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婚約破棄されたので辺境で好きに生きます〜なぜか辺境伯に溺愛されていますが〜  作者: きなこ
第1章「堕ちた令嬢と辺境の扉」

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第4話「報告書の名前」

第4話「報告書の名前」


 重厚な扉を押し開けると、羊皮紙と古い革の匂いが鼻をついた。


 父の書斎。


 ヴァルトシュタイン公爵家が百年以上かけて積み上げてきた、記録と決断の場所だ。



 分厚い机の向こうに父がいた。


 ヴィルヘルム・フォン・ヴァルトシュタイン公爵。銀灰色の髪はほとんど白に変わっているが、背筋だけは鉄のように真っ直ぐだ。


「座れ」


 短い一言。父の言葉はいつもそうだった。説明も前置きもない。必要なことだけを言う。


 わたくしは静かに椅子を引き、腰を下ろした。



 父はしばらく、何も言わなかった。


 机の上に広げられた書類に視線を落としたまま、ゆっくりとペンを置く。


 顔を上げた瞬間、わたくしは少し驚いた。


 怒っているのではなかった。どちらかといえば疲れているような、あるいは——悲しんでいるような、目だった。


「昨夜のことは、聞いている」


 低く、静かな声だった。


「……愚かな王子だ」


 たった一言。


 でもその言葉に、父がどれほどの怒りを押し込めているか、なんとなく伝わった。


(父が人を「愚か」と言うのは珍しい。よほどのことだ)


「ご心配をおかけいたしました」


「心配ではない」


 父は首を振った。


「怒っている。お前にではなく——あの場を作り出した者どもに、だ」



 しばらく、沈黙が続いた。


 父は窓の外に目を向けた。秋の光が、白くなった髪に落ちている。


「ヴァルトシュタイン家は揺るがん」


 静かな、でも確かな声だった。


「婚約が破棄されたからといって、この家の格は変わらない。お前が汚されたわけでも、貶められたわけでもない」


「……はい」


「だが。現実の問題として」


 父は視線を戻し、真っ直ぐわたくしを見た。


「新しい縁談を探す。私の人脈を使えば、釣り合いのとれる相手はまだいる。時間はかかるが、焦ることはない」


 誠実な提案だった。ヴァルトシュタイン公爵の人脈は広い。本気で動けば、一年以内に良縁を見つけられるだろう。


 それがこの世界の「正しい解決策」だということも、わかっている。



 でも。


 わたくしはゆっくりと、息を吸った。


「お父様」


「なんだ」


「少し、お時間をいただけませんか」


 父の眉がわずかに動いた。


「縁談のことも、今後のことも——わたくし自身で考えさせてください」


 書斎の空気が、少し変わった気がした。


 父が何かを言いかけて、止まる。わたくしは続けた。


「自分の道は、自分で見つけたいのです。ヴァルトシュタインの名に恥じない選択を、わたくし自身がいたします」


(言い切った。後悔はない。でも父の顔が読めない)



 沈黙が、長く続いた。


 父は机の上で指を組んだ。何かを考えているのか、あるいはすでに答えを出していて、言葉を選んでいるのか。


 わたくしはじっと待った。


「……エリナ」


「はい」


「お前は、いつからそんな顔をするようになった」


 意外な言葉だった。


「そんな顔、とは」


「迷っていない顔だ」


 父は静かに言った。


「子供の頃のお前は、いつも儂の顔色を——いや、私の顔色を見ていた。正解を探すような目をしていた。それが今は、自分の中に答えを持っている目をしている」


(……お父様、そんなことを見ていたのか)


 胸の奥が、少しだけ痛くなった。


「……昨夜から、いろいろと考えました。この先をどうするか。何を望んで、どこへ向かうか。まだ全部は見えていませんが——じっとしている気には、なれませんでした」


 父は長い沈黙の後、一度だけ目を閉じた。


 そして、静かに言った。


「……お前がそう決めたのなら」


 間があった。


「儂は——私は、信じよう」



 書斎を出ると、廊下がやけに広く感じた。


 張り詰めていた何かが、ふっと緩んだのかもしれない。


(お父様が信じると言ってくれた。それだけで、十分だ)


 前世の転職活動では、誰も「信じている」とは言ってくれなかった。会社は数字しか見ない。成果を出せば評価され、出せなければ終わりだった。


 だからこそ、父の一言が思いのほか、じんわりと胸の奥に沁みた。



 一人になりたかった。


 書庫に足を向けたのは、半ば本能的なことだった。


 ヴァルトシュタイン家の書庫は広い。王国各地の報告書、交易記録、領地の管理資料——公爵家が数代にわたって積み上げてきた情報が、棚の上に眠っている。


 こういう場所が、わたくしは昔から好きだった。静かで、整然としていて、数字と事実だけが並んでいる。感情が入り込む余地がない。



 書棚に沿って歩きながら、何気なく背表紙を眺めていた。


 王都近郊の農業報告書。南方交易路の収支記録。西部鉱山の産出量推移——


 そのとき、一冊の表紙に目が留まった。


「グラフ辺境伯領 現状報告」


(辺境……)


 手が止まった。なんとなく引き出して、ページをめくる。


 最初の数ページで、わたくしは眉をひそめた。



 問題は四つあった。


 一つ。食料不足。寒冷地のため農作物が限られ、冬になると深刻になる。三年前の報告には「餓死者が出た」という記述まであった。ただし、問題の根本は農地の少なさではなく、保存技術にある。収穫はされている。冬までに傷むのだ。


 二つ。人材不足。王都から遠すぎて、若い人間が仕事を求めて都市部へ流出していく。残るのは高齢者と子供ばかり。鍛冶師、薬草師、文官——専門職の数が、領地の規模に対して明らかに足りない。


 三つ。未開発の鉱山。北東部の山域に、鉱脈の可能性を示す地質が確認されている。だが予算と人員の不足で調査には至っていない。報告書の片隅に小さく記されたその一文に、わたくしは思わず赤字で丸をつけたくなった。


 四つ。交易路の未整備。主要都市との物流の経費が、普通の領地の二倍以上。輸送に日数がかかりすぎて生鮮品が傷む。だから王都との取引が成立しない。だから収入が増えない。悪循環だった。


(問題が連鎖している。でも、それは裏を返せば——)


 誰もまだ本気で手を入れていない土地だということだ。


 競合がいない。先に動いた者が、そのまま道を作れる。


(数字は悪い。でも資源はある。人は……育てればいい)



 報告書を繰りながら、ある名前が何度も出てくることに気づいた。


「辺境伯カイン・ドラクロワの指揮のもと、村落の護衛体制を再編した」


「辺境伯自らが現地へ赴き、水路の修繕作業を指揮した」


「冬の物資不足にあたり、辺境伯より自領の備蓄の一部を村人へ無償で提供した」


(……自分で動く人だ)


 指示するだけでなく、現場に出る。それだけでも信用に足る。


 報告書の別の箇所に、もう一つの記述があった。


「吹雪の中、辺境伯が自ら馬で薬を届けた」


 たった一行。でもその一行が語るものは、数字より雄弁だった。



 数字は悪い。だが、治安の項目だけは妙に安定していた。


 民への信頼が、数字に出ている。それは、作り物にはできない。


 気がつくと、報告書の最初のページに戻っていた。


 もう一度、最初から。


 一晩かけて、三年分を読み通す——そう決めたのは、ほとんど無意識だった。


 ヨハンナが書庫の入り口に現れたのは、陽がすっかり傾いた頃だった。


「……お嬢様」


 声に、ため息が混じっている。


「書庫でお食事はいかがなものかと、毎回申し上げているのですが」


「ごめんなさい、ヨハンナ。もう少しだけ」


 銀のトレイを持ったヨハンナが、呆れ顔のまま机の端にパンとスープを置いた。


「『もう少し』は先ほどもおっしゃっていましたよ」



 窓の外がすっかり暗くなっても、わたくしは報告書を閉じなかった。


 蝋燭の灯りの下で、羊皮紙をめくり続ける。


 三年分の記録。農業報告、人口動態、物流記録、治安報告。それぞれの数字を突き合わせ、メモを取り、全体の構造を頭の中に組み上げていく。


 すべてを読み終えたのは、空が白み始めた頃だった。


 机に並んだ冊子をきれいに重ね直して、わたくしは椅子に深く座り直した。背中が少し痛い。同じ姿勢で読み続けていた証拠だ。


 目を閉じて、整理する。


 そして最後に、報告書の末尾に記された署名をもう一度見た。


「グラフ辺境伯領 領主 カイン・ドラクロワ」



「カイン・ドラクロワ」


 声に出してみた。


 蝋燭の灯りがゆらりと揺れる、静かな書庫の中で、その名前はどこか——一度聞いたら忘れないような質感を持っていた。


 吹雪の中を馬で薬を届けた男。自領の備蓄を村人に配った男。数字は飾らず、文体は正直で、現場には自分で立つ。


(どんな人なのだろう)


 胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなった。


 恋愛的な意味ではない。もっと実務的な、純粋な関心として——この名前の主に、会ってみたいと思った。


(まだ何も決まっていない。ただの報告書を読んだだけだ)


 わたくしはそう自分に言い聞かせながら、メモ用紙を一枚取り出した。


 辺境伯領の四つの課題と、その裏にある可能性。それを、父と兄に伝えるための整理を始めなければならない。


 朝の光が書庫の窓から差し込み始めていた。


 空は高く、澄んでいて——昨夜までの重さが、不思議と軽くなっていた。


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