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黒の魔王  作者: 菱影代理
第23章:ヘルベチアの聖少女
444/1053

第443話 夢の終り

「え、嘘……何よ、これ……」

 ジャックが死んだ。

 ちょっと馬鹿だけど、いつも豪快に笑って、力強く私を守ってくれた、ジャックが。あまりに唐突、そして、あまりに無惨な死に様で。

 胸元には大穴が空き、さらには腹に黒い攻撃魔法が撃ち込まれ、挙句、彼の首は切り落とされ、その生首が蹴飛ばされた。

 人間のやることじゃない。それは正に、悪魔の所業。

 呆然とする暇もなく、次は、コンラッドが死んだ。

 私の『聖堂結界サンクチュアリ』に次ぐ、無敵の守りを誇る『聖流水結界ホーリークリスタルガイザー』は、ギザギザしたハサミの大剣があっさりと食い破っていた。そして、彼の細身に獰猛な牙を突き立て、鎖に引かれてそのまま攫われていった。私と同じ、黒い髪と瞳を持つ、悪魔の元へ。

 そうして、コンラッドは悪魔と吸血鬼に殺された。あまりの惨劇を前に、私は彼の魂が安らかに天国へ導かれることを祈ることもできず、ただ、震えていた。

「リン、しっかりしろ!」

「あ、セバス……」

 今まで見たことないほど真剣な表情のセバスが、馬上にある私を見上げていた。いつもの慇懃無礼な猫かぶり演技じゃなくて、心の底から真面目になってる彼の顔はカッコイイ。  

 そんな呑気な感想しか浮かばない今の私は、冷静ではないだろう。

 けど、ショックで呆けている状態からは脱せられたと思う。現状に理解が追いつく。この、どうしようもなく認めたくない、悪夢のような現実に。

 ジャックが死に、コンラッドが死に、その次は――

「次はエリオを狙ってるわ! 早く助けないと!」

 そう、あの子もまた前に出て行った内の一人。神から賜った怪力でもって、難なくゴーレムを叩き潰した。

 今も倒れたゴーレムの体をぶっ叩き続けている最中なんだけど、エリオの馬鹿、夢中になりすぎて、あの悪魔が近づいているのに、気づいてない。多分、ジャックとコンラッドが死んだことも、まだ、知らないのだ。

 今なら間に合う。

 私は反射的に馬の背から飛び下りて、エリオの元へ駆けつけようと――

「ダメだリン、ここを動くな」

 セバスに止められた。私に背中を向けて、前方を警戒したままの体勢で立ちはだかる。

「退いてよ!」

「状況を考えろ、危険すぎる。お前が死ねば、作戦は失敗するんだぞ」

「でも、だからって!」

「……頼む、俺にお前を、守らせてくれ」

 そう重々しくつぶやいたセバスの言葉に、私は、背中越しでも彼の覚悟を感じた。

 いつもムカつくほどに何でも完璧にこなし、それでいて、私にケチをつけることに余念がない意地悪な執事だけど……そんな彼が今、必死で私を守ろうとしている。それを思えば、走り出しそうな足も、止まってしまった。

「でも、でもぉ……エリオが……」

「アイツも、お前を守る覚悟でここに来たんだ。ただの無力な子供じゃないってのは、お前が一番、よく知っているだろ」

 エリオの強さは、私が一番よく知っている。

 あの子はその気になれば、サラマンダーだって一人で叩き殺せるだけのパワーを誇っている。私がモンスターと盗賊と異教徒の三勢力と戦っている時も、いつも必ずこっそりついて来ては、戦場で大暴れしてくれた。

 無防備に突撃しては敵を蹴散らす姿は見ていてハラハラさせられるが、それでも、エリオはいつもニコニコと屈託のない笑みを浮かべて帰ってくる。倒した敵の数を自慢げに語りながら。私に褒められたくて、私を、守りたくて。

 だから、今回もきっと――

「あっ、そんな……エリオ!?」

 淡い期待もかすかな希望を嘲笑うかのように、その、黒い悪魔の男がもたらす絶望の闇は、暗く、深い。

 信じられない。あのエリオが、力で、純粋な腕力で押し負けて、倒れていた。

「いや、やめて! だめぇえええええええええっ!!」

 子供が大人に負ける。そんな当たり前の力関係を体現するように、エリオはそのまま、あっけなく殺された。

 小さなお腹を、悪魔の拳が深く貫く。

 あ、と思ったその時には、もうエリオの愛らしい姿はこの世から消え去っていた。紅蓮に深い漆黒の色が混じる、おぞましい色彩の炎に焼かれ、後に残るのは、見るも無残な焼死体だけ。

「あ、あ……ああ……嘘、嘘よ……こんな、酷い……」

 何で、どうして、こんなことになってるの。ありえない、こんな残酷な結末。

 ああ、神様、これが私の運命だとでも言うの? そんなの、あんまりよ。私が何をしたっていうの、私がどんな、悪いことをしたというのよ。

 私はいつも、目の前に勝手に山積みされていく問題トラブルに、精一杯に挑んで、気合いで乗り切ってきただけ。今もそう。戦争なんてヤル気もないけど、やらなきゃいけなくなったから、やってるだけじゃない。

 金銀財宝を奪うとか、領土拡大だとか、植民地経営で莫大な利益とか、そんな欲望を秘めて来たわけじゃない。

 私はただ、静かで平和な生活を望むだけ。

「なのに……何で……」

「落ち着け、リン。戦いは、まだ終わってない」

 そう、静かに、でも力強く発せられた、セバスの声だけが聞こえてきた。

「あの悪魔は、お前を狙っている」

 そう、悲しんでいる場合じゃない。涙を流して嘆いている場合じゃない。

 だって、悪夢はまだ終わってなくて――むしろ、幸せな現実を侵す黒き悪夢は、すぐ、目の前まで忍び寄ってきているのだから。

「っひ!?」

 目が合った。黒と赤、二色の視線。

 右の瞳は私と同じ黒色のはずなのに、その色合いは奈落のように真っ黒。それでいて、神様が天地創造する前にあったという混沌の世界をイメージさせるほど、暗く濁りながらも、どこかギラついて見える。

 左の瞳は、鮮血よりも色鮮やかな真紅。不気味に炯炯と輝く様は、『最大強化ファオスト・バサーク』を自らかけて狂戦士と化した異教徒と同じ――いや、それ以上の狂気を宿しているように思えてならない。

 そんな、どこまでも禍々しい悪魔の双眸が、真っ直ぐに私を見つめていた。

「セ、セバス……私……」

「大丈夫だ、お前は必ず俺が守る――それに、こっちの防御陣形は完璧だ」

 セバスは冷静に、周囲を見るよう私に言う。

 私の周囲には、まだ数多くの重騎士アーマーナイトを固めている。それだけでなく、無傷の魔術士部隊も丸ごと残っているので、防御に徹しようと思えばいくらでも結界を重ねられる。

 そもそも、あの悪魔がこんなに近くまで単独で斬りこんでこられたのは、その恐ろしいまでの実力もさることながら、最初に突撃してきたスパーダ兵によって、途中まではかなり陣形を乱されていたからという理由も大きい。

 まして、その後にジャックとコンラッドとエリオの三人が、それぞれ別個の相手と戦い始めたのも、陣形を立て直すのが遅れた原因でもある。

 けれど、私の周囲一帯までは、誰の侵入も許していないから、まだ一糸乱れぬ隊列を維持している。重騎士の壁、魔術士の援護に弓兵の射撃、無数の歩兵による槍衾。どれも集団の利を生かした飽和攻撃を可能とする。

 あの悪魔には散発的な攻撃じゃあまるでダメージを与えることもできなければ、そもそも命中さえしないだろう。しかし、これだけの数を揃えた上で、真正面から襲い掛かれば、必ず潰せる。

 そう、最悪、この私が死んでも、必ず十字軍は悪魔を逃がすことなく、押しつぶすだろう。

 いやいや、私が死んだら意味ないんだって……でもまぁ、ここまで悪魔が飛び込んで来れば、もうその時点でアイツの命がないのは確定だ。

「いいかリン、お前は『聖堂結界サンクチュアリ』を張って、自分の身を守ることだけに集中していろ」

「言われなくたって、そうするつもりよ」

 私も援護できれば一番確実なのだけれど、今は攻略作戦の根幹である、城壁を覆う巨大な『聖堂結界サンクチュアリ』を展開しているせいで、自分一人を覆う小さな結界を張るのが精一杯なのだ。

 サイズはおよそ一辺が三メートルの立方体。これ以上は大きくできないし、小さくすれば、私の体そのものが入らない。ユニコーンに跨る私を収められるギリギリの大きさ。

 勿論、こんな普通の防御魔法と同じ程度のサイズであっても、『聖堂結界サンクチュアリ』が秘める絶対の防御力は変わらない。次元魔法ワールドディメンションに分類されるこの結界は、ただ光の壁がそこにあるだけでなく、神の世界という次元を隔てている。どんな攻撃だろうと、決して干渉することはできない。

 少なくとも、私の魔力と集中力が続く限り、解除されることも突破されることもない。実際、エルフらしからぬオッサンの爆発する投槍攻撃は問題なく防げたし。

「それでいい。お前さえ無事なら、後は俺達が何とかする」

 ここで妙な正義感や義務感を発揮して、余計なことはしない方がいい。まして、取り乱して敵前逃亡するなどもってのほか。不本意ながらも、これまでのそれなりに豊富な実戦経験のお蔭で、土壇場で逃げ出すのがどれほど危険かつ迷惑なのか、重々承知しているから。

 私は逃げず、恐れず、ただ、仲間の力を信じて、その戦いを見守る。

「お願いセバス、あの悪魔を……倒して」

「この剣に誓って、必ず討つ」

 セバスが手にする剣は、ミスリルレイピアをベースに、各種強化の付加エンチャントに刀身に祝福儀礼まで刻み込んだ、ハイグレードな一品である。

 その聖剣で、邪悪と凶悪に極まるアルザスの悪魔を見事に切り捨てることを、私はここで祈ろう。

「――来るぞっ!」

 鋭いセバスの声があがる。

 悪魔は本当に私へ向かって、この大軍勢を相手に無謀極まる単独突撃を敢行し始めた。

 アイツは恐ろしい黒魔法の遠距離攻撃を行うことはすでに知っている。私は早々に『聖堂結界サンクチュアリ』を展開し、万が一に備える。単純な直線距離だけで見れば、十分に攻撃魔法が届くだろうから。

 私と悪魔の距離は、すでにして五十メートルにも満たない。

「迎え撃てっ!」

「アルザスの悪魔を、ここで討ち取れぇー!」

 力強い迎撃命令が飛び交い、勇壮な雄たけびをあげて最前列の重騎士部隊が動き出す。相手はたったの一人、けれど、とびきり狂暴な一人に向かって、鋼鉄の壁がそのまま押し潰すような勢いで殺到していく。

「やはり、爆破の黒魔法を使うか」

 冷静につぶやくセバスの言葉に、私も同意を示す。

 アイツはコンラッドとエリオを殺しに行く際、赤と黒の禍々しい爆炎が噴き上がる攻撃魔法でもって、道を切り開いていた。少なく見積もっても、アレは中級攻撃魔法並みの威力があるだろう。

 まぁ、中には下級魔法で上級並みの威力を叩き出すような魔女もいるけれど……今はどうでもいい。

 ともかく、何度目かの大爆発が轟く。

 濛々と黒煙が噴き上がり、魔法が炸裂した箇所がどうなっているのかすぐには視認できない。

 けれど、盾を構えて正面から迫る重騎士を、あれくらいの爆発だけで吹き飛ばすのは無理だろう。まして、今は万全を期して前衛の重騎士部隊全体に、魔術士から強化魔法の支援をすでに受けさせている。

 現実に、彼らの無事はすぐさま証明された。黒煙の向こう側から響いてくるのは、苦痛による絶叫ではなく、先と変わらぬ雄々しい鯨波なのだから。

 よし、そのまま一気に、悪魔を叩き潰してっ!

「――って、飛んだっ!?」

 立ち込める煙の幕を割って、黒い影が空中に飛び出してきた。言わずもがな、悪魔である。

 それなり以上に強化系の武技に堪能なのだろう。一っ跳びで、大柄な重騎士の頭上を軽々と飛び越え、そのまま、集団の上に着地。そう、地面じゃなくて、頭の上――あのブリキのバケツみたいな兜の上に、悪魔は降り立ったのだ。

「冗談でしょ……」

「とんでもない身軽さだな。鎧を装備してないのは、この機動力を生かすためか」

 感心してる場合じゃないでしょ、セバスの馬鹿。

 悪魔は重騎士の密集具合を逆手にとって、彼らの兜を足場に、川面に浮かぶ飛び石を行くかのように進み始めた。

 慌てて、頭上に立つ悪魔にハルバードを叩き込もうとするものの、振るった時には、もう次の頭に飛び移っている。そういえば去年、猿のモンスターを駆除しに行ったとき、似たようなシーンを目撃したっけ。

「撃ち落としてっ!」

 私の咄嗟の叫びに、素早く弓兵部隊が答える。

 こんな場所で撃てば味方に当たるのは確実だけど、狙う先にいるのは固さ自慢の重騎士達だ。矢の一本二本、屁でもない。

「撃てぇーっ!」

 一斉発射の号令を下すのは、私ではなく弓兵部隊の隊長サンに任せておく。顔も名前も知らないけれど、ともかく、彼は迅速に攻撃を開始してくれた。

 数百人の射手の手より解き放たれた矢は、回避の隙間もない雨あられとなって、頭上をピョンピョン飛び行く悪魔に迫る。

 これだけで仕留められるとは思わないけど……せめて、一本くらいは当たって負傷させておきたい。

「あっ、避けるなコノヤローっ!」

 目前に矢の雨が殺到するのを見るや、悪魔はさっさと兜から飛び下り、我が十字軍兵士の群れに身を紛れさせた。

 勿論、上に向かって放たれた矢は虚しく通過していくのみ。完全な無駄撃ち。

「まずいな、もう歩兵の戦列に突っ込んで行ったぞ」

 最前列の重騎士部隊は、頭を踏みつけ飛んでいくことで見事にスルーし、悪魔は今、槍を構えて立ち並ぶ歩兵集団の中へと降り立っていた。

「ちょっと、ただの歩兵だけじゃ荷が重すぎるんじゃないのっ!?」

 アイツは今のところ、負傷もしていなければ大した疲労もしていない。そんな元気な状態じゃあ、歩兵は足止め程度にしかならない。

 マトモに重騎士部隊と戦ってさえいれば、それなりの消耗は強いることができただろうし、そこまで追い込めば、歩兵でだって圧倒できる。

 けれど、そんな物量作戦も頭上を飛び越えてスルーされたことで半ば失敗。

 そりゃあ、魔法も武技も使えない単なる歩兵といえども、数が集まれば使徒だって倒せる。ただ、それもあくまで犠牲を払いながらも断続的な攻撃を仕掛ける消耗戦。削り切りるには、時間がかかる。

 そして今、悪魔のターゲットはこの私一人だけ。つまり、歩兵を全員相手しなくても、ここまで辿り着いて、私の殺害に成功さえすればいいのだ。

 恐らく、アイツも死ぬ覚悟で突撃を仕掛けている。生きて帰るつもりはない。私を道連れに死ぬことができれば、それで悪魔の思惑は成就する。

「まずい、このままでは大したダメージも与えられずに、ここまで来る」

 セバスの言葉には、不本意ながらも同意せざるを得ない。

 歩兵の群れに飛び込んだ悪魔は、その姿は集団に紛れてよく見えなくなってしまったものの、戦っている場所は一目瞭然。

 そこは、悲鳴と共に激しい血飛沫が絶えず噴き上がり、時折、黒い爆発が巻き起こる。

 歩兵達は、あの悪魔が振るうどう見ても超ヤバい呪いの武器である大鉈によって斬り伏せられ、爆破の黒魔法で吹き飛ばされているのだ。

 ああ、ダメだ。セバスの言うとおり、歩兵をけしかけても、消耗するより前に私の元へ辿り着いてしまう。

 いくら『聖堂結界サンクチュアリ』があるといっても、いざ目の前までやって来られたら、アイツは何を仕出かすか分かったものじゃない。もしかしたら、この結界を破る秘策があったりとか……

「仕方ない、魔術士部隊に撃たせろ」

「ちょっと待って、そんなことしたら味方に――」

「アイツをここで仕留めなければ、それ以上の犠牲が出る。何より、お前を守るためには、もう、手段を選んでいられる余裕もない」

 そうだ、悩んでいる暇さえない。

 悪魔は呪いの刃と炎でもって血路を切り開き、着実に私へと近づいてきているのだ。

 歩兵部隊が立ち塞がっているから、まだこの程度の進行速度で済んでいるけど……もし、ここも突破されて、後ろに控える弓兵部隊にまで来れば、もう、足止めさえままならないだろう。

「……撃って! あの悪魔を、何としてもここで止めて!」

 覚悟を決めて、私は攻撃命令を叫んだ。

 ああ、こういう時に私の『聖堂結界サンクチュアリ』があれば、味方を守りながら敵だけを攻撃できたのに。

 この戦いが終わったら、もう少しだけ、頑張って鍛えよう。

 そんなことを思ってしまうほど、自分の無力を味あわされる。

「ثلاثاء اللهب الرمح يخترق――『火炎槍イグニス・クリスサギタ』」

 優秀なヘルベチアの魔術士部隊は、私の命に応え、即座に中級攻撃魔法の一斉発射を行った。略式詠唱ショートスペルのお蔭で、発動速度も迅速。一発辺りの威力は多少落ちるけれど、そこは数でカバーできる。勿論、その攻撃範囲も、回避など許さない広さと密度を誇る。

 緩い放物線を描いて発射された大きな火の玉は、歩兵が決死の思いで悪魔を足止めする死闘の真っただ中に向かって、狙い違わず飛んで行く。

 そうして何十もの火球が、兵士の頭上を飛び越え目標へと着弾しようとした、その時だった。

「――黒土防壁シールド・ディアース

 もう、悪魔の声が聞こえるほどの距離まで詰め寄られていた。

 悲鳴と絶叫の飛び交う中にあっても、私の耳が確かに魔法名の言葉をとらえたことに戦慄する。

 背筋に悪寒が駆け抜けると共に、悪魔の防御魔法は発動していた。

 それは一見すると、熟練の土魔術士アースマージが行使した『岩石防壁テラ・ウォルデファン』のような、大きな一枚の壁。ただし、その色合いは土砂の茶色でもなければ岩石の灰色でもなく、黒一色。まるで砂鉄で作り上げたような色合いと質感である。

 高さはおよそ三メートル、私が張ってる『聖堂結界サンクチュアリ』と同じくらい。壁の厚さはレンガ一枚分といったところだろうか。見た目と大きさは、まだ普通の防御魔法といった感じ。

 そして、平凡な防御魔法であれば、とてもこれだけの数の攻撃魔法は防ぎきれないはずだけれど――ああ、これはダメかな。

 そんな私の直感が当たったことは、直後に明らかとなった。

 轟音と熱風をまき散らして炸裂する炎の攻撃魔法、その音と光がひとしきり収まった後、爆炎の向こうから堂々と立ち続けている黒い壁が現れる。

 流石に無傷とはいかず、所々が欠け落ち、えぐれ、大きな亀裂が入っているけれど、ほとんど原型は保ったまま。脆く崩れ落ちることもなく、悪魔の防壁は地面から力強くそそり立ったままである。

「――っ!? まずいわ、第二射用意! 早く撃って!」

 ほとんど悲鳴のような攻撃指示を出したのは、直感的に危機を察知したからじゃない。単純に、危険そのものが目に見えたから。

 いつの間に、と疑問を差し挟む余地もなく、悪魔が壁の上に立っていた。自ら作り上げた防御魔法、その上に。

 普通の魔術士ならありえない立ち位置だけど、相手は本物の狂戦士もお子様に見えるレベルの悪魔である。そんなヤツが、わざわざ狙い撃たれる的も同然な目立つポジションに現れたのは、更に距離を詰めるために他ならない。

 そう、あの三メートルはありそうな壁の上から、超人的な脚力で飛ぼうというのだ。

 それだけで、一気に私との距離は縮まる。いや、ひょっとしたら、一回のジャンプだけでここまで届いちゃうかも……

「放てぇーっ!」

 二度目の攻撃指示が上がると同時に、予想を裏切ることなく、悪魔が大跳躍を決めた。

 再び何十発もの火球が叩き込まれ、今度こそ防御力の限界を超え、黒い壁はドドドと音を立て盛大に崩壊していく。

 だが、その時にはもう悪魔の体は空中にある。すぐ背後で巻き起こった爆風を追い風に利用したようで、無様な錐もみ飛行することなく、安定した体勢のまま華麗に宙を舞う。

 第三射――

「今だっ! 撃ち落とせぇー!!」

 私が命令するよりも早く、魔術士部隊の隊長は攻撃を指示していた。中々に優秀である。

 空中にいれば回避もままならない。黒い壁の防御魔法も、地面から突き出ていたことを鑑みれば、そのまま中空に出現させることはできないはず。行使できたとしても、ワンランク下がったシルドといったところだろう。

 今この瞬間は、悪魔が一気に距離を縮めてくる危機であると同時に、こちらも存分に攻撃を叩き込めるチャンスでもある。

 落ちろ。これで、大人しく撃ち落とされてよ。

 心からそう祈りながら、私は今度こそ悪魔へ直撃する火球が放つ、大爆発を眺めていた。

「やった……当たった!」

「――いや、まだだ」

 重苦しいセバスの否定の言葉に、何かを返す暇もなかった。

「……」

 無傷の悪魔が、ついに地上へと降り立った。

 顔にも、髪にも、大きな体にまとう黒いコートにも、焦げ跡一つ見当たらない。

 嘘、何で、どうして……っていうか、何、あの怖い顔。ヤバい、怖い、超怖い。目つきがヤバい。確実に何人か殺ってる、いやいや、目の前でもう何十人もぶっ殺してるでしょうが。

 そんな混乱極まる感想が脳内をグルグル駆け回るほど、悪魔が、近くに立っている。はっきりと顔が見える。至近距離。もう、どれくらいの距離にあるのか、何メートルくらいなのか、全然考え付かない。

 ああ、近い、近い。いや、やめて、来ないで――

「野郎、武技か何かであの爆発を防ぎ切りやがった……とんでもねぇ能力だ」

 あまりの恐ろしさに頭がおかしくなりそうな私のことなどまるで気づいてないように、まぁ、背中を向けているのだから分かるはずもないんだけど、セバスのこの期に及んでも冷静な分析の声が、やけにハッキリと聞こえてきた。

 言われてみれば、確かに、悪魔はその身に強化系武技が極まった時のような、オーラを纏っている。

 それは鋼の光沢によく似た、鈍色のオーラだった。見るからに、重くて、固そうな。そんなものを全身から噴き出せるのなら、確かに、中級程度の攻撃魔法を防ぎきっても、おかしくないような気がする。

「だが、あれほどの力、そう長く持続はしないはずだ」

 セバス、やっぱりアンタ凄いよ。私が騎士だったら、こんなヤバい男を目の前にしたら、全力で逃げ出す自信があるもの。

 それなのに、彼の声には恐怖の色は滲んでいない。焦りや驚き、といった感情はあるだろう。けれど、セバスは恐れてはいない。

 私を守るために、悪魔と、戦うつもりなのだ。

「大丈夫だリン、お前の『聖堂結界サンクチュアリ』は絶対だ。その力と、俺を……信じろ」

「……うん」

 そう返すだけで、精一杯だった。

 ほんの一拍だけ、不思議な静寂が場を支配する。

 目と鼻の先に降り立った悪魔を前に、固唾を飲む。それはきっと、私だけじゃなくて、セバスも、ここで守りを固める兵士達も、同じ。

 ここが最後の防衛ラインとなる。本当に、何でこんなことになっているんだか。攻めているのは私達の方だったというのに、気が付けば、たった一人の男を相手に、こうまで手を煩わされるなんて。

 正直、今ならアルザスとかいう田舎村を攻めた指揮官の気持ちが分かる。

 全く、冗談じゃないわよ。

 お願いだから、もう死んで。早く死んで。セバスに斬られて、死んでちょうだい。そして、早くこの悪夢から、私の目を覚まさせて――

「来るぞっ! 全員、命を賭けてリィンフェルト様をお守りしろぉ!!」

 セバスの号令一下、立ち並ぶ最後の壁である重騎士達が一斉に動き出す。

 対する悪魔も、ついにゴールへ向かって駆けだしていた。

 その身には、すでに鈍色のオーラは消えている。セバスの言うとおり、確かに長く続けられないようだ。今なら、攻撃が当たりさえすればダメージはちゃんと通るはず。

榴弾砲撃グレネードバースト

 さっきよりもはっきり、悪魔の声が聞こえた。

 その魔法名こそ、何人もの十字軍兵士の命を噴き散らしてきた爆破の黒魔法なのだと、確信する。

 左手に握った機械的な杖……アレは確か、銃、と呼ばれるドマイナーな魔法の杖のタイプだったはず。前に一度、伯爵に珍しい武器を売り込みにきた商人が紹介していたのを覚えている。

 複雑な機構を持つせいで、すぐに故障するという実戦に耐えられない脆弱性の武器なんて、誰が使うかと思ったけど、ここに使うヤツがいたとは。

 私が知っている銃とは、一線を画す確かな性能が目の前で発揮される。十全に灼熱の魔力を秘めた黒い弾丸が、その二つ並んだ鉄の筒から目にもとまらぬ速さで撃ち出される様を、私は確かに見た。

硬身ガードっ!」

 一度放てば、矢よりも早く飛ぶ悪魔の砲撃だけど、目の前で使おうとしているのを見ていれば、攻撃タイミングは分かる。重騎士達は誰も出遅れることなく、一糸乱れぬ華麗な動作で盾を構え、防御系武技を発動させ爆発に備えていた。

 重騎士相手に、その爆破は通用しないことは悪魔も分かっているだろう。

 それなのに、あえて使ったということは――先手を仕掛ける、目くらましといったところか。

 もう何度も目にした黒と赤の爆炎が噴き上がるや、その渦中へ躊躇なく突っ込んで行く悪魔の姿を私は捉えた。

 このまま、真正面から呪いの武器の威力に任せて斬り捨てるつもりだ。

炎の魔王オーバードライブ!」

 私の予測を裏切ったのは、地の底から響くようなおぞましい叫びをあげる、悪魔の声だった。

 その瞬間、重騎士達が吹き飛んだ。まるで、エリオが全力でハンマーを振るって味方をブッ飛ばした時と同じ。いや、それ以上の勢いで。

 オモチャの人形が放り投げられるように、とんでもない重さの重騎士の体が宙に投げ出される。一人ではなく、何人も。

 そのまま突進して、並び立つ重騎士を跳ね飛ばした。そう理解が追いついたのは、情けない格好と叫びをあげて蹴散らされる重騎士部隊の列を突破してきた悪魔の姿を見た時だ。

 だって、力づくで、ただ体ごとぶち当たるだけで重騎士を何人も吹っ飛ばせるなんて、俄かには信じがたい。全力疾走の竜貨物車に轢かれたって、こうはならない。

 でも、そうだ、この男は力でエリオを殺して見せたのだった。どんなことを、その腕力だけで成し遂げたって、驚くには値しない。そう、神が授けた力を超える、悪魔の力なら。

「セバスっ!?」

「ちいっ、やっぱり俺が止めるしかねぇか……」

 素でそんな悪態をつくのは、流石のセバスも外面を取り繕えるほど余裕がないからだろう。

 なぜなら、重騎士を退けた悪魔の前には、もうセバス一人だけ。

 最後の守り、最後の一人。そして、何だかんだで結局、私が一番信頼する男。

「お願い、セバス……死なないで」

「そこは、死んでも守れと言えよ」

 どこか不機嫌そう、でも、その顔には苦笑が浮かんでいるだろうことが、何故だか私にははっきり分かった。

 そうして、セバスは迫りくる黒き悪夢の化身へと立ち向かう。

「ああ、神様、お願い、どうか――」

 私は祈る。ただ、勝利を願って。この身に降りかかる恐ろしい邪悪を、退けられるように。

「――『腕力最大強化フォルス・エルブースト』」

「――『速度最大強化スピード・エルブースト』」

「――『防御最大強化プロテク・エルブースト』」

「――『集中最大強化コンセス・エルブースト』」

 祈ることしかできない私に代わって、魔術士部隊が最後の援護とばかりにセバスへ強化魔法の乱れ撃ち。

 ただでさえハイスペックな彼の能力値が、刹那の間に限界まで高められる。一人にだけ強化を集中できるからこそ実現できる、豪華な強化支援であると同時に、それを受けられるだけの素質が、セバスにはあるのだ。

「أقتل الشيطان مثل الريح(疾き風の如く、即ち悪を斬る)――『疾風断罪剣ソニック・エグゼキュート』!」

 そんな極限状態で繰り出されるのは、セバスが誇る必殺の一太刀。風と光、両方の魔法適性を併せ持ち、かつ、エリート騎士のように魔法と武技のどちらも修めたが故に実現できる、彼のオリジナル武技だ。

 光り輝く真空の刃を刀身に発生させ、どんな相手も一刀のもとに斬り伏せる。私がこの技を目にしたのは二回だけ。サラマンダーの首を斬り落とした時と、異教徒が操る大きなアイアンゴーレムを真っ二つにぶった斬った時。

 何でも万能にこなすセバスだけど、彼の最も優れた才は戦闘能力であることを、その戦いを見て私は思い知った。本当なら、私なんかの護衛執事なんていうつまらないお守り役なんかじゃなくて、聖都エリシオンを守護する最精鋭たる聖堂騎士団テンプルナイツに入団できるほどの実力者なのに。

 そんな彼が、いつも文句を言いながらも、ずっと私の傍にいてくれることだけは、不幸な私の人生の中でも、数少ない幸せなことだと思っている。

 そう、だから必ず、彼なら、セバスなら、私を守り通してくれる――

「黒凪」

 即座に悪を両断するはずの光と風の一閃はしかし、底知れぬ邪悪の剣によって阻まれた。

 悪魔が繰り出す、ドス黒く、それでいてギラつく真っ赤な色の入り混じったおぞましいオーラを纏う斬撃が、真正面からセバスの『疾風断罪剣ソニック・エグゼキュート』を迎え撃つ。

 光と闇の剣戟がぶつかりあうと、輝く風が吹き荒び、暗い闇が迸る。弾ける火花さえかき消すほどの、凄まじい魔力の光が満ちた。

「――セバスっ!」

 彼の名を叫んでも、返事はない。

 見れば、両者は鍔迫り合いへと発展していた。どうやら、打ち合った武技の威力は互角。聖なるレイピアと悪しき大鉈は、今度こそ眩しい火花を咲かせて激しい力比べを演じる。

 私が呼んでも、セバスには答える余裕なんてあるはずもないだろう。

 しかし、最大強化状態にあるセバスを相手に、あの悪魔も限界ギリギリのはず。

 鍔迫り合いは、何も力だけで勝負が決まるわけではない。この状態から繰り出す引き技という技術が存在する。それに合わせた武技だってあるくらいだ。

 腕力だけなら、エリオを圧倒した悪魔に分があるけれど、技は確実にセバスの方が上。使用武器も流麗な武技を繰り出すのに向くレイピアだし、あの重量で叩き切るタイプの大鉈では、技の速さでは敵わないはず。

 ここまで信じがたい快進撃を続けてきた悪魔だが、ここで初めて同格の強さを持つ相手を前に、ついにその歩みが止まった。

 そして、一度でも止めたなら、こちらが有利。何も勝負がつくまでセバスが一人で戦い続ける必要はないのだ。

 今なら歩兵でも、背後を襲うことができる。

 これで、今度こそ追い詰めた。ついに悪魔を、仕留める時が――

「うっ、あ……」

 追い詰めているのは、こちらのはずなのに。勝利は目前のはずなのに。

 悪魔は、笑っていた。

 そのおぞましい赤と黒の視線で、真っ直ぐに私を、私だけを見つめて。

 コイツ……目の前のセバスさえ、もう、見ていない。

地中潜行シースルー・グラウンド

 口角を吊り上げた邪悪な笑みを浮かべながら、小さくつぶやいた悪魔の声が聞こえる。

 それは一体、何の魔法なの。コイツは、この状況から、何をしようというの。

 まるで、私を守る『聖堂結界サンクチュアリ』が綺麗さっぱり消えてしまったかのような不安感に襲われる。

 けれど、そんなことはありえない。術者の私が、一番よく分かっている。透明で何もないように見えても、この次元ごと断絶する絶対防御の結界は、厳然とそこに存在し続けている。ただ、私の意志だけに従って。

 だから無理、悪魔が私を殺すのは不可能。指一本、触れることはない。何発、あの黒い爆発を当てても、その恐ろしい呪いの刃を叩きつけても。

 私の、この神から賜った『聖堂結界サンクチュアリ』だけは、絶対に破れ――

「――喰らえ、極悪食」

 その時、黒い何かが飛び出してきた。私の目の前に。黒い、真っ黒い、ギザギザした、ドラゴンの口の中みたい。

 それが、下から。ああ、そうか、地中から現れたんだ。

「えっ……嘘……なに、これぇ……痛い、よ……」

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ただのガキだよなこの女
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