第369話 嵐の夜に
雨粒が激しく窓を叩く音に、私は目を覚ました。ぼんやりと目を開けると真っ暗で、吹き荒ぶ風雨とガタガタ鳴る窓の音だけが部屋の中に反響している。
夜中の大雨。
それはまるで、私の心をありのままに映し出したかのように思えて、もしかしたら、今もまだ夢の中にいるのかもしれません。
暗い、昏い、絶望の闇。イスキアの豪雨は私の中で今も降り続けてやまない。
晴れたはずなのに。雨は上がって、煌めく七色の虹が、祝福してくれるはずだったのに。
「……クロノくん」
二人きりの時間は終わった。いいえ、本当は始まってもいなかったんです。
だってクロノくんには、最初からパートナーがいたのですから。私よりも、ずっと好きな女の子が、いたんです。
でも、その人は悪魔のような子で――
「くっ! ん、うぅ……」
思い出すだけで吐き気がします。見た目だけは純真可憐な、あの妖精の邪悪な微笑み。
分かる、私には分かります。あの子はクロノくんの全てを欲しているのだと。体を征服し、心を支配し、存在そのものを独占する。誰にも手出しはさせない、指一本触れさせない。近づかないで、話さないで、見つめないで――貴方は私のモノ。
そんな歪んだ意志を、テレパシーで通じなくても一瞬のうちに理解してしまったのは、きっと、私も同じ――
「ち、違うっ! 私は違う、違います、私は、く、クロノくんのことを一番に考えてるんです、だから、だから……」
だから、私がクロノくんの一番になるはずだったのに。ならなければいけなかったのに。
でも、現実は違って、クロノくんはあの子とあの魔女と抱き合って……私のことなんて、見向きもせずに……
「嘘、うそ、全部ウソです……違う、違う、こんなの違う、ダメ、絶対、そんなの認めたくないですっ!」
そうです、クロノくんには私が必要なんです。他の誰よりも、私が必要で、私が一番近くに、彼の傍にいないといけないのです。
「騙されてる、クロノくんは騙されてる、悪魔の子に、騙されてるだけなんです……」
そうだ、そうだ、クロノくんは騙されているだけで、何も悪くない。私は知っている、クロノくんがとても素直でとっても優しいということを。
脳裏に思い浮かぶのは、いつも一生懸命だったクロノくんの姿。そして、記憶の中で垣間見た、仲間の死に慟哭する悲痛な感情。
そう、彼は自分の力で前に突き進み、決して誰かのせいにせず、己の責任を負うことができる人です。
だから、つけ込まれる。狡猾な悪魔の罠だと気付かずに。
「わ、私がクロノくんを、助けないと……」
助けられるのは、私しかいない。私がやらないと、悪魔の証明を。早く、今すぐに、クロノくんの元へ――
「う……あ……」
けれど、そこで私の頭と体は硬直する。動かない、動けない。上半身を起こすだけで限界。ベッドから抜け出すことさえままならない。
クロノくんに会いにゆく。そう思った瞬間に、思い浮かぶのです。
「ああ、やっぱり二人が一番だ」
二人を抱き寄せて、優しく囁く彼の姿が。
「あ、うぅ……うぅうううう……」
嫌、イヤ! 見たくない、もうあんなところは見たくない。見ていられない。もし、もう一度クロノくんが、私の目の前で女の子に優しくしてるところを見てしまったら――
「いや、イヤ、嫌なの、嫌です、やだ、やだやだやだやだ、やだ、止めて、そんなの私に見せないでっ!」
おかしくなる。私の頭はおかしくなる、心が、壊れてしまう。
でも、本当に怖いのは……
「……あの子を、好きに、ならないで」
クロノくんに、面と向かって言われるのが怖い。
「俺は……が、好きなんだ」
もしも、そうはっきり断言されてしまったら、終わる。きっと、私は終わってしまう。
「あ、ああぁ……いや……クロノくん、捨てないで、私を捨てないで、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい――」
拒絶されるのが怖くて、クロノくんに会えない。会いに行く勇気が持てない。受け入れられる、自信が持てない。
だから私は動けない。この柔らかい牢獄から、何時までたっても抜け出せない。
「ごめんなさい……でも、会いたいです、クロノくん……」
会いたい。今すぐに会いたい。あの顔が見たい、声が聞きたい。そっと手を握って、柔らかく微笑んで、他愛のないお喋りをして。私の、傍にいて。
思いは募る。いいえ、この感情は『思い』だなんて軽いものではありません。これはきっと、そう――欲望。
「会いたい……クロノくんに会いたい……」
自然と口から洩れた願望の言葉をかき消すように、大きな雷鳴が響き渡った。
直前に差し込んだ稲光が、一瞬だけ暗い室内を照らし出す。その時、カーテンの閉められていない窓に映った自分の顔を見て、ゾっとした。
再び差し込む稲光。もう一度、私の前に現れたのは幽鬼の顔だった。
血走った眼球に浮かぶ、どんよりと濁った青い瞳。目の下はインクでガリガリ書き足したように濃い隈で縁どられている。絶望と疲労、寝不足と欲求不満、心と体に過剰負荷がかかっていると、その酷い有様の目元だけで十分以上に示されていた。
密かに自慢に思っていた艶やかな長い黒髪もすっかり色あせ、ボサボサと寝癖があらぬ方向へと飛んでいる。元から白かった肌も、より一層の血の気を失い青白く、重病人のような不気味な色あい。
その癖、ハァハァと荒く息を吐きながら言うのです、「クロノくんに会いたい」と。
「……気持ち悪い」
気持ち悪い、気味が悪い。何て醜い女がここにいるのだろう。
「ふ、うふふ……会えるわけ、ないですよね……」
そんな当たり前の結論に至っただけなのに、何故だか、涙が止まりません。
大粒の涙が、私の汚らわしい目から零れ落ちたのを感じたと同時に、二度目の雷鳴が鼓膜を震わせた。
お腹の底から響いてくるようなゴロゴロという音は、人の本能的な恐怖を刺激するように激しく鳴り響く。けれど、そんな轟音も、今や頭の中が真っ白になっている私の感情を僅かほども揺り動かすことはない。
それでも、直後に瞬いた三度目の稲光には、反射的に目を逸らした。醜い自分を見たくない。どれだけ自分がクロノくんに相応しくない女であるか、思い知りたくない。
そうして必死になって背けた視線の先に、私は見た。
床に映った窓の影。その中に、確かに人影があったことを。
「――誰っ!?」
瞬時に湧き上がる恐怖心と不安感と共に、私は窓を振り返った。何者かが張り付いているだろう、その窓へ。
「あ……えーっと、こんばんは、ネル?」
「え……クロノ、くん?」
ああ、きっと私は夢を、幻を見ているのでしょう。
私には、豪雨に打たれながら、どうやってかこの女子寮三階の窓辺に立っている男の姿が、ずっと、ずっと、ずぅーっと思い続けていた彼にしか見えないのです。
クロノくんが会いに来てくれた。そんな都合のいい現実、あるはずがないのに――
「……こちらクロノ、これより、幹部候補生専用女子寮への潜入を開始する」
夜闇の向こうにそびえ立つ三階建てにしては大きな建物を眺めながら、思わずそんなことをつぶやく。気分は特殊任務を帯びた秘密工作員か、変態性欲を秘めた下着ドロといったところか。
嫌な緊張感が俺の全身を包み込む。冷や汗だか脂汗だか知らんが、妙にじっとりと感じる。これはきっと夕方から降り始めた豪雨を浴びたせいに違いない。そういうことに、しておこう。
「これで本当にいいんだろうな……ウィル」
一抹どころではない不安感だが、それでもコレがお見舞いへ行く唯一の手段であると同時に、ウィルが絶対の自信をもって提案するネル復活の作戦なのである。
午後、とある目的による買い物と、スパーダ冒険者ギルド本部でのあんまり収穫のなかった情報収集をすませた後、学内のベンチで一人座ってこっそりとウィルから託された封筒を開いた。
そこに入っていた便箋には、要約すると大体こんなことが書かれていた。
「クロノがお見舞いにいったら絶対ネルは元気になるから、女子寮にこっそり忍び込んででも行くべし! 詳しい侵入方法は裏面を見てネ!」
というワケである。裏面には、本当に詳細な侵入方法をはじめ、監視の範囲、巡回ルート、時間、頻度、女子生徒の出入り、などの情報も事細かに記されていた。ウィル、これを一体どうやって調べた……いや、今は深く考えるまい。
「よし、気配はない。行くなら、今か」
俺の目の前に張り巡らされた鋼鉄の柵、高さは三メートルといったところか。これは女子寮の敷地を囲っている柵であり、この場はちょうど裏手にあたる。ここを乗り越え、ちょっとした庭園となっている裏庭を駆け抜ければ、綺麗な白塗りのスパーダ建築の女子寮へと到着。
最初の関門である鉄柵は、俺なら垂直にジャンプしても越えられる高さであるが、踏込みと着地で大きく音が出てしまう。とれる手段は自ずと一つに限られる。
「影触手」
そういえば、ヒツギなしで久しぶりにコレを使ったな。そんな感想を抱くころには、天辺にひっかけた触手を伝って、音もなく裏庭への着地を成功させている。
視線だけで左右を確認してから、素早く庭園を横断開始。綺麗に刈りそろえられた植木を横切り、天の恵みとばかりに雨を受ける花々を踏まないよう、花壇を飛び越える。
寮の白い外壁まで無事に到着。封筒にセットで入っていた女子寮の見取り図に照らし合わせれば、ここはちょうどネルの部屋の真下であるはず。
日が暮れてからそれなりに経過し、夕食も終えているだろうという時間帯である。窓にはカーテンが閉められているが、ネルの部屋だけは開いたまま。カーテンどころか、鍵も開けられているという。
このトリックは実に単純。本日、最後のお見舞いにウィル自身が出向いて、そういうよう仕掛けておいたらしいのだ。
より厳密にいえば、ウィルからのお見舞いの品を持ったセリアが、ネルの部屋へ上がりこんだ、ということらしいが。
流石にスパーダの第二王子といえども、男子禁制の女子寮へそう易々と足を踏み入れるわけにはいかないらしい。しかし、ウィルがネルと幼馴染という仲であるのもまた事実。見舞いの品を送るくらいは当然の行動である。
まぁ、これがまさか男を侵入させるためのトラップになっているとは、誰も思わないだろうが……いやホント、これバレたら俺マジでアヴァロンから指名手配くらうんじゃないだろうな。
「ここまで来たんだ、もう引き返せないだろ……すまん、リリィ、フィオナ」
王族と接近することのリスクを心配してくれた二人には悪いが、俺だって友人としてネルをこのまま放っておくわけにはいかない。俺が見舞いに行ったら元気になる、と断言されれば、多少のリスクがあっても実行するにやぶさかではない、というか、もうやってるし。
よし、行くぞ、影触手っ!
気合いを入れて、屋上まで伸ばした触手を伝い壁面を登り始める。どうか誰にも見つかりませんように、と一心に祈りながら精神的な意味での決死のウォールクライミング。
土砂降りの上にズガーンと派手に雷まで鳴っている最悪天候だが、三階程度の高さを登るに苦はない。着こんだ見習いローブが叩き付けられる雨粒をしこたま吸収してずっしり重くなっていても、大丈夫。いや本当に、不安なのは目撃者の存在だけであって……
そうして嫌なドキドキで鼓動を高鳴らせながら、俺はついにネルの部屋と思しき窓まで到達する。触手を掴んだ左腕一本だけで全身を支えながら、そっと覗きこんでみる。
なるほど、確かにこの窓にカーテンはかかっていない。仕込みは万端。
しかし、ネルは眠っているのか部屋に明りはついていない。うーん、お休みになっているところを叩き起こすのは忍びない。
それならば、ウィル直伝のプラン2を実行するしかないか。要するに、お見舞いの品と励ましのお手紙をそっと枕元にプレゼントフォーユーという作戦である。
よしこれで行こう――と決断したその時、雷鳴が瞬いた。かなり近い、結構な発光。
そして、目があった。
一瞬だけ照らし出された部屋の中に浮かび上がったのは、目の下に隈をつくった青白い顔の少女。
大胆に寝癖の飛び跳ねた起き抜けのお姫様が、あっと驚いたように目を丸くして、俺を見ていた。
こういう時、何て言ったらいいんだろう。どんな顔をすればいいんだろう。
「あ……えーっと、こんばんは、ネル?」
結局、中途半端な苦笑いで、何とも無難なことしか言えなかった。
「え……クロノ、くん?」
信じられない、とばかりに唖然とした表情のネル。そりゃあ夜中に男が窓から現れたら、ビビるよな、常識的に考えて。
いや、常識というならば、なんだかんだで今の俺の行動って恐ろしく非常識だよな。
うわ、意識すると本気で不安が増してきた。もしかして俺、ウィルに嵌められたんじゃないのか……
「あ、ああ、お見舞いに来たんだけど……なんか迷惑みたいだし、帰った方がい――」
「待って!」
ここまで来たくせに、土壇場でヘタれた俺が言い放った情けない退場の台詞を、ネルの叫びが遮る。
驚いたのは、声の大きさだけでなく、彼女の行動。
バサッ! ブワァ! シュタ! そんな三つの擬音が連続する咄嗟の反応であった。
一つ目のバサッ、というのは、ベッドに座るネルが背中の羽を一気に広げた音。
二つ目のブワァは、羽の展開によって、かかっていた毛布が部屋の隅へぶっ飛んでった音。
そして気が付けば、ネルがシュタっと俺の目の前に立っていた。凄まじい移動速度である。
「待って、お願い……夢でも、幻でもいいから、私の前から、いなくならないで……」
ガラスの窓越しに、彼女のすがるような視線が向けられた――ような気がした。
俺の目に映るのは、ちょっと間抜けな表情の自分の面。背後で、再び雷の閃光が瞬いたからだ。かなり近くで起こった天然のフラッシュは、窓ガラスを鏡のように反射させた。
だから俺の顔が映る。きっと、ネルも自分の顔を見ているはず。
そうして、また一瞬の後に透明へと戻るガラスは、この数十センチ先にいるお姫様の顔を再び映し出してくれた。
一拍遅れてゴロゴロ聞こえてくると同時に、ネルの顔がさっきと全然違っていることに気が付いた。
随分と悲壮な顔をしていたか、と思っていたのだが、今のネルはやけに恥ずかしそうに頬を赤らめている。何がそんなにショックだったのか、金魚みたいに口をパクパクさせながら――まるで、とんでもない自分の失態に気が付いたかのようなリアクション。
「だ、ダメぇ! やっぱりダメです! 今はダメなんですーだめー見ないでーこんな酷い顔の私を見ないくださいーひぃー!」
サっと右手で顔を覆ったかと思えば、次の瞬間にはザザーっとカーテンが左手で引かれてシャットアウト。こうして俺は、ネルに拒絶されたのである。
任務失敗。こちらクロノ、任務失敗でありますウィル大佐。
そうして俺は、諦めたように言った。
「ごめん、やっぱり俺、帰るよ」
「待ってクロノくん! お願い、ちょっとだけ待っててください! 五分――いえ、一分、いいえ、三十秒でいいので、ほんのちょっとだけ待っててくださいお願いします心から!」
そのお願いする言葉の順序が微妙におかしな倒置法になってることから、ネルの慌てようは推して図るべしだが、うん、まぁ、とりあえず、待っててくれということは、俺のお見舞いを受け入れるのはOKということであろう。
「お、おう。別にそんな急がなくていいから、落ち着いて用意でもなんでもしてくれ」
「わ、あ、あぁ――顔を洗って――どうしよう――トイレ――櫛どこに置いたっけ――どうしようあと十秒――」
閉ざされた窓の向こうから断続的に聞こえる彼女のテンパリボイスからいって、俺の言葉なんてまるで届いてないことがうかがい知れる。一体、何がそんなに彼女を焦らせているのだろうか。
でもまぁ、ネルは年頃の女の子なワケだし、他人を部屋にあげるにあたって色々準備もあるのだろう。それに、起き抜けで寝癖ボサボサなのや、無防備な寝間着姿などは、特に異性には見せたくないはず。女の子は野郎なんかと比べ物にならないほど、身だしなみに気を遣うものだ。男が気を遣わなすぎ、と言えないこともないが。
ともかく、俺はネルが「どうぞ」とお招きしてくれるまで、大人しく待つこととする。地上三階で触手に掴まったままという、超絶不審者な状態で。
ネル、早く上げてくれないかな……今誰かに見つかったら、俺、確実に社会的に死ぬから……