第1話「その日、前世の記憶が蘇った」
はじめまして。お読みいただきありがとうございます。
婚約破棄された公爵令嬢が辺境で第二の人生を歩む物語です。
ざまぁ・溺愛・ハッピーエンド確約。安心してお読みください。
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第1話「その日、前世の記憶が蘇った」
死んだ、と思った。
白い明かりに照らされた天井。積み上がった書類。デスクに突っ伏したまま、二度と目を覚まさなかった自分のことを。
それが誰かの記憶だと気づくまで、少し時間がかかった。
全ての始まりは、高熱だった。
18歳の誕生日、その前夜のことだ。
わたくしは布団の中で、体が燃えるような熱に浮かされていた。
額に冷たい手ぬぐいを当てようとするヨハンナの声も、遠くに聞こえる。
「お嬢様、しっかりなさいませ」
ヨハンナの声は聞こえている。
でも、瞼が重くて開けられない。
意識が、引っ張られていく。
深い、深い、暗い場所へ……。
気づいたときには、洪水だった。
見知らぬ光景が、次々と溢れ出す。
白い明かりに満ちた天井。
夜中の事務所。
画面の光だけを頼りに、キーボードを叩き続ける細い指。
朝の混雑の中、人波に押しつけられて息もできない通勤の日々。
「もう少し頑張れば終わるから」と言い聞かせながら、また残業する夜。
そして——。
ふと気づいたら、誰もいない事務所のデスクで、ぱたりと。
……26歳で、過労死した。
ぱちり、と目が開いた。
天蓋付きのベッドと、柔らかなシーツ。窓の外には星空が広がっている。
これはわたくしの部屋だ。
ヴァルトシュタイン公爵家の、エリナ・フォン・ヴァルトシュタインの部屋。
……わたくしは「エリナ」であると同時に、かつて日本のどこかで働いて死んだ、名もないOLだった。
(あー……。これが「前世の記憶」ってやつ、か)
頭の中が、二重になっている感覚。
「エリナ」としての18年間の記憶と、「前世」の26年間の記憶が、ぐちゃぐちゃに混ざり合って——でも、どちらも確かに「自分」のものだった。
「お嬢様! お目覚めですか!?」
ヨハンナが飛び込んできた。
白髪交じりの髪をきっちりとまとめた、がっしりした体格の女性。
その茶色の瞳が、心底ほっとした光を宿している。
「……ヨハンナ」
「よかった。熱が三日も続いておりましたから、本当に心配いたしました」
三日。
(三日も寝てたの。そういえば体が重い……)
「お水を」とわたくしは言った。
ヨハンナが素早くグラスを差し出す。
飲み干すと、少し頭がはっきりしてきた。
ヨハンナがお茶の準備を始めながら、そっと聞いてくる。
「……何か、悪い夢でも? 夢の中でうなされているご様子でしたから」
悪い夢。
そうとも言えるし、そうでないとも言える。
「少し、不思議な夢を見ましたわ」
わたくしは、正直にそれだけ言った。
ヨハンナは「そうでございますか」と静かに微笑んで、それ以上は聞かなかった。
この人の、この聞き分けのよさがとても好きだ。
(……好きだ、か。以前のわたしには、こんなに気を遣ってくれる人はいなかったな)
ヨハンナが差し出したのは、温かいカモミールティーだった。
少し甘い、柔らかな香り。
「お嬢様がお熱のときは、いつもこれでございますよ」
「……ありがとう」
カップを両手で包み込んで、ゆっくりと口をつける。
じわ、と体の内側から温もりが広がっていく。
気がつくと、わたくしの目に、じんわりと熱いものが浮かんでいた。
(あれ。泣きそう)
なんで泣きそうなんだろう。
前世では、誰かにこうして心配してもらったことなんて、ほとんどなかったから。
熱を出しても、一人で薬を買って、一人で飲んで、次の朝また出社して。
それが当たり前だと思っていた。
(……次はそういう生き方をしなくてよかったのかも。いや、もう十分したか)
お茶が半分空になった頃、わたくしは、ゆっくりと記憶を整理し始めた。
前世の自分が残してくれたものは何か。
数字を読む勘と、交渉の感覚。そして「なんとかなる」というしぶとい精神力。
それから——一人で抱え込みすぎた、という教訓。
(あの轍は、踏まないようにしよう)
心の中で、静かにそう決めた。
今世のエリナの記憶も、改めて確認していく。
ヴァルトシュタイン公爵家の令嬢として、18年間を過ごしてきた。
王立学院に通い、礼儀作法を学び、社交界にデビューして。
そして——王国第二王子、アルフレート・フォン・ルヴェンタールの婚約者として、今日まで生きてきた。
(婚約者ねぇ……)
ちなみに、王子の対極にいるのが北の辺境伯らしい。武骨で無口で、宮廷行事にも滅多に顔を出さない変わり者だとか。社交界では「辺境の熊」と呼ばれていると聞いたことがある。
好意があるかといえば……あまりなかった、というのが正直なところだ。
王子は確かに顔が整っている。けれど、人の話を聞かないし、自分が正しいと思ったら誰の意見も耳に入らない。
(味方の言葉に耳を貸さない人は、いずれ足元を掬われる)
記憶を整理しながら、窓の外を見る。
夜空に星が広がっている。
冷たく、澄んだ、秋の空気。
この世界に生まれて18年。
今夜、前世の記憶とともに、もう一度「生まれ直した」気持ちがした。
(今度こそ。ちゃんと生きよう。誰かのためだけじゃなく——自分のために、ちゃんと)
それがどんな形になるのかは、まだわからない。でも、わたくしの中にある力は、ここでも使えるはずだ。
「ヨハンナ」
「はい、お嬢様」
「お茶、とても美味しかったわ。ありがとう」
ヨハンナが、ふわりと表情をほどく。
「もう一杯、いかがでございますか」
「ええ、お願いしますわ」
わたくしは、もう一度カップを両手で包み込んだ。
かつてのわたしには、こんな穏やかな夜があっただろうか。
誰かが淹れてくれたお茶を、感謝しながら飲む夜が。
(なかったかもな。……でも、今はある)
それだけで、少し、泣きそうになってしまうのが、われながらみっともないと思う。
やがて、ふと気づいた。
明日のことを。
二杯目のお茶を飲みながら、わたくしは静かに呟いた。
「……そういえば明日は、秋の収穫大舞踏会ですわね」
ヨハンナの手が、一瞬止まった。
「……はい。お嬢様が万全な状態でいらっしゃるか、少し心配しておりましたが……」
「大丈夫。行けますわ」
わたくしは微笑んで、窓の外の星空を見た。
収穫大舞踏会。
王国で最も格式の高い、秋の大舞踏会。
国王・王妃も出席する、年に一度の晴れ舞台。
そして——あの王子と踊らなければならない日。
(あの王子と、か。……最近、やけにメリア嬢に入れ込んでいるとは聞いていたけれど)
そういえば。
社交界では、わたくしのことを"冷徹な令嬢"と呼ぶ人がいるらしい。
笑顔が少なくて、感情を表に出さなくて——何を考えているかわからない、と。
(……"悪役"みたいな評判だな、わたくし)
自分で思っても、少し笑えた。
胸の奥で、勘がひっそりと動いた。
こういう構図には覚えがある。誰かに入れ込んで、周りが見えなくなって——だいたい、ろくなことにならないパターンだ。
——まあ。
なったところで、なんとかなる。
(転んでもただでは起きない。それが、わたしの生き方ですから)
お茶の最後の一口を飲み干して、わたくしはゆっくりと目を閉じた。
明日のことは、明日考えればいい。
今夜は——ちゃんと眠れそうだった。
カモミールの香りが、部屋にやわらかく漂っていた。
外では風が鳴っている。
秋の夜は静かで、少し冷たくて、空気だけがどこか優しかった。
わたくしは、この世界で、もう一度生き始める。
今度こそ、ちゃんと。
——そして翌日、秋の収穫大舞踏会の会場で、わたくしは知ることになる。
あの王子が、何を決断したかを。
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