第1010話 神なき世界の教え(1)
さて、ウィルの粋な計らいによってルーン行きが決まったわけだが、その前にパンデモニウムで済ませておかなければいけない仕事が幾つかある。
今日はその内の一つを片づけに、俺は自由学園へとやって来た。
「こうして会うのは初めてだな」
「はい、お初にお目にかかります。私が『アリア修道会』の長、大司教ルーデルにございます」
かつてミサ疑惑がかけられたピンクを尋問した、自由学園で最も厳重な一室。そこでルーデルは跪いて俺を出迎えた。
大司教、などと言って担ぎ上げられても、画一的な白いシャツとズボンの囚人服を着た姿は、ただの小さな少年にしか見えない。
しかし、彼は紛れもなく『アリア修道会』のトップとされていた人物。ミサを討ち果たしたヴァルナの戦いでは、曲がりなりにも大将を務めていた。
無論、それは全て様々な思惑の上に、ルーデルというただの司祭でしかなかった少年が神輿として担ぎ上げられただけの結果なのだが……それでも大司教の肩書は、紛れもなく本物である。
ここは厳重だからこそ、人の目は限られている。今、この部屋を見ているのは護衛として同行させたサリエルと、壁一枚隔てた隣で監視しているリリィ。そしてもう一人の人物だけだが……ともかく、堅苦しい礼儀を虜囚の身である少年に長々と強要するつもりはない。
サリエルが手ずから、ルーデルを椅子へ座らせ拘束させるのを見守ってから、俺は彼の正面に卓を挟んで座り込んだ。
「……魔王陛下直々にお越しくださったということは、私の処遇が決まったのですね」
「ああ、その通りだ」
小さな肩が、微かに震える。
覚悟はしていただろう。けれど、いざそう言われてしまえば、恐ろしさに体の震えが抑えきれないといったところ。どこまでも素直な反応は、白き神への殉教を喜ぶ原理主義者ではありえない。
「ルーデル、お前には二つの選択肢がある。一つは――――何もしない。このまま、ただ収監され続けるだけ。いわゆる終身刑だ」
「何故、処刑ではなく、私を生かすような真似を」
「お前は背神者だ。すでに十字教を裏切った。リリィに下ったのは、幸運だったな」
ヴァルナ空中決戦の最中で、リリィ以外の者がルーデルに迫ったならば、こんな扱いにはなっていなかっただろう。問答無用で首を刎ねられていた可能性が一番高い。
けれど、そうはならなかった。リリィはルーデルを気にいった。土壇場で自分の命を顧みず、神への信仰さえも捨て去って、一心に愛する人の身を庇った行動によって。
だからこそリリィは特別にルーデルを計らって、洗脳の類は一切せず、多少の自由すら与えた。勿論、彼が身を挺して守ろうとした女も、配下の天馬騎士団ごと洗脳せずただの収監で済ませている。
そんなルーデルの行く末として、終身刑が提示されるのは当然の結果だろう。これが最も穏当で、人道的な選択肢。リリィもこれで済ませようと考えていたようだ。
「もう一つは――――教祖になること」
「教祖、ですか……? それは一体、何の……」
「十字教の教祖だ」
驚いた、というか、何言ってんだコイツって気持ちだろう。
十字教の教祖、とは一単語で矛盾している。教祖も何も、十字教は白き神が自ら始めたものなのだから。人間の教祖、などという存在はありえない。
「ルーデル、十字教がこのパンドラ大陸を征服したら、世界は平和になるのか?」
「それは……少なくとも、滅ぼすべき魔族がいなくなれば、十字教の敵は存在しなくなります」
「本当に? 人間の十字教徒だけの世界に、争いは起こらないと言い切れるのか」
「……争いは、きっと無くなりはしないのでしょう」
「そうだろう。シンクレアは、楽園ではないのだからな」
魔族、異教徒。それら神の外敵を除けば、シンクレア共和国での争いは一切起こらないのか? 答えは否だ。
シンクレアは共和制を名乗っちゃいるが、実質的には貴族が支配する封建社会。共和国と名を変えたが、それでもかつての王家も存続している。このパンドラの国々と比較しても、全く異なる社会体制というほどではないのだ。
つまりは、数多あるこの世界の中でも、特別なことはないありふれた普通の国ということ。
ならばそんな国家体制で何が起こるのか。決まっている、貴族同士の領地争いだ。
小さな川一本から、何もない空地でも、大なり小なり常にどこかしらで領地に関わる揉め事が絶えないのが貴族制度の厄介な点だ。そこは国という括りでも変わりはないが……強い統治権を持つ貴族が存在すると、市町村レベルでも領地争いが発生してまうわけだ。
勿論、領地の他にも人と人が争う原因など無数にあるのだが。
「白き神は、治める領地までは決めちゃくれないからな」
「統治は人間の領分です。神が俗世のことに直接関与することは、決してありえません」
「それが世界の理だからか」
「分かりません。神は、人間一人一人のことなど、具に見てはおられぬのでしょう。それでも目に留まった選ばれし人間こそが、使徒なのです」
「なら十字教の信者同士が殺し合うのは、ご自由にどうぞと神が許しているのだな」
「……それもまた、神が人間に許した自由なのです」
そう悩ましい顔をするなよ。
これは別に白き神だけに限った話じゃない。黒き神々だって同じだ。人間の統治に、いちいち神様は口出しして来ない。この現世は人の世界であって、神の世界ではないからだ。
まぁ、昔々のそのまた昔、古代を超えた神代と呼ばれる最初の時代は、そういう世界だったらしいが……黄金魔神カーラマーラと会った時のことを考えると、あんまり良い時代では無かったと想像はつく。
「それなら何故、魔族だの異教徒だの、滅ぼすべき敵と憎まれなけばならない。人喰い竜が討たれたところで、人は死ぬ。人が人を殺すからだ」
「いいえ、同じ神を信じるからこそ、和解の道が開けるのです。異教の者に、道理は通じません。道理が通じなければ、争いの道しか残らない」
「その道理はお前らの道理だ。白き神が定めた道理。信じぬ者は全て殺す、なんて道理はハナから受け入れられる余地などないだろう」
「だからこそ、皆が同じ神を信じられれば――――」
「その信じる神は、本当に白き神でいいと思っているのか?」
はい、と迷いなく答えられたのだろう。かつての自分なら。
ヴァルナで捕まる前、あるいは、アリア修道会に担がれる前。もしかすれば、もっと前になるかもしれないな。
「そう、ですね……すでに私は神を裏切った身。信じるべき神を失った私が、一体誰に、信じよと言えるでしょうか」
大司教どころか、下っ端の司祭すら名乗れない、と自嘲する。
魔王の加護こそ授かったが、現代日本人として特別信心深いことのない俺には、信じる神を失った彼の気持ちは理解しきれないだろうが……それでも、どれだけ考えても答えの出ない、大きすぎる苦悩に苛まれているだろうことは、何となく分かる。
「俺はパンドラを十字教から守るために、魔王になった」
「貴方がかつて、シンクレアにいたというのは本当なのですか」
「ああ、俺は異邦人だ。十字教には俺のように異邦人を召喚し、神の手先にする組織もあるのだが、知らなかったのか?」
「私のような司祭風情では、噂話として聞く程度です……それで、十字教を恨んでいるのですか」
「恨みはあるが、それだけで魔王になんざなっちゃいない。守りたいものがあるんだ。俺にも、誰にでも」
「ええ、人間も魔族も異教徒も、命懸けで戦う最たる理由は、守りたいモノがあるからなのでしょうね」
そうさ、究極的に言えばお前ら十字軍だって、神の教えを守りたいから戦っている、とも言える。
これは正義だの大義だの言う話ではない。ただ、俺達帝国軍が戦う理由は、どんな奴らにも当てはまる、普遍的なものでしかないというだけのこと。
「それぞれ、守りたいモノが違うから戦う。戦わざるを得ない羽目になる。ルーデル、俺はな、誰も争わない平和な世界を実現しようなんて思ってはいない」
理想を語るのは大いに結構。だが、現実的な制約によって、どうしても不可能なことは沢山あるんだ。
「十字軍の侵略からパンドラを守る。それが俺の最優先目標だ。だからこのエルロード帝国が、全てが終わった後、無くなったって構わない。併吞した数々の国が、独立を望むならそれも許そう」
「それで再び、この大陸が群雄割拠の戦国時代になっても構わないと言うのですか」
「それを気にするのは、十字軍を駆逐してからでいい。俺はリリィと違って、目の前の戦いにしか集中できない狂戦士だからな」
パンドラ全土を支配するエルロード帝国の再誕、なんて十字軍の脅威が残っている内は皮算用に過ぎない。全て上手くいった先のことばかり考えているようでは、足元を掬われそうで怖いと思ってしまうのが、小市民的な俺の感性だ。
「けれど、そんな俺でも一つだけ、どうしても考えてしまう懸念があるんだ」
「それは……再び十字軍が襲来すること、ですか」
その通り、と俺は大きく頷く。
このままの調子で、スパーダを取り戻し、ダイダロスを取り戻し、最初の上陸地点ヴァージニアまで解放したとしよう。確かに、これで大陸に十字軍は一人も残らず駆逐できる。
だが、それで白き神の信徒は全員消え去ったワケではない。
あの海の向こう側、アーク大陸にはまだまだ大勢の十字教徒がいる。パンドラ遠征の十字軍が壊滅したとしても、本国シンクレアそのものは無傷だ。
戦力的には夥しい損害を被ることにはなるだろうが……長い歴史で見れば、それもまたほんの一時に過ぎない。10年、50年、あるいは100年単位の時を費やせば、更に強大な十字軍を結成し、再びパンドラ征服に乗り出す。
奴らは必ずまたやって来る。なぜなら、白き神には諦める理由など何一つないからだ。今回失敗したら、また次に同じことをやればいい。膨大な数の信者を養い、使徒を揃える。
神の視点からすれば、ゲーム感覚で何度も大規模遠征などやれるに違いない。
「俺が生きている内なら、パンドラの防備は決して緩めたりはしない。帝国が存続していれば、俺が死んだ後も少しは守り続けてくれるだろう。けど、それは100年先、200年先まで守られる保証はない」
こんな巨大な帝国が、いつまでも続くとは思えない。今はあくまでも十字軍という共通の敵がいるからこそ、敗北した国家を吸収して膨れ上がっただけ。強大な敵が残っている内は、俺達は団結できる。
けれど十字軍を駆逐し、平和の戻ったパンドラになればどうか。いつまでも帝国に、こんなポっと出の異邦人風情を魔王と崇めて、従う道理はないと思う奴らの方が多いだろう。
ミアのエルロード帝国だって滅びたのだ。どんなに上手くやったとしても、いつか必ず国は滅びる――――そうして、再び幾つもの国々がひしめく情勢に大陸が戻った時、さらに強大となった十字軍が来ればどうなるか。
また魔王が現れるだろうか。それとも各国が一致団結するか、数々の英雄たちが集ってくれるか。
次の十字軍襲来に、パンドラが打ち勝てるかどうか。それは誰にも分からない。
「それでは、シンクレアを滅ぼすと言うのですか」
「それが出来れば良かったんだがな」
勿論、考えないはずがない。アーク大陸、シンクレアへの逆侵攻。最も安直な解決策だ。
敵が残っているのが悪い。だから全て殺す。憎しみの連鎖も、恨みのある者が一人もいなくなれば、綺麗さっぱり断ち切れるのだから。
けれど、どう考えてもそれは上手くいかないだろう。今度は帝国軍が十字軍の二の舞となる。
少なくとも現在の帝国軍の総戦力と装備、兵器、を考えれば……シンクレアを滅ぼすだけの大遠征は出来そうもない。
なにせ俺達は黒き神々の加護を頼りに戦っているし、帝国軍の要は古代遺跡とその技術にある。オリジナルモノリスによる転移が開通していない別大陸、というだけで俺達のアドバンテージは大きく失われてしまう。
シンクレアへの遠征が現実的ではないとすれば、どうすれば奴らの本国にダメージを与えられるだろうか。その方法を、俺は一つ考えた。
「ま、まさか……私を教祖とした、新たな派閥で十字教を割る、ということなのですか……?」
「ああ、その通り。もうパンドラの人々の血は流れない。これから先は、お前達、十字教同士で殺し合ってくれるのが、一番良い未来だと思うんだ」
カトリックとプロテスタント。社会科の授業で習ったきり、この二つのキリスト教派の名前だけ覚えて、その違いを正確に理解している人は少ないのではないだろうか。
まぁ、高校二年の春で世界史の授業が止まっている俺も、世間一般で知られる程度の知識しか持ち合わせていないので、あまり偉そうなことは言えない。
要は同じ宗教でも、派閥が別れれば対立し、時には戦争の火種にすらなり得る、という点が重要だ。
人間というのは不思議なもので、同じ教えを信じているはずなのに、アレだコレだと言い出しては意見を対立させてしまう。キリスト教、イスラム教、仏教、いわゆる世界三大宗教と呼ばれるものでも、ナントカ派だのカントカ主義だの、幾つもの宗派が存在している。
つまり世界中、どんな宗教でも宗派に別れて行く流れは止められない、ということを示しているように思える。
そして宗派の存在自体は、この異世界でも同様なのだが……神が実在するせいか、地球ほど多くの宗派が乱立することは少ないように見える。やはり本物がいると、定期的に出現する逆張りみたいな主張をする奴なんかが、加護を失ったり、そもそも得られなかったり、という明確な事実を突きつけられて説得力が無いのだろう。
俺の知る限りでは、パンドラ神殿において戦争するほどの宗派対立というのは発生していない。
「それは無理です。出来るはずがない……私が乗り気になったとしても、十字教を二分するほどの対立宗派など作れませんよ」
「白き神の加護が得られないからか」
「その通りです。シンクレアにおいて、白き神の加護はあまりにも強力であり、普遍的なのです」
ルーデルの言うことはもっともだ。パンドラ神殿が大きな宗派対立をしていないのと、全く同じ理屈である。
「いいや、白き神の加護はいらない。むしろ、決してあってはならない」
「どういうことですか。十字教を名乗るなら、白き神の加護がなければ――――」
「加護のない宗教だ」
「……は?」
「この新しい十字教に、神はいない」
「全く意味が分かりません……神がいなくて、どう宗教となるのです」
「神は実在しなくても、宗教は成立するんだ。神は『いる』と信じれば、それでいい」
「そ、それは……宗教ではなく、ただの詐欺なのでは……」
「異邦人の世界に、加護を与えてくれる神はいない。けれど世界中の人々が、それぞれ信じる神を持っている。加護という、神の実在の証明が無くてもな」
神が実在し、加護を授けられるこの世界に住む人には、想像できないかもしれない。神なき世界の宗教の在り方なんて。
まぁ、地球に神様が本当にいないかどうか、なんて分からないけど。ただ現行人類の誰にも、今のところは神の存在を証明できていない、というだけで。
残念ながら地球人には、神の加護でなければ説明がつかない奇跡のパワーを持つ者はいないから。
「白き神は魔族を根絶した、人間だけの世界を望んでいる。だから、そんな神はいらない」
「しかし、十字教を名乗るのですよね……?」
「ああ、新たな十字教も白き神を掲げよう。だが、それは十字教が掲げる白き神とは違う、真の白き神だ」
「真の白き神、なんて、そんな存在がいるワケ……」
「ああ、存在しない。架空の神、でっち上げ、イカれた妄想。けれど、コイツを『真の白き神』として崇め、十字教の白き神を、偽物ということにする」
「ふ、不可能です! 実在する神の存在を、否定するなんて!!」
「確かに、白き神は存在する。あの忌まわしい使徒共を仕立て上げて、パンドラ征服を目論む白き神は確かにいる。だが、ソイツが本当に唯一無二の世界の創造主なのか……それとも、単なる邪神なのかは、誰にも分からないだろう?」
「そんな、白き神が邪神だなんて……そんなことは……」
「ありえない、と言い切れないから、お前は裏切ったんだ」
リリィは言っていた。ルーデルは白き神を疑った。魔族を殺し尽くす、その正義に確かな疑念を抱いていたのだと。
それはアリア修道会での活動を通して、実際に自ら魔族と呼ぶべき、異種族の人々と接したからこそ。十字軍の従軍司祭のままでは経験しえなかっただろう、平和なアヴァロンで様々な種族の人々が入り混じって暮らす姿を間近で見ることは。
「白き神は、単なる邪神だ。パンドラに住む全ての人にとっては、破滅をもたらす邪神でしかない」
「それは、そうでしょうね……白き神は決して、魔族を許さないから」
「だが、そこで真の白き神の登場だ。本当の白き神は、魔族を殺すなんて望んでいない。そもそも魔族なんて存在はない。ありとあらゆる知性を持つ者は人の種と認め、姿形の差異など些細なことと、公正平等の博愛を説いた――――だから黒き神々と対立しない、同胞となれる」
「けれど、実際に加護を授けているのは、本物の白き神でしょう」
「ある邪神に力を奪われた。そして邪神は自ら白き神を名乗り、その座を乗っ取った。だから十字教は邪神に騙されている偽物。悪を正義だと教えられ、手先となって破壊と殺戮をまき散らすだけの邪教」
「神の存在を否定することで、絶対的な対立関係になる、と……」
要するに事実無根のイチャモンをつけているだけのことだ。
でも俺達にとって十字教が滅ぶべき邪教なのは事実だからな。白き神の正体やら、ミア達黒き神々との因縁なんか、正確なことは分からないが……実際コイツが元凶なんだから、邪神認定して徹底的に否定すべき存在だ。
そして平和と平等を訴える、素晴らしい教えの正しい宗教を広める。正義は我に在り。
「黒き神々の同胞たる真の白き神、本当の正しき教え――――そうだな、『パンドラ聖教』とでも名乗ったらどうだ」