第446話 仮面の男
※今回の話には大変、不快な表現があります。ヘイト管理にご注意ください。
ボーっとしていた。寝心地の悪い硬いベッドの上で、私はただ、ボーっとしていた。
「……はぁ」
ほとんど無意識に、口から溜息が漏れる。
溜息をつくとその分だけ幸せが逃げる、っていうのは誰から聞いたんだったっけ。情報源はあやふやだけど、どうやらその話は本当だったみたい。
「私、どうなるのよ……」
ガラにもなく、私はそんな弱音を吐く。儚い乙女のような弱弱しい言葉。何て似合わない。
けれど、今の私――そう、悪魔によって囚われたこの私、リィンフェルト・アリア・ヘルベチア・ベルグントは、流石に敵に捕まってまで元気でいられるほど底抜けの馬鹿じゃない。
私は現在、ガラハド要塞の牢屋に収監されている真っ最中にある。スラムに蔓延る馬鹿なギャングがしょうもない罪状を付けられて憲兵にしょっ引かれるのとはワケが違う。どちらかといえば、悪い貴族が平民には想像もつかないような悪いコトをして、厳重に拘束されているといった感じかな。まぁ、そんな人も状況も、実際に目にしたことないから分からないけどね。
ともかく、ここが糞尿の悪臭漂う劣悪な住環境の監獄でないことは、私にとっては幸いだ。最悪、そんな場所でも生きていける自信はあるけれど。スラム育ちなめんな。
私が入っている牢屋はどうやら地下にあるようで、鉄格子の嵌った窓なんて気の利いたものは一つもない。床も壁も天井も、脱獄する気を失うような硬い石造り――なんてのを想像していたけど、実際ここにあるのはやたら綺麗な真っ白い壁だ。室内は白い光で満ちていて、それなり以上に明るい。昼寝するには、あまり向かない眩しさ。
それでも、薄手のローブみたいな白い囚人服一枚でも寒さを感じないのはありがたい。この季節に部屋を暖めてくれなければ一時間と待たずに凍死するわ。一応、スパーダ軍は私を貴族のお嬢様と知って、簡単に殺すつもりはないようだから当然の処置だろうけど。
ただ、伯爵令嬢という以上に、私はガラハド要塞を危機に陥れた強力な魔術士だと、向こうは思っている。まぁ、魔法なんて『聖堂結界』以外は落第レベルの劣等生だけど。
ともかく、私が魔法を使えないような拘束だけは厳重にされている。
両手首を鎖でつなぐ枷には、魔力吸収と魔法発動を乱す妨害系の術式がビッシリと刻み込まれている。大抵の魔術士は、これ一個だけで無力化できるだろう。
けれど、保有魔力量が『聖堂結界』の成長と共に規格外になった私には、この手錠だけでは足りない。私の手の甲には、魔力の回復を阻止する封印の刻印がされている。
無論、魔力の吸収や封印などといった、根本的に魔法を無効化する系統の術式は『火矢』みたいにポンと一発でできるものじゃない。結構な手間と時間がかかる。私の場合は、如何にも熟練の魔術士です、みたいな爺さんが、額に汗して一時間もかけて魔法を施す。そして、二日に一回は同じ魔法をかけ直さないと効果は切れるようだった。
強力な魔術士を捕らえておくことは、それだけ大変なことなのだ――というのは、半分ほど居眠りこいてた魔法学院の授業で習った通りである。まさか、身をもって体験する羽目になるとは思わなかったけどね。
もっとも、私に枷と封印がなくても、脱獄なんて無理だけど。『聖堂結界』は身を守れるというだけ。だから、目の前にある、あの壁と同じ白塗りの扉をぶち破るなんて力技は不可能。
そういえばあの扉、押したり引いたりするのではなく、自動でスライドして開閉していた。まるで古代遺跡の一室みたい。もしかして、本当に古代遺跡を利用した牢屋だったりして。
学生時代、授業の一環で冒険者の真似事をさせられたのを不意に思い出す。私には実際、古代遺跡のダンジョンに潜ったことがある。その結果に学んだことは、夢とロマンを追い求めることの馬鹿馬鹿しさ。そして、あのボーっとした顔の魔女のバカげた火力。アイツのせいで生き埋めになるところだった……
「っていうか、何であの女……フィオナがここにいるのよ……」
私が悪魔の恐ろしくもおぞましい腕にガッシリホールドされて、スパーダ兵の立ち並ぶガラハドの大城壁の上にまで連れてこられた時である。
万雷の拍手と歓声に包まれる中、屈強な兵士だか冒険者だかの群れを割って、真っ先に悪魔の元へ飛び出してきた二人の人影。一人は、女の私でも思わず二度見するほど可愛らしい、小さな妖精の女の子。そしてもう一人が、黒衣の魔女だった。
その姿は、私の脳裏にあるフィオナ・ソレイユそのもの。大きな三角帽子に黒いローブという昔ながらのオーソドックスなデザインの魔女装備に、静かな湖畔を思わせる淡い水色のショートヘア。何より、あの眠そうな、それでいて、茫洋として神秘的、男を惹きつけるミステリアスな輝く黄金の瞳を持つ、白皙の美貌。
最後に彼女を見たのは、エリシオン魔法学院の卒業式だっけ。まだ一年も経ってないから、その姿はハッキリと記憶にある。まぁ、私の初恋の人をとられたり、色々と因縁のある女の顔なんて、そうそう簡単に忘れられるものではないけど。
それでも私は、パっと見たときにこう思った。いや、まさか、フィオナがこんな場所にいるはずない。
そうだ、この女はただの他人の空似。青髪金眼の眠そうな顔の魔女なんて、スパーダにも一人くらいはいるんだろう。
「――大丈夫だ、リリィ、フィオナ、何とか無事に戻れた」
しかしながら、駆け寄る二人にそんな言葉を悪魔がかけたせいで、本人であることはあっさりと確定した。
一体、どういう経緯でフィオナがスパーダ軍に与しているのかは分からない。いや、シンクレアの宮廷魔術士団も聖堂騎士団も、他の幾多の名だたる魔法結社、騎士団の勧誘を全て蹴って、フリーの冒険者として卒業していったあの女なら、こんな異教の地に流れ着いてもおかしくはなさそう。
私が最も驚いたのは、フィオナが随分と熱っぽい視線――まぁ、普通の人が見ればいつもと変わらない眠そうなボーっとした顔だけど、それでも、同じ女の私には分かる――そんな目を、悪魔に向けていたことだ。あれぞ正しく、恋する乙女の目というもの。
マジでフィオナ、アンタに何があった。っていうか、私の初恋の先生とはどうなった。まさかフったのか。とんでもねぇな。
「はぁ……まぁ、どうでもいいか……」
思えば、あの悪魔は私の前まで現れた時、確かに「リィンフェルト」と呼んでいた。フィオナから名前を聞いていたのだろう。同時に、この『聖堂結界』についての情報も。
今更気づいても、全て遅い。私はこうして捕まり、何より、大切な仲間を、失ってしまった――
「あー、ダメ、ダメだ……やめよう」
思い出すと、泣きそうになる。ジャック、コンラッド、エリオ。彼らが悪魔の手により無惨に殺されたこと。もう、この世に存在しないのだということ。それが、とても、途轍もなく悲しい。悲しくて、悔しくて、一度、涙が溢れ出せば、きっと止まらない。
けれど私は今、敵の手中にある。そんな状況で泣けるか。泣いてたまるか。絶対に、弱みは見せない。
捕虜らしく取り調べは受けさせられ、とっくに知る限りの十字軍の情報は話しているけど。どうせ私の知ってる情報なんて大したものじゃないし、全部ゲロっても問題ない。
でも、それと私個人の無様を晒すことは別問題だ。十字軍のことなんかいくらでも語ってやってもいいけど、悲しみに泣き腫らす姿なんて見られるのは絶対に御免だ。
ささやかなプライドは、今のところは、まだ、どうにか、守られている。
それでも、この虚勢がいつまで続くか、私には分からない。自信が持てない。だって、私は歴戦の騎士でも冒険者でもなければ、まして、ヘルベチアの聖少女なんて大層な肩書に見合った気高い存在でもない。きっと私は今でも、スラムのボロ教会がお似合いの、エセシスターのままなのだから。
「だから……早く、私を助けにきなさいよ、セバス……」
その時、ガチャリという音が白い密室に木霊した。私はベッドの上で寝転がっているだけ。音なんて立てていない。
つまり、牢の扉が開かれたのだった。
「なによ……さっき取り調べも封印もやったじゃない……」
ついでに、食事はその前に済ませてある。正確な時刻は分からないけど、少なくとも今はもう夜中。夕食であると、はっきり言われたしね。
だから、後はもう寝るだけのはず。全く、スパーダ兵はこんな時間にか弱い乙女からさらに情報を聞き出そうというデリカシーの欠片もない野蛮人なのか。
うんざりしながらベッドから身を起こし、ささやかな抗議の意味も含めて、あからさまに不機嫌な表情を浮かべて扉へと向く。
「お前がリィンフェルトか」
そこにいたのは、仮面を被った一人の男だった。
シンプルな黒いローブをまとい、フードを被っている。背はそこそこ高くて線が細そうに見えるけど、何となく、ローブの下にある体はよく鍛えられているように思えた。素人目で見ても、その立ち姿に隙がなく、どこか凛とした佇まいを感じるからだろうか。
でも一番、目を引いたのはフードの奥にある艶やかな黒髪だ。私と同じ、あの悪魔と同じ、黒い色の髪。もしかして、スパーダじゃ黒髪ってそんなに珍しくないのかな。
ともかく、現れたのはそんな人物であった。
うーん、コイツ、誰?
私を取り調べに連れ出すのは、決まってエルフの美人な女騎士だった。先導するのは彼女で、周囲には赤い鎧兜の騎士がズラズラと無言の圧力を発しながら随伴する。
だが、今ここに部屋を訪れたのは、仮面の男が一人だけ。エルフの騎士もいなければ、他の騎士も姿が見えない。
「ちょっと、何よアンタ――」
「ここから出してやる。静かにしてろ」
声高に不審者の登場を叫ぼうとした私だったが、それを聞いてピタリと喉元で言葉を止めた。
まさか、本当に私を救出するための部隊がやって来たのだろうか。こんなに早く? しかも、厳重な警戒態勢にある大要塞に?
「悪いが、俺は十字軍の者じゃない」
そんなに希望の満ちた目を私はしていたのだろうか。あっさりと釘を刺される。
そりゃそうだ。こんな簡単に潜入できるんなら、今までの戦いは何だったんだってことになる。
「だったら、何で」
「俺にはお前を助ける理由がある。個人的な、理由がな……」
ここで、それを問いただすのは無理な気がした。きっと、時間的にも無駄になるだろうし。
問題なのは、私がこの怪しい男の誘いに応じるかどうか。その決断である。
「私を攫ってどうしようっていうのよ?」
「俺は逃がすだけだ。ただし、十字軍には戻せない」
「はぁ!?」
それじゃあ脱獄する意味ないでしょーが! というツッコミを、グっと堪える。
「お前にはスパーダの隣にあるアヴァロンという国まで逃げてもらう。ちょうどいい潜伏先がある。そこにたどり着いてからどうするかは、お前の自由だ」
「な、何よそれ、随分と無責任じゃない」
「なら、ここに残って十字軍の助けを待つか?」
本来なら、そうする予定であった。セバスはきっと、何が何でも私を助けに来てくれるだろうから。
「今のところ、十字軍からお前を解放する交渉は持ちかけられていない。スパーダ軍も、身代金の要求をするつもりはない。次に十字軍が攻めて、ここが危うくなれば、お前の力を危険視して、この場で処刑される可能性もないとは言い切れないぞ」
「うっ……」
それを言われれば、弱い。
実際問題、スパーダ軍にとっては、私を生かしておくリスクの方が高いのだから。もし悪魔がいなければ、『聖堂結界』による城壁突破作戦は成功していたことは間違いない。
真っ当に考えれば、十字軍の侵入を城内に許した時点で、私を始末するよう動くだろう。開放するにはあまりに危険。
最悪、十字軍は救出どころか、そのまま敗北してすごすごと帰って行くかもしれない。
そうなればもう、誰も私を助けにきてはくれない。いかにセバスが有能といっても、単独で敵の大要塞に乗り込んで救助なんて無茶な任務はこなせないわよ。
「どの道、お前が拒否しても無理矢理にここから連れ出す。だが、それは面倒だからな……大人しく協力してくれれば、脱獄も逃亡も上手くいく」
「わ、分かったわよ! いいわ、アンタに助けられてあげる!」
そんなヤケクソ気味の答えに、仮面の男は笑った。コイツの仮面は目元しか覆わない、仮面舞踏会で着けるようなタイプだ。笑えば普通に分かる。ついでに、その線の細い輪郭に、高い鼻と優美な弧を描く口元から、相当の美形であることも窺える。
セバスと同じ系統ね、これは。背格好も似ているけれど、雰囲気は随分と違うように感じる。二人並んでも、両者を見違えない自信が私にはあった。
「やれやれ……台詞までアイツにソックリだぜ……」
「はぁ? 何か言った?」
「いや、何でもねぇよ」
明らかに何でもあるようなコトを口走っていたように思えるけど……まぁ、どうせガサツな私の反応に呆れているに違いない。
「よし、それじゃあまずは着替えろ」
「だったらさっさと出て行け!」
「妙な勘違いすんな、このローブを被ればいいだけだ」
呆れたような口調で、仮面男はどこからともなく取り出した、地味な灰色のローブを私に向かって投げつけた。
私はすごすごとベッドを抜け出し、白い床に落ちた灰色ローブを拾う。
この囚人服もほとんどローブみたいな形だから、二枚も着ると……ちょっと、かなりゴワゴワするんですけど。
「ソイツはある程度、気配を隠せる効果がある。ここを抜けた後も身につけてろ。金は内ポケットにそこそこ入ってる」
「えっ! それはどうも、ありがとうございます!!」
スラム育ちの私にとって、お金は貰ってストレートに嬉しいモノなのだ。どんな相手であろうと、金銭を恵んでくれるなら、お礼は言う。
逆に、どんな憐みの言葉をかけられようと、金を出さないヤツには下げる頭もなければ感謝の念もない。同情なんていらんから、金を寄越せ、この偽善者共め。
貴族令嬢になっても私の現金な性格は変わらない。自分でもちょっと呆れるけど。
「ここを出たら、黙って俺について来い。絶対に言葉を発するな、音を立てるな。いいか?」
コクコク、と頷いて了承の意を告げる。
「外に出たら、お前は負傷者を運ぶ竜車に紛れさせて、スパーダまで行く。到着したら、すぐにその場を離れて街中に行け。冒険者ギルドに登録すれば、それで一応の身分はできる」
私はゴソゴソと着込んだローブの内ポケットを漁り、ありがたく頂戴した路銀を確認しながら逃亡計画を聞く。
うわ、凄い、金貨がイッパイある……もしかしてこの人、凄くいい人!?
「スパーダからアヴァロンまでは、竜車の定期便がいくらでもある。場所と利用法はギルドで聞け。アヴァロンについたら、メモにある住所の元へ向かえ。理由は聞かず、必ずお前を匿ってくれる」
金貨に目がくらんでしまったけど、もうちょっと漁れば、確かに一枚のメモが入っていることが分かった。
『アヴァロン・フリードリヒ南三番街・ブロッサム通り7-12・セントユリア修道院』
メモには、そう書かれていた。
「……字は読めるよな?」
「十歳の時に死ぬほど苦労して覚えたわ」
勉強を嫌って逃げ回っていたツケが回ってきたのがその時だった。読み書きは小さい時から慣れておかないと、習得するのに本当に苦労する。何の身にもならない反省だけど。
「そんなことより、パンドラに十字教の施設があるのが驚きだわ」
「修道院のことか? まぁ、確かに似てるような気はするが、同じかどうかは知らねェよ」
それもそうか。この魔族が支配する異教の地で、十字教が密かに根付いている何てことあるワケない。
そんなことがあるんだったら、こんな遠征なんてしないで、神様の威光でさっさと改宗させちゃってよって感じ。
「お喋りの時間はお終いだ。さぁ、行くぞ」
「あ、ちょっと待って、最後に一つだけ聞かせて」
ここから出たら、私は一切の口を閉ざして彼についていくだけとなる。恐らく、負傷者をスパーダへ運ぶ竜車とやらに乗った時点で、彼とはお別れだろう。
だから、聞いておくなら今しかない。
「アンタの名前は?」
即答はなかった。少しだけ悩んだ素振りを見せた仮面男だったけど――
「俺の名は……エクス」
エクス「はぁ~個人的な理由あるからリィンフェルト助けるわ~クロノの手柄台無しになるけど、個人的な理由だからしょうがないわ~俺は自分の意思を貫くわ~」チラッ