28.「私の正体」
「ど、どういうことなの? ……この写真はなに?」
私は最後のページにあった写真を前に、思わず声を上げた。
紘人さんが写っている。それはいい。けれど、その隣で寄り添う見知らぬ女性、そして紘人さんの腕に大切そうに抱きかかえられた少女――彼女たちは一体誰なのか。
脳が理解を拒もうとしている。心臓はバクンバクンと、苦しくなるほど激しく鳴っている気がした。
もう、後戻りはできない――私は、知ってはいけないことを知ってしまったのだ。
「ハァ、ハァ……そうだ、これはいつ撮られた写真なの? む、昔撮られた写真の可能性だって……」
呼吸が荒くなる。いや、薄々答えを知っているからこそ、目を背けるように別の可能性を探した。
心なしか、写真に写った紘人さんの顔は今とほとんど変わっていない気がした。
「あっ、よく見ればアルバムに日付が書いてある……なになに……20XX年5月5日!? つまり今年の写真じゃない!!」
今日は20XX年8月8日。
つまり、今から約三ヶ月前にこの写真は撮られた。紘人さんとその家族と思われる姿が。
(紘人さんには、少なくとも三ヶ月前には家族がいた……。だとしたら、今まで〝妻〟だと名乗っていたあの人は一体誰なの? そして写真の中の妻と娘は、今どこにいるの?)
「愛華さん……そこで何をしているの?」
背後から声がした。
今、この状況で最も会いたくなかった人の声だ。
ゆっくりと、恐る恐る振り返ると――
「……紗綾さん?」
紗綾さんが部屋の入口に立っていた。視線はアルバムへと向けられている。
「そのアルバム……その顔、あちゃ~~ついに見ちゃったのね。最後のページ。さっさと処分しとくべきだったわ」
「えっ!?」
「それに駄目じゃない? 人のプライベートを勝手に覗くなんて。そもそも二階には上がっちゃ駄目って言ったはずでしょ?」
「まったく、遅いと思って様子を見に来てみたら……こんなところにいたなんて。ほら、そろそろ戻りなさい。もうすぐ夕飯ができるわよ」
知ってはいけないことを知ったはずなのに、紗綾さんの反応は意外なほど軽かった。
ロロポートの一件のように怒り狂うか、問答無用で襲ってくるかと覚悟していたのに――何事もなかったかのように階段を降りようとする。
だけど――
「あの……待ってください紗綾さん! この写真についてなんですけど……」
ここまで来たら後戻りはできない。
なら、どうしてもはっきりさせたい――たとえ、その結果死ぬことになったとしても。
「この写真……どう見ても紘人さんですよね? もし紘人さんが別の人と家族を持っていたのなら、あなたは妻じゃないということに」
「……それで?」
「それでって……じゃあ、あなたは一体誰なんですか? それに、この写真に写っている母と娘は、どうなったんですか?」
「……そんなこと、あなたが知る必要はないわ」
紗綾さんはまるで話す気がないようだった。だけど、私は一つの可能性をぶつけてみた。
「も、もし紘人さんが生前、あなたと面識があったとしたら……あなたは紘人さんの〝不倫相手〟だったのでは?」
紘人さんは家族を持っていた。それでも紗綾さんが紘人さんを好きで、今では夫婦のフリをしているなら、それは当然考えられる可能性だ。
すると紗綾さんは――
「何ですって……不倫? 不倫相手と言ったの? ふ、ふざけないで! 夫が不倫するような人なわけないでしょ!!」
「夫を侮辱するなら、あなたといえども許さないわよ!」
突如ヒステリックになる紗綾さん。その迫力に私は押される。
「ただね……不倫するような人ではないけど、間違った相手を愛しただけなのよ。夫は」
紗綾さんは遠い目をして言った。
「間違った相手……?」
私は意味がわからず聞き返した。
すると、紗綾さんは腕を組み、何かを思い浮かべるようにジッと私を見つめた。
やがて、「ハァ~~」とため息をつく。
「どうしても知りたいのね。やっぱ、人間って思い通りに動かないから嫌になるわ。その点、感染者なら思い通りに動いてくれて可愛いものだけど」
紗綾さんはやれやれと手を振り、目を細めてから、静かに言葉を紡いだ。
「いいわ……そこまで知りたいなら話してあげる。私の正体と、その写真に写った二人のことを――」
こうして、紗綾さんの口から彼女の正体と、紘人さんの本当の妻と娘についての話が語られ始めた。
◇
私の名は――村雨紗綾。
この春から、アビス・コネクト株式会社に入社し、社会人となる。けれど、この先の人生に希望なんて持っていない。
会社で働くことが嫌なわけじゃない。むしろ人生の約3分の1を仕事というものに費やせるなら、嬉しいくらいよ。
物心ついた頃には、母は男と出ていき、私は父と二人きりで暮らしていた。
……けれど、その生活は思い出したくもないほど最悪だった。
「家庭」というものが、私にとって安らぎでも安心でもなかったのだ。
大学進学と同時に一人暮らしを始めたときは、心の底から自由を感じた。
食べたいものを、好きなときに食べていい。
観たい映画を観てもいい。
やりたくないことを、無理にしなくていい。
人から見れば些細なことかもしれない。でも、それすら許されなかった私には、夢のような日々だった。
友人関係も、特に問題はなかった。
親友と呼べる人はいなかったけれど、表面上の会話が合う友達、暇な時間を潰せるくらいの程度の人はいた。
――ただ、恋愛だけは、どうしても縁がなかった。
よく言えば整った顔立ち。でも、それだけ。
寄ってくる男は皆、見た目しか見ていなかった。まるで、あの父のように――性欲しか頭にないような男たちばかりだった。
誰一人、私の中身に踏み込もうとする者はいなかった。
だから私は、恋をしなかった。……いや、できなかった。
気づけば、生まれて22年。恋愛経験ゼロ。恋に恋する余裕すらなかった。
きっと私は、心から「幸せだ」と思える人生なんて歩めないんだろうな。――でも、それでいいやと、どこかで諦めている自分がいる。だから、この先の人生に希望なんて持っていないのよ。
「はじめまして。君が村雨紗綾さんだね? 課長の深水紘人です。よろしく。」
私の上司でもあり、教育係も務めるという深水さんだ。
真面目そうで、いい人。
仕事熱心で、私にも、他の部下にも分け隔てなく接してくれる。
今までの男たちは私をいやらしそうに見てきたのに……この人はなんか違う。
厳しいところもあるが、優しさもあって、この人の近くだと温かく感じる……なんか、いいな。
ある日の昼休み。
給湯室でカップ麺のスープを捨てようとしたとき、二人の女性社員がヒソヒソと話していた。
聞くつもりはなかったのに、声が勝手に耳へ入ってくる。
「深水さんってカッコイイよね。家庭第一でありながら、シゴデキだし――」
「本当に、奥さんが幸せよね――私もあんな人と結婚できたらいいのに……」
(結婚しているんだ……まあ、指輪していたし、わかっていたけど)
――ズキン。
そのとき、胸の奥が、妙にざわついた。
「どうした? 村雨、体調悪いのか?」
「……いえ、なんでもありません」
おかしい……深水さんの顔を直視するのが、なんだか恥ずかしい。
そして――
深水さんに会える平日が、休日よりもずっと楽しみになっていた。
……もしかして、私は、初めて恋をしている?
部下に丁寧に仕事を教える深水さん。私は、自分のデスクからその姿を、そっと見つめる。
(家庭第一……結婚……私は幸せな家庭なんて築けない。築き方も知らない)
(でも……紘人さんとなら――もしかしたら)
……運命の出会いだと思った。
このとき、私の夫になるのは、深水紘人さんしかいないと、心から確信していた。
次回で、紗綾の過去回想は終わる予定です。
ただし、内容にはショッキングな描写が含まれており、読む方によっては耐えがたいと感じるかもしれません。
読む際は、どうか覚悟のうえでお読みください。




