第430話 傷心の帰国
ガラハド要塞の一角。硬質な石の壁に囲まれた薄暗い通路の奥に、小窓から吹雪く外を眺める一人の少年の姿があった。
「……ネルはもう、アヴァロンについた頃か」
目元を覆う白い仮面の下で、物憂げな目をするのは『ウイングロード』のネロ、もとい、『アルターフェイス』のエクス。恰好こそ見習い魔術士用の地味な黒ローブだが、その立ち姿には隙がなく、なによりも、窓の外を見つめているだけでどこか気品を感じさせるほど様になっている。
たまに通りがかるスパーダ兵や冒険者は、彼の後姿に思わず目を引かれるものの、その超然とした雰囲気から、誰も気まぐれや好奇心だけで声をかけることはできなかった。
しかし、その静寂は次の瞬間に破られることとなる。
「あぁーっ! やっと見つけた! もう、集合場所くらいちゃんと決めておきなさいよ!」
頭にキンキン響くような甲高い少女の声音に、ネロは少しだけ眉をしかめる。もっとも、その眉間は仮面に覆われて彼女の目につくことはない。
だが、口から出た声に混じる、うんざりした色は隠しきれない。
「そんなに叫ぶなよ、この通路じゃ響く」
「私がどれだけ探し回ったと思ってんのよ、もぉー!」
プリプリと怒りを露わにしながら、赤いマントとツインテールを揺らしてズンズン大股で歩み寄ってくる姿は、どこまでも見慣れた幼馴染である。その顔にデフォルメされた猫の仮面があっても、決して見違えることはない。
「それで、作戦会議はどうだったのよ?」
「別に、大したことは話しちゃいなかったよ。あのエンシェントゴーレムが、いや確か『タウルス』とか言ってたか……まぁ、ヤツが空けた大穴の守りを固めるっつー当然の対応が伝えられただけだ」
さも自分が出席していたかのように作戦会議の内容を語るネロだが、勿論、今はランク1の新人冒険者を騙る彼が、あの場にいるはずはない。呼び出されたのは、大隊長を任されるランク5冒険者と、『独立行動権限』を授かった者のみ。
「相変わらず、アンタは盗み聞きが得意よね」
「人聞きの悪い言い方するなよ、ちょっと小耳に挟んだだけだ」
作戦会議はそこまで極秘というものでもなかったのだろう。分厚い壁に遮られてはいるものの、他に防音や盗聴防止の魔法は発動していなかった。ランク4相当の盗賊や暗殺者クラスなら、室内の会話を盗み聞ける程度のセキュリティーである。
「まさか開戦初日で壁に穴が開くとは誰も思わなかっただろうからな、レオンハルト王も、結構マジになってたぜ」
「ふん、あのデッカいのが来たら、また私の雷で吹っ飛ばしてやるから大丈夫よ!」
「ほほぉーう、ソイツは頼もしいな、シャルロット!」
自信満々な顔、を猫面の奥に浮かべているに違いないシャルロットに、そんな茶化すような言葉を返したのはネロではない。
「いや、今はランク1冒険者のエス、ということになってるんだったか?」
シャルロットの赤い髪の上に降りかかってきた大きな掌が、ガシガシと荒っぽく撫でる。
背後から突如として現れた無礼者だが、彼女は反撃の雷を浴びせることはなかった。
「えっ!? ちょっと、嘘、アイクお兄様っ!?」
「よう、悪ガキども」
ニヤリと猛獣のような笑みを浮かべるのは、シャルロットと同じ赤い髪と金色の瞳を持つ、大柄な青年。第四隊『グラディエイター』の隊長を務める、アイゼンハルト・トリスタン・スパーダ。正真正銘、シャルロットの実の兄である。
「はぁ……やっぱ兄貴にはバレてたか」
「あんな派手にゴーレムぶっ潰しておいて、気づかないワケねぇだろうが」
やれやれ、といつもの感じで溜息のネロに、意地の悪い笑みで言うアイゼンハルト。
「お願い、お兄様! まだお父様には――」
「親父も気づいてると思うがな……まぁ、とりあえず藪蛇になっちゃあまずいからな、ちゃんと黙っといてやる。それに、もうここまで来ちまった以上は、しょうがねぇしな」
本当に仕方のない妹だ、と言いたげに頭を撫で回す。悪戯な猫を可愛がるような手つきで。
「何でこんなクソッタレな戦場までのこのこやって来たか、理由は問わないでおいてやる。お前らにはお前らの考えがあるんだろ」
なんとも理解のある言葉に、流石のネロも少しだけすまなそうに眉をしかめた。
アイゼンハルトは昔から、自分達に対しては甘い、というより、その意を汲んでくれる。だからこそ、ネロをしても『兄貴』と呼ぶほどに慕っている。それに値するだけの大きな男だと、ネロは今の年齢になっても変わらず認められるのだ。
「悪いな、兄貴」
「いいってことよ。その代わり、お前らを目いっぱいにこき使ってやるからな、覚悟しとけ」
「あ、ありがと……アイクお兄様」
同じ兄でも、ウィルハルトには絶対に見せないしおらしい態度で、シャルロットは礼の言葉を口にする。
「そういや、ネル姫の姿は見えないようだが……アヴァロンに帰したのか?」
「ああ。ネルが出立するのを見送ってから、俺らもこっちに来た。間違いなく、アヴァロンに向かってる」
「相変わらずの過保護ぶりだな、ネロお兄ちゃんよ」
「やめてくれよ、今回はネルも一緒に来るはずだった」
ほう、と驚き半分、疑い半分といった眼差しを金色の瞳から向けられる。ネロの赤い目は、その視線と合わせることなく横に逸らされた。
「けど、あんな状態じゃあ、な」
「と言うと?」
「ネル、またイスキアから戻った時みたいに、急に元気がなくなっちゃったの」
そういえば体調不良でしばらく寮に籠り切りだったな、とアイゼンハルトは思い出したように言う。アヴァロンの姫君の不調は、当然ながら一国の王子の耳にも入っていたようだ。
「寝込んでこそいないが……どう見ても、マトモに戦える状態じゃない」
「そんなに酷いのか? あのネル姫が、ね……俺にはどうも、想像つかねぇな。というか、何でそんなにヘコんでんのか、理由は分かってんのか?」
原因不明で病んでたらマズいだろ、というように顔をしかめるアイゼンハルトに、ネロは仮面の奥でさらに深く眉間に皺を刻んで答えた。
「また、クロノと何かあったらしい」
「何だよ、また、ってことは、イスキアの時もそうだったってことかい」
「ああ、詳しいことは、結局、分からないままだがな」
苦々しく呟くネロ。どうやら、かなり重たい悩みの種であるらしい。
もっとも、このクールなアヴァロン王子が真剣になるのは、可愛い可愛い妹君のことだけ、というのはアイゼンハルトでなくとも、それなりに付き合いがあれば気づける周知の事実というものだ。
「へぇ、クロノ君がね……見た目通りに、女泣かせってことなのか」
「見た目通りって、顔が怖いだけでカッコいいワケじゃないじゃない」
口を尖らせて反論する妹に、兄はどこか自信気に語って聞かせた。
「いいや、ああいう危険な香りに溢れるヤバそうな男が好きって女は大勢いる。あの顔とスタイルに、親父を前にしても全く動じない度胸と胆力。おまけに、ランク5と実力も本物だ。これで惚れない女は、スパーダにはそういねぇだろ」
「でも触手とか出すし!」
「俺の見たところ、アイツはこれまでかなりの女を泣かせているぜ。まぁ、触手がどうとかは知らないが」
「えーっ! なにそれ、やっぱり最低じゃないあの変態触手男!」
「英雄、色を好むってね。いいじゃねぇか、戦働きは今日一番ってくらいだったしな。それにしても、ネル姫がああいうタイプが好みだったとは――」
「関係ねぇよ」
それは殺気さえ感じられるほどに、鋭く、冷たい否定の言葉。発したのは、ネロ以外にはありえない。
「関係ねぇ、もう、ネルがアイツと会うことはねぇからな」
「……なるほど、スパーダ留学は、もうお終いってワケか」
寂しくなるな。そうつぶやいてから、アイゼンハルトは赤いマントを豪快に翻して、踵を返した。
「そんじゃあ、俺はもう行くぜ。これでも隊長だからな、忙しいんだ」
「うん、頑張ってねお兄様!」
可愛い妹の声援を背中で受けながら、最後に振り返って言った。
「お前らの配置は南左翼側だ。ガルブレイズの馬鹿息子とハイドラの陰険お嬢様にも、そう伝えておいてくれ。『アルターフェイス』の活躍、期待してるぜ?」
「――もうダキア村も抜けました。明日にはアヴァロンへと入れるでしょう、姫様」
これ以上ないというほど気を遣った優しい口調で、アヴァロン貴族アズラエル家の令嬢にしてネル姫様親衛隊隊長のヘレンは、敬愛する姫君へと語りかけた。
「……」
対するアヴァロンの第一王女、ネル・ユリウス・エルロードは、虚ろな瞳をぼうっと虚空に彷徨わせるだけで、一瞥する反応さえ見せようとしない。
驚くほど揺れのない、いや、全く揺れなど感じさせない王族専用の馬車。その小窓から覗く外の景色は、確かに雪化粧を施したガラハド山脈北部の白く美しい山並みがある。
ネルは今、スパーダより故国アヴァロンへと帰還の途上にいる。
馬車を取り囲む白銀の鎧兜に身を包んだ護衛の近衛騎士達。彼らがアヴァロン王の命であるエルロード兄妹の帰還命令書を携えてスパーダへやって来たのは、一週間ほど前のこと。
しかし、実際にアヴァロンへ向かうのはネルのみ。ネロは著しく心神喪失状態となった妹を、騎士達に連れ帰るよう固く誓わせた後、自らはすぐに姿を消してしまった。
第一王子ネロ、彼が行方を眩ませてどこぞへと遊びに、あるいは無茶をしに行くというのは、アヴァロンでは有名な話。そして一度とり逃せば、自身が満足して帰って来るまで、決してその身を捕えることが叶わない。王族を守る近衛騎士も、こればかりはすでに王からお叱りを受けることもないほど、日常化した王子様の独断行動である。
一応は事情を記した手紙をネロから預かった後、近衛騎士は早々に王子の身柄を確保することを諦め、ネル姫の護送へと移った。
生気が抜けたようなネルは、一言も彼らと言葉を交わすことさえしない異常な容体であったが、それでも大人しく指示に従ってくれたのは幸いである。
騎士に同行しているメイドと、付添いとして立候補したヘレンに御身のお世話を全て任せ、近衛騎士達は姫の事情に関わることも問いただすこともなく、ただ自らの任務を全うすることに努めていた。
つまり、今のネルに声をかけられる者は、同じ留学生のご学友たるヘレンのみなのであった。
「あと、もう一日のご辛抱ですよ」
しかして、徹底的に無反応を貫くネルを前に、ヘレンの心も流石に折れかける。ろくに返事もしない人形同然の者を相手に、一週間も話しかけ続けられたのは、ひとえに彼女の愛と忠誠心の賜物だろう。
あるいは、今の状況がまだ最悪、ではないと思っているからか。
ネル姫に付きまとう因縁の怨敵にして、自らも下種な欲望の魔の手にかけようとした天敵たる、黒き悪夢の狂戦士クロノ。あの男が緊急クエストを受けてガラハド要塞防衛へと赴き、ネルの傍から離れた。ヘレンにとって、これほど安心できることはない。
ネル自身は、彼をお友達と称している以上、その別れを酷く悲しんでいたようであるが、一旦、引き離してしまえば、あとはもう時間で解決できる。 ネルも本来の居場所であるアヴァロンへ帰り、少しばかり療養すればきっと正気に戻るだろうとヘレンは信じていた。
「……あ」
不意に、ネルが口を開いた。空気が抜けるような、小さく短い、けれど確かに、声が漏れた。
久しぶりに見る人らしい反応を前に、ヘレンが喜び勇んで声をかけようとした時、ネルは体を前に傾け、小窓を覗き込んでいた。
「どうなさったのですか、姫様?」
「ここ……初めて、クロノくんと会った場所、です」
ネルが笑う。背筋がゾッとするような幽鬼の微笑み。
「そっ、そう、なのですか」
姫の異様を前に、気圧されながらもヘレンは返答してみせる。
「そう、馬が、動かないって……ふふ、困ってたんです……うふふ、可愛い」
くつくつと不気味な笑い声が漏れる。王族専用の豪華な造りの馬車内だが、今この時ばかりは、亡者の狂笑が響く地下墳墓ダンジョンに放り込まれたような緊張感をヘレンは味わう。
次の言葉を返す前に、ネルは話を――いや、それはただの独り言である。同席するヘレンを見ることなく、窓の外を見つめながらつぶやき続ける。
「あの馬に、メリーに、乗りたいです、クロノくん」
クロノがネルを誘拐、もとい、同行させてスパーダを飛び出したのは、神学校の生徒達がイスキア古城でモンスター軍団に包囲された時のことだと、ヘレンはすぐに思い至った。 少なくともネルは、その時に間違いなくクロノの愛馬へ騎乗していると確信できる。
冒険者風情がお姫様と二人乗りなど、とんでもない。その無礼が一回きりであることを、ヘレンは祈るしかない。二回、三回と、何度もクロノと二人乗りしたことがあるのか。聞けるはずもなかった。
「どうしたら乗れますか? どうしたら、また、私を連れていってくれますか?」
ネルは、遥か遠くガラハド要塞へいるクロノ本人へ語りかけるように、つぶやき続ける。その体勢は今や、窓に両手を張りつかせて、そのまま外へと飛び出していきそうになるほど。
無論、この窓を開けても人が通り抜けられるほどの大きさはないし、まして、走行中に扉が開くなんて欠陥もありえない。ドアのロックは対面に座るヘレンの側にある。もし、本当に外へ出ようとネルが鍵へと手を伸ばそうものなら、無礼を承知で体を張って止める次第である。
どんな奇行をしでかしてもおかしくない気配を醸し出すネルを前に、ヘレンは白い顔に大筋の冷や汗を浮かばせて見守るより他はない。
「どうしたら、どう、したら、私を――あっ」
静寂が訪れる。ネルは突如として独り言をやめ、そのまま凍りついてしまったかのように、身じろぎ一つしない。
どうした、と不安の声をヘレンが問いただす前に、ネルがこちらを向いた。首の動きが、まるで機械仕掛けのゴーレムのよう。だが、濁った両目はアンデッドモンスターのそれである。
「あ、あの、姫様……何か?」
「ヘレン」
名前を読んだ。自分の名前を。久しぶりに、実に久しぶりに、ネル姫様が自分を見て、呼んでくれた。素直にそう喜べるほど、ネルは先とは違った春の日差しの様に麗らかな微笑みを浮かべて、その名を口にしたのだった。
「はっ、はい! 何でしょうか姫様!」
俄かにテンションの上がったヘレンが、身を乗り出すように答える。今なら、どんな試練でも、姫のためならやり遂げるという心意気で。
「貴女は、私のお友達ですか?」
即答――を一瞬だけ躊躇った。しかし、やはり肯定するより他はないと、改めて思う。
「はい、恐れ多くも、私はネル姫様のご学友として、共にスパーダへと参りました」
「そうですか、私も貴女のこと、お友達だと思っていますよ。大切なクラスメイトですから」
感極まる、とは正にこのことか。夢にまで見た姫様のお優しいお言葉を前に、ヘレンは涙ぐんで喜びの言葉を紡ぐ。ネルの瞳は、未だに光が失われて濁ったままであるにも関わらず。
「貴女に、お願いがあるのですけれど」
「はい、姫様! このヘレンめに、何なりと仰せ下さい!!」
それは友達じゃなくて臣下の態度だろう、という無粋なツッコミをいれる者は車内にはいない。
「そうですか、それでは――」
そして、ネルは言い放った。お願いという名の、無理難題を。
「今からガラハド要塞に行って、戦ってきてください」
「……え?」
何を頼まれたのか、すぐには理解できなかった。
一拍置いて、言葉の意味は理解できた。しかし、どれだけ考えても、ネルの意図はまるで読めない。
「どうしたのですか? 早く、今すぐ行ってください」
さぁ立って、とネルが急かすように肩を掴んできたところで、ヘレンはようやく異常を察して制止の声を上げた。
「ちょ、ちょっと、お待ちください姫様!?」
「貴女は行くだけでいいのですから、装備を整える必要もありません。そのままの格好で行ってください、早く、さぁ、早く」
「そんな、無茶をおっしゃらないでくださいませ!」
明確に拒絶の声を上げるヘレンに対して、ネルは眉をしかめてあからさまに不機嫌な表情をとりながらも、一旦、席へと座り直した。
「……何故、私の頼みを聞いてくれないのですか?」
子供のようなふくれっ面をしながらも、その目は憎悪で濁っている。
「あ、あまりに無理なお願いをされては……それに、まるで理由も分かりません」
「理由、分からないんですか?」
高慢な家庭教師が不出来な生徒を叱るような物言い。理不尽、と思いながらも、ヘレンには平身低頭、謝罪するより他はない。
「はい……申し訳ございません……」
はぁ、とネロがカイの愚行を見た時のような大きな溜息をついてから、ネルは言った。
「貴女がガラハド要塞に行けば、私が助けに行けるじゃないですか」
「……はい?」
「私は、お友達の貴方を助けに、ガラハド要塞まで行くんです。そうしたら、堂々とクロノくんに会いに行けるでしょう?」
それは、常人が理解してはいけない論理であった。
「なっ、なりません姫様! そのような――」
「私はクロノくんに会いたいんです。早く会いたいんです。何でもいいから、会って、お話して、抱きしめてもらいたいんです」
だから、お前が行け。会いに行く理由になれ。
そう、ネルは言っているのだ。
「貴女、私のお友達なのでしょう? それなら、私のお願いを聞いてくださいよ」
「どうか、どうかそのような無茶をおっしゃらないでください! 姫様は今、お心を乱しておいでです、どうか、落ち着いてくださいませ」
「それでは、命令にしますね。アヴァロンの第一王女として、ヘレン、貴女に命じます。今すぐガラハド要塞に行きなさい」
「なっ、な……何を……」
「ああ、そうですね、折角ですので、勇敢に戦って死んで来てください。そしたら、私はお友達が死んで悲しいので、クロノくんに優しく慰めてもらえそうです」
「姫様、それは、あまりに――」
「ふふ、うふふ、楽しみです……はい、もうこれで決まりです。さぁ、早く死んでください、ヘレン」
心の底から楽しみで仕方がない、というようにくすんだ青いが瞳が期待の眼差しで見つめてくる。ヘレンは目じりに涙を浮かべて、いや、すでに大粒の雫を零しながら、ただ頭を下げて許しを請う。
「姫様、申し訳ございません……私は、無事に王女殿下をアヴァロンへお送りするようにと仰せの、ミリアルド国王陛下の王命を果たす所存にございます……姫様のご命令を、きくわけには参りません」
思いつく限り最も適当な言い訳を、涙ながらにヘレンは訴える。
「……そうですか」
上機嫌だった顔色と声を、再び病んだ無表情へ一変させて、ネルは吐き捨てるように言った。
「使えない女」
もう一度、わざとらしいほどに大きな溜息をついて、ネルは王族の体を長旅でも快適に過ごさせるフカフカの柔らかいシートに身を突っ伏した。はしたない、とたしなめることができる者は、この場には誰もいない。
「ヘレン、貴女って卒業したらどこかの騎士団に入団するのでしたっけ? 貴女のような役立たずは、お父様に言って倉庫番にでもしてもらいますね」
だらしなく寝そべった体勢のまま、ネルは寝言でもつぶやくように、ヘレンの輝かしい未来を奪う暴言を浴びせる。
「王城の十三番倉庫に、トマスっていうお爺さんがいるんですけど、あの人は私が生まれる前からずうっと、一人であそこの倉庫番をなさってるんですよ。もう結構なお年なので、そろそろ引き継ぐ人が必要ですよね?」
王城の宝物庫を守るのは近衛騎士が担うエリートの警備任務の一つであるが、十三番倉庫なんて聞いたこともない場所は、明らかに普段使われない重要度の低い施設であると理解できる。
「ふふ、無能な貴女にピッタリのお仕事ですね」
ヘレンはさめざめと涙を流しながら、唇を噛んで耐え忍ぶ。
嗚咽を押し殺して泣きながら、ヘレンの心は悲しみよりも、ドス黒い感情で塗りつぶされていった。
姫様は、変わられてしまった。否、変えられてしまったのだ。あの、悪魔のような男によって。
慈愛溢れるネルは、誰かを罵倒することもなければ、嘲笑することもない。純真無垢にして清廉潔白。お姫様の見本、いや、理想そのもの。故に、ありえない。忠義を尽くす自分に、ここまで酷く貶めようとするのは。
美しく清らかなネル姫、彼女を狂わせた元凶を、ヘレンは憎悪せずにはいられない。
「――あれ、それじゃあ私は、どうやってクロノくんに会いに行けばいいんですか?」
それは一体、誰に対する疑問なのか。少なくとも、ヘレンはとても答える気にはなれない。ネルの自らに対する心証はすでにどん底であるが、更なる罵倒を受け入れられるほど心は麻痺していないのだから。
「会いたいのに、どうして、私は……私じゃ……ダメ、なんですか……」
顔を柔らかなシートに埋めて、ぼそぼそと聞き取りづらい自問自答。いっそ、何も聞こえなくなって欲しい。
「どうして、隣にいるのは私じゃなくて、あの……あ、あ……」
不意に、ぷっつりと言葉が途切れた。ヘレンは気付く。ネルは声にならない呻きを上げて、その身を震わせていることに。
「姫様っ!? 馬車を止めて! 早くっ!!」
涙の跡がはっきり残る顔を上げたヘレンの叫びに、御者はすぐさま反応してくれた。馬車はやはり揺れることなく、また、音もなく静かに停車した。周囲の騎士達も、乱れることなくピタリと止まったのは、確認するまでもない。
「あ、う、うぅ……」
「姫様、どうぞお外へ」
素早くドアロックを外して扉を開け放つと同時に、優しくネルの体を抱き起す。姫の顔色は蒼白で、瞳は虚ろ、生気の光を失っている。
半ば崩れるように二人は馬車から、外の雪道へと転がり出る。
白馬から白銀の近衛騎士が慌てて駆け寄ってくるのを気にも留めず、ネルは真っ白い雪の地面に向かって――
「うっ、く……ぇえええ……」
吐いた。
道中、ほとんど飲食物を口にしなかったにも関わらず、ネルはその可憐な口元から汚い吐瀉物をまき散らす。
あまりに無様、あまりに惨めなその姿に、ヘレンは三度、涙を零した。
「ああ、おいたわしや、ネル姫様……」
2014年5月23日
黒の魔王の連載が三周年となりました! またしても感想で言われて気づいた次第ですが・・・ともかく、ありがとうございます! この記念すべき節目の回にも関わらず、お姫様がパワハラを覚えたり、またゲェーゲェーやったりしておりますが、私はこれもヤンデレの魅力的な一面だと思っているので、後悔は特にありません。
それでは、これからも黒の魔王をよろしくお願いいたします!
追伸、次回で第22章は最終回となります。それと、もう一つお知らせがあるので、どうぞお楽しみに。