第341話 クロノVSグリードゴア(1)
「いかんっ! あれは麻痺をくらってるぞっ!」
グリードゴアが放った砂鉄の大剣を正面から受けきったはずのクロノが、そのままばったり仰向けに倒れ伏したのを見てウィルハルトは城壁の上から叫んだ。
クロノが展開した漆黒の盾はかなりの強度であったのだろうが、それでも、完全に防ぎきるには足りなかった。
あの一撃はまるで、シャルロットの必殺技『雷紅刃』のようだったとウィルハルトは直感する。故に、その威力の程も即座に理解できた。
一気に絶体絶命のピンチに陥ったクロノを前に、ウィルハルトは焦りに焦る。
「あっ、いやぁ! クロノくんっ!!」
だが、すぐ隣に自分よりももっと焦る、いや、半狂乱となるほど取り乱す人物がいれば、かえって冷静になれた。
「ネ、ネル姫……?」
ウィルハルトの隣には、幼馴染というべき、よく見知った人物であるネル・ユリウス・エルロードがいる。
迅速にシモンの回復を終えた治癒魔法の腕前も、先ほどのとんでもないブレスを防いだ『聖天城壁』も、流石は自分と違って魔法の才能溢れるネル姫だと思ったものだ。
しかし、この取り乱しようは一体なんだ。
ウィルハルトは、彼女と知り合った十数年来で初めて見せる表情と感情を前に、目の前の危機も思わず忘れて呆然と――しようとしたが、そんな暇もなかった。
「クロノくんっ!」
「ぬぁああーっ!? それはいかん、ネル姫っ!」
そのまま背中の両翼を羽ばたかせて、城壁からダイブしようとするネルの腕を、ウィルハルトは慌てて掴む。
「離してっ!」
「お、落ち着くのだ! 治癒術士が前に出るなど危険に過ぎる! それに、クロノは麻痺しているだけで大怪我をしたワケじゃ――へぶっ!?」
台詞の途中で、ウィルハルトの頬にベチンと平手打ちが炸裂する。
その万人を癒すはずの白く柔らかな手のひらは、強かに頬を打って真っ赤な痕を残す。ついでに、勢いで片眼鏡もぶっ飛んだ。
普通に痛いが、それでも、もし自分が掴んでいたのが杖を握っていない方の腕だったなら、アヴァロンの国宝長杖で殴打されていただろう。
神鉄の杖を顔面に叩き込まれれば、ひとたまりもない。ビンタですんで、本当に幸いだった。
「ああっ、見よっ! ネロが帰ってきたぞ!」
その時、ちょうどクロノが倒れるすぐ後ろから、一陣の風のようにユニコーンで駆けてくる姿が、ウィルハルトの金色の瞳に映った。
流石は白馬の王子様を地で行くネロ・ユリウス・エルロード。これ以上ないほどのタイミングで、戻ってきてくれた。
「ネロが来れば大丈夫だ! いや、一人では無理かもしれんが、きっとクロノもすぐ麻痺から回復する、あの二人ならグリードゴアだって倒せる!」
食堂の一件はネロのクロノに対する心証を最悪なものにしていたことを、ウィルハルトはよく覚えている。
実際、ネロはクロノをポーションなどで回復させることもなく、ただ一言だけ投げかけているだけのようだった。恐らくは「俺の邪魔をするな」的なことを言ったのだろうとウィルハルトはおおよその見当をつける。
それでも、クロノが回復していざ二人で前衛となれば、いくらなんでもこの強大な敵を前に、協力する――までいかずとも、互いに邪魔をせずに立ち回るくらいのことはできるだろうと推測できる。
クロノの力を信用してはいるが、それ以上に、長い付き合いの中でネロの実力をウィルハルトはよく知っている。本当に、この二人が手を組めばどんな相手でも敵ではない、そう思えるほどだった。
そうして、ネロはやはりクロノを置き去りにしてグリードゴアと交戦し始める。
そのランク5に相応しい実力を見せ付ける見事な立ち回り、怒涛の攻め。
あの面倒くさがりが『聖剣』まで解禁しているのだから、その本気ぶりが窺い知れる。
もしかしたら、このまま一人で倒しきってしまうのではないか。その予想は、ここに立ち並ぶ生徒たちも同じくついているのだろう。
剣闘士のスター選手同士の一騎打ちイベントでも観戦しているかのような、大きな歓声が沸きあがる。ついに勝利が見えてきた。
しかし、それでもネルは暗く沈んだ声でつぶやいた。
「ダメ、なんです……」
「な、なにがダメだというのだ、このままいけば勝――」
「クロノくんは……私が助けないと、ダメなんですぅ!!」
あっ、と思った時にはもう遅かった。
振り払われた腕を、再び捕えようとウィルハルトは手を伸ばす。
だが、すでにネルの体は城壁の外へ躍り出てしまっている。
純白の翼と身にまとう神官服が風を孕んでふわりと舞う。なびく黒の長髪が白に栄える。
まるで、古代の絵画に描かれる天使降臨のワンシーン。そんな印象を、見るものに抱かせる美しい後ろ姿で、ネルはクロノの元へと向かっていった。
「ネル姫よ、一体クロノと何があったというのだ……」
ウィルハルトの灰色の頭脳でも、その答えは即座に導き出なかった。
「あ……くっ、う……」
ネルが城壁を飛び降りたのを見て思わず叫んだ、つもりが、まるで声にならなかった。
ちくしょう、舌まで痺れて上手く発音もできない。震える唇を開いても、言葉は意味をなすほど続かず、ただ虚しく吐息が漏れるのみ。
まずい、ネルを止めないと。焦燥感だけが駆り立てられる。
ランク5冒険者であるネルに、治癒術士が敵の目の前を突っ切ってまで回復に走るなんていうリスクの高すぎる行動をとらせてしまったのは、俺のせいだ。
そう直感的に思えたのは、決して自惚れなどではない。
サイードの魔眼に、最後の最後で油断してやられてしまうという無様を晒したからこそ、ネルは俺の実力を信用しきれていないのだ。母親が幼い子供から目を離せないのと、同じような理屈。
俺はネルにとって実の子供に匹敵する深い縁もなければ関係性もない。ただの友達、それもごく最近、仲良くなったというだけの。
けど、そんな間柄でも自らの命さえ顧みずに行動するのが、彼女だ。
優しい、いや、優しすぎるというべきその善良な心根は、短い付き合いの中でも十分すぎるほど理解できている。
「く……そぉ……」
だからこそ、自分の不甲斐なさに腹が立つ。あんなに勢い込んでグリードゴアに挑んで、このザマだ。
ネロが現れなければ、今頃俺は噛み砕かれてヤツの胃袋の中か、踏み潰されて赤いシミと化していただろう。
けど今は、情けないと後悔することも、命が助かったと喜ぶこともできない。
ネロは噂どおりの実力を証明するように、剣と魔法の見事なあわせ技でグリードゴアを追い込んでいたが、ネルの行動によって状況は一変。
飛び出す妹を止める兄。グリードゴアは、その隙を見逃さなかった。
モンスターのくせに、どこまでも狡猾だ。この状況では絶対に回避できない、とわかっていてブレス攻撃を選択しているようにさえ見える。
「――『氷山巨盾』っ!」
ネロが巨大な氷の盾を呼び出すと同時に、グリードゴアの口腔が火を、否、雷を噴いた。
城壁を半壊させた必殺のプラズマブレスではなく、今度こそ雷属性に相応しいサンダーブレス。
この雨天から降り注ぐはずの雷を、全てその一点に集中させたかのような眩い紫電の奔流が、アヴァロンの王族兄妹を飲み込んでいく。
バリバリとけたたましい雷鳴を響かせながら、紫色の大発光がイスキアの丘を駆け抜ける。反射的に瞼を閉じるが、それでも尚、明るさを感じた。
だが、それも過ぎ去ってみれば一瞬のこと。ブレスの放射時間は僅か数秒ほどだろう。
ネルは無事なのか、思いながら再び目を開けば、すぐに先と変わらずに立っている人影を確認できた。
どうやらネロはサンダーブレスを防ぎきったようだが、上級防御魔法のはずの氷の守りは今、この瞬間に木っ端微塵に砕け散る。
直撃こそ避けられたが、ある程度の電撃は通ってしまったのかもしれない。
ここからではネロのダメージ具合は不明だが、それでも、彼がこの場で戦闘続行ではなく、ネルを抱えたまま逃走を選択したことだけはすぐに判明した。
ブレスの撃ち終わりから、ほとんど隙なく繰り出されたグリードゴアの噛み付き攻撃を、ネロは妹を肩に担いだままに大きく横にステップして回避する。
剣のように巨大な牙がずらりと並ぶ大口がイスキアの大地を喰らうと同時に、着地したネロはグリードゴアの巨体とすれ違うように駆け始める。
向かう先はネルが飛び出してきたイスキア古城。確かに、彼女をこの場に置いたままでは戦うに戦えない。
いいや、恐らくネロはもうさっきのように戦えないだろう。
走るのが遅いのだ。武技の効果が切れただとか、まして、ネルが重いからなんて理由はありえない。
そしてなにより、氷の魔法剣を握っていた左手がダラリと力なく下がっているのだ。アレは、完全に麻痺してしまっている。
ネルがあんな状態じゃ即座に治癒魔法で回復、というわけにもいかないだろうし、ポーションを飲む暇さえない。
グリードゴアは素早く反転し、そのまま真っ直ぐ二人を追いかけ始めている。まるでネズミをいたぶる猫のように、どこか余裕ぶって楽しんでさえいるかもしれない。
ネロの様子を見る限り、あれ以上の速さで走るのは無理なのだろう。足にも麻痺が回っているはずだが、それでも常人が全力疾走するのと同じだけの速さを維持しているのは流石といったところか。
だがしかし、そんな速度ではすぐにグリードゴアに追いつかれるのは目に見えている。城はすぐ目の前だが、その僅か百メートルそこそこの距離さえももちそうにない。
危機を察したウィルが号令し、再び城壁から援護の矢が放たれるが、足止めにもならない。砂鉄の装甲がもう首だけしか残ってなくとも、本来の岩の甲殻だけで矢を防ぐには十分すぎる。
なんとかするには、俺が行くしかない。
だが問題なのはこの全身麻痺――なんかではなく、黒化だ。
まだかヒツギ、まだ、この砂鉄大剣の黒化は終わらないのかっ!
「できましたご主人様ぁーっ!」
褒めてーとばかりに嬉しさと達成感をアピールする声が脳内に木霊する。
よし、よくやった、これで俺もようやく自由に動ける。
俺は全身麻痺をくらっているが、魔法の行使に問題はない。手足の代わりどころか、それ以上の数と自在さを備えるヒツギの触手があれば、影からポーションでもなんでも取り出すのに不自由はない。
それでも、麻痺って倒れた瞬間に回復しなかったのは、この大剣がガタガタと動き続けて俺を狙おうとしたからだ。
ネロが現れてからは、今度はヤツの背中を狙うように飛んでいこうとするのを感じたので、やっぱり途中で解除というわけにもいかなかった。
ぶち抜かれた『黒鉄大盾(メタル・シ-ルド)』をそのまま触手に変換して、即座に剣を覆って黒化を開始したのだが、この大質量と気合の入った固有魔法の制御によって、支配するのに今この時まで時間がかかってしまった。
まぁ、黒化の行使は俺自身の魔法なのだが、触手を介して行う場合はヒツギの能力の影響もある。俺が直接手を触れるよりも、黒化の伝導率が多少落ちる、といった感じだ。
しかし、これでようやく黒化完了。コントロールを奪った砂鉄をヒツギが吸収しつつ、俺が開いた『影空間』へ触手を一本だけ突っ込んで中身を漁る。
確か、麻痺を回復するポーションは持ち合わせていなかったから、えーと、ちょっと勿体ない気もするが『妖精の霊薬』を使うことにしよう。
「ん~コレですかぁ~?」
そう、その白い包みに入ったヤツがそれだから、早くしてくれ、時間がない。
「いきますよご主人様! そぉーれぇ!」
妙に気の抜ける掛け声と共に、俺の顔面に光の粉末がぶちまけられ――げふっ! ぶふぅ!!
「バカヤローっ! 顔にぶっかけるやつがあるかっ!?」
「ひぇ~ごめんなさいご主人様ぁ~!」
ガバっと起き上がりつつダメなメイドを叱り飛ばす――という動作ができたってことは、もう麻痺から完全回復ってことだ。流石はリリィのクスリだぜ。
素晴らしい効果に感動している場合じゃない。とにかく、グリードゴアを止めないと。
策を考えるより前に、俺はもう全力疾走で駆け出している。
武技も強化魔法もないが、俺の脚力を舐めるなよ。改造強化された身体能力は伊達じゃない。もうドシドシと大地を踏み鳴らすグリードゴアへと接近。頭上を太く長い尻尾が揺らめいている。
さて、ここからどうするかだ。止めるといっても、なにか秘策があるワケじゃない。
俺にできるのは、力ずくで止める、という単純明快な行動だけ。
あの山のような巨躯を相手になんて馬鹿な、としか思えないが、今のヒツギがいれば、それも不可能じゃないはずだ。
「お任せください、ご主人様っ!」
行使するのは当然、鋼鉄の鎖となった『影触手』――いいや、これはもう、ただの触手じゃない。
この進化した性能を思えば、『魔弾』と『魔剣』に並ぶ、俺の新たな技として確立するに相応しいだろう。
「捕えろっ! 『魔手』っ!!」
黒い鎖の束が、両手から一挙に解き放たれる。
その一本一本がヒツギによって精密に制御され、獲物へ襲い掛かる蛇のように激しくうねりながら、グリードゴアの長大な尻尾へと絡み付いていく。
レンガ造りの塔のような尻尾は、その表面にあるゴツい甲殻によっていくらでも凹凸があり、ただ巻きつかせるだけでも十分に固定できる。
その上さらに、ヒツギが丁寧に鎖の触手を結びつければ、引き千切られない限りは決して解けない戒めと化す。
首断と悪食の二本は手放してしまったまま回収していない。空いている両手で綱引きのように鎖を硬く握る。
ここから先は、純粋な力勝負。
「腕力強化」
効果時間は僅か数十秒。だが、このネル直伝の強化は、その短さを補ってあまりある筋力の上昇効果をもたらしてくれる。
第一の加護、黒い炎をエネルギー源にした『腕力強化』で、鎖を握る両腕にさらなる腕力が宿る――だが、足りない。
「うおおおっ!?」
尻尾に絡ませた鎖、それを引っ張る俺。しかし当然というべきか、引きずられるのは俺の方だった。
水上スキーのように、直立したままズルズルと一方的に引っ張られていく。踏ん張った踵は草地を抉り、雑草の絨毯とぬかるんだ泥を撒き散らす。
グリードゴアの歩みは止まらない、それどころか、俺の存在に気づいてさえいないようだ。
「腕力強化っ!」
力が足りないなら、燃やせ。もっと、魔力を燃やして力に変えろ。
思い出せ、ネルに教わる前の虚しい修行をしていた時を。あの時、俺は自爆寸前なほどに熱量を体内に溜め込んでいた。
今はあの、暴発するような激しい力が必要だ。制御なんていらない、ただ、発動さえすればいい。
最低限の術式が残っていれば、強化魔法として発動は可能。
テレパシーを介してネルが見せてくれた、あんな複雑で精密な術式回路はいらない。そもそも我流の俺じゃあどこまでいっても見よう見真似のモドキにしかならない。
その術式のイメージは、体内に流れる水路。そこに流れる高熱の魔力が溢れないよう、計算された配置と分岐と合流。
けれど、今はこれを、この制御術式を壊す。
どんな反動が俺の身に起こるか、知ったことか。今はただ、力が、欲しいっ!
「腕力っ! 強化ぉおおおおおおおおお!!」
ブチリ、と何かが切れるような音が聞こえた気がした。同時に、両腕に走る灼熱の痛み。
それでも、篭める力は緩まない。意地でも緩めない。ようやく、手ごたえを感じたころなんだ、ここで離すわけにいかくかよっ!
ギシギシと悲鳴をあげるように鎖が軋む。
引きずられる勢いが、ほんの少しだけ弱くなったような気がする。もう少しだ、もう、あと少しで、力が拮抗するところまでもっていける。
「ご主人様、これ以上は危険ですぅ! 腕が千切れちゃいますよぉ!!」
うるさい、黙っていろ。そんなことは、俺にだって分かっている。
両腕に装着した黒い手甲の隙間から、ブスブスと赤い煙のようなものが吹き出し始めた。血が蒸発したかのような不気味なモヤは、間違いなく負荷による悪影響の発露だろう。
けど、こんなもんがどうしたってんだよ。まだだ、まだ、力が足りない。
今コイツを止められなきゃ、ネルは死ぬ。
ウィルは助けたし、シモンだって、命だけは助けられた。ネルだって、俺が助けてみせる。
もう誰も死なせるか、俺はみんなを守ると誓った。絶対に諦めない、今度こそ、守ると、俺は神に、いいや、魔王に誓ったんだ。
伝説と謳われる魔王の加護ならば、その力はこんなもんじゃないはずだろ。なら、もっとだ、もっと、俺に――
「魔王の力を寄越せぇええええええええええええええええええっ!」
「加護といっても、その力は黒乃真央、君のモノだと、僕は前に言ったよね。ほら、もう君の腕には、魔王の力があるじゃないか。でも、そうだね、名前くらいは、僕が教えてあげてもいいかな――」
不意に届いた、聞き覚えのある声。言葉の意味を理解するより前に、俺はただ、教えられた名前を口にした。
第一の加護――その真の名を。
「炎の魔王っ!」