第1018話 海魔(1)
清水の月3日。
最初に異変を見つけたのは、早朝から海へ繰り出すサンクレインの漁師であった。
「なんだぁ、こりゃあ……海が黒いぞ……」
「おいおいおい、どっかの馬鹿が油樽でも落としたんじゃあねぇのかぁ!?」
不意に海面が黒々とした色合いへ変わったことに、彼らはすぐに気が付いた。そのドロドロとした質感から、粘度の高い油のようだと一目で分かる。
ベテラン漁師なら、数多の交易船が行き交うルーン周辺の海域で、思わぬモノが落ちたり浮いたりしている事故現場を目にしたことは幾度もあるもの。今回は、よりによって海を汚す油の詰まった樽やタンクでもぶちまけたのか、とまず思ったモノだが、
ゴボ、ゴボ……ゴボリ……
黒い油まみれの海面に、俄かに大きな気泡が弾ける。
それを目にした瞬間、漁師は即座に舵を切った。
「下に何かデケぇのがいるぞっ!」
「コイツぁヤベェぞ、急いで戻れ!!」
素早い危機察知によって、周辺の漁師はすぐさま港へと一目散に引き返してゆく。危険な海のモンスターに襲われ、いざという時のための、風魔法で速度を上昇させる魔法具なんかも惜しげもなく発動させ、慌ただしく、それでいて速やかに現場を離れる。
その直後、自分達の判断は正しかったと思い知らされた。
ボォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ――――
真っ黒い油の飛沫を上げて海面から飛び出してきたのは、巨大な鯨……のようなシルエットを持つ、大型モンスターであった。
「な、なんだよアイツは……」
「大角白鯨じゃあ無さそうだが」
「ったりめぇだ、あんなドロドロした黒いのが、白鯨なワケねぇだろ」
「なんにせよ、気味悪ぃバケモンだ。見ろ、体中から変な角が生えまくってるぞ」
海面に浮上を果たせば、潮吹きの代わりに背から真っ黒い油を噴出させる様子は、やはり鯨が最も近い姿だ。
だがしかし、ルーンの海域周辺で見られる最も有名な鯨のモンスターといえば、大角白鯨と呼ばれる、ユニコーンのような一本角を生やした大きな白い鯨である。船を見かけても、こちらから手を出さない限りは襲ってくることは無い温厚な気性と、その美しい見た目から、見かけたらラッキーだと言われる、禁猟指定のモンスターだが……その大角白鯨と、黒油の大鯨は似ても似つかない。
更に海を汚すように油をまき散らし、普通の鯨よりもやけに横幅が広がる膨れ上がったような巨躯からは、不揃いで奇妙に捻じれた角のようなモノを何本も生やしている。まるで巨人が幾本もの銛を突き刺しまくったように、不規則に生えた並びはどこか不自然さを感じさせた。
そんな不気味な大型モンスターが、首都サンクレインの港と、目と鼻の先にある海域に次々と出現したのだった。
「――――見たことのない、鯨型のモンスターか。厄介事の臭いしかせんな」
そんなことを呟きながら、未知のモンスター出現の報を受け、ルーン海軍のとある艦長は、戦艦を速やかに出航させた。
ここ最近は大遠征軍への警戒のために、ほとんど休みも無く神経を尖らせて出ずっぱりが続いたが、帝国軍大勝利によってそれもようやく終わったと安堵した矢先である。乗員ならば文句の一つも出ようものだが、それでも素早い出撃によって、謎の油鯨が何かしらの動きを見せるよりも前に、戦艦を旗艦とした即応艦隊が現場海域へと到着を果たした。
「今のところ、動きはありませんね」
「死んでいるんじゃないのか?」
「このまま動きがなければ、接近して調べることになるでしょう」
「頼むから大人しく海の底に帰ってくれねぇかな……」
そんな祈りが通じるならば、最初からこんな異変は起こってはいない。
ほどなく、浮上したまま停止していた一体が、のっそりと身じろぎするように巨躯をくねらせ、泳ぎ始めた。
「こちらに向かってきます!」
「ヤル気満々だな。まずは一発、主砲をくれてやれ」
動き出した一体は、明らかに艦隊を狙うように真っ直ぐ突撃を始めた。その不格好な巨体のためか、速度はそれほどでもない。しかし白く濁った瞳は戦艦を睨むような視線を向けており、ギシギシと不気味な軋みを上げながら、背に生える角の切っ先を向けてきた。
明らかに攻撃態勢だ、と艦長が察した次の瞬間には、
バシュゥウウ!
大きく空気が弾けるような音と共に、油と少々の血肉を弾けさせながら、角の一本が射出された。
ベチャベチャと油の飛沫をまき散らしながら、背中から発射された角は宙を舞い……艦隊の手前で海へと落ちた。
「ありゃあ角ってよりは、巻貝みてぇだな」
射程外だったことに安堵しつつも、艦長は冷静に目にした角の正体を分析した。
細長く螺旋を描いた、鋭い巻貝の形状であった。巨大な港町でもあるサンクレインに住む者なら、多種多様な食用の貝類を目にするものだ。よく似た形の巻貝があると、すぐに察せられる。
「鯨型から生えた角ではなく、巻貝型が付着、あるいは寄生していると」
「まぁ、そんな感じに見えるが……とりあえず奴を木端微塵にしてから考えようや」
油鯨はジリジリと距離を詰めつつ、再び背中の巻貝を投槍の如く穂先を向けてくる。先の飛距離からして、これでもまだ射程外なのだが――――戦艦の主砲は、十分に射程内へと入った。
「撃ぇっ!!」
艦長の鋭い砲撃命令と共に、ルーン海軍ご自慢の魔導大砲が火を噴いた。
巻貝飛ばしなどとは比べ物にならない初速でもって、宙を割く様に一直線に赤光の軌跡を残して飛翔した砲弾は、見事、油鯨の額に直撃。
凝り固まった油が何層にも積み重なったドロドロの体表を容易く吹き飛ばし、内部へ深々と砲弾が突き刺さり、
ズズッ、ドッゴォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ――――
刹那、途轍もない大爆発が炸裂。
轟音と共に海が揺れ、爆風が駆け抜ける。轟々と天を焦がすような巨大な火柱が海から突き立ち、地獄の業火を思わせる破滅的な光景を描き出していた。
あまりの爆発力によって、海面は大きく荒れ、艦隊を揺らし、慌ててどこかへ掴まねば転倒してしまうほどの余波に襲われる。
「……ウチの大砲ってあんな威力だっけ?」
「そんなワケないでしょ!?」
「だよなぁ……引火する上にヤバい魔力反応起こす油とか、最悪だぞ」
いまだ揺れに揺れている艦橋で、艦長は苦々しく重い溜息を吐き出した。
ただの引火性の油に砲を撃ち込むだけで、こうはなるまい。あの異常な爆発力は、濃密な火属性魔力が込められており、高熱の攻撃や衝撃に反応し、大爆発を引き起こす急激な魔力反応が発生する、と艦長は一目で理解できしてしまった。
「全艦、急いで距離を取れ。この倍は離れないと危険だ。あんな奴らに懐に入られたら終わりだぞ」
「艦長、敵に動きが!」
この大爆発によって目が覚めた、とでも言うように、点々と浮上していた油鯨が、一斉に動き始めた。
砲を警戒しているのか、その巨体をザブンと海中へ潜らせながらも、海上に黒い油を浮かばせてその航跡は露わとなる。
「ああ、チクショウ、最悪だ……」
群れの黒い航跡は、艦隊ではなく、真っ直ぐサンクレインの港へと向いていた。
◇◇◇
翌朝。
夕食の後は再び地下書庫に籠り切り、結局徹夜同然となってしまった。お姫様との一夜の過ごし方としてはどうかと思うが……それでも、自分の大好き、と真剣に向き合った彼女の熱意に、俺が応えないわけにはいかない。
ファナコに求められるがまま、俺は名作解説と、お互いの感想や考察を語り合った。実に有意義な時間だ。
「おはようございます、陛下」
「おはよう、ファルキウス」
仮眠のような短い眠りから覚めた後、朝イチで顔を合わせたのは、眩しいほどの爽やか笑顔で挨拶をくれるファルキウスであった。
スパーダでも帝国でも数多の女性の心を奪う美貌の男は、お姫様相手に一晩中オタトークに徹した俺をどう思っているのだろうか。怖くてちょっと聞く気にはなれなかった。
「今日も地下書庫でお楽しみでしょうか?」
「流石に連日引き籠りってのはな……今日は町を歩いて回ってみるさ」
「それが健康的でよろしいかと」
「ファナコ次第だけどな。創作意欲が燃えていれば、散歩してるどころじゃねぇってなるし」
「昨日までの姫様ならば、良い顔はしなかったでしょうけれど、あれほど心を開いた今なら、陛下と共に過ごす時間は全てかけがえのないものとなりましょう」
「そこまで喜んでくれるならいいけどな」
余計なお世話かもしれないが、作家というのは中々不健康な職業だ。若くして召されるプロのなんと多いことか。
なので、今からでも健康に気遣うのは良いことだ。
そんな風に気安くファルキウスと話ながら、朝食をとろうと食堂へ向かっている途中であった。
「陛下、失礼いたします」
「セリス、何かあったか」
やや固い表情と雰囲気でやって来たセリスの様子で、俺はいいニュースの報告に来てくれたのではないことを察した。
頼むから反乱はやめてくれよ……
「海上に複数の大型モンスターが出現しました。サリエル団長は、先んじて天馬にて偵察へ向かうそうです」
「クラーケンでも出たか?」
「それが、現地の漁師や冒険者も見たことのないモンスターのようで。その大きさと数から、騎士団もギルドも、まだ攻撃して刺激せず監視に留める方針です」
初見の相手ならソレが妥当か。
しかし、俺達がやって来たタイミングを見計らったように、初めて見るような謎のモンスターが現れるとは、いい予感がしないな。
「畏れながら、陛下。今すぐにでも出撃準備を整えた方がよろしいかと」
「確かにトラブルの予感はするが、あまりに早く動きすぎればルーン側も警戒するんじゃないか?」
珍しく進言してくれたファルキウスに、常識的な返答をするが、
「私に加護を授けてくださる『運命転輪フィーネ』は占いの女神。たまに女神様が、少し先の未来を知らせてくれるのですが……どうやら、海から来る魔物はルーンの大きな脅威となる、そうです」
「よし、出撃準備だ。暗黒騎士団総員、戦に備えよ」
◇◇◇
「鯨型に動きアリ」
ルーンの沖合、レムリア海上にて天馬のシロに跨ったサリエルは、謎の鯨型モンスターの群れが眼下で黒々と汚れた航跡を残して動き始めたことを、妖精通信でクロノの座すレッドウイング城臨時司令部へと伝えた。
「進路は港。このままの速度で進めば、一時間ほどで到達する」
謎のモンスター出現の一報が出た時点で、即座に警戒したクロノが出撃準備を整えている。しかしながら、相手は海のモンスター。流石に乗り込んで戦える軍艦など、今この場に持ち合わせてはいない。
海上での戦いが出来ない以上、現時点でクロノに打てる手はない。
天馬騎士として現場へ飛んで、リアルタイムで情報を伝えているだけ、十分過ぎるほど貢献していると言えよう。
『一時間じゃルーン海軍は間に合わないな』
「敵の規模から、中型の巡視船や、船に乗った冒険者で対応するのは無理かと」
しかし状況は、よくやっている、で済まされるようなものでは無くなったと、テレパシーで届くクロノの声音で察せられた。
鯨型の群れを相手どれるような、艦隊がすぐにやって来るのは無理な状況であることが確定している。
首都サンクレインに残っているネルから、ここと同様に鯨型モンスターの群れが出現し、港へ向かって進み始めたという情報が入ったのだ。
各員にしっかり連絡用の妖精がついているからこそ、即座に情報が集まる。それによって、少なくともサンクレインとレッドウイング伯領の港町の二か所で、同時に出現したことが明らかとなった。
そして即座に出撃できる艦隊は、まず目の前に現れたサンクレイン側の群れの相手に出張ってしまっている。今すぐ、こちら側まで海軍戦力を派遣するのは難しい。
どうあがいても、時間がかかるのだ。
「他の場所にも現れている可能性があります」
『そうなると、さらに海軍は分散……そもそも、全力出撃する前に、鯨が港町を襲う方が早そうだ』
突如として現れ、一斉に港へ向かって突き進む姿を見て、これで近くを回遊して去って行くだけ、と楽観視できるはずがない。
ただでさえ鯨と同じ巨体を誇るのだ。そんなものが暴れれば、港は容易く壊滅する。
『サリエル、まずいぞ。奴ら、攻撃されたら大爆発するそうだ』
サンクレイン側にて、戦艦の主砲を受けた結果、途轍もない大爆発を引き起こしたとの情報がもたらされた。
それによって、予測される被害はさらに拡大することとなる。
ちょっと突けば大爆発するタンカーが突っ込んでくるのだ。炸裂すれば、港どころか町にもどれほどの被害が出るか。
「それでは、私がここで出来る限り誘爆を――――」
まだ港まで距離はある。サリエルならば、黒雷を纏った本気の武技をぶち込めば爆破させられるだろうという算段はつくが、
「――――さらに深度を取られました。海上からでは、私の攻撃は届きません」
『ちっ、狙われているのを察しているのか……?』
警戒心が強いのか、それともただの気まぐれか。
どちらにせよ、深く潜られてしまえば、手出しは出来ない。
そこから先は、サリエルも黒い航跡を追跡するだけに留まる。
「もう港が見える距離まで来ました。避難状況は」
『港周辺からは全員、避難完了している。海辺の町だからか、津波対策で高台へ逃げ込むのは早いらしい』
だがそれが現時点で打てる対策の限界でもあった。
ルーン海軍が間に合わない以上、モンスターの港襲撃は食い止められない。
かくして、ついにその時がやって来る。
「鯨型、急浮上」
港を目前にして、鯨型の群れは一斉に海上へと飛び出してくる。盛大に黒い油をまき散らしながら、全く速度を緩めずに突っ込んでくる様は、津波に勝るとも劣らない絶望的な光景であろう。
「――――『天雷槍』」
誘爆させるならこのタイミングしかない、と心得ていたサリエルは、ついに必殺の武技を放つ。
だが、狙われるならココだと、相手も予期していたようだった。
バシュッ! バシュゥウウ!!
サリエルに向けて放たれた、鯨型の背から生える角、否、鋭い巻貝が幾本も宙を舞った。
十分な高度をとっていたサリエルに、それらが届くことは無かったが、『天雷槍』の射線を防ぐには十分な量だ。
ズガガガガッ!
射線に割り込んできた巻貝弾頭の一つに着弾すると、ミサイルが炸裂したような激しい爆発を宙で巻き起こした。
完璧な迎撃行動にサリエルも歯噛みするような思いを抱いたが、『天雷槍』を連発はできない。
愛槍を手元に呼び戻した時には、すでに鯨型の攻撃は放たれていた。
浮上した鯨型はサリエルへの迎撃と同時に、その背に生やす巻貝をありったけ港へ向けてぶち込んでいた。
ヒュルルルル――――と空を裂く音と共に、何十もの巨大な馬上槍のような巻貝が、平和な港町へと降り注ぐ。
重苦しい音と着弾の衝撃で家屋を吹き飛ばし、道に突き立ってゆく。しかし幸いと言うべきか、先のような大爆発は起こらなかった。
いいや、これがそもそも爆発攻撃のためのモノではないのだと、上空から眺めるサリエルが真っ先に理解した。
「マスター、これは……強襲揚陸です」
港の各所に突き刺さった巻貝から、ゾロゾロと人型のモンスターが湧き出てきた。
武器はなく、鎧や衣服もない。ただ人型というだけの、完全な魔物である。
ソレらは半魚人型、と言うべき特徴を備えていた。人型ながら、魚のような面構えに、手足には大きな水かきがついており、細長い尾ひれも伸びている。
全身を覆うのは鱗と、ゴツゴツとした藤壺や貝殻のような甲殻。そして、ドロドロの真っ黒い油に塗れた姿であった。
「鯨型は多数の人型モンスターを内包。巻貝型に乗せて発射し、地上へ上陸させています」
『ああ、こっちからも見えたよ』
そしてモンスターの揚陸はまだ終わっていない。
巻貝型を背中から打ち尽くした後も、いよいよ最後の力を振り絞るように鯨型は港へ突っ込み――――二度と海に変えるつもりはないと言わんばかりに、その巨躯を勢いよく陸上へと乗り上げた。
ボォオオオァアアアアアアアアアアアアアアアア……
それは鯨型の断末魔か、あるいは侵略の始まりを告げる咆哮か。
鯨型が丸々とした大口を開ければ、その中から現れたのは、ブヨブヨとしたスライムによく似た、大きなクラゲであった。
「鯨型より、クラゲ型出現。大量の起爆油を含んでいる模様」
突けば大惨事確定の、危険物そのものである黒い油をたっぷり抱えた、クラゲ型も上陸を開始した。