夏の夜桜、珠景の決意
月明かりに照らされた中庭の中心に立ち、珠景は夏の夜空を見上げる。
姫として生きた最後の日、輝く星を見る事は出来なかった。
夕陽の光を背に、底の見えない穴の中へと飛び込んだから。
静かな世界で光り輝く星を見つめ、もう一度自分の心と向き合う。
紬との出会いは、きっと偶然じゃない。
神様が用意してくれた運命的な巡り合わせなのだろう。
初めて御神体を離れて、生まれ育った地へ帰郷することが出来た。
姫としての暮らしを強要された宮殿も無く、代わりに帰る場所が用意されていた。
色歌が残した想いと共に、珠景姫の存在を受け入れてくれる人達も居る。
もし、色歌が許してくれるのなら。
この場所で、あの夏に諦めた夢を叶えたい――
迷いの雲が散っていき、希望の光が傷ついた心を優しく照らし出す。
中庭に立つ珠景は、色歌の部屋に目を向ける。
ねぇ、色歌。
四季が巡って次の夏が来るまで、私はここに咲いていたあの桜になるよ。
紬ちゃんの隣で、彼女を見守りながら生きていこうと思う。
だから、一年だけここに居させてね。
珠景は再び廊下へと上がり、厨房へと向かう。
空いたままの入り口から中に入ると、夕飯の支度をする弥栄の背中が見えた。
「あの、弥栄おばあちゃん」
弥栄は作業する手を止め、珠景に目を向ける。
「来年の夏まで、お世話になっても良いですか?」
「ここは、神島色歌の家だから。遠慮せず、自由に暮らすと良い」
「ありがとうございます」
「ここでは、あなたのお婆ちゃんだ。一人の孫として、気軽に接しておくれ」
「うん。じゃあ、よろしくね。弥栄おばあちゃん」
珠景が笑顔を見せると、弥栄も穏やかな笑みを浮かべた。
「紬が風呂から戻るまで、部屋でゆっくりしてるんだ」
「今回のこと、色歌にも報告して来る」
厨房を出た珠景は、奥から二番目の和室へと向かう。
生前に色歌が使用していたこの部屋が、珠景の新しい居場所だ。
仏壇の前に座り、色歌の写真に語りかける。
「今日から『珠景』として、現代の世界を生きてみるよ。次の誕生日を迎えた時に後悔しない為にも、この一年を全力で楽しもうと思う」
大切な報告を済ませた後、珠景は表情を緩めた。
「でもまさか、色歌の曾孫と暮らす日が来るとは思わなかったな。しかも、役割がお姉ちゃん。良いお姉ちゃんで居られるか心配だよ」
私は色歌の姉として生きてきた。
でも、今日からは紬のお姉ちゃんにもなる。
幼少期から最後の夏まで、本当の妹と過ごした日々が懐かしい。
一緒に積み重ねた思い出の数々は、かけがえのない宝物だ。
「…… 長姫制度が無い世界を見るとさ、色歌が頑張ってくれたんだなって痛感する。あの時、私は色歌に辛い思いをさせたし、伝統文化の廃止っていう難題を押し付けたじゃん。十四歳の少女に背負わせるには重すぎたよね。でも、色歌しか信じられなかった。私の事を誰よりも大切にしてくれた人だから、全てを託そうと思えたんだよ」
過去の思いを吐露した珠景は、未来への決意も声に出して伝える。
「色歌にしてあげるべきだった事を、紬ちゃんにしてあげようと思うんだ。幸せな時は静かに見守って、辛い時は誰よりも寄り添ってあげる。必要な時はちゃんと怒って、成長の為なら嫌われたって良い」
一緒に居てあげられるは一年間だけ。
先の長い紬の人生のなかでは、本当に僅かな時間でしかない。
だからこそ、成長に必要な壁にもなってあげたいのだ。
「紬ちゃんが幸せに生きられるように、影ながら支えていくよ。それが、今の私に出来る唯一の恩返しだと思うから」
穏やかな表情で色歌を見つめ、珠景は優しい声で告げる。
「もう一度生きる私を許してね」
顔の前で合掌し、亡き妹に祈りを捧げる。
姫の字を捨てた私は、もう最後の姫じゃない。
今日からは普通の女の子として、『珠景』という名で生きていく。
悲劇として完結したはずの物語が、百年越しに続きを描き始めた――




