第2話「秋の収穫大舞踏会」
第2話「秋の収穫大舞踏会」
王城の大広間に入った瞬間、光の洪水に包まれた。
天井から下がるシャンデリアが、数百本のろうそくの炎を増幅させている。磨き抜かれた大理石の床が、その全てを受け止めて足元に金色の池を作っていた。
弦楽四重奏の音色が、空気に溶け込むように響く。
この国で最も格式の高い舞踏会——「秋の収穫大舞踏会」は、今年も変わらず美しかった。
深い紺青のドレスの裾が、歩くたびに揺れる。
首元にはヴァルトシュタイン家の紋章が刻まれたブローチだけ。飾りすぎない。圧をかけすぎない。
広間の中心では、すでに多くの貴族たちがグラスを傾けていた。秋の花で飾られたアーチの向こう、長いテーブルには収穫祭にちなんだ料理が並んでいる。
壇上の隅で、シュテファン第一王子が静かに広間を見渡していた。こちらに一瞬だけ視線を向けたが、何も言わずに目を逸らした。その横顔は、弟の振る舞いをすべて見ていて、何も言わないと決めた人のものだった。
そして——その舞台の中央に、アルフレート殿下がいた。
金髪がシャンデリアの光によく映えている。整った顔立ち。宝石を散りばめた礼服。王子として申し分のない佇まい。
ただ、その隣には常にメリア・シュヴァルツがいた。
殿下がどこへ移動しても、メリア嬢がそばにいる。令嬢たちに挨拶をするときも。グラスを傾けるときも。
そして——わたくしとは、一度も目が合わなかった。
会場の隅のほうで、扇の陰からひそひそとした声がした。
「——ご覧なさいよ、殿下とメリア嬢が」
「可哀想に。公爵令嬢がああいう目に遭うなんて」
(……聞こえていますよ。全部)
わたくしは内心でそっと息を吐いた。
会場の空気が知っている。わたくしとアルフレート殿下の間に、もう何も残っていないことを。
(ここにいる全員がうすうす気づいていて、でも誰も何も言わない。その空気が、いちばん堪える)
前世の職場でもあった。何かが決まった後で、当事者だけが最後に知らされるやつだ。
背筋を伸ばす。微笑みを崩さない。それだけで、ずいぶん違う。前世で身につけた唯一の処世術——「表情を手放すな」。
テーブルの近くに移動して、葡萄酒のグラスを受け取ったときだった。
軽やかで計算されたリズムの足音が近づいてくる。
「エリナ様」
メリア嬢だった。
明るい栗色の髪を柔らかく結い上げ、白いドレスをまとった小柄な少女。潤んだ緑の瞳が、蜜のように甘い笑みを浮かべている。
「今夜もお美しいですわ。そのドレスのお色、とても素敵」
「ありがとうございます、メリア様」
わたくしも微笑んだ。互いに笑顔だった。
「わたし、エリナ様にいつもどきどきしてしまいますの。こんなに堂々となさって……わたしには、とてもできませんわ」
そう言いながら、メリア嬢はさりげなく——ごく自然に——その細い手をアルフレート殿下の腕に添えた。
いつの間にか、殿下が隣に来ていたのだ。
(位置を計算していたんだ、この人。さっきから。すごいな、と思ってしまう自分がいる)
殿下はメリア嬢が寄り添うのを、当然のことのように受け入れていた。
「エリナ。今夜はよく来た」
(……それだけ? 婚約者に「よく来た」とは、ずいぶんな言い草ですわね)
わたくしは丁寧に礼をした。殿下とメリア嬢が、次の挨拶相手へと移っていく。
その後ろ姿を見送りながら、グラスを置いた。
広間のざわめきが、変わった。
弦楽が、するりと止んだ。
人々の視線がひとつの方向に集まっていく。壇上だった。
アルフレート殿下が立っている。拡声の魔法もなく——ただ立っていた。でもその姿には、確かな「これから何か言う」という圧があった。
広間が静まっていく。
「皆に、伝えたいことがある」
殿下の声が広間に落ちた瞬間、空気が変わった。
(来た)
心臓が跳ねた。予想していたはずなのに、胸の中で何かが縮んだ。
「余は今宵、皆の前で宣言する」
誰かが息を呑む音がした。
「余とエリナ・フォン・ヴァルトシュタインとの婚約を——破棄する」
完全な静寂だった。
グラスを持つ指先がこわばった。わたくしは意識して手に力を込めた。
(震えるな。ここで震えたら、全部負けだ)
百人以上の貴族が、今この瞬間、わたくしを見ている。あるいは——見ていない振りをして、見ている。
「この婚約は、余の意志で決まったものではない」
殿下の声は迷いなく続く。
「だが、真実の愛を知った今——偽りの関係を続けることはできない」
(偽りの関係、ね)
ひどい言い方だ、とは思った。婚約期間、わたくしは一度も偽りの感情を見せたことはない。ただ誠実であろうとしていた。
でも、殿下には届いていなかったのだろう。
「紹介しよう。余の隣に立つ者——メリア・シュヴァルツ。聖なる光の使い手であり、余の真実の愛の相手だ」
広間にざわめきが走った。
メリア嬢が殿下の隣で静かに目を伏せた。白いドレス。潤んだ瞳。
「わたし……こんなこと、望んでいませんでしたの」
細い声でそう言った。
「アルフレート様のお気持ちは、ありがたく思っておりますけれど……エリナ様がどれほど傷つかれるかと思うと——」
その瞬間、メリア嬢の胸元から淡い光が滲んだ。
ふわりと、白く柔らかな光が胸の辺りから一瞬だけ漏れた。
(——また、胸元だけだ)
以前にも見た。聖光は術者の全身か、手のひらから発されるもの。胸元の一点から漏れる光というのは——
(覚えておこう。この違和感は、捨てない)
「エリナは——冷たく、心のない令嬢だ」
殿下の声に、怒りのような感情が混じっていた。
「余が何を求めても、あの瞳は動かなかった。笑顔はあった。礼儀も完璧だった。だが——そこに温かさはなかった」
(そういう見え方をしていたのか)
確かに、わたくしは殿下に恋愛感情を持っていなかった。持てなかった、と言う方が正確かもしれない。
でも冷たくしていたつもりはない。殿下は、わたくしの誠実さを冷たさと見ていたのだ。
(この人は「熱量」で人を測るんだ。メリア嬢の演技はその熱量を完璧に偽造できる。わたくしの誠実さには、演技の温度がなかった)
悔しいかと言われたら——少し、悔しかった。惨めかと言われたら——少し、惨めだった。
その瞬間、横から足音がした。
速い足音。怒りをはらんだ、制御しきれていない足音。
「殿下」
クラウス兄様の声だった。
「一体、何をおっしゃっているのですか」
兄様が、わたくしの前に出ようとした。
わたくしは反射的に右手を伸ばした。
兄様の袖を、静かに掴む。
「……お兄様」
名前だけ呼んだ。
「大丈夫ですわ」
声は穏やかに出せた。でも指に込めた力は、自分でも驚くほど強かった。
(震えそうになる分を、ここに逃がしているのかもしれない)
兄様がわたくしを振り返った。薄い青紫の瞳が、一瞬大きく開く。
わたくしの顔に、何かを読んだのだと思う。
それからゆっくりと奥歯を噛みしめ、足を止めた。
わたくしは兄様の手に、自分の手を重ねた。一瞬だけ。それだけで伝わると信じて。
(お兄様が怒ってくれることが——救いです)
広間の視線が、わたくしに集まっていた。
婚約破棄を宣言された当人が、どんな顔をしているか。泣くのか。取り乱すのか。それとも——
(ここで取り乱したら、負けだ)
深呼吸を一つ。肺の奥まで空気を入れる。
会場の空気は、緊張と好奇心と、わずかな憐れみで満ちていた。
(憐れみは、いらない)
視線の重さを背中で受け止めながら、わたくしはゆっくりと——壇上へ向かって、一歩を踏み出した。
紺青のドレスの裾が、大理石の床を静かに滑る。
百の視線の中を歩くのは、前世の会議室より、ずっと長い距離だった。




