第272話 腕力強化(フォルス・ブースト)っ!
白金の月20日。
「あぁ、ここにクロノさんが住んでいるんですね!」
野外演習に参加できなかった因縁の授業の追試を終えたネル・ユリウス・エルロードは、とんでもなくボロっちい木造二階建ての前で、長い旅路を乗り越えた英雄のように歓喜の声を上げた。
彼女の方向音痴スキルが遺憾なく発揮され、本校舎から徒歩五分もかからない寮に至るまで相当の時間を有してしまったのだが、それ以上に、この旧寮を特定するのに一週間近い時間がかかってしまったのが大きい。
効率的な情報収集などは兄の得意とするところであるが、ネルも同じ様にはいかない。
そんなワケで、クロノが住む寮を地道な聞き込み調査の末に探し当て、こうして訪問するに至ったのである。
基本的に兄かシャルロットのどちらかと行動を共にする事の多いネルではあるが、野外演習のお陰で彼らがしばらく帰ってくることがないこの状況も幸いであった。
誰に憚る事無くクロノへ会いに来たネルは意を決して、叩けば倒れてしまいそうな寮の玄関扉を優しくノックしながら、
「クーローノーさぁーーん!」
「誰だ?」
「ひゃあっ!?」
呼び声に応えたのは、閉ざされた扉の向こう側からではなく、いきなり背後からであった。
予想外の反応に思わずネルは軽く飛び上がるほど驚く。バサリと背中から生える両翼も振るえ、その白い羽が僅かに舞った。
「あ、ネルさん?」
「クロノさん!」
だが、振り返り見れば、そこにはお目当ての人物がいたことで、ネルの表情には笑顔の花が咲く。
「あの、何か用ですか?」
クロノは一週間ほど前に会った時と同じ黒コート姿、その時は夏の日差しを受けても涼しそうな顔をしていたが、今は額に汗が浮かび、まるで熱い湯船から上がったばかりのように上気した様子である。
つまり、強面のコート男がハァハァ言いながら麗しのお姫様の前に現れたのだ。この場を生徒が見たら必ずこう言うだろう、「ネル姫様、逃げてーっ!」と。
「あ、はい、用はあるんですけど……その、大丈夫ですか?」
しかしながら、性質の悪い熱病にかかったような様子のクロノに、ネルは心から心配の言葉を送る。
「ああ、これですか、大丈夫ですよ。ちょっと『腕力強化』の練習をしてただけですから」
そう苦笑しながら応えるクロノを見れば、どうやらあまり上手くいっていないようだとすぐに察することができた。
「まぁ、そうだったのですか! 『腕力強化』でしたら私、得意なんですよ。もしかしたら習得するお役に立てるかもしれません!」
元々クロノに対するお礼、恩返しをしにやってきたのである。この状況は正に渡りに船といえるほど。
「え、本当ですか? それじゃあ是非――あぁいや、その、やっぱりネルさんにそんな手間をかけさせるわけには……」
二つ返事で了承しようとした言葉を、遠慮の感情が遮ったのだろう。
だが、その程度で引き下がるほど半端な覚悟ではなかった。
「いえ、私はクロノさんのお役に立つために参ったのです! ですから、どうか私にお手伝いさせください!!」
二の句を告げさせない勢いで申し込むネルを前に、
「は、はぁ、そうですか……それじゃあ、お願いします」
どうやら、クロノも思わずOKする以外には手が無かったようだ。
なんだか妙な事になったな、と真剣な表情で向かいに立つネルさんを見ながらしみじみ思う。
「では、詠唱無しの原初魔法タイプで『腕力強化』を発動できれば良いのですね」
アヴァロンのお姫様に何かと手間をかけさせるのは気が引けて、断ろうとは思ったのだが、あんな勢いで迫られては流石に断りきれない。
だが、正直なところ自分一人では行き詰っていた感じもあったし、ネルさんの申し出はありがたいことこの上ない。
「すみません、どうも現代魔法はさっぱり使いこなせないので」
「いえ、黒魔法使いはそういう人が多いと聞きますし、こういうのは体質ですからね。仕方ありませんよ」
なんと、俺の他に黒魔法使いに心当たりがあるとは。
気にはなるが、今は『腕力強化』の話である。
「クロノさんは、体内に熱を発生させる段階までは出来ているようなので、発動まではもうあと一歩ですよ。一度成功の感覚さえ掴めれば、完全に習得できるはずです」
おお、惜しいところまではいってたのか! 良かった、ここ数日の俺の努力は無駄では無かった。
「それで、その感覚を掴む為には、具体的に何をすれば?」
「それはですね――」
と、ネルさんはちょっと得意気な顔をすると同時に、いきなり俺の手を掴んだ。
「私のテレパシー能力を使って、発動をサポートするのですっ!」
「そ、そうですか」
どうよこの名案、と言わんばかりに自信満々なネルさんには悪いが、正直、俺としては彼女のような美人にギュっと手を握られている方が気になって仕方無い。
呪いのグローブ越しでも感じる柔らかく暖かな少女の手の感触は、リリィで多少慣れていて然るべきなのだが、また別の人物がそれを与えていると思えば、どうにも意識してしまいそうになる。
つい昨日、性欲云々で問題を起こしたばかりなので、尚更だ。
「あ、すみません、私のテレパシーはあまり強力なものじゃないので、直接相手に触れないと上手く感じ取れないんです。その手袋も脱いでもらっていいですか?」
「ああ、はい」
手が一旦離れたくれたお陰で、冷静さが戻ってくる。
握られたのは不意打ち同然だったからな、こっちもちゃんと覚悟をしていれば変に動揺することもあるまい。
そんな言い訳じみたことを考えながら、両手と一体化したと感じるほどにフィットする呪いのグローブ『黒髪呪縛「棺」』ことヒツギちゃんを外す。
ところでコイツ、いつも外す時には「いやぁあああご主人様捨てないでぇえええ」という絶叫を俺の頭の中に響かせながら、手から脱がされまいとキツく締め付けてくるのだ。
まだまだ調教の成果は出ない、か。
まぁ焦らず、ゆっくり良い娘に躾けていこう。
「いやぁあああご主人様捨てな――」
「ふぅ」
ベリっと音が聞こえそうな勢いで剥ぎ取ったグローブを、聞き分けの無いメイドをしかる意思を篭めて、少々乱暴に影空間に叩き込んでやった。
「あの、クロノさん、もしかしてその手袋――」
俺が一人で奮闘している姿を見て、このグローブの由来に気づいたのだろうか、ネルさんがやや躊躇いがちに口を開く。
「サイズがあってないんですか?」
「いえ、ジャストフィットですよ」
別に呪いのブツであることに気づいたワケでは無かった様だ。
「それじゃあ、お願いしてもいいですか?」
「あ、はい! お任せ下さいっ!!」
再びヤル気を漲らせるネルさんが、俺の差し出した右手を優しく両手で包み込む。
う、覚悟してても恥かしいものは恥かしいな。
「それでは始めましょう。まずはそのまま『腕力強化』が発動するよう念じてください。途中からは、私が誘導しますので」
「分かりました」
スっと両目を閉じて集中を始めたネルさん。俺もいつまでも小学生染みた恥かしさを気にしてはいられない。
今度こそ気合を入れて、『腕力強化』をモノにするべく体内の黒色魔力を操作し始める。
「クロノさん、私の声が聞こえますか?」
優しい声音が脳内に響く、ああ、これは正しくリリィのテレパシー通信と同じ感覚だ。
「あら、テレパシーで意思をやり取りするのは初めてでは無かったんですね」
うお、もしかして今は完全に俺の思考が筒抜けになってる!?
「うふふ、全てというワケではありませんが、ほとんどの意思は声となって私には聞こえていますよ」
ここまで意識を読まれるのは初めてだが、なるほど、これが本当のテレパシー能力ってヤツか。
なんだか不思議な感じだが、とりあえず今は集中だ。
「はい、頑張ってください!」
モノロ-グに一々反応されるのは本当に気になるな……
だが、これなら何か上手くいきそうな気がする。
黒色魔力を炎に、それから熱に変換するところまでは正しいはずなんだ、まずは黒い炎を呼び出すところから始める。
「わっ、凄い……本当に黒色魔力を炎に変えて……」
思考が筒抜けなのはネルさんの方もそうなのか、時折そんな感想めいた声が途切れ途切れに聞こえてくる。
だが、今の俺はとにかく筋力を強化するエネルギー源になる黒き熱量を生み出すのに集中している、ほとんど話半分で聞き流す。
頭の中を占めるイメージは、激しく燃え盛る炎。
それは、十字軍兵士を悉く灰燼に帰したフィオナが行使するような、強く、大きく、熱い火炎。
あるいは、ラースプンが纏った、ひたすらに熱く、激しく、圧倒的な暴力と破壊の具現。
違いは、炎の色が黄金でも真紅でもなく、ただ漆黒に染まっているという一点だけ。
「……っ!? これ……炎……多過ぎ……危……」
魔法の基本はイメージ、ならばもっと鮮明に、もっと強く、思い描く。
そう、すでにして第一の加護は俺のもの。炎を生み出すに不自由は無い。ならば出来る、集中しろ、俺にも『黄金太陽』の如き莫大な熱量を――
「……クロノさんっ!」
その時、急に集中は途切れ、意識は強制的に別の方向へ変えさせられる。
頭を掴まれてムリヤリに振り向かされたような感覚に、一瞬だけ呆然となった。
「قبضة الذراع تعزيز ممارسة قوية――」
流れたのは意識だけではない。
ともすればこの肉体を突き破っていきそうな爆発力を秘めた熱が、急速に四方へ流出していく。
俺が生み出した炎熱を一本の川だとするならば、その水は何者かの手によって作られた水路に流れ込み、街中に行き渡るように細く複雑に分岐しながら広がっていくのだ。
ああ、そうか、コレが詠唱のもたらす効果なのか。
単語一つ、発音一つとっても、全てに魔力を操る意味が組み込まれており、それが幾重にも積み重なって、術者が望む効果を実現するのだ。
そして、それは今、俺が望む魔法を現実にしてくれる。
「クロノさん、唱えてっ!」
その叫び声の意味を理解するのに、あと一秒遅ければ、この‘水路’に流れ込んだ‘水’は溢れていただろう。
だが、俺は間に合った。
成功を確信して、叫ぶ。
「『腕力強化』っ!!」