第434話 閉鎖空間
「――フィオナっ! 何なのよ、この結界はっ!?」
珍しく焦りで上ずった声で幼い姿のリリィは叫びながら、フィオナの元までやって来た。通路は塞がれているが、どうやら上限は5メートルちょっというところで、リリィはその屋根同然となっている透明の天辺を走り抜けて合流したのだった。
「これは恐らく『聖堂結界』です」
リリィを一瞥することさえせずに、フィオナが答える。
何だそれは、とすぐにリリィは質問しなかった。
心当たりがあったワケじゃない。単純に、フィオナがこれもまた珍しく眉をしかめた険しい表情で、壁の向こう、迫りくる十字軍の群れを睨んでいるからだ。
フィオナは探しているのだ。この、自らとクロノを隔てる忌々しい結界を張った術者を。
彼女の煌めく黄金の瞳は今、視力強化の魔法『鷹目』が宿り、この距離からでも雑兵一人一人の顔を判別できるほどとなっている。 だからリリィは、静かに待つ。
「やはり、リィンフェルトでしたか……」
「誰よ、それ?」
「私の同級生です。あそこにいる――白い法衣の黒髪黒目の目立つ女です」
フィオナの示した方向を探せば、すぐにリリィも見つけることができた。
それは、いつか見たサリエルを思わせる純白の法衣に身を包んだ一人の少女。一角獣にまたがっているお蔭で、その顔は人波に埋もれることなく見える。
確かに、黒い髪に黒い瞳をしており、その容姿はむさ苦しい男所帯の十字軍の中にあっては一際目立つ。それなりに可愛らしい顔だが、魅了が宿るほどではない。
しかしながら、純粋なシンクレア人のように彫りの深い顔立ちとはやや違った印象を受ける。彼らとは違った人種。なんて考えるまでもなく、即座に思い至る。
「異邦人なの?」
彼女の顔立ちは、いつか『思考制御装置』を回収する時に間近で見た、実験部隊の少女達と似ている。
「どうでしょう。そういう噂は流れていましたが、真意のほどは定かではありません」
フィオナの同級生、つまり、エリシオン魔法学院の生徒であったということは、クロノと同じ『白の秘跡』の実験体というワケではなさそうである。 もし、学生生活を問題なく送れるだけの自立行動が可能ならば、神兵計画はとっくに成功段階にあるのだから。
勿論、レッドウイング伯爵のように、偶発的にこの世界へと呼び寄せられる可能性もある。
「この際、どうでもいいわ。この『聖堂結界』とやらを破る手段に、心当たりはある?」
「力づくで破れますが……私が知るものと、ここにあるものとでは、あまりに強度に差があります。これほどの規模で展開できるというのなら、恐らく『黄金太陽』をぶつけても、ヒビが入るかどうかといったところでしょう」
この結界が凄まじく強固なものであることは、改めて説明されずとも、リリィにも察しはついていた。
ちょっとつつけば破れる程度のモノなら、ここで使う意味はない。
十字軍は、いや、あのリィンフェルトという女は、自分の『聖堂結界』が絶対に破られない自信があるからこそ、こうして仕掛けてきたのだろう。屋外でありながら、敵を閉じ込めるという前代未聞の結界利用を。
「あの結界に攻撃力はあるの?」
「天上を落とすことができますが、稼動と荷重の二つ分、余計な術式を挟むことになるので、その部分は脆くなります。人間の体は潰せても、岩は砕けません。中級魔法くらい使えれば、破壊は可能かと」
「今はどうだか分からないんじゃないの?」
「変わらないですよ。『聖堂結界』が特殊なのは壁そのものであって、そこに術者の手が加わった段階で、神性は失われますから」
加護として授かった魔法の中には、一切の変化を受け付けない、必ず決まった効果でしか発動できないタイプのものはよく見られる。神の魔法は神が定めた通りにしか扱えないということだ。
どうやら『聖堂結界』もその類であるらしく、強固な壁としての性質を維持できるのは、面積と数の変化のみ。
あるいは、白き神の奇跡によって、リィンフェルトに更なる力を与えていたとするならば、もうとっくにクロノ達は潰されているか、城壁ごと粉砕されているだろう。彼らがただ閉じ込められているだけの状況が成立している時点で、彼女の力量の限界が証明されていた。
「勿論、リィンフェルトも圧潰操作の脆弱さは理解しているでしょう。結界の能力を最大限に生かすためには、このまま兵士を突入させるしかないでしょう」
結界の前面が最初から開いているのか、それともこれから入り口を作るのか、目を凝らしてもほとんど見えない透明の壁であるからして、どちらの手段をとるのかは不明である。だが、両方とも問題なく実行できるため、推理する意味は全くない。
そうして、首尾よく結界内に味方を突撃させ、器用にも階段状に展開させた結界を足場に城壁および城内へと進行してゆく。リィンフェルトは十分な兵が突入する間、この安全な突破口を維持するだけの簡単なお仕事である。
だが、それによってガラハドの大城壁は破られてしまうのだ。
「そうなる前に手を打たないと」
リリィにとっては、最悪、ガラハド要塞が陥落しても構わない。またクロノと逃げれば良いだけのこと。
しかし、不運にもクロノは見事に『聖堂結界』の内に囚われている。彼女が結界を解除する時には、その内にいるスパーダ兵は一人残らず殺害されている段階。
いくらクロノといえども、逃げ場のない空間でこれだけの数に攻め寄せられれば、力及ばず倒れざるを得ない。
「術者を殺せば、解けるわよね?」
魔法は一度、発動すればそこに籠められた魔力の続く限り効果が残るというのは現代魔法においては基本である。しかし、原初魔法など特殊なもののなかには、術者の意志と魔法効果がダイレクトに直結しているタイプもある。
特に、こういう広域結界系のモノは、術者が継続的に展開を意識し続けないと即座に消滅するパターンは多い。
「気絶したら解除されたので、死んでも解けるでしょう」
リリィのテレパシーは、フィオナがこの瞬間に脳裏に浮かべたイメージを読み取った。
広い校庭のど真ん中。真っ黒に煤けた制服姿のリィンフェルトが失神している。そして、それを見下ろすフィオナの視界。
模擬戦か何かで、一度戦ったことがあるようだった。恐らく、この時に天井落としを実際に破ったのだろう。
「それなら――」
「待ってください、いくらなんでも、あの数に守られるリィンフェルトを殺すのは難しいですよ」
今にも城壁を飛び出していきそうなリリィの小さな腕を掴んで、フィオナが止める。
「……それじゃあ、何とか干渉して、クロノだけ逃がせるくらいの穴を開けるしかないわ」
「リリィさんでも、この強度なら拳一つ分くらいが限界じゃないかと」
「じゃあ、もうそれだけでもいいわ! 少しでも穴があけば、そこからテレパシーを飛ばして、クロノに『聖堂結界』のことを伝えるから!」
「そうですね、敵の陣形を見るに、リィンフェルトの元まで辿り着けそうなのは、正面に陣取るクロノさん達だけでしょう」
城壁の下で、一歩、また一歩と着実に距離をつめてくる十字軍の隊列は、最前列に強固な盾役の重騎士。そこから、数列の歩兵を挟んで、遠距離攻撃で援護射撃を担う魔術士と回復役の治癒術士。そのすぐ後ろに射手。
そして、彼らの後ろに軍を率いる指揮官といった風にリィンフェルトが、新たな重騎士と、他の兵士とは違った格好の男達によって守られている。
貴族令嬢を戦場に立たせるには随分と薄い防御陣であるが、『聖堂結界』を発動させるためにはここまで接近する必要性があるのだろう。
故に、薄いのは正面のみで、リリィとフィオナがいる横から攻撃を仕掛けた場合、通常通りに数千、数万単位で分厚い隊列の軍勢が邪魔をする。
さらに上空にはリィンフェルトを守るためだけなのか、やけに低く飛び交う天馬騎士の一個小隊もいる。これのお蔭で、リリィの空中攻撃も防がれるだろう。
「分かったわ、それじゃあ早く結界に穴を――」
「いえ、それには及びません」
早くも両手を見えざる壁に当てて、結界に干渉しようと魔力を流し始めたリリィを、フィオナがちょっと可哀想な子を見るような目をしながら止めた。
「リリィさん、少し落ち着いた方がいいですよ」
そう言いながら、フィオナは空間魔法の三角帽子から、白紙の巻物と、お値段53万クラン相当の愛用の魔法陣製図用の万年筆を取り出した。
『この結界は『聖堂結界』という原初魔法。次元魔法の一種で、非常に強固。力づくで破るのは不可能。
術者を殺せば、結界は即座に解除される。
術者は黒髪黒目の女。白い法衣姿。ユニコーンに騎乗。名前はリィンフェルト。
こちらも出来る限り援護します。頑張ってください、クロノさん』
という文面を、フィオナはサラサラっと書き上げ、両手に持って頭上に掲げた。ついでに、ちょっと左右に体をユーラユーラと振ってアピールしてみる。
壁は透明なのだから、文字に書けばそのまま見える。ちょっと考えれば、すぐに分かることであった。
「ごめんなさい、私がバカだったわ……」
そう、リリィは自分達が張り付く壁のすぐ向こうまでやってきたクロノに、聞こえないとわかっていながらつぶやいた。
「――!」
壁の向こうに立つクロノは、力強く頷いて、迫りくる大軍勢を前に浮足立つ味方の中へと戻って行った。
「あとは、クロノさんの力を信じましょう。もしダメそうだったら、その時は仕方ありません。私の加護を使いましょう――」
「……なるほど、あの少女が術者か」
そう感心したように言うのは、俺ではなく、副隊長のエリウッドさん。
フィオナが書面で伝えてくれた内容を、俺は即座にこの場における指揮官となる副隊長へと伝えた。
幸い、最前列を務める重騎士の歩みが、見た目通りに鈍重なため、ここにたどり着くまでには、まだほんの僅かだが余裕はある。 こうして説明するのも、何とか間に合った。
「覚悟を決めて突撃するしか、この状況を破る方法はありません」
「……いいだろう。我らが命を賭して、かの術者を討ち取ってみせよう」
僅か一拍の間をおくだけで、副隊長エリウッドは決死の突撃作戦を引き受けた。
自分で提案しておいて何だが、そんなにあっさり決断していいのか――そうは思うものの、あえて口にはするまい。実際、他には何もアイデアなどないのだから。彼自身、この結界を強引に打ち破ることはできない、と先ほどまで試していたので分かっている。
透明の壁は、触れればガラスのように硬質な感触で、そこそこ力を入れて叩いてもビクともしない硬度を誇る。だが、何よりも結界への攻撃を諦めさせるのが、ある一定以上の威力を与えると、壁そのものが沈む、という現象だ。
俺が試しに武技『闇凪』で切り付けてみたところ、首断の刃が結界に触れた瞬間、その切っ先が消えた。刃が消滅したわけじゃあない。そう、あれはまるで空間魔法の影空間に収納した時のように、ここではない別の空間に攻撃が飲み込まれてしまったのだ。
フィオナのメッセージによれば、『聖堂結界』は次元魔法だという。
次元魔法とは、空間魔法の上位にあたる魔法の種類である。自らの魔力で空間を作り出すのが空間魔法。一方、次元魔法は、全く別の異空間を、この異世界の現実に顕現させる、という効果らしい。
今、俺達を閉じ込める聖堂結界を例に挙げれば、これは術者の少女が防御魔法が如く壁を作り上げているのではなく、白き神が存在している神の世界、その一部を借りてここに出現させている、という感じになるようだ。
つまり透明の壁は、ただ物質的に存在しているワケではなく、こちら側と向こう側、その間を、白き神の世界の空間を挟んで隔てているという構造になる。
俺も自分じゃ次元魔法なんて使えないから、その原理などには詳しくないし、そうでなくても、希少かつ強力で限られた者しか使えない魔法であるが故、未知の部分が多い。そもそも、つい最近自分が関わるようになったからこそ、この大雑把な理屈も知っているのだ。
次元魔法は、使徒殺しのフォーメーション『逆十字』の要だからな。
ともかく、この結界がそう簡単に破れない厄介な代物であることに違いはない。そして、それはもうスパーダ軍でも共通認識に至っている。どんな武技や攻撃魔法を叩き込んでも、それらは虚しく神の世界へと飲み込まれていくのだから。
「先鋒は我らスパーダ騎士が務める」
「俺も行きます」
「君は強力な攻撃魔法が使えるのだろう? ならば、後衛についてくれた方がありがたい。見ろ、この中にはいるのはほとんど近接戦闘系のクラスばかりだ」
振り返り見れば、確かに、結界に囚われた総勢百人前後のスパーダ騎士と冒険者の中には、ローブ姿の魔術士は驚くほど少ない。回復を期待できる治癒術士に至っては、ネコミミのついたフードを被った白いローブのチビっ子が一人だけ。その子の胸に輝くギルドカードの鋼が眩しい。俺もちょっと前までは、ランク1のアイアンプレートを下げてたもんだ。
そんな貧弱極まる魔術士メンバーで、他の大多数は剣や槍、斧などで武装した剣士や戦士ばかりとなっている。
エリウッドさんが率いる『グラディエイター』所属のスパーダ騎士も、そのクラスは赤い鎧に、槍と大きな円盾を装備した重装歩兵である。
この面子の中では、確かに大火力の遠距離攻撃ができそうなのは、『ザ・グリード』を担いだ俺だけ。突撃組みが完全なアウトレンジから狙われた場合、ここに残っていれば俺がフォローできるだろう。
ついでに、チビっ子プリーストのように、とても突撃に参加させられない面々を、守ることだってできる。そう考えれば、悪い配置じゃない。
「……分かりました。俺の砲撃で、突破口を開きます」
「助かる。ふっ、黒き悪夢の狂戦士などと言うが、魔術士クラスとしても優秀だとはな……陛下も殿下も、君を高く評価するわけだ」
「俺の本分は黒魔法ですから」
「はっはっは、おまけにジョークも上手いときた」
バンバンと肩を叩かれながら、俺には返す言葉がない。
「何より、君の情報のお蔭で、こうしてマトモな策も立ったのだ。本当に、感謝の言葉もない」
「いえ、不確かな情報ですが……信じてくれて、ありがとうございます」
「戦場では常に即断即決。我らのような最前線で指揮する者は特にな。疑い出せばキリがない、迷えばその時間だけ、敵に先手を譲ることとなる」
なるほど、これが歴戦のスパーダ騎士か。
多少なりとも不確かな情報でも、それを信じると自身が決めれば、もう迷わない。不安は出さず、堂々と部下に命令するのだ。
「ではな、冒険者クロノよ、よろしく頼む」
「はい。エリウッド副隊長も、御武運を」
そうして、俺は後衛に着くべく下がる。
御武運を、何て言ったものの……あの人は、間違いなくこの場で死ぬつもりだ。配下のスパーダ騎士を道連れに。
僅かな迷いも憂いもなく、自らの命と引き換えに、この戦況の打破を図ろうと言うのだ。その心意気は正に、騎士の鏡と呼ぶに相応しい。
「聞けぃ! 栄えあるスパーダの騎士達よ! これより我らは死地に入る!」
エリウッドさんが、円盾を構えてズラリと横一列に整列する数十人のスパーダ騎士達に向かって、決死の突撃作戦を通達している。
目標。白い法衣の黒髪少女。結界を張った元凶。
方法。敵を蹴散らし、手にした刃でその身を貫く。殺せるならば、何でも良い。
そんな単純明快な作戦内容に、誰もが質問を挟む余地はない。
「――我らが事を仕損じれば、敵はこのまま本丸へと雪崩れ込む! いいか、何としてもここで食い止めるのだ! 失敗は許されん、一歩も退くな。スパーダ騎士の矜持を、今、ここに示せっ! スパーダ万歳!」
「スパーダ万歳!!」
何千、何万という数でもって押し寄せてくる敵を目の前に、この五十人にも満たない騎士達は、力強い鯨波を上げた。
その姿に、いつか見た、頼れる冒険者達の影が重なる。
「聞け、冒険者諸君! 君らには命令に従う義務も、王への忠誠心も求められてはいない。だが、今ここに逃げ場はどこにもなくなった! 敵を前に震えるならばそれで良い。来る敵へと刃を振るう勇気があらば、尚良し! 無理強いはせん、ついて来れるヤツだけ、ついて来いっ!!」
そして、冒険者に対する指令も下る。
騎士ほど死への覚悟、王と国のために命を奉げる誓いもない彼らだが、事ここに及んでは、報酬よりも絶対絶命の窮地を脱する僅かな可能性に賭けるしかないといった感じで、一応の上官である副隊長の命に従った。
「ちくしょう、殺らなきゃ殺られるだけだってんだろ!」
「だったら、やるしかねぇ!」
「うぉー! やるぞ、テメぇらっ!」
「おぉーっ!!」
なんて、もうほとんどヤケクソみたいな勢いで、剣士や戦士がスパーダ騎士の後ろにつき始めた。
「ふぉーやるニャー!」
俺のすぐ隣でも、この中で唯一の回復役であるネコミミフードの――というか、どうやら本物の猫獣人らしい少女が、可愛らしい気合いの声を上げていた。君は突撃しなくてもいいんだけどな。
「さて、それじゃあ、俺もやるとするか――」
とっくにエネルギーが臨界点を迎え、解き放たれるのを今か今かと待ちわびるように毒々しい紫の輝きを発する『ザ・グリード』を構え直す。
いよいよ十字軍の重騎士は、50メートルの城壁まで続く聖堂結界の階段へと、足を踏み入れようとしている。ヤツらの後ろに続く魔術士達も、杖の先に炎や雷の光を宿して、一斉発射が秒読みの段階だ。
だが、先手は俺がとらせてもらう。
この一発は、ただの攻撃魔法とは威力も射程も桁違いだからな。
「――『荷電粒子砲』、発射」