第458話 降臨
冥暗の月24日。昼下がりのアルザス要塞は、今日も静かな時が流れていた。特に、貴族や高位聖職者を滞在させるために設けられた客間などは、尚更である。
サリエルはそこで、少し遅めの昼食をとっていた。
「いかがでしょうか、こちらは先日、我がヘルベチア領から取り寄せたヴィンテージワインなのですが――」
対面に座るのは、ここの司令官を任されている青年将校。ベルグント伯爵の甥っ子である彼は、貴族の血統を体現するような整った顔立ちに、朗らかな笑みを浮かべながらサリエルへ語りかける。
純白のテーブルクロスのかかった食卓に並ぶ、血のように赤いワインがどれほど希少で、かつ、その価値に見合った美味であるかという話を、サリエルは静かに聞き流していた。
極稀にしか相槌などの反応を見せないサリエルだが、それでも彼は心から楽しそうに話を続けている。人形とお喋りして楽しめる特殊性癖を持っているのか、なんて疑問を見る者に抱かせるほどに。
ともかく、彼は基地司令として第七使徒サリエルを歓待するという任務を忠実に実行しつつ、今日もつつがなく昼食を終える――はずだった。
「……勝敗が決しました」
件のワインを、舐めるようにチロチロと口をつけていたサリエルは、顔を上げるなりそう言い出した。
何のことだ。そう問いかけが飛んでくるよりも前に、彼女は静かに席を立つ。グラスを置き、ナイフとフォークを作法に習った置き方をする。だが、どこか急いでいるようにも見えた。
「十字軍はスパーダに破れました。救援を出し、負傷兵を受け入れる準備を」
「そんな、まさか――いえ、その前に、サリエル閣下はどちらへ!?」
早くも扉へ手をかけ、退出しようとする直前だったサリエルの小さな背中に、果たしてその質問は届いた。彼女は振り返ることもなく、答える。
「私は、先に兵の救援へ向かいます」
二の句を告げさせる間もなく、サリエルは客間を後にした。
アルザス要塞の内部構造は、すでに把握している。ここに滞在してちょうど一ヶ月。迷うはずもない。
そうして、誰に咎められることもなく、サリエルは堂々と外へ出でる。天気は快晴。抜けるような青空が広がっていた。
そして正門を抜ければ、そこにはこういう時のために用意しておいた、魔法陣がある。そう、到着と同時に描き始め、歓待すべく出てきた青年将校はじめ要塞の兵達を戸惑わせた、例の魔法陣だ。
雪の上に描かれているため、この間にあった猛吹雪のせいで新雪に埋もれ、結局、もう一度書き直す羽目になったりもしたが。
雪上に描き出された魔法陣は、土の地面と違って一見すると非常に見つけづらい。しかし、傍らにサリエルが立ち発動を念じれば、そこに秘められた魔法効果は即座に顕現する。
まずは、魔法陣の効果発動に共通する、発光現象。雪上に素早く鼠が駆け抜けるように、青白い光が縦横に走り始めた。
瞬く間に純白のキャンパスに浮かび上がったのは、大きな長方形、というよりも、長い、通路のような形をした陣である。幅は二メートル、長さはその十倍といったところだろうか。
サリエルはその通路状の魔法陣の端に立ち、これからそこを歩いて行くかのように正面を向いた。視線を上げた先には、雄大なガラハドの山並みが映る。通路はちょうど、ガラハド要塞が建つ方向へと向けられていた。
改めて山を望んでみれば、確かに感じられる。無数の人々、その魂が戦いによって消えゆくことで生じる、魔力の波動を。使徒であるが故の超絶的な感覚が、この距離にあって、同胞たる十字軍の大まかな動きを教えてくれる。
彼らは今、追われている。背中を見せて、一斉に逃げ去っているのだ。
そのような動きを見せるということは、すなわち、敗走以外にありえない。自分がこの場にやって来た、万が一、を想定した正にその時が、ついに訪れたのだった。
「『武装聖典』解放――」
手をかざせば、黄金の光によって描き出される空間魔法、使徒だけが行使可能な『聖櫃』が発動する。
眩い光の内から出でるのは、石膏で塗り固められたような真っ白い棺。
「――『聖十字槍』」
口にしたその時には、サリエルの小さな手に、無骨な槍が握られていた。使徒専用の聖なる武器を収める棺は光と共に砕け散り、魔力が満ち満ちた万全な状態で、主へと武装聖典を手渡してくれる。
これで、戦準備は完了。服は常に着用している純白の法衣で問題ない。神鉄の合成繊維で編まれた、これを上回る防御の衣服は、少なくともシンクレア共和国においては数えるほどしかない。
出撃の準備を整えたサリエルは、いよいよ魔法陣へと一歩を踏み出した。
「وأتطلع للعدو(目標索敵)」
静かに鎮魂歌を歌うように、サリエルは詠唱を口ずさむ。周囲に敵はおらず、ゆっくりと、何節でも詠唱可能。略式にする意味はなかった。
「أبدأ حساب البالستية(弾道演算開始)」
進む足取りは軽やか。魔法陣が発する光と雪を、音もなく踏みしめる。
「وسوف أقوم بتعديل عدد من البيئة(環境値修正)」
光の通路を五メートルほど歩くと、そこで動きが変わった。右手に握る槍を滑らかに一回転。逆手へと持ち替え、そのまま、担ぐような恰好となる。その間も、彼女の足は止まらずに歩み続けた。
「وسوف تعديله مرة أخرى الباليستية(弾道再修正)」
魔法陣も半ばまで差しかかろうかという時、静かな歩みは一転、素早い駆け足となる。
槍を掲げたまま走りし出したその姿は、正しく、投槍兵が飛距離を競う訓練をしているかのよう――いや、事実、サリエルは槍をこの大空に向かって投げるべく、動いているのだった。
「إعداد الغايات النار(発射準備完了)」
サリエルはついに、魔法陣の道を完走しようとしていた。ゴールまでの距離と反比例するように、掲げた槍の十字の穂先に白い光が瞬く。ただでさえ淡い白光の輝く刃が、失明せんばかりの眩い光を発する。
しかして、サリエルは輝く光の向こうに、撃つべき敵を完全に捉えきっていた。
放つ姿に迷いはない。彼女の華奢な肩が、光の槍を投擲すべく引き絞られた弓の如く、力強く躍動した。その身に、激流のように迸る白銀のオーラを纏いながら。
ここに、サリエルが編み出したオリジナルの武技は完成する。必殺の『神槍』と並び、神の字を冠する、超長距離投槍術、その名は――
「――『飛神槍』」
白く輝く流星と化して、サリエルの手より神の槍が放たれた。
鼓膜を破らんばかりの轟音が、アルザス要塞を襲う。発生した衝撃波が透明な波紋のように広がる。
その威力が叩きつけられるのは、幸いにも、ここには城壁と、広がる雪の原だけ。瞬間的に、先日訪れた猛吹雪が再現された。衝撃波によって巻き上げられた雪は、白い嵐となって吹き荒れる。
「――着弾確認」
嵐から、白い靄にまで収まって来た時、サリエルはそう小さく呟いた。
霞む雪煙の向こう側に、静かに佇む彼女と、その周囲に広がるクレーターが姿を現す。表面の柔らかな新雪と、その下に分厚く氷り固まった雪の層さえ吹き飛ばし、春を待たずに土の地面が現れていた。
白と茶が入り混じり、汚れが際立つ大地はしかし、次の瞬間には、神聖な白い光で満たされる。新たな円形の魔法陣が、そこに展開された。
「تحقق إحداثيات الفضاء(空間座標確認)」
効果の発動に必要な詠唱は、僅か一節。
それは、サリエル個人だけでなく、武装聖典『聖十字槍』に最初から組み込まれた機能の内の一つであるがため、素早い発動を可能としていた。
最高グレードの武器である武装聖典には、幾つもの魔法効果が秘められている。
例えば、戦場でこの槍を投げた際、即座に手元へ戻ってくるような召喚術式。
例えば、その逆――
「――『逆召喚』」
槍の下に主を呼び出すことも、可能。
そうして、サリエルは魔法陣が発する眩い光の柱に飲まれて、姿を消したのだった。
白い光の嵐が収まった。
「……生きてるか?」
「何とかね」
ネロとサフィールが互いの無事を確認したと同時、二人の身を守った防御魔法はボロボロと砂のように崩れ去った。
片方はネロの聖剣、地属性の『白御影』により作りだされた、淡い灰色の岩盾。巨大な墓石のようにそびえ立つそれが崩れたということは、この分厚い岩の守りを撃ち砕くだけの恐ろしい破壊力が発生した何よりの証拠である。
もう片方はサフィールの上級防御闇魔法『深淵巨盾』。全てを飲みこむ暗黒の色合いを持つ闇の盾もまた、脆く消え去った。
「な、何なの、何が起こったのよ……」
あまりに大きな衝撃に、流石のシャルロットもいつまでもネロの腕にしがみついているほど色ボケてはいない。金色の眼をしかと開いて、周囲の様子を窺った。
そうして視界の開けた三人が最初に目撃したのは、巨人の首なし死体、もとい、残骸であった。
つい今しがたすれ違い、逃げ去る十字軍に向けて無慈悲な追撃を加えようとしていたタウルスは、直立不動のまま立ち止まっていた。全身を覆う鋼鉄は、全て灰と化したように真っ白になり、自分達の防御魔法と同じように、各所からボロボロ崩れていく。その巨体が故に、古塔が地震によって瓦礫を落とすような様相である。
全体的には原型を留めてはいるものの、すでに行動不能に陥る深刻なダメージを負っていることは明らかであった。
赤い一つ目が輝いていた頭部だけが、綺麗に消滅しているところを見れば、恐らく、そこが爆心地となっていたのだろう。
「と、とんでもない威力の魔法……よね?」
「ああ、俺らの他には、近くにいたヤツは全滅だな」
より注意深く周囲を観察すれば、自分達が雪原に穿たれた大きなクレーターの内側に立っていることに気づけるだろう。タウルスの立つ中心部などは、分厚い雪の層が完全にめくれあがって、この場所に広がる赤茶けた大地を露出させている。
ちょっとした地形変化さえ引き起こした光の大爆発。その衝撃が及ぶ範囲にいて助かる者など、ランク5クラスの実力者でもなければ不可能だった。いや、いくらネロ達でももう少し爆心地に近ければ、防ぎきれなかっただろう。
クレーターの広がる半径百メートルほどの範囲において、立っているのはタウルスの残骸と三人だけである。直前まで、この場に溢れかえっていた冒険者達の姿がどこに消えたのかは、あまり考えたくはない。
気が付けば、死闘の騒乱に満ちていた戦場が、不気味なほどに静まり返っていた。この白い大爆発は、戦場に立つ全ての者の注目を集めるほどに、光り輝いていたのだ。
故に、誰もが見た。見逃さなかった。
柔らかな白い光の瞬きと共に、虚空より現れた人影を。
「何だ、アイツは……」
空を貫くように、否、天より降り注いだように、白光の柱が突き立つ。死してなお、堂々と仁王立つタウルスの残骸、その、頭があったはずの場所に。
そこへ、一人の少女が舞い降りた。
光の内より出でた彼女は、髪も肌も、羽衣のようにフワリと翻る衣服も、白一色。全身を包み込むように迸る白銀のオーラが、どこまでも神々しい。
誰もが、息をのむ。その神秘的な姿に。
何万、いや、何十万人もの視線を一身に浴びる小さな白い少女は、何ら気負った様子はなく、どこまでも自然に、足元に突き刺さっていた槍を引き抜く。
掲げられた十字の穂先が、陽光を照り返す。大きな白い光の十字架が、見えた。
「――十字軍の兵よ。これ以上の犠牲を主は望みません」
小さな声だった。つぶやくような、ともすれば、そよ風に紛れて聞き逃してしまいそうなほどに。
しかして、その麗しくも、どこか冷たく無機質な少女の声音は、確かに、耳に届いた。
神の声を聞くのは、こんな感じなのだろうか。そんな風にしみじみと感じ入らせる声であるが――ネロは、気づいた。語られた言葉の意味を、理解した。同時に、彼女が何者であるのかも。
「全軍撤退。殿は私、第七使徒サリエルが務めます」
サリエル、そう名乗りをあげた少女は、紛れもなく、敵であったのだ。