第995話 レーベリア会戦:同郷(1)
「ちょ、ちょっと、待ちなさいよぉ!!」
魔王軍が迫り、慌ただしくなってきた大遠征軍本陣にて、リィンフェルトの甲高い悲鳴じみた声が響いた。
ここはネロの座す司令部ではない。ずっといると息が詰まりそうな感じがして、気分転換に外へと出た時に、彼女は気づいたのだ。
「止めないで、リン姉さん」
「もうすぐそこまで魔王軍が来ちまったんだ。俺らが出るしかねぇだろ」
そう答えるのは、リィンフェルトがアヴァロンでの家となったセントユリア修道院の仲間。
小奇麗なローブを纏った金髪赤眼の少年、レキトリウス。
司祭服を来た褐色肌に銀髪の青年、ウルスレイ。
この二人は単なる付き添いでリィンフェルトと共に戦場へ来たのではない。ネロの旧知にして、彼女の護衛を任せるに足る実力があればこそ、今この場にいるのだ。
そしてその力が必要となる状況が、いよいよ目前に迫って来ていた。
「でもっ、そんな勝手に……」
「そんな悠長なこと、言ってられるような状況じゃねぇのは、お前も分かってんだろうが」
ネロと共に司令部にいるのだ。知らないはずがない。
大遠征軍の陣地は、正面から突撃をかけた魔王軍の主力足る機甲騎士と重騎兵の軍団に突破されつつあり、さらには左翼側から魔王クロノが率いる突撃部隊も陣地の深くまで食い込んできた。
正面の迎撃にあたる機甲騎士団も甚大な被害を被り、それでも尚、敵を食い止め切れていない。さらに最悪なことに、左翼で魔王を足止めしていた『唯天』ゾアが決闘の末に討たれてしまった。
大将の敗北をもって、早々にヴェーダ傭兵団は撤退の動きに移っている。契約と違う、敵前逃亡だぞ、と言ったところで止められるものではない。
ただでさえ傍から見れば大遠征軍の旗色は明らかに悪い。傭兵が不利と見て離反するなど、戦場では珍しくもない展開だ。傭兵風情に忠誠を求めることほど、馬鹿なことはないだろう。
苦しい劣勢状態にあっては、去り行くヴェーダ傭兵団を力で威嚇して引き留めるほどの余裕も戦力も、もう残されてはいない。
さらに追い打ちをかけるかのように、とうとう最後のグリゴールが倒れ伏し、草原の向こうから大地を踏み鳴らしながら、黒竜がゆっくりと接近しつつある。
ここから逆転するには、制空権を制した空の軍団が駆け付けてくれることだが……見上げたところで、今もまだ激しく光が明滅するだけで、空の戦いの決着の先行きは見えなかった。
それが現在の戦況だ。
本陣が最後の予備兵力を投入して、防御を固めるのは当然、というよりも唯一の手であろう。
「そ、それなら、せめてネロと一緒に! ねぇ、そうしようよ、絶対その方が安全でしょ!?」
「……確かに、それはそうなんだけどね」
「悪いな、リン。俺らは守ってもらわなきゃならねぇ、足手纏いは御免だ。少しでも、アイツの力になりたくて来たんだ」
リィンフェルトは命を懸けて守るに足る、大切な女性だ。他の誰にも、護衛を譲る気はない。
そして同時に、旧知の仲であるネロのためにも――――そんな、ささやかな男の意地もあるのだ。
昔から恵まれた環境に加えて、天性の才能を持つネロには敵わない。今や使徒となった以上、その力の差は子供の頃よりもさらに大きく開いているだろう。
それを分かっていても、ネロの強さだけに頼るような真似はしない。絶対にしたくはない。
「もう、僕らの力なんてアテにはしてくれないとは思うけれど」
「だからと言って、何もしないワケにはいかねぇからな」
そして自分達に出来る一番の仕事は、戦うこと。
それがたとえ十字教の教えに反する悪しき加護の力であろうとも、それでも守りたいモノがある。
「はぁ……ほんっ、とに男ってヤツはこれだから……はいはい、分かった、分かりましたよ!」
駄々をこねる子供を前にしたように、盛大な溜息を吐いてから、リィンフェルトもまた覚悟を決める。
「私も一緒に行く」
「そんなっ!? だ、ダメだよリン姉さん!」
「おいおい、それじゃあ意味ねぇだろが!?」
「うっさい! どうせアンタら、私が守ってやらないとあっけなく蹴散らされるんでしょうが!!」
どんなに神の正義と信仰を叫ぼうとも、実際に魔王軍は止められていない。男なんて、どいつもこいつも大口ばかり叩きやがって、と心底怒りが湧いてくる。
どうせ本陣を死守するだのなんだの言っても、いざあの恐ろしい魔王を前にすれば、その圧倒的な力を前に殺されるだけ。あのガラハドの戦場と同じように。
信仰も、愛も、思いの強さなど何もかも顧みず、ただ殺しにやって来る恐怖の象徴。リィンフェルトにとっての悪夢。
それを、怖いからと、人任せにはしておけない。まして大切な人達だけに、恐怖の魔王と戦わせるなど。
『聖堂結界』。神がこの守りの力を授けたならば、自分の守りたいモノのためにこそ使うべき。あるモノは全部使うし、タダのモノは使い倒す。貧しい孤児院生活で学んだ、リィンフェルトのモットーだ。
「ドラゴンブレスみたいな大魔法撃たれたら、アンタらだけじゃ止められないでしょ」
「ううぅ……」
「けどよ、お前が出るならそれこそネロを待ってから――――」
「ふんっ、どうせ危なくなったら勝手に守りに来るわよ!」
今からネロを出陣するように説得するなど、時間の無駄だ。クロノを待つと決めた以上は、梃子でも動かないだろう。
そして何より、ネロの隣にはあの妹がいる。彼女がいるからこそ、尚更にネロは動けないのだ。
動かすならば、それこそ自分が命の危機にでも瀕さない限りは、とリィンフェルトは早々に割り切った。
「ほらほら、行くと決めたからにはさっさと行く! 遅れたら、夕飯抜きなんだからね!!」
「ええぇー、勘弁してよリン姉さん」
「ったくしょうがねぇ。言い出したら聞かねぇのは、アイツと同じなんだからよ……」
かくして、本陣より最後の防衛戦力も動き出す。迫り来る魔王を、迎え撃つために。
「退けよっ、オラァ!!」
カイの鋭い一閃が、歩兵を纏めて薙ぎ払う。
槍こそ構えているものの、大遠征軍の歩兵達は明らかに腰が引けている。末端の一兵卒であっても、すでに自分達の形成が不利なことを悟っているのだ。
そんな状況では、どれほど指揮官が声を張り上げたところで士気など上がり様もない。
ほどほどに戦った後、第一突撃大隊の圧力に屈して次々と歩兵隊は下がって行く。
「へっ、腰抜け共が」
「本陣まで下がって、体勢を立て直しているだけなの」
ヴェーダ傭兵団が一気に抜けたことで、敵の防衛線はすっかり崩壊している。まだまだ戦場の経験が浅いウルスラから見ても、敵の動きは分かりやすい。
ここで中途半端に奮戦したところで、大した足止めにもなりはしないし、一方的に蹴散らされるだけの損な役回りなど誰も引き受けたくはない。まだまとまった戦力が残る本陣まで引き下がり、防衛体制の立て直しを図ろうと動くのは当然の決断だろう。
それこそ先のゾアのように、自らの意思で魔王に挑むような気概がある強者でもいなければ、この流れは変わらない。
「それなら、俺達もさっさと行こう。どうやら中央も本陣までの道が開けつつあるようだ」
パカパカとゆっくりとしたメリーの歩みに揺られて、馬上でクロノは言う。
「クロノ様はもっとゆっくり休んでた方がいいデス!」
「もう十分、休ませてもらったさ」
この戦いもいよいよ大詰めを迎えつつあることは、誰もが察していた。
軒並み敵が本陣まで下がって行ったことで、一時的に空白となった戦場で、再び隊列を整えなおしてから、クロノ達は進む。
そうして、いよいよネロが本陣を構える丘の麓まで辿り着く。
そこには即席のバリケードと魔術師総動員の防御魔法によって築かれた、簡易的な砦と化している。
麓には引き上げてきた歩兵隊に、本陣守備のために控えていた無傷の騎士団が立ち並ぶ。追い詰められているのは確かだが、徹底抗戦の構えである。
「まずは一発当ててから、だな。砲撃用意」
クロノは馬上で自ら『ザ・グリード』を構えながら、セオリー通りの砲撃戦から始めることとした。
第一突撃大隊とパルティア騎兵隊は、それぞれ得意の攻撃を。そして砲撃のメインとなる、ライラのティガ部隊を横並びに展開させて、古代の砲口を敵陣へと向けた。
敵側からも、こちらの動きは丸見えだろう。しかし、焦れて突出することはなく、黙って陣から動かない。
奇妙な沈黙が、緊迫した戦場に満ちる。漂う大勢の息遣いと、張り詰めた魔力の気配。
思えば、こんな空気にもすっかり慣れたものだ――――そんなことを考えながら、クロノは気負うことなくトリガーに指をかけた。
「撃て」
荷電粒子竜砲を中心に、砲撃が叩き込まれる。
所詮は急造の野戦築城。これだけの攻撃に晒されれば、直撃した地点は耐えきれず、必ず穴が開く――――との予想は、瞬く白い輝きによって裏切られた。
「ちっ、『聖堂結界』か」
開幕のブレスを防いだきり、出番のなかった最強の結界が、再び展開されていた。
思わず舌打ちをしてしまう、相変わらずの絶対防御である。しかし状況を考えれば妥当なタイミングでもあろう。
「いよいよ切羽詰まって、リィンフェルトも出張って来たか」
元々、展開した大遠征軍全体を覆い隠せるほどの広域展開を可能としているのだ。立てこもる最後の砦を囲うくらいは、聖女の力を以てすれば大したことではない。
「どうすんだ、クロノ。アレを張られたら面倒だぞ」
後続の到着を待ち、戦力を集結させてから攻める、というのは常道であろう。敵の守りが堅牢極まると知りながら、手持ちの戦力だけで仕掛けるのは、勢い任せで気が逸っていると言われても仕方がない。
「……いいや、攻める」
だが、クロノはそう決断する。
戦術的には全戦力を集めてから仕掛けたいところ。遠くない内に、グリゴールを倒した黒竜部隊が追いつくし、リリィの空中決戦もケリがつくだろう。そうなれば、この小さな丘など完全包囲できる。
しかし、多少の時間で圧倒的有利が取れるという状況だからこそ、最悪の選択肢も生まれる懸念があった。
「ネロならリィンフェルトを連れて、逃げかねない」
それだけは絶対に阻止しなければならない。
ここで大遠征軍の大軍を殲滅したとしても、第十三使徒ネロと聖女リィンフェルト、この両名を取り逃がしてしまえば、この決戦の意味がなくなってしまう。
何としてでも今日ここで、コイツらだけは討たなくてはならない。
そして今このタイミングこそが、ネロが戦うか逃げるか、最後の選択をする時だ。
「今ここで俺が突っ込めば、ネロは必ず誘いに乗る」
魔王の首を獲る、という勝機があるからだ。
しかし黒竜と天空戦艦による完全包囲が完成するとなれば、ネロとて不利を悟り逃げる。自分の大切な者だけを連れて。最悪、ネルまでそのまま連れて行かれかねない。
奴には大軍を率いる大将としての責任感などは欠片も持ち合わせてはいない。自分の配下をこの場に残して逃げることに、抵抗感など全くないだろう。
それで愛する人を守れるならば、と喜んで選択できる。
「だから攻めるぞ。奴にまだチャンスがある、と思わせるために」
「やっぱりな、そう言うと思ったぜ。魔王陛下の仰せのままに」
「けど、『聖堂結界』はどうすんの? アレは流石に私の『雷紅刃』でも破れないわよ」
やる気満々のカイの隣で、シャルロットは渋い顔を浮かべて言う。
魔王陛下の判断にケチをつける気はないが、無敵の結界に何の打開策もなく突撃をかけるのは御免である。
「俺が破る」
「はぁ、結局お前頼みかよ」
「その代わり、援護はしっかり頼む。アレをぶち破るには、かなり溜めないといけないからな」
いつまでも『聖堂結界』の破壊をネルにだけ頼るわけにはいかない。ネロと相対するならば、奴の女であるリィンフェルトも必ず出張って来る。
いざという時は、必ずその絶対防御でネロを守るだろう。だから、それに穴を開けるための手段は確保しておかなければならない。
「中央の方にはフィオナがいる。だから向こう側でも突破口を開くことはできるだろう」
「上等! なら作戦通り、このままやっちまおうぜ!」
両突撃軍団での攻撃続行が決まり、突撃陣形を組み直す。
再びの沈黙を幾許か経て、いよいよ突撃開始の号令が下ろうかという寸前、先に敵が動いた。
「ここで迎撃部隊を出すのか……」
クロノも少々、驚いた表情を浮かべる。『聖堂結界』の絶対的な守りがあるのなら、その内側に引き籠っていた方が安全だ。
攻撃部隊を援護する後衛部隊は結界の内にいるので、それなり以上に有利な立場であるとはいえ、自ら結界の守りを捨ててまで仕掛けるとは、随分と思い切った判断である。
どうやら、追い詰められていても、まだまだ戦意を燃やしている奴らがいるらしい。
「その気があるなら、相手になろう。出来るだけ引き付けて、奴らを蹴散らしてから突撃をかける」
「了解!」
急な命令変更にも、動揺することなく答える。向かってくる敵がいるならば、堂々と迎え撃つのみだ。
「砲撃用意、目標、敵攻撃部隊」
向かってくるのは、本陣守備を任されている騎士団の一つだろう。ずっと本陣に待機していたので、まだ一切消耗はしておらず、白銀の鎧兜が陽光を浴びてキラキラ輝いている。
見たところ、重騎士が中心の従来通りの編成。機甲鎧はない。
通常兵力のみならば、精鋭の騎士とはいえ、魔王率いる突撃軍団の砲火に晒されて無傷では済まされない。次の瞬間には血肉と粉塵に塗れて、自慢の鎧が汚れるだろう。
「撃て」
再度の攻撃命令によって放たれた砲撃はしかし、
「吸い尽くせ――――『狭霧御手』」
白い霧が満ちる。
風の防御魔法が渦巻くように、突如として宙に満ちてゆく真っ白い霧は、飛び込んで来た攻撃魔法の数々を飲み込むように消し去って行った。
炸裂寸前のエーテル砲弾を爆音も閃光もなく消したのは、霧の中に漂う腕。生身ではない、より色濃い霧によって構築された、大きな人の手である。
それが霧の中に何本も突き立ち、掌を広げて攻撃を文字通りに掴みとっていった。
「面倒なことになった。まさか『吸収』使いがいるとは」
一斉砲撃を完全に無効化するほど強力な『吸収』の使い手など、そうそういない。流石にクロノも驚きを隠せないが、最も驚くべき点は、よく似た力の使い手が身内にいることだ。
「ウルスラ」
「うん、間違いない……アレは私の『白夜叉姫』と同じ力なの」
クロノが視線を向ければ、ウルスラは苦虫を嚙み潰したような表情で、漂うドレインの濃霧を睨んでいた。
「同じ、ってことは、相手もイヴラーム人の術者ということか」
「しかも、加護持ちなの」
それは厄介な相手だな、と思わず唸ってしまう。
これほどの吸収能力があれば、攻撃魔法への防御だけでなく、単純に生命力を奪う殺傷力もかなりのものとなる。通常の攻撃魔法とは異なるため、対処もしにくい。
下手をすれば、このドレイン使い一人に大損害を被りかねない。
「クロノ様、ここは任せて欲しい。私が敵のドレインを抑えるの」
「……そうだな、それが一番いい。頼んだぞ、ウルスラ」
つい心配の言葉が喉元まで出かけてしまったが、すでに彼女は庇護すべき子供ではない。精鋭たる第一突撃大隊の隊員であり、魔女フィオナの一番弟子だ。
信じて任せる。必要なのはそれだけだ。
「済まないがカイ、俺は――――」
「ああ、分かってる。ここは俺達に任せとけよ」
いつものように快活に笑うカイに、クロノは頷いてから、メリーの手綱を退いて下がった。
「よっしゃあ、そんじゃお前ら、気合入れろよ! ウチのお嬢様が頑張ってくれるんだ、ドレインなんかにビビんじゃねぇぞ!!」
青いオーラを発しながら、クロノに代わり先頭に立つカイが檄を飛ばせば、地を揺るがすほどの声が突撃軍団から上がる。
「準備はいいか、ウルスラ?」
「うん、隊長。私の『白夜叉姫』が、みんなを守るから」
「じゃあ、レキがウルを守るデスよ」
「盾としてしっかり頑張るの」
「アレちょっと扱い雑になってないデスか!?」
ふふん、と鼻で笑ってから、ウルスラはレキと共にカイの隣に並び立ち、その力を解き放つ。
必要なことは、もう十分に教えてもらった。きっと本人に全くその気はないだろうけれど、フィオナはウルスラにとっての尊敬すべき師匠である。
帝国が誇る天才魔女直々に教えを受けたのだ。同郷の者が相手だからと、怯む理由はどこにもない。
「見せてあげるの、イヴラーム王家の秘術、忌まわしき呪いの加護を」
両親のことなど、何も覚えてはいない。
気づいた時には、教会の孤児院でボンヤリしていた。親の庇護を得られなかったことに、恨みもなければ、興味もなかった。今の自分があるのは、沢山の仲間と恩人によって支えられてきたのだから。
けれど今は、自分の力を知った時だけは、感謝した。
この力を、伝えてくれてありがとう。
「私の名はウルスラ。深き冥界の主よ、契約者イヴラームの末裔が願い奉る。古き約定に従い、その御力の欠片を与え給え――――」
加護、発動。
「――――『死者の書の紡ぎ手』」