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婚約破棄されたので辺境で好きに生きます〜なぜか辺境伯に溺愛されていますが〜  作者: きなこ
第1章「堕ちた令嬢と辺境の扉」

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第3話「ありがとうございます、殿下」

第3話「ありがとうございます、殿下」


 足音が、ひとつ。


 大理石の床に、わたくしの靴音が落ちた。


 広間の全員が、息を止めた。



 壇上まで、あと十歩ほど。


 歩くたびに靴音が響く。それだけが、静まりかえった空間に存在していた。


(心臓がうるさい)


 ドクドクと耳の奥で鳴っている。でも足は止めない。


(止めてどうする。ここで立ち止まったら、何になる)


 視線が——広間のすみずみから集まってくる。扇の陰から。グラスの向こうから。ざわめきの隙間から。


 全員が「どう崩れるか」を待っていた。



 壇上の前に立ち、わたくしは止まった。


 アルフレート殿下が、目の前にいる。その隣にメリア嬢。白いドレス。潤んだ瞳。


 わたくしはゆっくりと息を吸った。声が震えないよう。表情が崩れないよう。


 ほんの一瞬だけ、喉の奥が熱くなった。


 それを——飲み込んだ。


(泣くのは、後でできる。今はまだ、ここで泣く場面じゃない)


「婚約破棄のご宣言、謹んでお受けいたします」


 声は出た。自分でも驚くほど、落ち着いた声だった。


「ご縁がなかったということで——どうかご健勝に」


 深々と礼をした。完璧な、公爵令嬢の礼を。



 一秒。二秒。三秒。


 広間に小さなざわめきが生まれた。


「……え?」


「怒らないの?」


「なぜ、泣かないの?」


 声は全部聞こえていた。


(聞こえていますよ。でも、どちらも差し上げる気はありませんので)


「……エリナ」


 殿下が口を開いた。声に戸惑いがあった。


「お前は、何も言うことはないのか」


 わたくしは顔を上げ、まっすぐ殿下の目を見た。


「わたくしから申し上げることは、特にございません」


「……なぜだ」


「なぜ、とは?」


「なぜそんな顔で——」


 殿下の言葉が途中で止まった。


(あ。自分が何を言おうとしたか、わからなくなった顔だ)


 殿下は「エリナが取り乱す」と信じていた。取り乱すわたくしを見て、「自分は正しいことをした」と確認するつもりだったのだ。



 視線を横にずらした。


 メリア嬢と、目が合った。


 一瞬。本当にほんの一瞬だった。


 メリア嬢の笑顔の仮面の下から、別の何かが滲んだ。焦り、と呼ぶのが近いかもしれない。


(計算が狂った顔をしている。エリナが泣いて暴れてくれれば、「可哀想なメリア」を演じることができた。でも、これでは——)


 その先は考えなかった。今夜の「答え合わせ」は、また別の機会でいい。



 わたくしはもう一度だけ殿下に礼をした。


「——ありがとうございます、殿下」


 広間が、ざわりと揺れた。


 殿下の表情が固まった。何を言われたのか、理解が追いついていない顔だった。


「それでは、失礼いたします」


 踵を返した。


 背中はまっすぐ。肩は落とさない。歩幅は普通に。急がない。でも止まらない。


(背中を見せるなら、綺麗な背中を見せなさい)


 前世の母の言葉だった。母から受け取った数少ないまともな教えが、今ここで支えになるとは思わなかった。


 広間の中央を歩いた。視線が追ってくる。ざわめきが波のように広がっていく。


(聞こえている。全部聞こえている)


(でも——振り返らない)


 扉が近づいた。会場の空気がわたくしの背中に貼り付くような感覚があった。


 それでも、一度も振り返らなかった。



 扉を抜けた瞬間、喧騒が遠くなった。


「エリナお嬢様」


 ヨハンナが立っていた。


 いつもの通りのヨハンナだった。エプロンに一分の乱れもなく、姿勢は完璧に正しく、表情は——穏やかだった。


「帰りましょう。明日からやることが山ほどあるので」


「……承知いたしました」


 ヨハンナは静かに頭を下げた。


「馬車のご用意をしてございます」


(もう用意していたのか)


 胸の奥で、何かが緩んだ。小さく、ほんの少しだけ。でもそれは今夜初めて緩んだものだった。



 馬車に乗り込み、座席に腰を落とした。向かいにヨハンナが静かに座る。


 馬車が動き出した。王城の灯りが窓の外でゆっくりと遠ざかっていく。


 しばらく、誰も何も言わなかった。車輪が石畳を踏む音だけが響いていた。


 ふと、自分の手を見た。


 手袋の下で——指先が、冷たくなっていた。


 それでも——泣いてはいなかった。


 感情がないわけでも、傷ついていないわけでもない。


(泣くのは、もう少し後でいい。今はもっと大事なことがある)


「さて」


 小さく呟いた。窓の外を見たまま、自分に言い聞かせるように。


「第二の人生の計画書を、作りましょうか」


 ヨハンナが静かに顔を上げた。何も言わなかった。


 でもその目が——少しだけ細くなった。泣きそうな顔だ、とわたくしは思った。


(泣かないで、ヨハンナ。わたくしが泣けなくなってしまうから)


 街の灯りがどんどん遠くなっていく。まぶたの奥が熱い。でも目には涙はなかった。


 手袋の下で、指先がまだ冷たかった。



 広間の喧騒が遠くなった。


 私室に戻ったアルフレートは、外套を椅子に投げた。


「……これでよかったのだ」


 声に出して言った。言わなければそう思えなかったから。


 脳裏に——深い紫紺の瞳が浮かんだ。怒りに震えるでもなく、ただ静かに微笑んでいた瞳。


 「謹んでお受けいたします」


 あの声が、消えない。



 翌朝。


 目が覚めたとき、一瞬だけ——夢だったのかもしれない、と思った。


 でも鏡台の前に座った瞬間、全てが戻ってきた。


 目の下にうっすらとくまが出ていた。


(泣いたのだろうか。正直、覚えていない。帰ってから寝室に入るまでの記憶が、少しぼんやりしている)


 少なくとも意識がある間は泣かなかった。それは確かだ。



 朝食の後、若い使用人が手紙の束を運んできた。十三通。


 全て開いた。


「——今後のお付き合いを、遠慮させていただきたく」


「——ご縁はここまでということで」


(来るものは来ましたわ)


 公の場で婚約を破棄された令嬢。その事実だけが独り歩きする。わたくしが何を言ったか、どう振る舞ったかなど確認する人間は少数だ。


 三行で整理した。予想通りの絶縁。予想外の絶縁はない。送ってこなかった人もいる——それは覚えておこう。


 封書をまとめて引き出しにしまった。今日のタスクはこれではない。



 クラウス兄様の書斎に向かった。


 扉の前まで来たとき、廊下にまで空気の重さが漏れていた。使用人が廊下でそっと目を伏せて立っている。


(かなり荒れているな)


 扉を開けた。


 兄様は書斎の窓際に立っていた。背中から怒りが滲んでいる。


 目を向けると——書き物机の重厚な縁が、わずかに歪んでいた。


(殴ったのか。あの厚みのある机を)


「おはようございます、お兄様」


 兄が振り返った。目が合った瞬間、怒りの温度が一段下がった。


「……エリナ」


「昨夜はよく眠れましたか」


「眠れるわけがないだろ」


 兄の視線が、一瞬わたくしの目元に止まった。


「……お前、泣いたのか」


「覚えていないのですが、泣いていたかもしれません」


 正直に答えると、兄の眉間に深い線が刻まれた。


「あの王子。俺が直接——」


「逆効果です」


 はっきりと言った。兄の目が鋭くなった。


「……なぜだ」


「今、お兄様が殿下に直接何かをすれば、ヴァルトシュタイン家が『逆恨みをした』と見なされます」


 兄は何も言わなかった。でも聞いていた。


「わたくしが毅然と振る舞えたからこそ、昨夜の印象は『騒がなかった令嬢』で止まっています。そこへお兄様が感情的に動けば、今度は——『家全体が怒り狂っている』という話になる」


「……」


「社交界というのは、そういうものです」


 兄は長い沈黙の後、大きく息を吐いた。


「……わかった。今は動かない」


「ありがとうございます」


「でも」


 兄が低い声で続けた。


「じゃあどうするんだ、エリナ。お前、これからどうするつもりだ」


(お兄様は、ずっとそれを聞きたかったのだ。怒りではなく、心配から来ている問い)


 わたくしは少しだけ間を置いた。


「それを今日、父様にご報告しようと思っています」


「父上に?」


「先ほど呼び出しがございましたので」



 公爵の書斎は、邸の一番奥にある。


 廊下を歩きながら、わたくしは静かに考えを整理した。


 父——ヴィルヘルム・フォン・ヴァルトシュタイン。厳格で無口、感情を顔に出さない人。でも不公正なことを嫌う。それは確かだった。


(昨夜から考えていたことがある。まだ誰にも言っていない。今日、初めて口にすることになる)


 書斎の扉の前に着いた。


 深呼吸を一つ。


 ノックをした。


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