第370話 秘密のお見舞い
「――でも、思ってたより元気そうで、良かったよ」
「うぅ……は、はい……」
ベッドの上で、何故かネルが恥ずかしそうに俯きながら答える。
雨に打たれること数十分、俺は何とか無事にネルの自室へお招きされ、ずぶ濡れの体をタオルで拭き拭き、まずは「体調どう~」みたいな無難な話題を切りだしていた。
もっとも、慌ただしく用意に奔走するネルの様子からいって、ベッドから起き上がれないほど衰弱してはいないとは確信できていたが。
それでも実際に面と向かい、彼女自身から朗らかな笑顔で「大丈夫です」と言われれば、安心感は違う。
「顔色もそこまで悪くないみたいだし」
「はぅ……あ、あんまり見ないで、ください……」
やはり病気に臥せる顔を凝視されるのは恥ずかしいのか、俺の視線を遮るように両手で顔を覆うと同時に、白い翼もバサリと上半身を覆うように稼働する。なんて可愛らしい鉄壁の防御だろう。
「そうだ、これ、良かったら食べてくれよ」
そうして影から取り出したるは、微笑む女性のロゴマークが描かれた小さな手提げの紙袋。これこそ、ウィル一押しのお見舞い品である。
「あっ、それってもしかして『スイーツスマイル』のプリンですかっ!?」
「ああ、それが好きだって聞いたから」
正確には「読んだ」であるが。あの手紙は本当に、ウィルの情報力を見せつけられたな。
「はい、私これ、大好きなんです! ありがとうございます、クロノくん!」
ネルは満面の笑顔、いや、その薄ら隈の浮かぶ目元には僅かに涙さえ光って見える、大喜びである。いや、ここまで喜んでくれるなら、わざわざ苦労して買った甲斐もあったもんだ。
ルーンの銘菓としてプリンが普通に販売されていることも驚きだったが、その『スイーツスマイル』とかいう菓子店に並ぶ女性客の列の長さにも驚きだった。
そんなうら若き乙女の行列に交じる黒き悪夢の狂戦士である。いやホント、苦労した。精神的に。
もっとも一番驚きだったのは、小さいカップサイズで一個千五百クランという超絶価格だが。流石は上層区画に店を構えるだけある、お値段設定も上流階級。
「あの、食べても……いいですか?」
勿論、どうぞどうぞ。快く答えるが、良く考えるとこんな夜更けに糖分とっても大丈夫か、と直後に思い至る。まぁ、問題ないということにしておこう。
「そうだ、お茶も用意しますね。クロノくんは、好きな銘柄とかありますか?」
「いや、そんな、無理するなよ」
大好物のプリンを美味しくいただくことに並々ならぬ情熱を傾けているのか、ニコニコ笑顔でいそいそとベッドから抜け出そうとするネルを止める。
お見舞いに来たのに、病人自らを動かしてもてなしさせるとは、本末転倒である。
ついでに、俺には異世界のお茶の銘柄など全く知らん。何でも美味しくいただく覚悟しか持ち合わせてない。
「いえ、本当に大丈夫ですから。体はどこも悪くないですし、今すぐクエストにだって行けますよ」
そう優しく微笑む彼女の姿は、どうしようもなく、俺の知るネルのものだった。確かに顔色はやや青白いが、大闘技場の医務室からイスキア古城へ救出に向かう決心をした時のように気力と活力とヤル気に満ちた気配。
要するに、止められそうもないということだ。
「あ、私、お料理はまだあんまり上達していないですけど、お茶はちゃんと美味しく淹れられるんですよ!」
お茶は王侯貴族の嗜みといったところなのだろう。基本は従者にやらせるものだが、外国の貴族と歓談する時、親しい友人が訪ねてきた時、などなど、対等な相手であれば主人自ら振る舞うのは珍しいことではない。上流階級における交流に求められる礼儀作法・技術の一つといったところ。
お姫様のネルなら、それなりに厳しく教え込まれているに違いない。
「分かった、それじゃあ御馳走になるよ」
特に要望はないので、全部お任せで。体調の方も、やはり大丈夫だろう。
そうして、綺麗に整頓された部屋の中を見渡したり、お茶の用意を進めるネルとぽつぽつと話ながら待つこと数分。
「どうぞ、お召し上がりください」
俺の前に設置された小さな丸テーブルの上に、ティーセットが用意されたのである。
湯気と共に上品な香りを放つ飴色のお茶は、こっちの世界でも紅茶と呼ばれている。果たして茶葉や製法まで同じかどうかは分からないが、味や香りはそっくりだし、ミルクやレモン、砂糖といったオプションがつけられるのも一緒だ。
可愛らしい花柄のポットと、紅茶が注がれた御揃いのデザインのカップ、その下敷きとなるソーサー。傍らにはシュガーとマドラーがセットで配置されている。
なかなかの手際。つい今しがた聞いた、シャルロットとサフィールの女性メンバーとよくお茶会をしている、というのは事実なようだ。
王族に貴族の女の子だが、こうして床へクッションを引いて座り込んで卓を囲むというのは、如何にも女学生らしいと思わせる。まぁ、その面子の中にあのサフィールがいると思えば、やや複雑だが。
アイツは髑髏に囲まれた屍霊術士の工房に引きこもって、邪悪な笑みを浮かべて実験三昧というイメージが強い。まことに勝手な想像ではあるが、あながちハズレではないという確信が不思議と持てる。
「ありがとう、いただきます」
凄いキラキラした目で俺がお茶を飲むシーンを凝視されてちょっとばかりこそばゆいのだが、努めて平静を装う。あまりがっつかないように、そっと一口を飲んでみる。
「……美味しい」
「良かった、お口に合って」
心からの嬉しさがにじみ出るように、ネルが柔らかい微笑みでしみじみと言う。
確かにお世辞抜きで美味いと思える味ではあったが、何故だろう、今ちょっと、いや、かなりドキっとさせられた。
お、落ち着け、決して意中の男に褒められたいがために頑張った結果報われました、みたいな恋する乙女の健気な感情をネルは抱いているわけじゃないのだ。あくまで友人として嬉しいというだけで、他意はない。
しかし、こういうあまりに無垢な表情を見せられると、本気で勘違いしそうになるのがネルの恐ろしいところである。
「ところでさ、どうして俺の分のプリンもあるんだ?」
気を紛らわすように、俺は話題の転換を図る。そうでなくても、当たり前のように紅茶の隣に用意された『スイーツスマイル』のロゴが入ったプリンが視界に入った時点で、気になってはいたのだが。
俺が買ったプリンは一つだけ。いや決してケチったわけではなく、単純にそれで売り切れだったのだ。
「それはいつの間にか冷蔵庫に入っていたものです。お見舞いに来てくれた誰かが持ってきてくれたんだと思います」
「俺が食べてもいいのか?」
「はい、一緒に食べた方が、美味しいですから」
くっ、一個千五百クランもするプリンを独り占めするのが当然だろうと考えてしまった自分が浅ましくて嫌になる。ネルはやっぱり慈愛溢れるお姫様だな。対して俺は、ランク5冒険者になっても、やや貧乏性な小市民である。
「あ、私の食べる分は、ちゃんとクロノくんが持ってきてくれたものですよ」
クスクスと子供みたいに笑うネルに、俺は適切な返しの言葉が思いつかなかった。とりあえず、ネルを思ってプリンを買ってきてくれた人には、心の中で謝っておこう。ごめん、俺がこのお高いプリンをいただきます。
「それじゃあ、いただきます」
「はい、私も、いただきます」
流石は高いだけあって、プリンは美味かった。俺がうろ覚えなレシピに基づいて手作りしたモノとは格が違う。レッドウイング伯爵こと、赤羽善一さんがプリンの製法を伝えてから、ルーンで独自の進化を遂げていったのだろう。少なくとも、日本では味わったことのないプリンであった。
そんなことをしみじみ思っていると、俺が使う白い羽のレリーフが刻まれた高そうなスプーンがカップの底をついた。もうない、やっぱ内容量は少な目か。
見れば、ネルが手にする赤い稲妻レリーフのスプーンも、同じようにカップの虚空をすくっていた。
「す、すみません、ちょっとお腹が空いてたので……」
結構ガツガツ食ってた俺と同じ速度で完食したのが、乙女として恥ずかしいのか、モジモジと実にいじらしい仕草で聞いてもいない言い訳をしてくれた。くそ、いつもの三割増しくらいネルが可愛く見える……心頭滅却。
そうして、俺はネルと一緒に夜のおやつタイムを楽しんだ。イスキア古城へ行く前、毎日一緒に過ごしたあの時のように、自然と話が弾む。
ずっとベッドで過ごしていたネルは退屈をもて余していたのだろうか、いつにもまして彼女の方から色々と話してくれた。
幼少の頃の思い出話、ウィルと初めて出会った時のことや、加護を授かった感動、初クエストでの失敗談。あるいは、他に好きなデザートや、お気に入りのレストラン、得意な科目、苦手な授業、などなど、他愛のない話題も。
そんな中で、俺はふと大事なことを思い出す。
「――そういえば、お礼を言うのを忘れていた」
「お礼、ですか?」
小首を傾げる、という美少女にだけ許された仕草を自然にしながら、ネルが問い返す。本来、言うべきタイミングから大きくズレてしまったからな、思い当たる節がないのも当然だろうか。
「イスキアを救えたのは、ネルのお蔭だった。力を貸してくれて、ありがとう」
「えっ、そんな……私はただ……当然のことをしただけ、ですので……」
今更か、というより、こんなことで改まってお礼を言われるとは思わなかった、というような驚きの表情を浮かべるネル。確かに、彼女の優しい心根と、高い実力を鑑みれば当然の行動だったかもしれない。
それでもちゃんと、言っておきたかった。
「いや、ネルがくれたお守り、『心神守護の白羽』がなかったら、俺はスロウスギルに寄生されていた」
そういえば、ネルはグリードゴアを操っていたスロウスギルという寄生モンスターのことを知っているんだっけ?
とりあえず軽く説明と、それによってどれだけ俺が危険な状態だったかを力説し、重ねて礼を言った。
「本当にありがとう。ネルは命の恩人だ。俺一人だったら、誰も救えなかった。いや、そもそも呪物剣闘大会だって、無事に終わらなかったからな。ネルが助けてくれなかったら、俺は何もできなかった……」
「ふふ……うふふ、いいんですよ、クロノくん。何でも自分一人で完璧にこなそうとしなくても」
お礼のつもりが、つい弱音みたいになってしまった俺に、ネルは本物の女神が如き優しい微笑みで、そう言ってくれた。
いいや、言葉だけじゃない。小さなテーブル越しに身を乗り出したネルは、俺の手をとり、そっと両手で包み込む。悩める子羊に手を差し伸べる、リアル聖女な体勢である。
「仲間は頼るもの、助け合うもの、でしょう? だから、クロノくんはもっと、頼ってもいいんです。私も、もっと、クロノくんの力になりたいです」
俺はリリィとフィオナ、今はネルも心から信頼できる仲間だと思っているが……どうにも、自分一人で背負いこみすぎ、ということなのだろうか。
甘えることと、頼ることは別物。そう分かっているつもりでも、その線引きは酷く曖昧なのかもしれない。
「そう言ってくれると、救われるよ」
「私も、クロノくんにそう言ってもらえて……救われました」
俺の手を握るネルの両手が、少しだけきつくなる。繊細な白い指が、温かく絡む。ちょっとドキっとしてしまうのは、俺が不純なだけなのか。
いや、ネルの鮮やかなブルーの瞳に、こうして見つめられれば、意識しない男などいないだろう。俺は悪くない。悪くないが……我慢は、必要だろう。
これ以上はちょっとヤバいと結論づけ、さりげなく手をふりほどこうとしたが、その意図は全く伝わらなかったようだ。ネルの両手は俺の右手を優しく拘束し続ける。
「クロノくん……」
気のせいか、やや熱っぽく潤んだようなネルの視線から、逃れるように俺が目を逸らした、その時だった。
「――ネル姫様?」
コンコンというノック音と共に聞こえてきた少女の声に、戦慄が走る。今まで部屋を包んでいた、温かい空気は瞬時に霧散。握った手も、この瞬間に離れた。
誰だ。いや、誰であっても、まずい。まずいのだ。
ネルも状況を理解しているのだろう、ハっと目を見開いて驚愕の表情。恐らく、俺も同じ驚き顔をしているに違いない。
だってそうだろう。俺は本来、この女子寮に、まして病に臥せるお姫様の部屋にいていい存在ではない。
これから部屋に侵入しようと触手クライミングしている姿を目撃されるのはまずいが、実際に部屋の中にいるのを見られるのはもっとまずい。現行犯逮捕。言い訳は署でも聞いてもらえないだろう。
「お休みになられているようですね……入りますわよ?」
お休みになられてるんだったら入るんじゃねーよ! と心の中で絶叫するが、そんなことで扉の向こうの彼女が突入を諦めてくれるはずもない。
くそ、こうなれば窓を突き破ってでも逃げ出すか――と素早く立ち上がったその時。
「クロノくん、こっちに隠れてください!」
小声で叫ぶという妙技を披露してくれるネル。彼女が示す隠れる場所は、ベッド。
そう、ネルはベッドで布団を被りながら、ここへ身を隠せと訴えているのだ。
こ、これは……ただ部屋の中で見つかるより、同じベッドの中で見つかった方がもっと取り返しのつかない事態になりそうな気がする。
ただ見つかるだけなら処刑、ベッドの中で見つかれば、拷問にかけられた上での処刑になりそうだ。
だがしかし、窓を突き破って逃亡というのもそれはそれで問題、決して最善策ではない。ついでに、他に隠れられそうな場所も見当たらない。ちくしょう、俺がリリィサイズだったら、あのクローゼットに隠れられるのだが!
そうこう考えている間にも、何故か部屋へ入ろうとしてくる少女がガチャガチャと開錠を始める音が響いてくる。やばい、もう悩んでいる暇もない。
「クロノくん、早く!」
「くっ!」
意を決して、俺は窓に――ではなく、ベッドへ飛び込んだ。全く見つからずにすむ、という一縷の希望を抱いて。
「ふわぁ……わ、あ……クロノくん……」
「すまんネル、少しだけ、我慢してくれ」
布団の中へ潜り込むと、自然と抱き合うような体勢になった。勿論、俺の頭は出さない。出さないのだが、そのせいで顔がネルの胸に当たっている。いいや、当たってるなんて生易しいものじゃない、圧迫と呼んでいい。
純白のネグリジェを大きく押し上げる双丘が、俺の顔面を包み込む。柔らかさ、温かさ、匂い、そして少しばかりの息苦しさ。この緊急時において早鐘を打っていた心臓の鼓動は、さらに倍速でビートを刻み始める。
離れたくないが、離れたい。元より離れられない。ネルは固く俺を胸に抱きしめて、離そうとしない。頭がおかしくなりそうだ。
「失礼いたします」
緊張の極致と理性崩壊寸前に達している俺をよそに、ついに彼女が部屋へ踏み込んできた。必死で息を殺し、気配を消し、ただこの脅威が去ることを一心に祈る。ああ、何か、実験施設を脱走する時にサリエルに追っかけられてた時を思い出すな……
「まぁ、明りがつけっ放し! それに、お茶もそのまま……全く、最後の見舞客はとんだ無礼者ね」
恐らく、彼女は同じ女子寮に住む生徒で、静養中であるネルの世話をしているのだろう。そろそろ寮の就寝時間、最後に様子を見にきたに違いない。
しかし、部屋の様子を見てあからさまに不機嫌そうな声音を聞いて思い出したが、この声の持ち主は、俺に決闘という建前のリンチをふっかけてきたヘレンとかいう少女に違いない。
なるほど、ネル姫様親衛隊隊長であり、何かど偉い貴族の子女である彼女であれば、お姫様の世話を焼くに不足はない。むしろ、あの崇拝ぶりからいって、自ら望んで尽くしているだろう。
もっとも、今はその忠誠によって苦しめられているのだが。闘技場では不本意ながら散々に怯えさせてしまったが、ちくしょうめ、ヘレン、お前は今、本当に俺を殺すチャンスを掴んでいるんだぜ……
「……出てって」
「ネル姫様っ!? 起きてらっしゃったんですか」
この窮地を乗り切るべく、ネルがアドリブ演技をスタートさせる。その如何にも不機嫌、それどころか憎悪すら感じさせる声音は、そうだと分かっていても悪い意味でドキっとさせられた。
「いいから、早く」
「も、申し訳ありません……失礼します……」
敬愛する主より、心からの拒絶を受けて、ヘレンはあからさまに悲しげな謝罪の言葉を残して、退散していった。
ドアの閉じる音、再び施錠される音を聞いて、こんなに心が落ち着いたのは生まれて初めてである。
そうして部屋に静寂が訪れてから数十秒。
「……ネル、もう大丈夫じゃないか?」
「うぅ……クロノくん、クロノくん……」
もういい加減、離れた方がいい。ベッドから抜けても大丈夫だろうと思って声をかけたのだが、ネルの拘束は緩まない。緊張のあまり、混乱しているのだろうか。
「おい、もう離してくれて――」
「ふぅーうーっ!」
「お、落ち着けネル、大丈夫、もう大丈夫だから」
妙に興奮した様子のネルをなだめながら、俺はやんわりと抱擁を脱し、名残惜しくも、なんて不埒な思いを抱きつつ、ベッドから脱した。
ようやく生きた心地になる。同時に、ネルの魅力的に過ぎる体から離れて、直前までの際どい状況の恥ずかしさを再認識。
「あ、あの……クロノくん、私……」
緊張と羞恥で見事に真っ赤に染まった顔のネル。今の俺には、とても恥ずかしくて直視できなかった。嫌でも意識させられてしまう。
自分でも顔が熱い、と思いながらも逸らした視線のまま言う。
「助かったよネル、ありがとう。何とか上手く誤魔化せたな」
「はい……そう、ですね」
正直いって、これは本当に助かった。ベッドに隠れるなんて、二人いたら見つからないわけがないだろう、という先入観から、俺は真っ先にその選択を放棄していたのだから。
「まさか、こんな形でネルの翼が役に立つとは」
そう、ヘレンを欺いた秘密は彼女の翼にある。トリックは単純明快。ネルがうつ伏せに寝ると、当然、その大きな翼は上にくる。畳んでいてもそれなりの面積と体積、ちょっと動かせば人間一人分くらいは庇える空間を自然に作り出せる。
翼でさりげなく布団を押し上げることで、俺が潜んでいても違和感がないようにしていたのだ。
「クロノくんのお役にたてて、私、嬉しいです」
視界の端で、キャーとばかりに両手で顔を覆ってモゾモゾしているネルの姿を捉える。まだ緊張であんまり正常な思考ができなくなっているのだろうか、興奮冷めやらないといった雰囲気。
だがしかし、危機を乗り切った今だからこそ俺は思う。ベッドに潜り込んだ時、体を影空間に沈めさせれば、こんなバクチを打たなくても良かったんじゃないのかと。そう、俺がパンドラ大陸に向かう船の中で、あの林檎の木箱に身を潜めていた時のように。
完全に後の祭りだが、それでも無事に事態は解決したので、よしとしておこう。
「ごめんな、何か長居してしまって。ここに俺がいるのは危険だし、もう帰るよ」
「あっ……そ、そうですよね……分かりました」
目に見えて落胆の声をあげるネルに、じゃあもう少しだけいようかな、なんて言いたくなるが、いくらなんでもあの危機を経験しては、そんなことを申し出せるはずもない。
「ネルは元気みたいだし、その調子なら、すぐ学校にも復帰できそうだな」
「……あっ! は、はい、そうです、そうですよね! 大丈夫です、私、明日からまた元気に学校へ行けますから!」
「そうか、それは良かった。これでまた、昼休みでも放課後でも、いつでも会えるな」
「はい、私……クロノくんと、いつでも一緒、です……」
ポーっと熱っぽい視線を向けるネルに、また不埒な感情がふつふつと湧き上がってくる。ダメだ、一刻も早く退散しないと、自分が何かしでかしてしまうんじゃないかと不安で仕方ない。
いそいそと窓辺まで向かい、再び雷の轟く夜闇へ飛び込もうと覚悟を決めかけたその時、ふと思い出す。
「そうだネル、今度また、俺に魔法を教えてくれないか?」
先日の加護実験の結果、俺は思い知らされた。
『鋼の魔王』と『雷の魔王』を使いこなすには、それぞれ『防御強化』と『集中強化』の術式を正確に理解することが必要であると。
『腕力強化』を元に、明確な術式イメージがある『炎の魔王』は二つに比べて発動と効果時間が安定し、かつ反動も少なかった。
魔王様直々の特訓によって、第二第三の加護は術式イメージ無しでも、ぶっつけ本番、感覚的に発動こそ可能であった。
しかし、あれほどまでに不安定かつ消耗が激しすぎれば、実戦で使うに大いに不安が残る。まして、使徒を相手にするなら尚更。
俺は次なる加護を探すと共に、習得した加護を使いこなす鍛錬も必要なのだ。
まぁ、それが人頼みとなってしまうのは、いささか情けない話であるが。
「はい、勿論です! あっ……でも、クロノさんのパーティメンバーには、その……魔女の方が、いますよね?」
快い返事が一転、ネルはにわかに表情を曇らせる。
なるほど、確かに傍から見れば、魔法に長けたメンバーを差し置いて教えるなんて、少々でしゃばった感は否めない。全く、どこまでも気遣いのできるお姫様である。
「いや、どうしてもネルじゃなきゃダメなんだ」
「えっ……わ、私が……私だけ特別、なんですか?」
「ああ、ネルにしか頼めない。他のヤツじゃ絶対に無理なんだ」
そう、俺に正しく現代魔法を教えられるのは、教え上手に加えてテレパシーによる精神的な直接指導が可能な、ネルをおいて他にはいない。
もうあの素晴らしい個人授業を受ければ、フィオナの解読不能なセンシティブ授業を聞く気にはとてもなれない。固有魔法しか使えないリリィは、論外だし。
「はい、はいっ! ありがとうございますクロノくん、私、頑張ります!」
礼を言うなら俺の方だ。でも世の為人の為がモットーなネルとしては、俺なんかの役に立てることでも喜んで引き受けてくれる。背中の翼がパタパタと忙しなく動いているから、心から喜んでいるのだろう。
「ありがとう。それじゃあまた明日、お休み」
「はい、お休みなさい、クロノくん」
そうして俺は、ネルの部屋を去った。元来た時と同じく、音もなく、素早く女子寮から離れる。
再び豪雨に打たれながら寮へ戻る途中に、俺はふと気が付いた。
「そういえば、普通にネル元気だったけど、何で今まで寝込んだままだったんだ……」
別に俺がお見舞いに行かなくても、あの様子なら明日には元気に登校していたことだろう。ウィルが言うように、どこか精神的に思いつめているといった感じでもなかったし。
イスキア戦はハードだったし、流石のネルもちょっとズル休みしてダラダラしたかったのだろうか。
「まぁ、元気なら何でもいいか」
そう結論付けて、俺は不安の一つが解消された良い気分で寮へと帰って行った。
ネルは『クロノの使用済みスプーン』を手に入れた!
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