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黒の魔王  作者: 菱影代理
第20章:色欲の世界
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第391話 夢か現か

「ご主人様、見ぃーつけたっ!」

 メイド少女はそう叫ぶと、勢いよく両手を振り上げた。これから垂直跳びでもするかのようなモーションだが、現実は予想の斜め上を行く。

「あんかーはんどっ!」

 妙にたどたどしい発音と共に、彼女の両手から黒いワイヤーが射出された。フックショットも機械的な発射装置もない、本当に、ただの掌からワイヤーが飛び出している。まるで魔法か超能力、あるいは、彼女自身がサイボーグなのかもしれない。

「とうっ!」

 そんな無意味な思考が過ぎ去る内に、メイド少女はすぐ目の前に現れた。両手でワイヤーを握った彼女が勢いよく引き上げられ、瞬時にこの地上二階の高さまで飛び上がって来たのだ。

 窓ガラス一枚を挟んで、俺と彼女の目が合う。黒い瞳が爛々と輝く純粋な眼差しはしかし、俺に嫌な予感を反射的に抱かせた。

 体が命じるままに、全力で床を蹴って後退。

「やぁ!」

 そして、その行動が正しかったことは直後に証明された。エナメルの光沢が煌めく漆黒のメイドシューズの踵が、窓ガラスに思い切り突き刺さる。

 メイド少女の細い足から繰り出されたキック一発で、直前まで俺が張り付いていた窓は木っ端微塵に粉砕された。

「うぉおおっ!?」

「きゃああああーっ!!」

 派手に飛び散る無数のガラス片が、窓際に集まっていたクラスメイトへ容赦なく襲い掛かる。堪らず飛び退き、逃げ出そうとする彼らだが、密集していたせいでドミノ倒しとなる。

 折り重なるように倒れ込んだクラスメイト達から上がる呻き声や泣き声をBGMに、窓を蹴破ったメイド少女は優雅に教室へと入場を果たした。

「さぁ、ご主人様、ヒツギがお助けして差し上げます!」

 やはり、俺をビシっと指さして、そんな意味不明の啖呵を切るメイド――いや、ヒツギ、とかいう名前の少女。

「お、おい黒乃、この子、お前の知り合いか?」

 倒れ込んだクラスメイトの団子の中から、我が魂の盟友こと、雑賀陽太が声をかけてくれた。こんな状況でもあえて話しかけるとは、中々に友達がいのある男だ。

「いや、知らん」

 俺にはこんなヒツギだかカンオケだかいう不吉な名前の女の子に心当たりなどない。

「ヒツギのことを忘れるなんて、酷いですご主人様ぁ!」

 しかし、彼女は俺に対して面識があるようだ。面識どころか、主従関係を結んでいることになっているらしい。

「仕方ありません、こうなってはご主人様には、力づくでも目覚めていただきます!」

 と、一人で勝手に結論を出したヒツギが吠えると、彼女の長い黒髪が逆立った。

 いや、違う、あれは本当に毛先が動いているんだ。ニョロニョロと蛇がのたうつように、艶やかなロングヘアは複数の束となって不気味にくねる。

「何かヤバそうだぞ、逃げろ黒乃っ!」

「言われなくても――っ!?」

 俺が脱兎の如く駆け出すよりも早く、頭がメデューサ状態のヒツギが飛び掛かって来た。相手は小さい女の子といえど、本当に俺の腕力だけで退けられるか甚だ疑問だ。恐らく、あの髪の毛の触手に捕まったら終わる。できれば、直接的な接触は避けたい。

「くそっ!」

 足元に転がってた椅子を咄嗟に掴み、力任せにぶん投げる。これが火事場の馬鹿力ってヤツだろうか、片腕一本で軽々と椅子を投擲できた。

「ふぎゃっ!?」

 命中。不気味な触手メイドは床へと撃墜される。

 無論、それで安心などできない。この隙に踵をかえして、一目散に教室の扉へと向かう。椅子の一撃を喰らわせてなかったら、扉を開ける時間さえ稼げなかっただろう。

 普段以上にガラガラとけたたましい音を立てて木のドアをスライドさせ、廊下へと転がり込む。

「むぅー! 待てぇーっ!!」

 鬼ごっこでもしているような幼い叫びだが、俺にとっては地獄の悪鬼に匹敵するほど恐ろしい響きに聞こえてならない。後ろを振り返る余裕はない。

 まだ授業中ということもあって、全く人気のない廊下を全力疾走する。

 そういえば、グラウンドに現れた狼のモンスターもいるのだ。このまま外に出るのは危険だろうか。かといって、校内に留まるのも安全だとは考え難い。

 どこへ逃げればいい――三秒ほどで辿り着いた、長い廊下の中間にある階段を前に、上るか下るか、一瞬だけ躊躇する。

 上に行っても逃げ場は狭まるだけだろう、なら、一階へ逃れるしかない。

 そう決断して一歩を踏み出そうとした瞬間。

「――黒乃くんっ!」

 ここ一週間で一気に聞きなれた麗しい少女の呼び声が届いた。今の俺は、彼女の声を聞き違えることはない。

「白崎さん、なんで――」

 別な二年クラスの教室から、亜麻色の長髪をなびかせて白崎さんが廊下へと躍り出ていた。その手には、柄とブラシがT字型に組み合わさった自在箒が握られている。まさか、武器のつもりなんだろうか。

「ふぉおおおーご主人様ぁ覚悟ぉー!」

 階段の前で足が止まったせいで、ヒツギに追いつかれる。再び、恐怖のメデューサヘッドダイブが飛んできた。今度は、迎撃できる武器が手元にない。

「大丈夫だよ、黒乃くんは私が守るから」

 俺を庇うように前へ飛び出た白崎さんが言うと同時に、左腕一本だけで、凄まじい勢いで箒を繰り出した。

「げふぅ!?」

 ブラシではなく反対側の石突が、飛び掛かって来たヒツギの腹のど真ん中を打ち抜いた。

 軽い木製の柄に、丸みを帯びた青いプラスチックの石突である。殺傷能力など皆無に等しいはずだが、真芯で捉え完璧なカウンターとなったのだろう。

 小柄なメイドは軽々と吹っ飛んで行き、リノリウムの廊下へ無残な胴体着陸を決めた。

「黒乃くん、怪我してない?」

「あ、ああ、大丈夫だ」

 こんな図体をしておきながら、彼女に助けられるとは情けない。いや、あんなカウンターを瞬時に繰り出して見せた白崎さんが凄すぎるのだ。

「もしかして、槍とか薙刀の達人だったりする?」

「ううん? 別に、普通だよ」

 それ以上は、聞けなかった。聞いてはいけない気がした。

「く、うぅ……この淫魔めぇ! ご主人様から離れろぉー!!」

 気炎を上げて、メイド少女ヒツギが復活する。やはり髪の毛はウネウネと触手を形成しており、むしろさっきよりも勢いも数も増している気がする。

 痛恨の一撃を喰らっただろうに、ダメージが通った様子は見られない。頑丈なことだ。

「黒乃くんは下がってて、あの化け物は、私が倒すから」

 何とも勇ましい台詞と共に、白崎さんがさらに前へ出る。先の鋭い一撃を見てしまっているので、危ないから云々などと、そう簡単に引き留める言葉も出てこない。

 というか、本当に箒一本で触手メイドを叩き伏せてしまいそうだ。

「いや、でも、やっぱ危ないって! ここは逃げた方が――」

「心配しないで、黒乃くんをどこにも連れていかせたりしないから」

 有無を言わせぬ強い覚悟の言葉。もう彼女は俺を振り返りみず、小さくとも勇ましく背中を見せるのみ。

 いいのか、本当に白崎さんだけ戦わせるような真似をして。

 俺は……俺は、守りたいんじゃ、なかったのか?

「ご主人様はヒツギが助けるのです! 行きますよっ、ばいんどあーつ!!」

「黒乃くんは、渡さない」

 そうして、ヒツギと白崎さんは駆け出し、真正面から矛を交える。

 先手はヒツギ。髪の毛の触手は「ばいんどあーつ」なる技によってさらなる変化を迎えた。それは、漆黒の鎖。黒光りする無骨な鉄鎖は、一目見るだけでそこに秘める強固な拘束力を連想させる。

さらに、その先端は鋭い鉤爪となり、触れれば乙女の柔肌など途端に血染めに変えるだろう、恐ろしい攻撃力をも見せつけた。

 迫り来るチェインクロウ、その数実に十本。

 大本が髪として繋がっているからか、ヒツギの意志でその軌道は自由自在に変化している。

 五本は縦一列に並んで、そのまま正面から貫く軌道。左右に二本ずつ、廊下の壁際を這うように飛びながら、側面から襲う。そして最後の一本は天井ギリギリを飛び、白崎さんの脳天目がけて急降下していく。

 常識的に考えて、人間が回避できるような攻撃ではない。しかも、矢のような鋭い風切り音を立てて高速で飛来するのだ。そんなもの、一本だけでも避けるのは至難の業。

 だがしかし、俺には白崎さんが無残に引き裂かれるシーンを想像できなかった。

 いや、これは確信だ。彼女は、必ずこの同時攻撃を凌ぐ――脳裏に、白い少女の影が過った。

「――っ!?」

 その瞬間を、俺は確かに見た。

 正面から迫る五本を、白崎さんは箒を上段振り下ろしで叩き落とす。だが、それで脆い木の柄は大破した。

 同時に――そう、同時だ。彼女は箒の一閃と同時並行で、空いた右手を振るっていた。対処したのは、左右から迫る四本の鉤爪。

 一体、いつから持っていたのだろうか、白崎さんの白い右手には、四本のペンがそれぞれの指の股に挟んで構えられていた。親指側から順に、シャ-

プペン、黒ボールペン、赤ボールペン、水性のサインペン。そのまま大きく横に振るって、投擲、したとしか考えられない。

 右に二本、左に二本。一度のモーションで二回投げた。最もありえないのは、そんな風に投げたペンは全て、側面より襲い来る四本爪に命中し、僅かだが確実に回避の隙間を作り上げたことだった。

 そうして、最後に迫っていたのは頭上の一本。

 ここまでくれば、それの対処が最も簡単だと言わんばかりに、かすかに身をひねって、脳天からの一撃を避けきった。

 濃紺のセーラー服にかすることさえなく、虚しく空を切った鉤爪が床に突き刺さった。

 その時にはもう、白崎さんは完全にチェインクロウの同時攻撃を潜り抜け、驚きで目を見開くヒツギへと肉薄していた。

「くうっ! まだ終わりじゃないですよぅ! ぱいるっ――」

 叫びながら、ヒツギは大きく右腕を振りかぶる。同時に、発射した十本分の触手が自動的に切り離された。勢いに任せて、分離した黒い鉤爪が廊下にジャラジャラと散らばり、何本かは俺のすぐ足元まで転がって来た。

 だが、そんな些末に気を取られる余裕はない。二人の攻防は、一瞬たりとも目が離せない。

 緊張――いや、期待、なのかもしれない。ヒツギが次に繰り出すだろう技を、俺はよく知っている。そんな気がする。思わず、固く右拳を握った。

「ばんかぁーっ!!」

 鋭く渦巻く黒い奔流は、ヒツギの髪。荒ぶる毛先が、ヒツギが振りかぶった華奢な右腕にまとわりつき、敵を穿ち貫くドリルを形成する。

「ぱいるばんかー」と技名を絶叫しながら、意外にも堂に入った動作で繰り出される黒い螺旋のストレートパンチ。

 そこにつぎ込まれた魔力は、バインドアーツの鉤爪以上。黒色魔力を一点集中、解放。単純であるが故に、最速の発動速度を誇る。これこそ、最初の黒魔法『パイルバンカー』だ――って、何だ、その勝手な設定は……いや、違う、空想とか妄想とか、そんなんじゃなく、これはもっと明確に、頭に、体に、刻まれた確かな知識……そんな気がする。

 俺は、何か大事なことを忘れていないか?

 誰かを、守りたいんじゃなかったのか。パイルバンカー、その力で。

「――んっ!」

 ふと気が付けば、白崎さんが吹っ飛んでいた。どれほどの衝撃が彼女の体を襲ったのだろうか、凄まじい勢いで宙を舞う。

「白崎さんっ!?」

 こちらに向かって飛んでくる小さな体を受け止めるべく手を伸ばす――が、その行動は無駄に終わった。

 なんと白崎さんは宙で軽やかに一回転半ひねりの妙技を決め、そのまま華麗な着地を決めた。上靴の弱いグリップ力のせいで、少しばかり直立のまま床を滑ったが、それでも僅かほども体勢は揺るがない。運動神経が良いとか、バランス感覚に優れるとか、そんなレベルじゃないぞ。

 結果としては、俺のすぐ前に戻ってきただけ。

「大丈夫だよ、ちょっと右手が擦り剥けちゃっただけだから」

 そう微笑みながら振り返り、少し赤くなった手のひらをヒラヒラと見せる白崎さん。パイルバンカーを素手で受け止めてあんなものって……白色魔力の逆回転で相殺――また一つ、記憶が過った。

「黒乃くんは、何も心配しなくていい、何も考えなくていい、全部、私に任せて」

 ここ一週間ですっかり魅了された彼女の笑顔。だが今は、どこかそら恐ろしさを感じてしまうのは何故だろう。

 彼女は本当に、俺の知っている彼女なんだろうか――そんな疑念が胸に湧き上がった、その時。


 ガァアアアアアアアアアアアアアアアっ!!


 突如として、目の前の廊下を突き破り、真っ黒い怪獣が出現した。派手に塵煙を巻き上げながら、床から巨大な頭が飛び出ている。

 ギラつく金属質な光沢を宿す漆黒の毛並みに包まれた、獣の頭。尖った耳も鼻先も同じ黒毛だが、鋭く並んだ牙も黒一色だ。まるで、影がそのまま実体を持ったように見えるが、不気味にも、大口を開けた口腔だけは赤々と燃えるような輝きで彩られている。そして、獣の目玉も、それと同じ真紅の光を宿していた。

「コイツは、さっきの狼かっ!?」

 狼、といえば、正しく頭の形はそうだろう。色も同じだし、生徒を喰らう毎に加速度的に大きくなっていったのも確認したから、まず間違いない。

 だが、それにしたってデカくなりすぎだろう。今や頭だけで廊下の高さを埋めるほど。口を開けば、190センチの俺だってそのまま縦に飲み込める。

 一体、コイツの体がある一階はどうなっているのか……なんて、くだらない疑問を抱いている場合じゃない。

 狼の口が二度、三度、ガチガチと獰猛に噛み合う。

「う、うぉおおっ!?」

 そうして、黒と赤の巨大なアギトが、俺達に向かって進み始めた。そのまま廊下ごと噛み砕きながら、圧倒的な破壊力の牙が迫り来る。

しかも、早い。もう踵を返してダッシュしても、三歩目を踏み込んだあたりでミンチになるだろうと察せられた。

 絶望――するよりも前に、俺の体は前へと一歩を踏み出していた。

「逃げろ、白崎さんっ!」

 そう、彼女の立ち位置は俺よりも一歩前にある。このままでは、先に喰われる。その直後に、俺も同じ末路を辿ることとなるのだが、それでも……それでも、大切な彼女が目の前で惨殺されるシーンだけは、見たくなかった。

「うぉおおおおおっ!!」

 恐怖と後悔を忘れるように叫びながら、俺はただ我武者羅に前へ飛び出した。

 白崎さんを守る。一秒も時間は稼げないだろう。あるいは、単なる自己満足に過ぎないのかもしれない。それでも、彼女を守るために必要な行動を、体が、いや、俺の魂が命じるのだ。

 俺の『力』は、みんなを守るために、あるんだ。

 漆黒の牙と真紅の口腔、その凶悪な顎が目の前に迫ったその瞬間、俺はそれを思い出した。

「――黒乃くんっ!?」

 そんな驚愕の叫びを聞こえたということは、どうやら俺は、まだ生きているらしい。

「ぐっ……い、痛ってぇ……」

 俺の体が本能的に選択した行動は、開いた大口をそのまま受け止めることだった。右手を上顎、左手を下顎にかけ、噛み砕かれぬよう口を開けっ放しのまま抑え付ける。

 無論、手をかけたのは鋭い牙の並ぶ歯列。掌は両方とも、大ぶりのナイフ同然な牙が貫通し、鮮血が止めどなく滲み出る。

 痛い、だが我慢できないほどではない。腕の力は僅かほども緩ませず、化け物の驚異的な咬筋力へ、真っ向から抗う。

 目の前のモンスターは現実離れしているが、どうやら、俺自身もリアリティに欠ける存在であるらしい。夢の中で、超人にでもなった気分――けど、それがいつ醒めるか分からない。

 今は何とか拮抗を保っているが、あとどれだけ抑え込んでいられるか自信がない。というか、もう、本格的にやばい……あと十秒も、保たな……

「何やってるですか、このバカ犬ぅーっ!!」

 この甲高くやかましい声はヒツギか。随分と聞きなれた感じがするな、と思った瞬間、腕にかかる負担が半減した。

 飛んできたのは黒い鎖。ジャラジャラと音を立てて狼の頭へ絡みつき、瞬く間に動きを封じる戒めと化す。

 だが、流石の化け物も目の前にした獲物に我慢が効かないのか、鎖をギリギリと軋ませながら喰らいつこうともがき続ける。

 それでも、これで白崎さんを逃がせるだけの時間が稼げそうだ。助かったぜ、ヒツギ。

「白崎さん、早く逃げろ!」

「……どうして」

「当たり前だろうがっ! いいから、早く逃げてくれぇ!!」

 しかし、俺の決死の願いは、彼女の心には届かなかったようだ。

 背中に感じる温もり。決して離れるまいと、後ろからきつく抱きつかれてしまった。

「どうして、黒乃くんは逃げないの?」

「見捨てて、逃げれるわけ、ないだろっ!」

「私を見捨てて、逃げていいんだよ? 私がこの怪物を止めるから、黒乃くんは逃げて」

「できるかよっ!」

「できるよ。私が死んでも、黒乃くんには、もっと素敵な彼女ができるよ。生きて、生き延びて、黒乃くんは、幸せだけを感じて生きてほしいな」

 何を言ってるんだ。その、あまりに人間的ではない白崎さんの言葉に、俺は理解が全く及ばなく――なりそうだったが、不思議と、彼女の言わんとしていることが、分かった。理解させられた、と言うべきか。

 意志が、俺の中へ流れ込んできた。

 それは、強く訴えかける。

幸せになれ。もっと幸せになれ。自分が、自分だけが幸せになれ。

世界は幸福で満ちている。この世界は、自分のためだけにある。

 故に、どれほどの犠牲を払おうとも、自分は幸せであるべきなのだ。

 女を一人失ったら、今度は二人を与えよう。可愛い妖精と、綺麗な魔女。それでも満足できないならば、麗しいお姫様もつけようか。あの子、あの娘、あの女、望むならば、いくらでも――

「違うっ! 俺はそんなこと、望んじゃいない!」

「どうして? 黒乃くんは、こんなに苦しいことも、痛いことも、しなくていいんだよ?」

「俺だって、したくてやってるんじゃねぇよ!」

「じゃあ、もうやめようよ。苦痛も苦労も、しなくていい。努力だっていらない。黒乃くんはただ、そのまま望めばいいだけ。そしたら幸せになれるよ。それはとっても心地よくて、とっても、気持ちいいんだよ?」

 好きな願いが叶うという。望めば何でも、その欲望の善悪、美醜、清濁、一切を問わず。

 最高だ。誰もが一度は望むだろう。憧れるだろう。俺だって例外じゃない。

 白崎さんと過ごす今日の夜、凄く、物凄く、楽しみだった。

「そう、そうだよ、私とセックスしたら、凄く気持ちよくなれるよ。必ず、満足させてあげる。これからずっと、永遠に、私が満たしてあげるから――」

「……でも、それは幻なんだ」

 俺の腰に回された彼女の細腕が、冷たくなった。

「どうして……」

 背中に感じた温かさは、今やすっかり冷え切り、氷像を背負っているかのようだ。

「どうして、そんなこと言うの! 夢じゃない、幻なんかじゃない、これが現実、全部、本当のことなんだからっ!」

「もう、止めてくれ。全部、思い出した」

 気が付けば、周囲は暗い闇に包まれている。はるか遠くに、廊下の景色がぼんやりと浮かんで見えた。まるで、この闇が空間そのものを侵食しているかのように、爆発的な広がりを見せる。

それでも、やはり目の前には今にも俺の腕を食いちぎらんと暴れる狼がいるし、それを必死に止めているヒツギもいる。背中には、白崎さん――の姿をした、何か。

 違うと分かっていても、それでも、俺はこう言った。

「ありがとう、良い夢、見れたよ――」

「黒乃くん、だめぇえええええええええええええええええええ!」

 夢から醒める方法は簡単。たった一言、命ずればいい。

「――喰らい尽くせ、悪食」

 そうして俺は、手を離す。

 最後に見えたのは、俺を、いや、この世界そのものを飲み込む、巨大な口の中。地獄の底へ続いているかの如く真っ赤に輝くその向こうへ落ちてゆくのは、視覚的には中々に恐ろしい。

 だが、俺の心は平穏そのもの。言うなれば、休日に思った以上の時間まで寝過ごしてしまったような気持ち。もう、心の休息は十分。十分すぎる。

 さぁ、だから帰ろうか――現実の世界へ。

ヒツギ「お帰りなさいませ、ご主人様!」

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