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黒の魔王  作者: 菱影代理
第23章:ヘルベチアの聖少女
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第445話 捕虜

 俺がリィンフェルトを捕え、無事に城壁まで帰り着いてほどなくすると、十字軍は戦闘を中断し撤退していった。

 攻勢も激しく、まだまだ戦力に余裕を残し攻城戦を続行できる様子であったが、わざわざ退いて行ったのは彼女が捕虜となったからと見て間違いなさそうだ。リィンフェルトの身柄そのものが重要なのか、彼女の『聖堂結界サンクチュアリ』による城壁攻略作戦の成否が重要視されているのか、そこまでは分からないが。

 ともかく、まだ日も高いがこれで今日、冥暗の月20日の戦闘は終了だ。

 犠牲は多かったが、敵将を捕え、三人の味方を救出することも成功したのだから、戦果としては上々といったところだろう。実際、俺が魔手バインドアーツで城壁の上に戻った瞬間、スパーダ軍から熱狂的な大歓声で迎えられたし。激戦の末に、敵の結界を打ち破り帰還したことは、兵の士気を上げるには十分な成果だ。

 もっとも、俺としては二人の仲間に多大な心配をかけてしまったことの方が、心苦しいワケなのだが。

「もう、もークロノ、クロノーっ!」

「はいはい、俺は大丈夫だから安心しろ、リリィ」

 ベッドに腰掛けた俺の膝の上で、リリィがごろごろと暴れている。無茶な突撃をした俺を責めているのか、それとも無事に戻ったことを喜んでいるのか、あるいは両方か。酷く感情を持て余したように、リリィはさっきからこんな調子でベッタリだ。

 城壁に戻ったその時こそ、大人の意識で冷静にやり取りしていたのだが、いざ、宿の部屋に戻って休息となった今になると、このザマである。ああ、癒される。

 ついさっきまで、敵陣のど真ん中で大立ち回りしていたのが嘘のようだ。広くもなければ豪華でもないが、こうして清潔なベッドの上で可愛い妖精さんとじゃれあっていられるなんて、どんな天国だろうか。いや、俺は戦死してはいないはずだが。

「リリィさんは本当に心配していましたからね。凄い取り乱しようでしたよ」

「むぅー、リリィしっかりしてたもん! クロノが危なくなったら、すぐ飛んで行けるように待ってたもん!」

 フィオナはベッドの向かいにある椅子に腰かけ、優雅に熱いお茶をズズズとすすっている。リリィの反論もどこ吹く風といった様子。

「けれど、本当に大したサポートもできずに、申し訳ありませんでした」

「いや、あの状況じゃあどうしようもなかったさ。リリィも飛んで助けに入るには、かなり危険だったろうからな」

 何だかんだで、俺はリィンフェルトの元まで辿り着けたが、決して十字軍全体の防備が薄かったというワケでもない。むしろ、結界で閉じ込めた少数にあたる、真正面が最も薄いというべきだろう。リィンフェルトがいる中央を、結界外のスパーダ軍から横やりが入らないよう、左右はかなり強固な防御陣形を形成していた。

 いくらリリィでも、この陣の上を飛べば撃墜される恐れがある。

 それでも、俺がいよいよ危なくなれば、きっと助けに来てくれただろう。そして、そのギリギリのタイミングまでリリィを引き留めてくれたのは、フィオナだったに違いない。

「そういえば、フィオナはあのリィンフェルトのことを知っていたよな。共和国では有名なのか?」

 そもそも、無謀にも思える突撃作戦を決定づける要因となったのは、フィオナの情報である。あの時は疑いもせず、まぁ、別に今でも疑ってるワケではないが、それでも、よくピンポイントで知っていたものだと改めて思う。

「いえ、彼女とは同級生でした。あの能力を見れば、今は共和国で有名になっていてもおかしくはありませんが」

「え、同級生って……魔法学校のか?」

「はい。リィンフェルト・アリア・ヘルベチア・ベルグント、というのが本名です」

 アリアは聖名、ヘルベチアは領地の名前、ベルグントが家名。まるで貴族のような――というか、彼女は本物の貴族令嬢であるとフィオナが語る。

「学校ではあまり表だって語られてはいませんでしたが、彼女は間違いなくベルグント伯爵の娘です」

「シンクレア共和国は伯爵令嬢も堂々と戦場に出てくるもんなのか」

「強ければ引っ張り出されますけど、今回の場合は恐らく、十字軍の総大将が父親である伯爵が務めているからだと思います。リィンフェルトの『聖堂結界サンクチュアリ』の強大さは見ての通りでしたが、実際に彼女を中核とした攻城作戦を実施するには、強い後押しが必要でしょうから」

 なるほど、実の娘に戦働きのチャンスを与えたいという親心というわけか。そのせいで捕虜になってりゃ世話ないが。

 すでに彼女の身柄は、スパーダ軍に引き渡して、その扱いは全面的にお任せしている。俺の手から直に引き取ったバフォメットのゲゼンブール将軍曰く、彼女は貴重な人質として丁重に保護しておくとのこと。

 十字軍の中では将軍級に高い身分にあるリィンフェルトの価値は計り知れない。ここが中世ヨーロッパだったら、さぞや高額な身代金が期待できるところであるが、彼女自身が強力な結界の使い手であることから、解放されることだけはありえない。

 どういう風に利用されるかは分からないが、戦に慣れているスパーダなら下手に持て余すこともないだろう。十字軍の内部情報も、しっかりと搾り取ってくれるはずだ。

 無論、あっさり脱走される心配もない。ちゃんと強い戦士や魔術士、あるいは特殊な加護を持つ者を拘束しておく設備があるのだ。ちょっと田舎の冒険者ギルドや小さな砦にはないだろうが、ここはスパーダが誇る難攻不落のガラハド要塞。強敵を捕らえておく最上級の牢獄もバッチリ完備している。

 果たして、どういう仕掛けで閉じ込めておくのかは不明であるが、黒竜が暴れても破れない、とゲゼンブール将軍が豪語していたので、大丈夫だろう。まぁ、リィンフェルトの能力は防御特化だから、普通の檻の中でも問題なく閉じ込めていられるのだが。

 ともかく、内部より何者かが手引きでもしない限り、脱出は不可能。これでもう、『聖堂結界サンクチュアリ』による攻城作戦の心配はない。

「そのベルグント伯爵ってのは有名なのか?」

「有力な貴族の一人です。シンクレアの四侯十伯に名を連ねているほどなので、十字軍の一軍団を率いてもおかしくないでしょう。ヘルベチア領は豊かな土地なので、軍備も整っていますし、ベルグント伯爵自身もそれなりに戦上手なようですから。異教徒の反乱やモンスターの鎮圧など、確かな功績を残しています」

 異教徒の反乱ね……その時に戦奴の扱い方も学んだといったところだろうか。

「侮れる相手じゃなさそうだな」

「ええ、恐らく次は正攻法で攻めてくるかと」

「娘が捕まってるんだ、死にもの狂いで兵をけしかけてくるだろうな」

「どうでしょうね。あの黒髪黒目からいって、実の娘であるかどうか疑わしいですよ。『聖堂結界サンクチュアリ』を見込んで身内に引き入れたと考えても、そう不自然ではありません。今回の不手際で見切りをつけられる、何てこともあるかもしれないですね」

 もっともその場合は、神の為に勇敢に戦った娘が卑劣な悪魔の罠にかかって囚われてしまった悲劇に見舞われた父親を演じて、兵の士気を上げるパフォーマンスをすることだろう。顔の知らない伯爵のオッサンだが、涙ながらに「私の娘は捕まった! 何故だ!?」とか叫んでいるシーンが想像される。何故だと言われても、そりゃあ戦争だからだとしか言えないが。

「なぁフィオナ、一応、確認しておきたいんだが……リィンフェルトは俺と同じ異邦人、ってワケじゃあないよな?」

「噂こそ流れていましたが、正確なところは分かりません。親しいワケではなかったので」

「そうか、まぁ、そうだよな。どんなヤツかってのも、知らないのか?」

「そうですね、強いて言えば……いつも男を侍らせていましたね」

 なるほど、何となく分かった。俺も目の前で、イケメン騎士と涙のお別れを見せつけられたしな。

「リィンフェルトが異邦人であろうとなかろうと、クロノさんのやることは変わらないでしょうから、どうでもいいことじゃあないですか」

「ありがとう、信頼の言葉だと受け取っておくよ」

 俺が些細な同郷意識だけで刃を振るう腕が鈍ることがないと、わざわざ弁明する手間が省ける。ああ、信じられているって、何て素晴らしいことだろう。

 少しばかり後ろ暗い気持ちも、この仲間の信頼という絆を感じられれば気になるものでもない。

「ねぇねぇクロノー、リリィにもアレやってー! ギューってして、人質―っ!」

 キャッキャとはしゃぐリリィ。そんなに俺がリィンフェルトを捕まえてアレコレやってるのが楽しそうに見えたのだろうか。

 こっちは慣れない悪役演技に、敵中をジリジリとゆっくり後退していく何とも緊張感の強いられる撤退作戦だったというのに……でもまぁ、折角だからリリィと遊んで荒んだ心を癒そう。

「よーし、それじゃあこの可愛い妖精さんをナイトメアバーサーカーが人質にとっちゃうぞー」

 おりゃー! と腑抜けた気合の叫びをあげて、俺は膝の上のリリィを抱きかかえる。

「きゃー! リリィ捕まっちゃったー!」

「もう逃がさないぞー」

 なんて馬鹿な事を言いながら、ベッドの上でドタバタしていると、フィオナがガタリと席を立った。

 おっと、調子に乗って暴れすぎたか。これは埃が立つからヤメロと母親的な注意が飛んでくる――

「今すぐその妖精さんを離してください。代わりに、私が人質になります」

 と思いきや、滅茶苦茶ノってきた。

「だめー! フィオナはだめー!」

「いいじゃないですか、私にはこの卑劣な悪魔に身も心も蹂躙される覚悟があります」

「リリィだって、クロノにもてあそばれてもいいもん」

「クロノさんだって、私のようなうら若き乙女を縛りたいに決まってます」

「は……それじゃあ私も変身するし」

「お、おい、ちょっと待て二人とも、話の方向性が何だかおかしなことになってきてるぞ」

 俺が女の子を縛りたいという願望を秘めている、という前提で話が進みつつあるのが何よりも恐ろしい。

 リィンフェルトを縛っていたのはあくまで拘束目的であり、亀甲縛りみたいな女性のボディラインを強調する芸術的縛り上げになったのはヒツギのせいであって、全てにおいて俺にはやましいところはない。

「大丈夫です。私はクロノさんがどんな性癖であっても、決して見限ったりはしませんから」

「私だってクロノがドス黒い変態的な欲望を秘めていても、受け入れてあげられるんだから!」

 これはいよいよ本格的にヤバい。売り言葉に買い言葉みたいな感じで、二人がデッドヒートしている。リリィもさりげなく大人の意識を戻してガチで反論するのは止めて欲しい。

 ともかく、速やかな事態の収束を図らねば、俺は本当に変態認定されてしまう。

「分かった、今すぐ人質を解放する。俺が悪かった、むしゃくしゃしてやった、今は反省している」

 そんな自供の言葉と共に、俺は抱えたリリィをポーンとベッドの上にリリース。

 こうして、狂戦士による妖精さん人質事件は解決したのであった。嫌な事件である。

 まぁ、そんな感じで俺達は、シモンが部屋を訪れて本格的な事情説明その他諸々を話し合うその時まで、どうしようもなく下らないやり取りをし続けるのであった。




「……申し訳ございません」

 重苦しい謝罪の言葉が、十字軍の司令部たる天幕の中に響く。どんよりとした沼の底にでも沈んでいるかのように、集った将校達は俯き加減で押し黙っている。

 無論、この中で誰よりも暗い感情を抱いているのは、頭を垂れて自らの非を認める人物――そう、リィンフェルト護衛の任をこれ以上ないほど最悪の形で失敗した、セバスチャンである。

 一拍の静寂が場を包んだ後、爆発は起こった。

「こ、この――無能がぁっ!!」

 他でもない、主であり、リィンフェルトの父親たる、ベルグント伯爵。

 普段の余裕に満ちる紳士然とした優雅な態度はすっかりなりを潜め、今やオークのような悪鬼の形相で怒鳴り上げる。それでも、そのまま拳が飛ばなかったのは、彼の育ちの良さによるものだろうか。

「リィンフェルトが囚われる、だとぉ! しかも、よりにもよって、あの、アルザスの悪魔にぃいいいい!!」

 申し訳ございません、という重ねられた謝罪の言葉も、伯爵の怒声によって儚くもかき消される。

「今まで目をかけてやったというのに……私の信頼を裏切りおってぇ! だが何より許せんのは、愛しい、ああ、愛しい我が娘、リィンフェルトに虜囚の辱めを受けさせたことだぁっ!!」

 セバスチャンが若年ながらベルグント伯爵に重用されていたことは、伯爵の側近や騎士のみらず、屋敷に務めるメイドまで知り及ぶほど周知の事実であった。

 文武に秀で、礼節を知り、忠誠を尽くす姿勢には文句のつけようはない。おまけに容姿も端麗。何より、セバスチャンはこれまで、それこそリィンフェルトが迎えられる以前から、伯爵に与えられた役割を完璧にこなしてきた実績がある。

 身の回りを世話する執事の仕事から、主のスケジュール管理や各種サポートをこなす秘書。そして、屋敷の警備に道中の護衛、犯罪者の捕縛、モンスターの討伐、などなど、騎士としての務め。どれも、伯爵をして賞賛の言葉を贈る仕事ぶりであった。

 だからこそ任命された、リィンフェルトの護衛任務。

 一人息子を異教徒との戦いで失い、ただ一人、伯爵の実の子供として存在するリィンフェルトの重要性は語るに及ばない。

 あるいは、古い慣習に縛られない先進的な実力主義者のベルグント伯爵は、セバスチャンに後継者として期待も寄せていたかもしれない。このまま伯爵の要求に応え続け、成果を上げていけば、行く行くはリィンフェルトとの婚姻が許可される。

 うら若き乙女であるリィンフェルトの世話と護衛を、同年代の美貌の青年に任せた意味を、そんな風に解釈するのは半ば当然のことであろう。

 だがしかし、今この時、伯爵の真意はどうであれ、セバスチャンに対する信頼は地面どころか地獄の底まで届かんばかりに失墜した。

「貴様だけのこのこと生きて戻ってきおってぇ……あの、悪魔に囚われ苦痛に泣き叫ぶリィンフェルトの顔がっ、貴様には見えなかったのかぁっ!!」

 あの状況に至って、手出しのしようがないことは誰の目にも明らかであった。

 人質を救出する最も簡単な解決法は、犯人を殺害すること。しかし、これには即死させるという前提条件がある。

 果たして、十字軍の中にあの超人的な身体能力と、底の知れない恐ろしい黒魔法を駆使する悪魔を、一撃で、人質を傷つけず、確実に仕留めることができると豪語できる者がいただろうか。少なくとも、セバスチャンの実力をもってしても難しい、賭けるにはあまりに低い可能性であることは間違いない。

 分かっていながら、セバスチャンを擁護する者はこの場には一人もいなかった。今は正論など、何の役にも立たない。

「――もう良い、下がれ」

 ひとしきり、セバスチャンへの罵倒と囚われの身となった娘への嘆きを終えた伯爵は、酷く冷めた声で命じた。

「はっ、失礼いたします……」

 そう答えて立ち上がったセバスチャンの表情には、多少の憂いが浮かぶのみ。彼の無念と激しい叱責を受けた怒り、あるいは悲しみの念は感じられない。

 こういった場面では、泣いて許しを請うか、高らかに自分に非がないことを熱弁するか、といった対応がよく見られるが、セバスチャンはそれを良しとはしなかったようである。

 伯爵の逆鱗に触れながらも、冷徹なまでに感情を見せない反応は流石といったところかもしれない。その冷たい仮面の下に秘めるのは、きっと、リィンフェルトを助け出すという意志と、卑劣な悪魔への復讐心だろう。どんな苦難の果てにあっても、必ずやそれを成し遂げてみせる。そんな覚悟を抱いていることは、想像に難くない。

 だが、残念ながらセバスチャンは一つだけ勘違いをしていたようだった。

「永遠に、私の前に姿を見せるな、下郎が」

 伯爵は腰にある聖銀ミスリルベースのレイピアを流れるような動作で音もなく抜き放つや、何の躊躇もなく、セバスチャンを刺した。

 退出するために、ちょうど背中を向けたその瞬間。完全な死角、それでいて、完璧な不意をついての一撃だった。

 狙いは正確。かすかに空を切る音が響いた時には、淡く輝く刃は心臓の位置を背面から貫いていた。

 刺された。この場にいる伯爵を除いた皆がそう認識した時には、軽やかに刃は引き抜かれ、再び鞘へと収まる。

「なっ……あ……」

 驚愕で目を見開いたセバスチャンの、文字通り必死な視線が伯爵に向けられる。

 何故、どうして、まさか。どんな言葉も、その口から語られることはなかった。心臓を一突きにされ、セバスチャンはノータイムで黄泉路へ旅立つ。即死。

「ふん、片付けておけ」

 自らが作り上げた血溜まりにバッタリ倒れ伏した騎士の死体は、速やかに処分された。入口を固める護衛の騎士達が、大慌てで運びだし、どこぞへと持っていく。その行く先を伯爵が知ることはないだろう。

 三分と経たずに、素早く後始末のなされた司令部。伯爵はすでに手ずから処刑した男のことなど忘れたかのように、やけに落ち着き払った無表情で軍議を行う席へ座り直した。

 特に指示はなくとも、将校達は伯爵に続いて席へつく。広げられたガラハド要塞の地図と戦況報告の書類が山積みとなった大テーブルを囲む、普段通りの配置。

 皆が席についたことを、わざとらしいほどに一瞥してから、伯爵は自ら口火を切った。

「明日、リィンフェルト救出のために、総攻撃を仕掛ける」

 どよめきが起こる。しかし、誰もはっきりとした意見は出さない。

「助け出すまで、一歩も退かぬ。最後の一兵になってでも、突撃を続けさせよ」

 それは、どこか狂気じみた覚悟に満ちた言葉であった。あるいは、実の娘が魔族に捕えられた父親の反応としては、正常であるかもしれない。

 冗談でも演技でもなく、ベルグント伯爵は本気で言っている。そう、ここに座る誰もが理解した。

 同時に、それほどまでにリィンフェルトという娘へ入れ込んでいることに、驚きを隠せなかったであろう。表向きには実の娘で隠し子、ということになっているが、彼女の存在はどう考えても裏がある。伯爵はあの聖なる原初魔法オリジナル使いを、娘という身分まで用意して取り込んだのには、何か大きな思惑があるに違いない。

 しかしながら、この反応を見れば、もしかすれば本当に血のつながった娘であり、心の底から愛しているのかもしれないと感じさせるには十分すぎた。

 誰もが、伯爵の真意を見誤っていた。

「――恐れながら、閣下」

 気まずい静寂と混乱の中、意見具申に手を上げたのは、いつも伯爵に上手なお世辞のかける太った中年の将校幹部、ヘルマン男爵であった。

「明日、というのはいささか無理があるかと存じます」

 ただの腰ぎんちゃくかと思いきや、彼の口から出たのは反対意見。もっとも、彼としても甚だ不本意な役回り、と心底恨めしそうな表情ではあるが。

「何故だっ! リィンフェルトを一晩もの間、魔族の手の内にあることさえ我慢ならぬというのに……明日やらずして、いつやるというのだぁっ!!」

 もし、伯爵の手元に愛飲するワインのグラスがあれば、そのまま飛んできそうな勢いの叫び。

「どうぞ、お心を落ち着かせてくださいませ」

「私は冷静だっ!」

「私はただ、絶対確実にリィンフェルト様をお救いするためには、こちらも最大限の準備をすべきだと申したいのです。一刻も早い救出を望まれるお気持ちは痛いほど分かります。しかし、今最も重要なのは、失敗しないこと。焦って兵を繰り出し、万が一、などがあっては元も子もありません」

「準備、準備だとぉ? そんなものは私が号令を下せばすぐにでも完了するわっ! リィンフェルトが魔族の手に落ち、我が兵は皆、救出に乗り込むのを今か今かと待ちわびているのだ!」

「おお、確かに、閣下の兵は優秀であらせられる。今晩、夜襲を仕掛けると命じられても即座に動くでしょう……ですが、あのそびえ立つ大城壁を突破するのに必要な、エンシェントゴーレムだけは、そういうワケにもいきますまい。聞くところによれば、アレを全て稼働させるためには数日の期間が必要だとか」

 その決定的な指摘に、さしもの伯爵も即座に反論の怒鳴り声をあげられなかった。

「今日、実際に攻めたことでお分かりでしょう。あの巨大な城壁は、ただの攻城兵器ではまるで歯が立ちませぬ。如何に我ら十字軍といえど、そのまま突撃するだけでは魔族の餌食となるだけ」

 そう、生半可な攻撃では、あの城壁がビクともしないことは伯爵も分かり切っていた。

 攻略の切り札の一つが、わざわざ『白の秘跡』という怪しい秘密組織から借り受けた攻城用エンシェントゴーレム。

 そして、伯爵自身の本命であったのは、リィンフェルトの『聖堂結界サンクチュアリ』による突破作戦であった。

 作戦は半ばまで成功しかけていたが、たった一人の男の存在により、戦況は全くひっくり返ったのだ。今日の戦いにおいて、十字軍を退けたのはアルザスの悪魔、彼一人の活躍といっても過言ではなかった。

 一人の能力に頼った作戦はまた、一人の敵によって妨げられる。シンクレア共和国の戦史に、新たな教訓が刻まれたような結果である。

「どうか、ここはエンシェントゴーレムが全機、出撃準備が整うまで御辛抱を!」

「ぐっ……しかし、リィンフェルトが今、この瞬間にでも魔族の手に、いや、あの悪魔が繰り出すおぞましき触手の餌食になっているのかと思えば……私はっ!」

 ベルグント伯爵は、リィンフェルト捕縛の決定的瞬間を目にしている。後方で、魔術士による支援ではなく自前で習得している『鷹目ホークアイ』によって、戦況を見ていた。

 彼の脳裏に浮かぶのは、黒い触手によって名状しがたいほど淫靡で扇情的な縛り方をされた麗しい娘がもだえ苦しむ姿であろう。伯爵でなくとも、周囲で戦場を見守る幹部、将校、そしてあの場にいた兵士の誰もが、敵軍のど真ん中で十字教シスターを辱める悪魔の暴挙に、度肝を抜かれたに違いない。

 一体、あの男は今まで何人の乙女をああして凌辱してきたのか。そんな想像を抱かせるほど、大胆かつ鮮やかな犯行であった。

「閣下、ダイダロスから得た情報によれば、スパーダは魔族の国なれど、身分の高い敵を貴重な人質として保護する程度には文化的であると聞き及んでおります。リィンフェルト様はまず間違いなく、そうした扱いを受けることでしょう」

 共和国においても、異教徒に捕えられた貴族の身柄を利用して、身代金を要求したり、兵の一時的な撤退や停戦などといった条件を取引するというのは有名な話である。伯爵自身は異教徒と取引の経験こそないが、そのテの話は幾らでも聞いたことがあるし、実際に捕えられた人と会ったこともある。

 いくら異教徒とはいえ、基本的には損得勘定のできる人間の頭は持ち合わせている。明確な利益があると理解していれば、貴族をそうそう無碍には扱わない。

「ご安心を、と無責任なことは言えませんが、そう悲観することもありませぬ。幸い、リィンフェルト様は十字軍の内情を詳しくお知りになってはいない。真偽を図る魔法の使い手がいれば、そう激しく尋問されることもないでしょう」

 つまり、数日は放っておいたところで、命も貞操もそれほど危険はないというワケだ。

 牢の中で多少は狭苦しい思いをするだろうが、そんな些細な不満を解消するためだけに、万全ではない状態で兵を繰り出すのは割に合わない。

「うぅむ……すまぬ、ヘルマン男爵。私の頭に血が上りすぎていた。そうだな、何より重要なのはリィンフェルトを確実に救出すること……苦しい思いをさせることになるが……致し方あるまい」

 そんな伯爵の言葉に、ほう、と明らかに安堵の息を吐く者がちらほら。どうやら伯爵は、どうにか冷静さを取り戻したようである。

「では、ドロシー嬢にエンシェントゴーレム全機稼働の要請と、必要な日数を急ぎ確認させよ。その間、兵にはよく休息をとるよう命じる。日取りが決まり次第、配給品を惜しみなく出せ。次の戦いで、全ての決着をつける」

 どの道、この雪山でそう長く攻城戦は続けられない。始めから短期決戦の構えで挑んだ十字軍。ベルグント伯爵の宣言は、当初の予定通りともいえる。

 今度こそ、反対意見は出なかった。




「――閣下、ドロシー嬢より解答がありました」

 その報告が伯爵の下によせられたのは、翌朝のことである。

「うむ、聞こう」

 どっかりと司令部の席に腰を下ろす伯爵、その目元には黒々と隈が浮かんでいる。娘の苦しみを思って寝不足であるようだが、眼光は鋭く、疲労は感じさせない力強い返事であった。

「三日ほど、時間をいただきたいと」

 三日か、と伯爵は何となしにつぶやく。

 本日の日付は、冥暗の月21日。今日を入れて三日と計算するならば、攻撃開始の日時は24日となる。

 冥暗の月24日。それは、十字教にとっては一年で最も特別な日である。より正確には、24日から25日にかけての夜を指す。

「……いいだろう、冥暗の月24日に総攻撃を仕掛ける。ふっ、救い出したリィンフェルトと、占領したガラハド要塞で『聖夜ホーリーナイト』を祝うとしよう」

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意外にあっさり死ぬんや笑
[一言] 大胆かつ鮮やかな犯行www
[一言] サンクチュアリでゴーレムを囲ってしまえば良いと思います。
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