百年越しの帰郷
「夜に泣き喚く赤ん坊は誰の孫だぁ。私の孫しかおらんか」
厨房から出て来たのは、紬の祖母である弥栄だ。
八十代になってもまだまだ元気で、民宿で提供する料理は弥栄が一人で作っている。
明るいおばあちゃんで、身体機能こそ衰えているものの、頭の回転の速さは未だに健在だ。言葉の魔法使いであり、お悩み相談にも定評がある。
「一人で泣いていると思ったら、お客さんが……」
珠景姫に目を向けた弥栄は、その場に立ち尽くす。
「……おばあちゃん?」
紬が心配そうな声を漏らすと、弥栄は表情を変えずに尋ねる。
「あんた、珠景姫か」
紬と珠景姫は言葉を失った。
重たい沈黙が、夜の空気に混じっていく。
「はい。神島珠景姫と申します。この身体は生まれ変わりの姿であり、魂そのものは生前と変わりません」
珠景姫が真面目な口調で挨拶を済ませると、弥栄は小さく手招きをした。
帰路につく予定だった珠景姫は、困惑した様子で歩み寄る。
「せっかく来たんだ。帰る前に、色歌の部屋に寄っていきなさい」
「色歌の部屋?」
「亡き母が生前に使っていた部屋だ。紬もおいで」
廊下に立つ弥栄は、居住部屋の一室に入っていった。
残された二人も中庭から廊下へと上がり、色歌の部屋へと向かう。
仏壇が置かれた和室に入ると、正座した弥栄が待っていた。
紬と珠景姫も、弥栄と向き合うようにして座る。
「自己紹介がまだでしたね」
丁寧な口調で話を切り出した弥栄は、珠景姫に向かって深々と座礼をした。
「神島色歌の娘、弥栄でございます。お会い出来て光栄ですよ」
「色歌の娘……つまり、私の姪ってことですか?」
「えぇ。母より、お話は良く聞いておりました。まさか、こうした形で会えるとは思いもしなかったもんで、正直驚いております」
関係性がややこしくなっているが、整理すると次のようになる。
・弥栄は珠景姫の姪であり、紬の祖母
・紬は弥栄の孫であり、珠景姫の曾姪孫(姪の孫)
・珠景姫は弥栄の伯母であり、紬の曾祖伯母(曾祖母の姉)
つまり、十七歳止まりの珠景姫は、八十代の弥栄よりも目上の存在という事だ。
それを理解している弥栄は、丁寧な言葉で話しているのだろう。しかし、珠景姫の容姿があまりにも若々しいので、第三者として眺める紬は違和感を覚えてしまう。
「あのさ……一回、ここでの立場をハッキリさせない?」
「十七歳として生きるか、先祖として生きるか。そういう事?」
「うん。それを決めないと、色々とややこしいかなって」
「そうだね。じゃあ……」
顎に指を置いて考え始める。
悩む姿さえ絵になるのだから、珠景姫の美貌には敵わない。
しばらく考えた後、珠景姫は口を開いた。
「十七歳の『珠景』として、ここでは過ごすよ」
今まで背負ってきた『姫』を外し、『珠景』と名を改める。
その意図は分からないが、紬にとっては嬉しい選択だった。
この出会いを、奇跡で終わらせたくない。
もしも、仲良くなれるのなら、その機会を逃したくない。だから――
「嬉しいっ」
子供のような笑顔を見せる紬に、珠景は困ったように告げる。
「あくまで、二人と会う時の話だよ。もう少ししたら、御神体へ帰るし」
「え……何で?」
「何でって……私は一度死んだ身だし、今の神島家にお世話になる訳にはいかないでしょ? それに、今日は紬ちゃんを送り届ける為に来た訳だからさ」
返す言葉が見つからない紬を見て、弥栄が代わりに会話を繋いでくれた。
「御神体に居るのは、他に行く場所が無いから。そうでしょ?」
「そうですけど……」
「あの場所を離れて問題が無いなら、ここに住めばええさ」
弥栄の提案に、珠景は申し訳なさそうに首を横に振る。
「私は今を生きる人間では無いですし、ここに住む資格もないです」
「勘違いをしないで。珠景に対して『いらっしゃい』なんて思ってないのよ」
次の言葉を待つ珠景に、弥栄は穏やかな口調で告げる。
「だって、ここはあなたの家だから、私達が思うのは『おかえり』でしょ」
予想外の言葉をかけられ、珠景は大きく目を見開いた。
心配そうな表情で二人の会話を聞いていた紬も、安堵の息を漏らす。
「この民宿はね、母の色歌が始めたのよ。だから、亡き母に代わって言わせて貰うわ」
弥栄は珠景の目を見て、柔らかな笑顔で告げた。
「おかえり」
嬉しそうに笑った後、珠景は照れくさそうに口を動かす。
「ただいま」
この瞬間、珠景姫の魂は、百年ぶりに帰省を果たした。
八月八日で止まった時間が動き出す――