第1028話 メラの試練(3)
「……痛いです」
「どぉーすんだよコレぇ! もう不死鳥出ちゃったじゃんこのバカァーッ!!」
恥も外聞もなく、ただただ本心で絶叫する妹を前に、フィオナは泣き喚く幼子を見るように困った目を向けた。
「出てきてしまったものは仕方がないじゃないですか」
「テメーが勝手に出したんだるぉ!!??」
折角限界ギリギリのところで抑え込んでいたというのに、いきなり独断で顕現させやがって、とテレパシーなどなくてもフィオナの心に訴えかける迫力だ。
「まさかここまで強力とは」
「当たり前ぇだろ、伝説の不死鳥様だぞ舐めてんじゃねぇぞコラァ!!」
今にして思えば、アダマントリアの時に自ら呼び出した炎龍は、怒らせること無く自分の魔力量に見合った条件での顕現に成功していた。
しかし今回はクーリエの陰謀によって、一切の加減なく、ただ不死鳥を確実に覚醒させることを目的とした、非常に荒っぽい起こし方をしている。怒りに駆られると、ここまで強大な存在になるのかと、目の前の本物を見た今更になってフィオナは実感した。
そう、フィオナは龍の怒りにすら鈍感だったのだ。
不死鳥は燃え盛る炎の体を持つが、赤、黄、橙、といった炎色に入り混じって、黒々とした黒炎も見える。炎の体色の随所に走る黒い火線が、まるで呪われているかのような禍々しさを醸し出していた。
流石のフィオナも、尋常ではない様子を目にすれば、その怒りの程を理解する。
「これは困りましたね」
さて、これではもう炎龍の時と全く同じ流れでは成功しない。
このまま不死鳥にとり憑いても、あまりの怒りに自分の精神も焼き尽くされてしまう。あるいは、そのまま飲み込まれるか。どちらにせよ、帰還の見込みは無い。
それ以前に、この様子では干渉すらままならない。取り付く島もない、といった状況だ。
想定外の事態にどうするか、悠長に対応を検討する時間など勿論ありはしない。
すでに不死鳥は、自らの眠りを妨げた愚かな者達の存在を前にしている。その怒りをぶつけるに、躊躇などあるはずもなかった。
「もう少しだけでも、弱らせなくては――――『紅蓮城郭』」
祭壇を見下ろすように首をもたげた不死鳥は、その鋭利な嘴を開き、轟々と火炎放射を浴びせかけた。
無論、それはただの炎ではない。莫大な火属性魔力が圧縮された、硬い岩盤さえ瞬く間に溶かし貫く凄まじい熱量を発する火炎だ。
単なる火属性攻撃魔法とは一線を画す威力。たとえ溶岩に沈んでも焼け落ちることは無い耐熱の加護に守られたこの祭壇すら、溶断するほどの威力を誇る火炎放射を、フィオナは寸でのところで防ぐ。
アダマントリアで得た経験は、何も龍へのちょっかいのかけ方だけではない。
やはり耐熱防御としても、この結界は優秀だとフィオナはローゲンタリアの炎魔術師を賞賛した。
紅色に輝く結界が、不死鳥の炎を防ぎきる。
「なんか攻撃できません?」
「むっ、無ぅ理ぃ……」
フィアラとて、ただただ絶望を前に泣き叫んでいるだけではない。
ついに不死鳥の怒りが直接降りかかって来る局面に至り、這いつくばるように儀式祭壇へと両手をつき、全力で魔力を流す。
それによってフィオナの『紅蓮城郭』と重ねるように結界を張り、どうにか不死鳥の攻撃を食い止めているといった状況。
無論、大神官達も一心に祈りを捧げ、老い先短い命を削るように力を込めて不死鳥を抑えようとするが、
「ぐっ、ぬぅうう……」
「がぁああああああ……」
目の前に顕現した不死鳥へ干渉した結果、いよいよ自分の体に火がついた。文字通りに、纏った法衣がメラメラと燃え始める。
特に耐熱耐火に優れる太陽神殿の法衣が、炙られた薄衣のように焼ける。
それでも、倒れる者は一人もいない。このまま黒焦げの焼死体と化しても、祈りの姿勢を崩しはしないと覚悟を決めて。
「流石に不死鳥相手となれば、ただの騎士では役に立ちませんね」
荒ぶる龍に対し、剣などあまりにもちっぽけな武器だ。
この場に集った騎士団は精鋭揃いだが……生半可な攻撃を仕掛けたところで、不死鳥は揺るぎもしない。
そもそも不死身がウリの不死鳥だ。傷付ける速度が再生速度を上回ることは、滅多なことでは有り得ない。ここにいる騎士全員を死ぬ覚悟で突っ込ませても、効果は得られないだろう。
「自分で何とかするしかありませんか。フィアラ、10秒もたせてください」
「はっ、ちょっ! 無理無理、マジでもう無理なんだってぇえええええええええ!!」
「يمكنني إنشاء حرق(愛を燃やして創り出す)」
必要なのは、大きな一撃。
不死鳥を怯ませるだけの強烈な一発だ。
それができなければ、とり憑いて干渉することすらままならない。
だがしかし、『紅蓮城郭』を維持しながら、自身の最大の必殺魔法たる『暗黒太陽』を放つのは無理がある。
下手をすれば不発もありうる。さりとて、守りの全てをフィアラに任せきるには荷が重すぎる。出力をギリギリまで下げても、『紅蓮城郭』を完全に解除はしなかった。
「くっ、うぅうぁああああああ……」
いよいよフィアラの御子装束にも火が点いた。
ここが今の彼女の限界点。せめてあともう一年、いや、半年でも成長できる時間があれば、と悔いが湧きそうな気持ちを押し退けて、フィオナは自分の限界に挑戦することに集中する。
ここにいる全員を守り切る。そして不死鳥を引っ込ませる。どちらもやらねばならないのが、魔女の辛いところ。
「フィアラ、もういいですよ」
「……ぁああっ!?」
しかし、固めた覚悟は直後に翻る。
なぜなら、自分はもう一人ではないから。魔導の深淵を目指し、遥かなる旅路を歩む孤独の魔女ではない。
私は母とは違う――――だって、私にはもう、
「フィオナ!!」
見上げれば、そこにいるのは最愛の男。
黒い髪を靡かせて、黒い鎧を纏い、黒い剣を振り上げて。
黒の魔王が、来た。
「俺がやるっ!」
「お願いします」
サリエルがシロを全力で酷使して、クロノをここまで連れてきてくれた。遥か山頂の上空から、クロノは単身、エーテルブースターを噴かせて凄まじい勢いで降って来る。
やはり、仲間の力とは偉大なものだ。一人では決して成し得ないことも、こうも容易く成し遂げる。
フィオナは『暗黒太陽』を破棄し、自分の役目にのみ集中。
惜しむらくは、愛した男のカッコいいところを、じっくりと見物できないことか。
「応えろ、カンナ。お前となら、龍だってぶった切れる――――『光の魔王』」
クロノが手にするのは、神域へと至った呪いの刃、『黒乃神凪「無命」』。
漆黒の墓石のような大剣は、かつてのように一目でソレと分かるような禍々しい気配を発しない。恨みの全てはすでに晴れたかのように、静かな夜の湖面を思わせる黒に染まるのみ。
されど、呪いは欠片も減じてなどいない。
器が広がったのだ。進化の果てに、使徒さえ一刀の下に斬り捨てるほどの刃となり、強大な呪いもオーラとなって溢れ出ることもないほどに、巨大な器となった。
そしてカンナは、主の呼びかけに応じて力を解き放つ。
その器を満たすほどの、呪いの力を込めて。
刹那、かつての如く漆黒の刀身に血のように真っ赤な輝きが走る。
そのあまりにも大きな呪いの発露に、怒りに燃える不死鳥の視線すら惹きつけた。
ギロリ、とルビーの瞳が夜天を睨む。
それを真っ向から見下ろして、クロノは渾身の一撃を叩き込む。
「――――『黒凪』」
クロノの両腕が焼け焦げる。
『光の魔王』によって限界を超えた威力が集約され、最も使い慣れた武技『黒凪』として解き放たれた。
そして『黒乃神凪「無命」』は、業物でさえ粉微塵となって消失するより他は無い絶大な破壊力を十全に乗せて――――不死鳥の首を断った。
ギャァアォオオオオオオオオオオオオオオオオオウウ――――
耳をつんざく不死鳥の叫びは、不死身の神鳥をして苦痛を覚えさせた何よりの証。
半ば以上まで断たれた首筋からは、鮮血の代わりに轟々と溶岩混じりの火炎が噴き上がる。一息で首が飛びかねない強烈な一撃を受け、不死鳥は今この瞬間、大きく体を傾げて確かに怯んだ。
「後は頼んだぞ、フィオナ……」
着地を考えぬ渾身の一撃を放ったクロノは、真っ逆さまに火口へ転落してゆく最中に、『暴君の鎧』のブースターが噴くと同時に、ジャラジャラと勢いよく黒い鎖が伸び行き、火口の淵に食らいつき、巻き上がる。
ただ火口から脱するための勢いのまま、クロノは無事に地面の上を転がって戻って来た。
半ばまで炭化した腕でありながらも、焼き付いたようにその手から離れない相棒を握りしめて。
ルゥウウォオオオオオオオオオオオオ……
寝転がった逆さまの視界に、逆再生のようにゆっくりと切り裂かれた首筋が元に戻って行く不死鳥の姿が映った。
あの一撃を喰らわせても、こんなすぐ再生するのかよ、とクロノは戦々恐々としながらも、不死鳥の討伐がクエストのクリア条件ではないことに安心していた。
クロノも見るのはこれで二度目だ。フィオナはすでに、不死鳥へと『入った』。
「……どう、なったのですか」
ゆっくりと首を元通りに再生され行くだけで、不死鳥の怒りはすっかり冷めたように動きを止めていた。
不遜にも己の首を裂いた男へ、その目を向けることも無く。怒りのままに迸っていた、絶大な魔力の気配もすっかり落ち着いている。
そのお陰で、ようやく次の瞬間には火達磨になりそうな圧力を受け続けていたフィアラ達も、多少の冷静さと余裕を取り戻すことが出来た。
恐る恐る立ち上がって、沈黙する不死鳥を見上げる。本当にこんな無茶な作戦が成功したのか、と自問自答してしまう。
誰からも明確な答えも得られぬ、不気味な静けさを破ったのは――――山を揺るがす轟音であった。
「ああ、やはり……」
ダメだったか、と諦観を込めてフィアラは膝を屈した。
地響きと共に、ついに火口から溢れ出すほどの溶岩がせり上がって来る。同時に、ついに不死鳥がこの火口より飛び立とうとする動きを感じた。
絶対的な死の予感を前に、記憶の走馬灯すら流れず、ただ呆然とフィアラは目の前が真っ赤に染まるのを眺め、
ドドドドドッ――――
メラ霊山は噴火した。
不死鳥の羽ばたきと共に。
フィアラの目の前で、そそり立つ灼熱の壁と化してマグマが重力に逆らい吹き上がって行く。
天を衝く勢いで爆発的に立ち上る噴煙と、流星群が如き燃え盛る溶岩の塊が、ルーンに滅びをもたらすべく島中へと散って行く。
あの赤々とした溶岩塊が一つ、隕石のように人里に落ちたならば、それだけでどれほどの人々が死ぬか。あるいは、ソレに直撃するなら痛みも熱さも感じる間もなく即死できるだけ幸運かもしれない。
降り注ぎ、溢れ出す溶岩はルーンの全てを焼き尽くすだろう。ただ、その前に怒涛の如く押し寄せる火砕流が全てを飲み込み、死に至らしめる方が早そうだが。
ルーンは今日、滅びる。
誰もが、この絶望的な大噴火を見上げてそう理解しただろう。
夜空へ煌めく炎の大翼を広げる、不死鳥の怒りによって――――
「太陽の女神へ、御子フィオナが願い奉る」
滅びの火がルーンを覆いつくすよりも先に、声が響いた。
フィオナの声だと分かるのは、彼女を知る者だけ。しかしながら、その存在を知らぬルーン国民でも、その言葉の意味は理解できた。
これは祈りだ。
今にも全てが終わりそうなこの瞬間にも、この地の平穏を誓願する、聖なる祈りだと。
「ここは御身の愛した国なれば」
奇跡は、明確な形を成して現れた。
今にもメラ霊山の山頂から飛び立とうとしていた不死鳥の姿が、変化する。まるで天の使いが空から鳥の姿でやって来ては、地に降り立った瞬間に人の姿へと転じる神話の一節かのように。
夜空を焦がす炎の翼はそのままに、美しい女の姿に不死鳥は姿を変えていた。
燃え盛る炎の体を持つ、不死鳥の翼を生やしたその姿に、ルーンの誰もが太陽神を重ねた。
「信じる者を守り給え」
一心に神の加護を希い、天に向かって掲げられた両手は――――果たして神の奇跡を引き起こす。
時が戻る。
そうとしか言いようのない現象だった。
夜空を蝕むが如く立ち上った噴煙も、島中へと降り注ぎ今にも着弾する寸前だった噴出物も、噴火によって爆ぜたありとあらゆるモノが、女神の掌へと舞い戻って行く。
「あのフィオナがこの制御力……これが不死鳥の力か」
無論、時間遡行が起こったワケではないと、クロノは寝転がったまま逆再生のような空を見上げながら呟いた。
フィオナは噴火そのものを操っている。すでに噴き出したモノも全て含めて。
感覚的には、すでに発射した攻撃魔法の軌道を途中で変えるようなものだろうか。リリィのように超人的な演算力とセンスがあれば、息を吸うように容易く発射後の魔法を自由自在に操れるが、そんなものは例外でしかない。少なくとも、制御力に難ありのフィオナが、この系統の技術を伸ばすことは無かった。
しかし不死鳥と一体化したフィオナは、不死鳥が持つ権能とでも言うべき、火山を支配する力が宿る。
すなわち、自ら引き起こした噴火の全てを制御下に置いているのだ。
不死鳥はその気になれば、明確に敵と認めた相手に向かって噴き上げた溶岩を降らせることもできるし、そこにだけ火砕流を浴びせることもできる。
自然現象さえ己の意のままに操る……それほどの力を持つ存在こそが『龍』なのだ。
古代文明を滅ぼした、この星の頂点に立つ生物の力は伊達ではない。
「この地に変わらぬ安寧を」
不死鳥の制御力を発揮して、すでに起こった噴火を無かったことにするべく全てを自分の元へと戻す。
今や噴火の跡は無く、噴煙もマグマも全てフィオナの手元へと回収された。メラ霊山の山頂には、燃える巨人のような立ち姿だけが残る。
フィオナは胸元で手を組んだ祈りの姿勢をとり、広がった巨大な炎翼を折り畳む。
そうして、ゆっくりと火口へと沈み始めた。
「嘘……本当に、治まった……」
まるで夢でも見ているような心地で、フィアラは全てを眺めているだけだった。
これは本当に現実なのか。自分はすでに噴火した瞬間に、跡形も残らず焼失してしまったのではないか。
けれど体を苛む火傷の痛みは本物で、魔力欠乏でぶっ倒れる寸前の倦怠感が全身に満ちている。死んで神の国へと招かれたならば、もっと心地よい状態になっていて然るべき。
ならばこれは現実で、奇跡が起こってルーンは救われたのだ。
今や火口の底を突きそうなほどにまで水位の下がった溶岩湖を祭壇から見下ろしながら、フィアラの思考はようやく回り始める。
そして思い出す、自分に課せられた使命を。
「フィオナ、貴女は――――」
無事なのか。問う声は続かない。
気が付けば、フィオナの体は禍々しい魔人のモノから元の姿へと戻っており、自分のすぐ傍に仰向けで倒れていた。
「しっかりして!」
呼吸、脈拍、共に正常。
静かに眠っているだけのようにしか見えないが――――意識が、自分を自分たらしめる精神が戻っていないと、フィアラは察した。
「まだ戻ってきてない……」
当然だ、あれほど完璧に不死鳥と一体化して、無事に戻れるはずがない。あんなのは神に愛された御子が命を擲って、一度だけ成し遂げられるような奇跡だ。
すでに奇跡は成されたならば、対価は支払わねばならぬ。御子とは、そのための存在なのだから。
「違う、犠牲になるべき御子は私……貴女なんかじゃない……」
これで自分が成した奇跡であれば、喜んで太陽神の下へと参ろう。
けれどルーンを救ったのは、全てこの勝手にやって来て、勝手にメチャクチャな方法を敢行した魔女だ。
「だから、お願い……戻ってきて、フィオナ……」
フィアラは手を握りしめ、祈る。
残り少ない魔力も全て費やして――――姉のために。
「帰って来てよ、お姉ちゃん」
「はい、お姉ちゃんですよ」
パチっと黄金の瞳が開かれるや、むっくりとフィオナは起き上った。
実は起きてただろ、と言われても仕方がないほどあっけなく。
「……」
「どうしたのですか、感動の再会というところでしょう。泣いて抱きしめてくれていいですよ」
「ふっ、ふざけんなっ、このバカァーッ!!!」