第271話 ヒツギ
「なんだお前、まだ童貞だったのかよ。仕方無ぇな、俺がイイ店連れてってやるよ」
「ま、マジすか先輩!?」
「いいってことよ、冒険者なんていつおっ死ぬか分からねぇからな、悔いは残さないようにしとけ」
「あざーっす!」
そんな冒険者コースの先輩後輩のやり取りを、俺は寮への帰り際に偶然、耳に挟んだ。
「童貞……悔いは残さないように、か……」
一人、自室のベッドに寝転びながら言葉を反芻する。
正直に告白すると、俺は十七歳の男子高校生として正常な性欲は持ち続けている。
地獄の改造実験を受けたからといって不能になったわけではない。ただ、完全に洗脳が完了するとどうなっていたかは分からないが。
施設を脱走し、リリィと出会ったあの時から今に至るまで一度も、その、なんだ、自慰行為をしなかったのは、単純に我慢が利くようになったからに過ぎない。
元から凄い理性的というわけじゃ無かったさ、普通の高校生だった頃は毎日するくらいには正常だった……いや、毎日するのは正常だよな?
ともかく、そんな俺が今日この日まで禁欲生活を送ってこられたのは、恐らく体内の魔力をコントロールできることと密接に関わりがある。
実際、魔術士クラスが禁欲する例はそう珍しいものじゃない。それは意思が強いのではなく、より我慢が利きやすいからだ。
魔力を操れると、本能的な生理的欲求の制御が利きやすくなるのである。
生命力、と呼ぶべき生命の維持に必要不可欠なエネルギーも、実際は全て魔力で構成されているらしいので、魔力操作が出来ればある程度の意思を生理的欲求に反映できるということなのだろう。
というか、フィオナは魔力制御が下手だから食欲が……いや、あれはもう趣味や生きがいの域に達しているので、暴食を止めることは無いだろう。
しかし、今問題になっているのは食欲ではなく性欲である。
決して持て余しているというワケではない、このまま禁欲したままでいようと思えば問題なく継続できる。
だが、その気が全く無いワケではないのだ。
そもそも俺はリリィとずっと一緒だったお陰で、いかがわしい感情とは無縁の癒し生活を送ってこられた。
アルザス戦からはフィオナがパーティに加入したことだし、常に女性の目を意識せざるをえない生活環境だった。
しかし今、リリィもフィオナも、おまけにシモンもいない。
行こうと思えば先輩の言う‘イイ店’を利用することも可能なのだ。
欲望渦巻く夜の歓楽街、大都市スパーダともなれば、その規模も相当なもの。同じ種族だろうが異種族だろうが、どんな‘お望み’にも応える店が勢ぞろいなのである。
「いや、ないな……」
初めては好きな人と、なんて思うのはロマンチックに過ぎるだろうか。それとも、ただ童貞をこじらせているだけだろうか。
ともかく、金で女を買う行為に些か以上の抵抗感はあるし、それを乗り越えるほどムラムラきているわけでもない。
そしてなにより、リリィとフィオナの顔が思い浮かんでその気が起きない。
恋人でもないのに思いあがりも甚だしいかもしれないが、それでも、ただの友情以上の信頼関係を築いている自負はある。
過ごしてきた経験が経験だけに、俺が二人に寄せる思いは家族へのソレに近い。
リリィは妹、フィオナは……姉じゃないな、やっぱり妹が妥当か。俺の姉貴は黒乃真奈を置いて他にはいないのだ。
あの二人にはたまにドキリとさせられることもあるが、それはまぁ、実の姉でも同じ感じだったので、許容範囲だろう。
だがしかし、家族はいても自慰くらいはするだろう。現に俺はやっていたし、やらない男子学生はいないと断言できる。
今なら、今だけは禁欲生活を止めても別に問題ないんじゃないのかということだ。
そう思ってしまうと、不思議と右手がうずいてくる。
やろうと思えば今すぐにでもこのグローブを外し、いや、いっそのこと着けたままのほうがいいのか? セルフ触手プレイ?
「待て、落ち着け俺、冷静になれ……」
うっかり思考がヤバい方向へ全力疾走してしまった。
いくらなんでも、そんなことをしてしまえば人として終わってしまうに違い無い。
いいや、そもそも今この場で俺が普通に致してしまったとしても、もし明日リリィが帰ってきたとして、
「変な臭いがするーやぁー」
とか言われたら、俺は自己嫌悪で心が潰れてしまうだろう。それはもうペシャンコに、再起不能になるに違い無い。
「やっぱ、止めておくか! さっ、そんなことより『腕力強化』の練習だっ!!」
結局、俺は何もかも忘れるように、魔法の修行に勤しむことにしたのである。
「……ご主人様」
まどろむ意識の中で、そんな声が聞こえてくる。
「ご主人様ぁ」
「だ、誰だ……」
ぼんやりした頭で寝ぼけ眼を開くと、そこにいるのは、
「誰?」
メイドさんだった。
とにかく長い黒髪。顔の右半分までが前髪で覆われており、円らだが切れ長の目が左だけ見えている。
頭には白いヘッドドレス、身に纏うのはシンプルで装飾の少ないヴィクトリアンメイド調のロングスカートのメイド服。
そんな、ちょっと不気味なヘアスタイルだけど顔は歳相応に可愛らしさのある、小学生くらいの小さなメイドが、自室のベッドに転がる俺の腹の上に乗っかっていた。
「お分かりになりませんか?」
いや、分からないよ。
俺にはメイドを雇った覚えなど全く無いぞ。
まして一人きりの寂しさに負けてデリバリーな嬢を頼んだ覚えもない。
というか、こんな小さい子を働かせていたら確実に違法だろう。異世界でも違法に違い無い。
「ふふ、私のことは、ヒツギとお呼びください、ご主人様」
ヒツギ? そりゃまた随分と変わったお名前ですねお嬢さん。
違うだろ、ヒツギだかカンオケだか知らないが、この謎のメイド少女が一体何なのか追及しなければいけない。
だが、俺がそれを言い出す前に、ヒツギが動く。
「それではご主人様、ヒツギがご奉仕いたしますので――」
よいしょっ、と腹の上からやや下がって太ももの位置まで後退するヒツギ。
そうして、真っ白い小さな手のひらを俺の股座へ伸ばし、
「――いっぱい、気持ちよくなってくださいね?」
子供にあるまじき妖艶な微笑みを浮かべた。
「やっ――」
「や?」
「やめろぉおおおおおおおおおおおお」
「ぉおおっ!?」
バッチリと意識が覚醒する。
自室のベッドで寝ていることに変わりは無いが、さっきのは夢、そして、これが現実。
だがしかし、
「な、なんじゃこりゃぁーっ!」
寝起きで思わず絶叫してしまう。
そりゃあそうだろう、だって起きたら、体中に黒い触手が絡み付いているのだから。
俺が愛用する『影触手』と全く同じ触手の出所は、どうやら身につけている呪いのグローブ『黒髪呪縛「棺」』からであるらしい。
しかも、何故か右手は俺の股間の上に乗っていて、なんか勝手にモゾモゾしている。
瞬間、背筋に悪寒が走ると同時に理解した。
ああ、そうか、さっきの夢、ヒツギを名乗るメイド少女は、
「お前かぁああああああああっ!!」
ラースプンもかくやという赤き憤怒の咆哮をあげ、全力で黒化を行使する。
黒色魔力でグローブを内側から吹き飛ばしかねないほどの魔力量を容赦なく注ぎ込む。
「ひぇ~ご主人様ぁ~溢れちゃうぅ~」
とか何とか頭の中に響いてくるが、構うことは無い。
あっという間に触手の制御は俺へと戻ってくる。勿論、自分をこのまま拘束状態にしておく必要など無い。
さっさと解除。大量にのたうつ触手は瞬時に黒い靄へと姿を変えて雲散霧消する。
自由の身となった俺は体を起こして、改めて左右の手に装着された漆黒のグローブと向き合う。
「どうやら、お前には厳しく躾ける必要があるようだな」
「そんなぁ~ご主人様ぁ~」
脳内に木霊するのは声だけでなく、あのメイド少女ヒツギちゃんが涙目になっている映像も浮かんできた。
どこまでも芸の細かいヤツだ。
「二度と勝手な事をしないように、きっちり調教してやる、覚悟しろ」
「ひぃ~」
そうして、いけない黒髪メイドの調教計画を立案すると同時に、やっぱり禁欲生活はこれからも堅く守っていこうと、俺は誓うのだった。
おや、ヒツギのようすが・・・
クロノ「BBBBBBBBBBB」
ヒツギのへんかがとまった