第386話 あの日の続き
「――ん」
誰かが俺を呼んでいる。
「――くん」
耳に優しい流麗な少女の声音。ああ、こんな美声で名前を呼ばれて、応えない男はいないだろう。
起きなければ。暖かく微睡む意識の中で、覚醒を決意した。
「――黒乃くん」
すぐ目の前にあったのは、どこか見覚えのある少女の顔だった。かすかに憂いの色を帯びた円らな黒い瞳に、すっと通った鼻筋、ふんわりとした桜色の唇。白い肌に亜麻色の長髪がよく栄える。
魅了が宿るレベルの美少女だ。俺の寝ぼけ眼が不躾にも、その麗しい顔へと釘付けになってしまっている。ひょっとしたら、すでに魅了されてしまっているのかもしれない。
「黒乃くん、大丈夫? 凄く、うなされていたから……」
今にも泣きだしてしまいそうなほど、彼女の表情が不安と悲しみに崩れたのを見た瞬間、胸に湧き上がる途轍もない焦り。彼女を泣かせてはいけない。
「いや、大丈夫、俺は全然なんともないから、心配しないでくれ――白崎さん」
「……そっか、良かった」
心の底から安堵したように顔をほころばせる少女の名は、白崎百合子。同じ文芸部に所属する、部活仲間である。悲しいかな、それ以上でもそれ以下でもない。
「ところで、ここ……どこ?」
どうやら今の俺は、柔らかいベッドの上で、清潔な真っ白い布団を被ってお休みスタイルである。白崎さんは、すぐ傍らに置いてあるパイプ椅子に座って、俺の顔を覗き込んでいるという構図。
視線を左右へ巡らせてみれば、目に入るのはベッドの周囲に走るレールからつりさげられた白いカーテンの波。そして、その隙間から覗くのは、よく見なれたガラガラとやかましいスライド式の扉と、その脇にセッティングされている体重計と身長計のセット。
ついでに、実用性重視のシンプルな丸いアナログ時計がかかっているのも見えた。時刻は6時38分。ちょうど日の入りなようで、白カーテン越しでもぼんやりと夕日の朱に部屋全体が染まっているのが分かる。
しかし、自分で聞いといてなんだが、一目見ればここがどこだか分かるだろうに。
「保健室だよ」
やはりそうか、というか、そうとしか考えられない。利用したことなんて全くないが、それでも特別清掃の担当として来たことくらいはある。
けど、どうして保健室なんかで寝ているんだろうか。おかしい。何か凄まじい違和感を覚えてならない。
落ち着け、よく思い出せ。ついさっきまで俺は――
「でも、黒乃くんがいきなり部室で倒れた時は本当にびっくりしたんだよ。もう少しで本当に救急車を呼ぶところだったんだから」
「あ……あぁ、そっか、そうだ、俺、凄い頭痛がいきなりきたような感じで、そのまま倒れた……んだよな」
「もしかして、まだ体調が悪い? 保健の先生はただの貧血だから、ちょっと眠れば治るって言ってたから大丈夫だと思ったんだけど……」
「いや、もうどこも痛くないし、本当に大丈夫だから」
誤魔化すように言うが、実際、確かに体にどこも異常は感じられない。問題なのは、記憶の齟齬というか、何というか……俺が文芸部室で倒れたことははっきり覚えている。覚えているのだが、それはもうずっと昔のことのように思えてならないのだ。
「……凄く長い夢を、見ていたような気がするんだ」
「大丈夫だよ、うなされるような悪い夢は、もう醒めたんだから」
悪夢、を見ていたんだろうか。
嫌なこと、つらいこと――いいや、そんな生易しいものじゃない。本当に死ぬほどの目にあったし、死ぬよりも苦しい絶望を何度も味わったような気がする。
胸の奥底に、混沌と渦巻くドス黒い感情を抱えている感覚。心だけじゃない、体が覚えている。痛みと苦しみ、敗北の屈辱と喪失の絶望を。
そんな感情を心と体に刻み込まれるというのなら、これ以上ないほどに、俺は悪夢を見ていたということなのだろう。
だがしかし――
「忘れちゃいけない、大切な何かがあった……はずなんだ」
「何かって、なぁに?」
白崎さんの黒い瞳が、真っ直ぐに俺を見つめる。いつもは俺の強面にビビって全く目を合わせてくれない彼女だが、今は我が子を見つめる母親のように優しげな眼差しを向けてくれている。
「そ、それは……」
「それは?」
目が離せない。彼女の瞳に吸い込まれそうだ。奈落へ落ちていくような感覚。
「……分からない」
口にしようとした、カタチになろうとしていた大切なはずの記憶は、掴みどころのない雲のように散ってしまう。
「ふふ、ついさっきまで見ていた夢だけど、起きたらすっかり忘れちゃうことって、あるよね」
「ああ……そう、だな」
そうだ、そもそも俺に記憶なんてない。貧血で倒れた、そして今目覚めた。その間はただ睡眠があっただけで、俺自身は何ら行動していない。夢なんてのは単なる記憶の整理、人体に起こるべくして起こる、生体メカニズムの一つに過ぎない。
「でもね、黒乃くん、倒れる前のことは覚えている?」
倒れる前? というと、文芸部室での出来事ということになるのか。
今日も普通に部室に来たはず――いや、違うな。昼休み、白崎さんがわざわざ俺を訪ねてこう言った。
「今日の部活、大事なミーティングがあるから……絶対、来てね」
そうして勇んで来てみれば、部室にはメッセンジャーである白崎さんが一人だけ。
いつまで経っても来ない部員、気まずい沈黙、流れる時間。このままではいかん、と意を決して何か話しかけようとして失敗したり、色々上手くいかないやり取りが続いて……ああ、そういえば彼女はこんなことを言っていたはずだ。
「ミーティングある、って言ったの、あれね、嘘なの」
そうだ、確かに言っていた。
「――と、その辺までは覚えてる。それで、白崎さんが何か続きを言おうとしたところで、俺は倒れたんだ」
「良かった、ちゃんと覚えていてくれて」
これで忘れていたら、普通に記憶喪失の症状も出てるってことになる。相当ヤバい頭痛だったが、流石にそこまでの影響はないようだ。そういう意味で、俺も「覚えていて良かった」と心底思えた。
「それで、何で嘘をついてまで俺を部活に呼んだんだ?」
「どうしても、黒乃くんと二人きりになりたかったの」
部員がグルになってイタズラ仕掛けようとした、くらいの理由が語られるのかと思いきや、予想の斜め上を行く解答に、咄嗟に返しの言葉が出ない。
「そ、そうなんだ……」
何とも曖昧な空返事が、阿呆のように口から漏れるだけ。
だが、対する白崎さんは俺の困惑などまるで気にしないように、ただ真っ直ぐ、視線を逸らさずに言葉を続けた。
「うん。でもちょうど良かった、今も二人きりだから、続きを話せる」
室内に差し込む赤々とした夕陽に照らされているせいか、彼女の顔がほんのり朱い。思わず見惚れそうになるほどの麗しい微笑み、だが、その口から紡がれる言葉は一言一句、聞き逃すことなく俺の耳ははっきりと捉える。
「あのね、私、黒乃くんのこと――」
頭痛はしなかった。あの時、聞き逃した台詞を、今度こそ俺は聞き届けた。
「――好きなの」
告白だった。回りくどい言い回しも、照れ隠しも、一切ない、ストレートな感情表現。どんな鈍感野郎でも、こう言われて告白だと思わないはずがない。
「え……本当に……俺?」
だがしかし、信じられない。俄かには信じがたい。
突然の告白、全く予期せぬ相手から。これで好意が事実だとすんなり受け入れられるほど、俺は自惚れてはいない。
あの白崎さんだぞ。恐れられたり、苦手意識を持たれたりってのなら理解できる、というか、今の今までそうとしか思っていなかったんだ。
何より俺自身が、彼女に対して惚れられるだけの何かをしていない。会話といえば部活関係の事務的なものか、部員仲間を介する間接的なものが精々だ。勿論、吊り橋効果が期待できる素敵なイベントなんてのも経験してない。
女の子からの告白を疑う、というのは何とも失礼な態度かもしれないが、それでも、即座に信じられないのは――
「っ!?」
「……ん」
唇に触れる、柔らかい感触。温かさ。ゼロ距離で迫った白崎さんの美貌から、仄かに漂う香りはシャンプーの匂いだろうか。
俺は、キスをされていた。
「私は黒乃くんが好き。嘘じゃ、ないよ?」
気が付けば顔は離れ、再びもとの距離へ。今の一瞬が、まるで夢のようだ。けど、嘘じゃない。彼女の言うとおり。
「だから、私と……付き合ってください」
断らなければ――何故か、直感的にそう思った。決して、彼女の好意を疑っているわけじゃないし、この期に及んでまで、まだ何か裏があると勘繰っているわけでもない。
俺には、その資格がない。異性と付き合う、恋人をつくるべきではない。そんな意識が、唐突に脳裡を過るのだ。
しかし、同時にこうも思う。俺には身も心も奉げるほど熱烈に愛する人などいないし、恋愛御法度の聖職者でもない。見た目がアレなだけの、ただの高校生だ。資格がどうとか、何を馬鹿馬鹿しいことを考えているのだろうか。
あの白崎さんが告白してくれたのだ。これを断る男など、この公立桜木高校には一人もいるまい。彼女がいたって、白崎さんに言い寄られればあっさりとなびくだろう。
いや、違う。この感覚は、そういうことじゃなくて、もっと、心の奥底から、見えない記憶の彼方から、どうしようもなく訴えかける――
「……ダメ、かな」
「いいよ、俺で良ければ」
悲嘆の表情に崩れかけた白崎さんを前に、俺のチンケな違和感なんてのはあっさり吹き飛んでしまった。そんなつまらない些細なことを、気にしている場合などではない。
俺には、彼女を泣かせることなんて、とてもできない。
「ほんと? ほんとに、いいの?」
「ああ、これからよろしく、白崎さ――んっ!」
「ありがとう! 黒乃くんっ!」
そのまま飛び込んでくるように、白崎さんに抱き着かれた。再び感じる温かさと匂いに、俄かに心臓の鼓動が高鳴る。
何て心地よい重さなんだろうか。少しだけ躊躇した後に、俺は両腕を彼女の背中に回した。
「黒乃くん、大好き」
こうして、俺に生まれて初めて彼女ができた。白崎百合子という、途轍もない美少女の。
どうやら俺の人生の絶頂期は、今日であるらしい。