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婚約破棄されたので辺境で好きに生きます〜なぜか辺境伯に溺愛されていますが〜  作者: きなこ
第1章「堕ちた令嬢と辺境の扉」

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第5話「決断と旅立ち」

第5話「決断と旅立ち」


 父の書斎を訪ねたのは、翌朝だった。


 一睡もしていない。書庫で三年分の報告書を読み通し、メモをまとめ、頭の中に辺境伯領の全体像を組み上げた。それを、今日伝える。


 お兄様にも来てもらった。二人同時に話す方がいい。



 書斎の扉を開けると、父はすでに椅子に座っていた。


 クラウスは窓際に立っている。腕を組んで、不機嫌そうな顔をしていた。もう何かを察しているのかもしれない。


「座れ」


 父の短い一言。わたくしは静かに椅子を引き、膝の上に手を揃えた。



「お父様、お兄様——わたくしの決断をお伝えしたいのです」


 机の上に、書き写した数字と分析をまとめた羊皮紙を広げた。一晩かけてまとめたものだ。


「わたくし、グラフ辺境伯領に参りたいのです」


 一瞬、書斎の空気が止まった。


「は?」


 クラウスだった。


「辺境……グラフ辺境伯領に、だと?」



「お兄様、順を追って説明いたします」


 わたくしは資料の一枚目を前に出した。


「現在、グラフ辺境伯領が抱える課題は四つございます。食料の保存技術の不足、若い人材の流出、未調査のまま眠る鉱山の可能性、そして交易路の未整備——この四点が連鎖して、領地の収益が上がらない構造になっております」


 父が羊皮紙に目を落とした。表情は動かない。でも手が、わずかに書類の端に触れた。


「一つの問題を解くことで、隣の問題にも手が打てる。これだけ手をつける余地がある、ということです」



 クラウスが口を開いた。


「無理だ。辺境なんか行ったら、何かあっても助けに行けないじゃないか」


「お兄様のおっしゃることは、正しいです」


 わたくしは静かに答えた。


「危険があること、助けが遠いこと——それは否定しません。でも、わたくしは一人で行くわけではありません。報告書が示す限り、カイン・ドラクロワという方は領民を守る実績を持っています」


 クラウスが何か言いかけて、止まった。



「それに」


 ここだけは、感情を出してもいい。


「お兄様——わたくし、動かないでいる方が、怖いのです」


 クラウスが、黙った。


「婚約が破棄されて、誰かに次の縁談を選んでもらって、また誰かのそばで静かに待つだけの生き方は——今のわたくしには、できません。何かを変えたい。自分の力で、変えたいのです」



 書斎に、長い沈黙が落ちた。


 クラウスが腕を組んで天井を見上げた。父は机の上で指を組んだまま、目を閉じていた。


(父がこの顔をするときは、何かを考えている。急かしてはいけない)


 前世の仕事で学んだ鉄則がある。答えを求める沈黙に、焦って口を挟まない。相手が考えている時間を、奪ってはならない。



 父が、目を開いた。


「……お前の課題分析は、正しい」


 低い声だった。


「私も、グラフ辺境の報告書は読んでいる。あの土地に手をつける余地があることも、知っている。それを一晩で読み解いたことは——認めよう」


 一息、置いた。


「行ってこい。ただし、条件がある」


「はい」


「辺境への手配は私が行う。グラフ辺境伯への書状も、ヴァルトシュタイン公爵家として出す。ヨハンナと護衛を最低二名、連れて行け」


「……ありがとうございます、お父様」


「礼はいらん」


 父は静かに首を振った。


「お前が自分で決めた。父は止めん——それだけのことだ」



 クラウスが、大きく息を吐いた。


「……はあ。父上がそう言うなら、俺がいくら言っても変わらないな」


 腕を組み直して、窓の外に目をやった。


「ただし」


 低い声に、力が込もった。


「無茶はするなよ。本当に」


「はい、お兄様」


「現地で何かおかしいと思ったら、すぐ手紙を寄越せ。三日以内に動ける準備はしておく」


「……お兄様は心配性ですわね」


「うるさい。お前が心配させるんだろう」


 むすっとした顔だった。でも耳が少し赤かった。


 それだけ言って、クラウスは椅子を引いた。立ち上がりながら、もう一度こちらを向いた。


「——絶対に無茶するな。何かあったらすぐ連絡しろ」


 振り返った横顔に、いつもの不機嫌な表情はなかった。ただ、まっすぐにわたくしを見ていた。



 書斎を出ると、ふっと膝の力が抜けた。


 壁に手をついて、息を整える。


(人前で話してここまで緊張するのは、久しぶりだ)


 深く息を吸った。秋の冷えた空気が、肺の奥まで入ってくる。


 行ける。グラフ辺境伯領に、行ける。



 その日の昼すぎ、ヨハンナが部屋に来た。


「エリナお嬢様」


 いつも通りの静かな声だった。扉を閉める。その所作が、いつもより少し——ゆっくりとしていた。


「わたくしも、お供いたします」


 ヨハンナの声は、静かだった。感情をどこかに丁寧にしまいこんで、その上に置いた言葉だと、すぐにわかった。


「辺境まで。お嬢様のお傍に」


 わたくしは言葉を探した。ヨハンナは三十年以上、この屋敷に仕えてきた人だ。ここに根を張って、ここで生きてきた人だ。


「ヨハンナ。この屋敷を離れることになります。辺境は——遠くて、寒くて、不便な場所です」


「存じております」


「ここに残っていただいた方が、ヨハンナのためになると思いますが」


「お嬢様がいれば、それで十分でございます」


 一つ言うたびに、一つ返ってくる。


(この人は、全部わかった上で言っている)


「……ありがとうございます、ヨハンナ。お供していただけたら、心強いです」


 ヨハンナが、ほんの少しだけ口元をほどいた。長年仕えてきた侍女の、珍しい笑顔だった。


 ヨハンナが出ていった後、一人になって、机の端をそっと掴んだ。


(泣かなかった。よかった)


 でも、目の奥がじんわりと熱かった。



 出発の前日。出立の挨拶のため王城を訪れた帰り、庭園を歩いていたときだった。不意に声をかけられた。


「ヴァルトシュタイン嬢」


 シュテファン殿下だった。


「辺境でのお暮らしを、王都から——静かに見守っております」


 殿下はそれだけ言って、少し間を置いた。


「カインは正直な人間です。不器用ですが、約束を破りません」


「その言葉、ありがたく存じます」


 殿下が微かに頷いて、石畳の先へと歩いていった。


(「見ている」と言う人だ。「応援しています」ではなく。その重みは、きっとこちらの方が大きい)



 翌朝。


 馬車の前に、荷物が積まれていた。護衛の騎士二名が、すでに馬の手綱を整えている。クラウス兄様が、腕を組んで立っている。


「……行くか」


「はい」


「何かあったら、手紙を寄越せ。すぐ行く」


「大丈夫ですわ、お兄様」


「俺が行きたいから言ってるんだ。大丈夫かどうかの話じゃない」


 父が玄関の石段の上に立っていた。いつも通りの表情で、わたくしを見ていた。


「気をつけて行きなさい」


「はい」


「お前なら、大丈夫だろう」


 不器用な言葉だった。でも父が「大丈夫だろう」と言う言葉には、ちゃんと重みがある。



 馬車に乗り込んだ。ヨハンナが向かいの席に静かに座る。


 馬車が動き出した。王都の城門が、近づいてくる。


 振り返るかどうか、一瞬だけ迷った。


 前世でも、退職最終日に振り返るかどうか迷ったことがある。あのときは——振り返ってしまった。後ろ髪を引かれて、みっともなく。


 わたくしは、前を向いたまま城門をくぐった。


「振り返るのは、前世で十分やりました」


 声に出して、ひとりごとを言った。


 ヨハンナが、隣で静かに笑った。


「お嬢様らしゅうございます」



 馬車は、北へ向かう街道に出た。


 窓の外に、王都の外壁が少しずつ遠ざかっていく。


 憎んでいない。恨んでいない。ただ——今のわたくしが向かう場所は、ここではない。


 七日間の旅路の先に、報告書の名前の主がいる。


 カイン・ドラクロワ。


 どんな顔で、どんな声で、どんな目をしている人なのか——まだ何も知らない。


 でもなぜか、指先の震えは止まっていた。



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