第388話 フィオナの幸せ
「ふわぁ……」
小さなあくびを漏らしながら、私はのっそりとベッドから起き上がる。
冬の足音が聞こえてくる今日この頃、温かい寝床の中から抜け出すにはいささか以上の理性を要しますが、それでも、この鼻先を刺激するスパイスの香りに私の意識は躊躇なく覚醒を選ばせた。睡魔など、食欲の前では相手にもならない。
僅かほどの未練もなくベッドを後にした私は、クゥクゥと鳴き声を上げるお腹の虫と共に、芳しい料理の香りの元へ進む。
広くもない貸し部屋の一室、キッチンはすぐ目の前。そこに立って調理をしている男の背中が、私には光り輝いて見える。
女性としては平均よりやや大きいか、という身長の私でも、見上げるほどの長身。その広く逞しい背中を見れば、彼が一流の戦士か騎士であると、子供でも分かるでしょう。実際はそれ以上、一流の戦士も裸足で逃げ出す狂戦士なのですが。
そんな超人的な力を宿す彼の背中は今、シャツ一枚まとうことのない上半身裸。鋼のような筋肉の鎧の背面を前に、食欲とは別の意味で、私はゴクリと唾を飲み込んだ。
さながらサキュバスに誘われる男の冒険者のように、フラフラと彼の元へと歩みを進めていく。もし彼が愛用する黒い竜革のレザーパンツも履かず下半身も裸のままだったら、ダッシュして飛びついていたかもしれない。
どちらにせよ、この狭い部屋ではすぐに辿り着く。手を伸ばせば届く距離から、肌の触れ合うゼロ距離へ。
躊躇も遠慮もなく、私は欲望のままに黒髪の彼を後ろから抱きしめた。
「おはようございます、クロノさん」
「おはよう、フィオナ。もうすぐ出来るから、待っててくれ」
「はい」
「……離れてはくれないんだな」
苦笑する彼の顔が目に浮かぶ。直接見たいけれど、この背中へ頬ずりするのも中々に止めがたい。離れたくても離れられないのだから、仕方ないでしょう。
「大人しく待っているので」
「そういう問題じゃない。俺が動けないと、焦げるんだが」
「お肉は少し焦げてるくらいが美味しいですから」
「ウェルダンじゃすまなくなるぞ」
「それは困りましたね」
「いいから、先に着替えてこい。裸のままじゃ、目の毒だ」
私の裸なんてもう見慣れているくせに、こういう初々しいことを言うからクロノさんは可愛い。
仕方がないですね、と了解しつつ、名残惜しくも魔女の抱擁を解いた。
今日も元気におぞましいいななきを上げる不死馬の二人乗りで、私とクロノさんは颯爽と神学校へ登校を果たします。
今やスパーダで知らぬ者はいない英雄となった『黒き悪夢の狂戦士』と魔女、そのあまりのベストカップルぶりに、学生達の羨望の眼差しが心地よい。二人の仲を認められるというのは、良いものですね。
厩舎へ馬を預けると、今度は手をつないで教室へ向かう。指と指を絡ませる、通称、恋人つなぎ。一秒たりとも、放したくない、離れたくない――そうは思うが、現実はままならない。でも大丈夫、私はちゃんと我慢のできる女ですから。
名残惜しくも手を離し、座った席は彼の隣。冒険者コースは自由席で本当に良かった。先客がいたって、物分かりの良い神学生達は快く席を譲ってくれる。空気を読む、って大事なことですね。
そうして始まる、復習にもならない低レベルな現代魔法の授業。もっとも、成績だけならシンクレア共和国の最高学府たるエリシオン魔法学院を主席卒業だった私にとっては、どんな名門校の授業だろうと、似たり寄ったりですが。
私がここにいるのは、何かを学ぶためではない。遥か遠い『ニホン』という名の異世界からやってきた彼が、この世界について学んでいくのを手助けするのが目的なのだから。
「なぁ、フィオナ、ここの術式って――」
「そこはギューンって感じで、ここをクッ、とすると上手く回ります」
「なるほど、流石フィオナだ、分かりやすい」
いえいえ、それほどでも。これくらいは魔女の私からすれば、容易いものです。
クロノさんは脳に直接刻み込まれた翻訳魔法のせいで、詠唱や一部の専門用語・固有名詞などが理解できないそうですから、特に魔法の授業では私のサポートが欠かせません。
愛する人のお役にたてるって、素晴らしいことですね。
「――さて、昼はどうする?」
昼休みを告げるチャイムと、私のお腹が発する竜の咆哮を耳にしたクロノさんが、席を立ちながら聞いてくる。
「今日は学食でいいです」
「そうか、じゃあ行こうか」
こんな風に、学食で誰かと共に食事をするなんて、つい一年前の私には想像もできなかったでしょう。
あの頃は一人でいるのが当たり前だった。私から人が離れていくのは当然で、孤独でいることも自然だった。そこには苦痛も後悔もない。ただ、あるがままを受け入れていた。
それが、何とつまらない、くだらない、不幸なことだったのだろうと、今だからこそ思える。友情を馬鹿にし、恋愛を軽蔑していたあの頃の私は、どうしようもない愚か者だ。
誰かと共にある、愛する人と一つになれる。その幸せを、今の私は知ったのだ。知ってしまった、もう二度と、あの頃には戻れないほどに。
いや、本当はきっと、昔の私も憧れていたのだ。薔薇色の学園生活、というものに。
「放課後はどうする? 適当にクエストでも探そうか?」
「いえ、今日は……家に、帰りましょう」
帰って何をするのか。言わずとも、伝わるはず。
「今晩は、眠れそうにないな」
薔薇色どころか、桃色の生活である。
性欲とは、食欲に匹敵するほど抑えがたき強烈な欲望であることを、私は最近になってようやく知ったのだ。本当に恐ろしいですね、分かっていても、止められないというのは……
夜明け前、ようやく眠りに落ちかけたところで、再び私の意識は覚醒した。
「泣いているのですか、クロノさん」
激しい情事の熱もすっかり冷めたベッドの中、顔を隠すように壁側を向いた彼の肩が、かすかに震えているのに気づく。
「……リリィが、俺を呼んでるんだ」
「悪い夢です。もう、全部終わったことですよ」
アルザスの戦い、最後の日。初火の月6日。あの日、リリィさんは死んだ。
立ちはだかった二人の使徒、彼女たちのほんの気まぐれで、リリィさんは殺された。圧倒的な戦力差。私にもクロノさんにも、どうしようもなかった。
いえ、リリィさんが犠牲になったお蔭で、クロノさんは助かったのだ。
『黄金太陽』を放って魔力切れで倒れていた私は、その一部始終を見ていない。クロノさんも、詳しいことは黙して語らない。
けれど、それがどうしようもなく凄惨極まるものであったことは、想像するに難くない。
「苦しいなら、忘れてもいいんです。つらいなら、逃げてもいいんです。全てを無かったことにしても、誰も責めたりはしませんよ」
「けど……俺は……」
毛布を跳ね除け、そのままクロノさんの上へ覆いかぶさる。涙の跡を残す顔が、ハっとした驚きの表情を浮かべる。
慈愛、憐憫。彼を慰めようというプラスの感情は、その顔をみた瞬間に浅ましい欲望に転じる。堪らない、この顔を知っているのは私だけなんだと。独占欲と優越感で満たされる。万能、全能、世界の全てを手に入れた気分。
気が付けば、彼の唇を深く貪っている私。一瞬、理性が飛んでいた。息継ぎをするように、口を離す。
「私が全部、忘れさせてあげますよ……あの時と、同じように」
仲間を失い、信頼を失い、そして、最愛のリリィさんを失って絶望のどん底へ突き落されたクロノさんは、廃人同前だった。
そんな彼を、自分で言うのもなんですが、私は献身的にお世話をした。
お互い、このスパーダに知り合いなど一人もいない。借りた部屋の一室、閉じた世界、男女が二人きり。
「俺を一人に、しないでくれ……フィオナ」そう言って、クロノさんは私をベッドへ押し倒した。
心を病んだ彼が、唯一人、共に生き残った仲間であり、友であり――異性である、私を求めるのは当然の成り行きだった。
「すまない、あの時、俺は――」
「謝らないでください」
だって、私はそうされるのを待っていたのだから。臆病で卑劣なのは、私の方。
「私はクロノさんを愛しています。強いところも弱いところも、全部。だから、苦しいだけの過去から逃避したって、いいんですよ」
忘れて、全部、忘れて。忌まわしい絶望の記憶も、美しいリリィさんとの思い出も、全て。過去も未来も、貴方の心にいるのは、私だけでいい。
「もう、仇だっていないんです。頑張らなくていい、強くならなくていい、平和に生きて、いいんですから」
幸いだったのは、十字軍が勝手に壊滅したこと。
スパーダの先制攻撃とダイダロスの反乱によって、あっけなく十字軍はパンドラ大陸から駆逐されたのだ。総司令官サリエルも、第八使徒アイも第十一使徒ミサも、共に討たれた。復讐すべき相手はもう、どこにもいない。
「そうかも、しれないな」
「ええ、そうですよ」
ようやく、クロノさんが優しく抱き返してくれた。思いが伝わる、思いに染める。なんて、幸せな抱擁。
「ありがとう……愛してる、フィオナ」
「私も、愛してます、クロノさん」
そうして、心も体も満たされたまま、今度こそ私は眠りにつく。
ああ、明日は何を食べようか、どうやってクロノさんと愛し合おうか。私の幸せな日々は、まだ、始まったばかりです――