第1023話 海魔軍迎撃(2)
ソージロ・テオ・レッドウイング。
元よりレッドウイング伯爵家の生まれということを差し引いても、ルーン史上稀にみる若さで第二執政官まで成り上がった男だ。
幼少期より神童と持て囃され、学生となれば並ぶもののいない天才と讃えられた彼が、最初に頭角を現したのは、十年前。まだ学生の身分であった時のことである。
メラ霊山噴火未遂、というルーンを危機に陥れた最悪のテロ事件。その中心は山頂のメラ本殿襲撃からの、噴火を促す儀式魔法であったが……同時多発的にルーンの要人への襲撃も行われていた。
ルーン裏社会のトップたる『払暁学派』を筆頭に、他の犯罪組織などもこの機に乗じて暴れたのである。後の調査によって、これもルーンの戦力分散を目的として、意図的に他の組織も動くよう情報を流していた、と分かったのだが、ともかくルーン存亡の危機の裏で、襲われた者も多くいたということ。
その時、狙われたのがファナコ姫であった。
一国の王女を狙うとあって、用意周到にして手練れを数多く揃えた上での作戦は、見事に成功した……かに思えた。
たまたまその場に、夏休みを利用して王城へ従姉の元へ顔を出しに来たソージロさえいなければ。
近衛さえ殺して姫君に迫るほどの暗殺者達は、たった一人の少年に返り討ちとなった。
だが事はここで終わりではない。半殺しで生け捕りにした暗殺者から、テレパシーで情報を読み取り、黒幕の元まで即座にお礼参りにソージロは向かった。
そうして、幾つかの犯罪組織のボスが血祭りにあげられ、さらにはこの件に関わった『払暁学派』の幹部までも捕らえてきたソージロは、最早学生の身分を超えた功績を評価され、飛び級卒業からの王城務めと相成ったのだ。
つまり、ソージロが成り上がった最大の要因は、明晰な頭脳ではなく、どこまでも単純な強さであった。
「今日は大戦となりそうですね」
唸りを上げてサンクレインの港に上陸する海魔軍。その最前線にソージロは立っていた。
鍛え抜かれた長身に纏うのは、漆黒のコート。戦場へ出る時、ソージロの身分は第二執政官ではなく、ただ一振りの刃と化す。ルーンを守護する影の軍団、『忍』として。
ボォオオオァアアアアアアアアアアアアアアアア……
黒々とした巨躯で海面を割るように突っ込んでくるのは、大量のモンスターを搭載した鯨型だ。
すでに背中から巻貝砲弾を乱射し、町中への侵攻を許している。だが巻貝を撃ち尽くしても、突撃の勢いは衰えることなく、このまま港まで突っ込んでくるのは、その巨大な腹の中にまだまだ兵を搭載しているからだ。
抱えた全ての兵力を送り出すべく、海に戻る気はないとばかりに突っ込んでくる鯨型に大して、ソージロは埠頭でただ一人静かに待ち構えていた。
潮風に白灰色の髪を揺らしながら、眼鏡の奥に輝く怜悧な瞳で海を眺める姿は酷く落ち着いて見えるが、その身の内では達人級の武技を繰り出しても尚、余りあるほどの膨大かつ濃密な魔力が渦巻く。
そして、鯨がソージロごと埠頭を粉砕せんと突っ込んできた、その瞬間。
「――――『金剛返し』」
練り上げられた闘気が迸る――――と同時に、鯨の巨躯が宙を舞った。
イルカのような大ジャンプを自ら披露したワケではない。それはまるで、巨人の掌で張り飛ばされたかのように、正面衝突の勢いすら上回り吹き飛ばしたのだ。
だが、ソージロは鯨に触れてはいない。殴り飛ばしたワケでも、蹴とばしたワケでもない。さりとて、攻撃魔法を放ってもいない。
傍から見ていれば、鯨が勝手に吹っ飛んだようにしか思えないだろう。
だが勘の鋭い、あるいは目の良いものが見れば気づける。盛大な飛沫を上げる海面の上に、キラキラと陽光を照り返す細長い何かが張り巡らされていることに。
『超念導鋼糸』、とソージロが名づけた武具。あるいは忍具と呼ぶべきか。
要は魔力の通りを極限まで高めた鋼のワイヤーである。
こういった魔力の糸を扱うのは、いわゆる人形遣いと呼ばれるような、パペット型の使い魔を操る魔術師くらいで、かなりマイナー寄りだ。
魔力の通りが良い金属素材は、魔法の杖は勿論、魔法武器にも用いられる。武器とするなら、刃とする方が効率的であり、魔法を操るなら術式を刻んだ杖の方が効果的。
わざわざ細い糸として仕立てるのは、加工の精度と難易度ばかり上がるくせに、これといって有用な使い方がないとされているが――――ソージロにとっては、これが一番自分に合った武器だと思っている。しっくりくる、と言うべきか。
練気によって高密度の魔力を糸に通せば、ソレは自在に操れる手足以上の自由度を誇る武器となる。
網状に組んで鯨の突撃を受け止め、海へと突っ返すことさえ出来るほど、相手に合わせて最適な形状をとり、それを成し遂げる強度を持つ。
そうして、綺麗に吹っ飛ばされた鯨が落ち行く先には、ちょうど後続の鯨が突っ込んでくるところであり、
「――――爆」
鯨同士の衝突の寸前、裾から取り出した一本の赤い苦無を投擲。
指を立てて印を結んで一言唱えれば、
ドッゴォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ――――
鯨二頭分の凄まじい大爆発が炸裂。
小さな苦無一本分、火属性を込めて爆発を起こす投擲武器は、油を満載した鯨に火を点けるには十分な火力だった。
連鎖的に爆発した鯨の破壊力は。海を割り大地を揺るがすほど。灼熱の熱風が駆け抜け、埠頭に立つソージロに叩きつけられるが、コートの裾が激しく棚引くだけで、彼の体は微動だにしなかった。
「……流石に熱いですね。次はもう少し距離をとって爆破させなければ」
ふぅ、と体内に籠った熱を吐き出しながら、反省したソージロは次の獲物に向かって、風のようにその場を去った。
◇◇◇
「姫様、お逃げください!」
「敵の召喚術士がこの城を狙っております!」
俄かに騒がしくなるレッドウイング城内にて、ファナコは震えていた。
護衛の近衛達が報告するまでもなく、城のすぐ傍に黒い油を纏った巨大なクラーケンが出現したのを目の当たりにして。
クラーケンは巨大なイカのような見た目をした、強大な海のモンスターの代表格である。その巨躯だけで船を沈めるのは容易く、特に長く発達した二本の触手の先には、硬質な外殻が鋭い爪となって形成されている。艶やかな軟体は強靭かつ、再生力も高い。
さらに長く生きて大きく強く成長しきった個体は、ブレスまで吐くほどで、危険度ランク5に分類される。
この広い海において、クラーケンを捕食できる相手は頂点たる巨大海竜種くらいのもの。
古より数多の船乗りたちに恐れられた海の怪物は、地上にあっても絶望的なまでの存在感を発揮していた。
「どうか、お気を確かに、姫様」
「もうすぐそこまで迫ってきている、担いででもお連れせよ!」
「失礼します、姫様!」
蝶よ花よと育てられた姫君として、ファナコがクラーケンを間近に茫然自失となってしまうのも致し方ない、と誰もが理解している。それでも守るために最善を尽くすのが近衛の役目。
せめてもの配慮で女性の近衛騎士二人が、長身のファナコを担ぐべくその手をとった瞬間、
「っ!?」
「ひ、姫様……?」
ビクともしない。ファナコの手はまるで石像であったかのように、全く動かなかった。
たとえ本物の石像であったとしても、彼女のような細腕ならば、容易く折るほどの力は精鋭たる近衛にはある。
そんな彼女達が幾ら力を入れても、ファナコの手は微動だにしなかった。
「わっ……私、が……やります……」
何を、と誰も問いかけることは出来なかった。
近衛の手を振り払って、ファナコは震える手でゆっくりと、己の目元を覆い隠す分厚い眼鏡へ伸ばし――――魔眼の封を外した。
「ヒッ……」
と声をあげたのは、傍仕えの侍女か。あるいは近衛騎士か。
解き放たれたファナコの瞳は、鮮やかにして妖しく輝く紫。瞳孔は細長い縦に割れた竜のような……否、それは鬼の目であった。
「私がここを、守ります」
そう言い放ち振り向いた瞬間、誰もが一斉にひれ伏した。
その威風、威圧、あるいは本能的な恐怖によって。鬼の目に睨まれれば、人は心底から縮みあがる、自明の理。
一歩を踏み出すファナコの目には、鬼火のように揺らめく強い光が宿る。
守るべきか弱い姫君だったはずが、どうしようもなく恐ろしい怪物に思えてならない。 最早、誰もその目を直視できない。
「――――お待ちください、ファナコ姫様」
しかし、ただ一人ファナコの前に立ち塞がった者がいる。
「……プリムちゃん」
「姫様を守れ、とご主人様の言いつけですので」
クロノが気を利かせて城に残しておいたプリムが、ファナコの歩みを止める。
その愛らしい円らな目は、逸らすことなく真っ直ぐにファナコの鬼眼を見つめて。
「ああ、本当に良い子だね、プリムちゃんは……私が思い描いた以上に」
この目を見つめ返してくれた人は、彼女で二人目だ。
ファナコの宿す鬼の目は、誰もが恐れおののく。単なる『威圧』の効果を遥かに上回る、『威風』、『畏怖』、『恐怖』、の複合効果を発揮する。その強烈な精神効果は、たとえ両親であったとしても、抗いがたい恐れを抱かせてしまう。
僅かでも瞳が映らないほど、分厚い眼鏡で覆い隠すのも、さもありなん。こんな恐ろしい効果を無差別にばら撒くワケにはいかない。これは事情を知っていても、誰もが恐怖を免れ得ない。
けれど、プリムにとっては何ら恐れるべき眼差しではない。
鬼の瞳と、それをより恐ろしく仕立て上げる、恐ろしいほどの切れ長の鋭い目。完璧な恐怖の具現はしかし、プリムの最も見慣れた、愛すべき目つきとよく似ていた。
主たるクロノ、その魔王に相応しい恐ろしい目つきと、ファナコのソレはまるで血の繋がった兄妹のように酷似しているのだった。
「お下がりください、ファナコ姫様。外は危険です」
「うん、そうだよね……でも、大丈夫だよ」
当たり前の警告を発するプリムを、ファナコは微笑みを浮かべて頭を撫でる。
サラサラの綺麗な銀髪を撫でつける様は、さながら鬼が子供を喰らおうとしているかのようだが、ファナコはこの眼の恐怖に屈しないプリムの存在が、ただ嬉しかった。
「確かに私はね、鍛えたことなんて一度もないヘナチョコだけど……加護の力は本物だから」
「加護、ですか」
「そう、とっても恐ろしくて強い、鬼神の加護」
それを今この時、解き放つ。生まれて初めて、自らの意志で。
御子フィアラがフィオナをソレイユの呪い子と呼んだように、ファナコは王家の鬼子というべき存在だ。
鬼の目は、ただ隠せばそれで済む。お姫様の容姿としては大きなマイナスとなってしまうが、それでも目隠しだけで平穏な生活を営むのに支障は一切ない。
けれど真に恐るべきは、この生まれながらに強烈に授かってしまった 鬼神の加護。凶暴にして凶悪な鬼の血は、ファナコを物静かな文学少女のままにはさせてくれない。
暴走するのだ。
幾度目かの新月の夜を迎えた時、抗いがたい破壊欲求、暴力衝動によって、ファナコは鬼の力を解き放ち暴走してしまう。
どれほど抑えようとしても無理だった。丸一年は耐えられない。せいぜいが半年。その月の新月には、どうしようもなく鬼と化す。
それを止めるべく、ハナウ王は近衛騎士の中でも生え抜きの精鋭達と、秘密裡に戦わせた。
だがそれもファナコが成人を迎える頃には、いよいよ死人を出さずに抑え込むのも限界……そんな時に、相手の名乗りを上げたのは、忍として類まれな実力と功績を示したソージロだった。
だからファナコは、ソージロに最も信頼を置き、心を許している。ただ仲の良い従弟だからではない。
彼は私を恐れない。私が殺せない。私を抑えられる。強い人――――そう信じられるからこそであった。
「この力は私にとっての呪い……でもね、それでこの場所が守れるなら……今、初めて鬼神に感謝できそうだよ」
「では、せめてお傍に」
「ありがとう、プリムちゃん」
そうして、鬼の力を滾らせるファナコは、その場で『ケルベロス』を装着したプリムだけを連れだって、城門へと向かう。
城の正門には守備兵とクロノが残した暗黒騎士達が守りを固め、巨大な触手をくねらせにじり寄って来るクラーケンが、射程範囲に入る時を固唾を飲んで見守っていた。
事情を知らぬ兵達は、突如としてファナコ姫が正門へ現れたことに驚き、急いで制止の声をかけようと動き始めたが、
「……行きます」
ドンッ!! と城の石畳を踏み砕き、一足飛びに閉ざされた正門の上をファナコが飛び越えて行く。無論、そんな大跳躍を誰も止めることなど出来ず、
「私の、ルーンの至宝に手を出そうと言うなら、覚悟、してください」
言葉は通じぬが、それでもファナコは啖呵を切る。
迫り来るクラーケンの巨躯を前に、堂々と仁王立ち。そして忌まわしき鬼の力、その全てを解放して。
「全部ぶっ壊す――――『鬼々怪々ユラ』」
かくして、ルーン最狂の鬼が目覚める。