄金の瞳は、色合いこそそのままだが、その輝きは金塊の山が人を欲望に惑わすのに似た、魔性の光となっていた。
「魅了が宿ってる。あまり見つめない方がいいわよ、クロノ」
どこか冷たさを感じるリリィの説明に、俺は咄嗟にフィオナから視線を逸らしていた。
だが、元より魅了が発動していてもおかしくないほど、フィオナの容姿は綺麗だ。普段はあまりに近しい関係だから、思わず忘れそうになるが、彼女はとんでもない美少女である。
黒魔女エンディミオンの魔法によって、その美貌に真の魅了が宿ったのだとしたら、なるほど、それは確かに魔女らしい変化かもしれない。
しかしながら、二本の角に、魅了の魔眼が如き魔性の瞳を持つフィオナの姿は、魔女というよりも――
「悪魔みたいだな」
「ええ、その通りですよクロノさん。この『悪魔の存在証明』は――」
視線を逸らす俺を、わざわざ覗き見るような前かがみになりながら話すフィオナの台詞は遮られる。
「انها رجل غبي!」
リッチが放った闇魔法、ヘドロのような粘性を持つ黒い濁流がフィオナを飲みこんだのだ。口走っているのは、呪文なのか、それとも隙を晒したフィオナに対する嘲りの台詞か。
どちらにせよ、滑稽なのは杖を大袈裟なポージングで振り上げている骸骨の方であった。
「――人を悪魔に変える、魔法ですから」
すなわち、魔人化。
リッチの攻撃など存在しなかったが如く、いつものマイペースぶりでフィオナはそう説明を完結させた。
彼女を襲った黒ヘドロの範囲攻撃は、実はそれの正体が油だった、とでもいうように、瞬時に炎に包まれる。汚らわしい黒は、さながら浄化の炎のように、燃え盛る赤へと塗りつぶされた。
後には、シミ一つない綺麗な姿の魔人フィオナが佇むのみ。
「では、魔人化も上手くいったようなので、始めましょうか」
そこで初めてフィオナは、リッチの存在に気が付いたかのように視線を向けた。
耳障りなガラガラ声をあげる髑髏頭のリッチが、恐らく再攻撃しようと杖を振り上げるのと同時、フィオナも優雅に長杖を掲げ――あれ、よく見たら『アインズブルーム』も、微妙にデザインが変化してる? まぁいい、ともかくこちらもいよいよ攻撃体勢へと移った。
「――堕ちろ、原初の残り火へ『煉獄結界』」
そうして、フィオナの次元魔法が発動した。
世界の全てが燃え、灼熱の苦しみに自らの体も魂も焼き尽くされそう――そんな恐ろしい感覚が走ったのは、一瞬のこと。喉元過ぎれば熱さ忘れる、とでもいうように、気になる痛みではなかった。二度目ともなれば、尚更である。
「どうやら、成功だな」
目を開ければ、そこに広がるのは雄大な山々。しかし、それは真冬の雪山とは対極の色合いである、赤一色に染まっていた。
ここは、火山であった。
眼前にそびえ立つガラハド山脈よりも険しく切り立った山並みは、どれも山頂から轟々と勢いよく噴火を起こしている。一切、生命の存在を許さないかのように、そこかしこで噴き上がるマグマは、幾本もの大河を形成し、ギラギラと眩いオレンジの輝きでもって世界を照らしていた。
そんな中で、俺は平らな岩山の中腹のような所に立っている。周囲の景色が眺められることから、そこそこ標高はあるようだが、前後左右には大きな岩がゴロゴロしているだけの、荒野のように開けた場所だ。
一方、視線を空に向ければ、そこは地上よりも破滅的な景色が広がっている。
血のように赤い空だ。夕暮れとは全く異なる、ひたすら不気味な赤色が空を塗りつぶしている。そもそも、東西南北、どこを見渡しても、太陽らしきものは見つけられなかった。
代わりに、入道雲のように巨大な黒い雲が四方から立ち込めており、ゴロゴロと赤い雷鳴を光らせている。今日の天気は荒れ模様。いや、リッチ討伐の時も同じような空模様だったから、いつもこんな感じなのだろう。
もっとも、こんな燃える大地に朱に染まる天空という世界の終りみたいな景色を、見慣れることはないだろうな。突如としてこんなところに放り出されたら、絶望の余り一週間と経たずに発狂しそうだ。
だがしかし、俺は自ら望んで、この場へとやって来た。俺にとってこの地獄はむしろ、希望に満ちた輝かしい大地である。
「煉獄の世界へようこそ、サリエル」
灼熱のそよ風に白い髪と法衣をゆらしながらも、汗の一粒も浮かない相変わらず冷たい無表情の彼女に向かって、俺は歓迎の言葉を投げかける。
「これは……次元魔法」
「ああ、正解だ」
もっとも、それ以外に、こんな世界規模の大変化が起こった理由は考えられまい。
ここはガラハド山脈が突如として噴火を起こしたワケではなく、フィオナが顕現させた『黒魔女・エンディミオン』の住まう神世界の一部分へと、俺達が閉じ込められただけである。
「それで、気分はどうだ?」
「ここは、大きな悪意を感じる」
「たぶん、悪い神様が俺達を見ているからだろう」
この世界の主は勿論、恐らく、古の魔王様もな。きっと、可愛らしくエールを送ってくれているに違いない。
「そして、白き神はお前を見ていない。ここにいる限り、見えない」
煉獄という、地獄の次に天国から遠い場所だからという、抽象的な意味じゃあない。それはハッキリ目で見える、現実的な変化のことだ。
「どうしたサリエル、白いオーラが消えてるぜ?」
「……」
今度は二回、瞬きした。サリエルの大きな目が、パチクリと。これは相当、驚いていると見た。
恐らく、オーラが消えた経験などないだろう。
使徒ならば当然。常に白き神から無限の白色魔力を供給されるという、反則じみた加護の能力を誇るのだ。本質的に自らの魔力であるオーラが、こと戦闘中に限って、消えることはありえない。
しかし今この時、サリエルの体から白銀の輝きは消え失せていた。
「このパンドラ大陸には、加護が消える場所ってのがあるんだ。そういう所は大抵、一番危険度の高いダンジョンになるんだが……要するに、煉獄はその内の一つってことだな」
俺のありがたい講釈に、サリエルは不動のノーリアクションを貫く。
ただじっと、俺を真紅の瞳で見つめるのみ。
見つめ合うこと数秒、サリエルは思いついたように小さな口を開く。
「……使徒を弱体化する作戦は、以前に三度、受けたことがあります」
サリエルは見事に、フォーメーション『逆十字』の根幹を成す要素を言い当てた。身を持って体験すれば、気づくなという方が無理か。
「考えることはみんな同じか。言っとくが、俺達のはオリジナルだぞ。間抜けな使徒からヒントはもらったがな」
忘れもしない、初火の月6日。スパーダへ続く街道に現れた第八使徒アイ。俺達はふざけた決闘ごっこを強いられたが、あれのお蔭で、使徒を弱体化させることの有用性が証明されたのだ。
あの時は、アイの髪留めが使徒の力を抑える封印器であることを利用して、リリィが封印解除の妨害を仕掛けることで、あと一歩のところまで追いつめた。
アイは冒険者に変装する都合上、使徒の力を隠蔽すべくわざわざ封印器なんて自分の首を絞めるようなアイテムを身に着けていたのだろう。いざとなればいつでも解除できる、という慢心もあったはずだ。
所詮は油断につけ込んだ作戦であり、結果的には敗北ではあったが――それでも、アイが使徒の力を取り戻さなければ、俺達があのままアイツを殺し切れたのは、間違いない。
「俺はまだ、お前を倒すには力不足だろう。けど、今ならどうだ。その化け物じみた使徒の力を抑えられた、今ならな」
フィオナが『黒魔女エンディミオン』の加護により、この『煉獄結界』という次元魔法を授かったことで、フォーメーション『逆十字』は誕生した。
そもそも、加護が弱体化・消滅する場所というのは、そこが特定の神の力が非常に強く及ぶから、というのがパンドラでの通説となっている。伝説に縁のある場所などでは、その神の加護はより強力になることもあるし、その逆もしかり、といった現象は影響の大小はあれど、各地で見られる。
ラストローズが巣食っていたアスベル山脈もその内の一つだ。中腹辺りまでなら、氷属性を持つ神の加護が少し強くなる、という程度の影響だが、ランク5モンスターが跳梁跋扈する山脈奥地になると、氷以外の神の加護は使えなくなるのだ。そこは神の奇跡さえ凍らせる『凍結領域』と呼ばれる。
現実の世界でも、それほど大きな影響が出るのだ。まして、神が住まう世界そのものとなれば、その力の及び方は言うまでもないだろう。
もっとも、この煉獄はフィオナが魔法によって一部のみ顕現させているため、エンディミオンの支配力も一部だけ、ということになるのだが。
つまり、サリエルはまだ完全に使徒の力を失ったワケではないということだ。
「これほどまでに力を抑えられたことはありませんでした」
お褒めに預かり光栄、とふざけて返す余裕はなくなった。
「しかし、貴方を殺すことは可能です」
再びサリエルの体から、白銀のオーラが噴き出す。それは今まで力をセーブしていた、とでもいわんばかりに激しい勢いで、より色濃く、より光り輝く、白色魔力が迸る。
直前まで、見た目通りの少女といった気配しかなかったが、今はすでに、巨大なドラゴンの如き威圧感と存在感をサリエルはすっかり取り戻していた。
「俺達は、お前ら使徒を殺すために今日まで準備を整えてきたんだ。ここに落ちてから、お前と無駄なお喋りをしたのも含めてな」
フィオナの『煉獄結界』は、次元魔法としての完成度なら、リィンフェルトの『聖堂結界』よりも上だろう。ただ世界の壁を作るのと、世界そのものを呼び出すのとでは、大きな隔たりがある。
しかしその分、発動時間が短い、不安定、という大きなデメリットを抱えている。
恐らく、ただでさえ人の身に余る超絶的な魔法効果である。ちょっと練習した程度でどうこうなるような代物じゃない。こうして、短いながらも100%発動させられるだけで、フィオナの天才的な魔法センスが証明されているようなもの。
それを分かっていながら、俺がダラダラとサリエルにご高説を賜ってやったのは、この『煉獄結界』の力を自慢したいがためでは断じてない。
つまりは、時間稼ぎ。もしサリエルが聞く耳持たなければ、俺はこの僅かな時間を、一人で戦って凌がなければならなかった。馬鹿正直に会話にのってくれて、助かった。
「見せてやるよ、もう一つ、黒き神々の加護をな――」
俺は赤く燃える天を掴むように、大きく右手を掲げた。それはフォーメーション『逆十字』を第二段階へ移行するサインである。
そうして、俺はこの煉獄の空にいる彼女の名を呼んだ。
「――行くぞリリィ、合体だ!」