或る夏のお祈り
目を開くと、夏の世界だった。
夕陽の光に包まれた景色に、ひぐらしの鳴き声が溶けていく。
涼しげな風が吹くと、水色の綺麗な江戸風鈴が優しい音を奏でた。
中庭に面した廊下の柱に背を預け、少女はオレンジ色の空を見上げる。
夏の夕陽に照らされた少女は、民宿を営む神島家の一人娘だ。
紬という名を授かり、この夢奥島の地で生まれ育ってきた。
グレージュの髪に悪戯をするように風が吹くと、揺れる前髪の下、大きな瞳がゆっくりと瞬きをする。
「ふわぁ……お祈り……行かなきゃ」
八月八日。
或る夏の一日でしかないが、神島家の人間には特別な日でもある。
かつて、この島には『長姫制度』という文化が存在した。
島の名家である神島家、彩美家、侍屋敷家に産まれた長女を島の『姫』として育て、成人後は長姫として島の統治を託すというものだ。
千年以上続いた長姫制度は、一人の姫によって撤廃されることになる。
百年前の八月八日。
神島家の先祖である『珠景姫』は、最後の姫になった。
長姫制度を終わらせるきっかけを作る為に、島の御神体である巨樹の下に出来た空洞へ身投げし、十七歳という若さでその生涯を閉じたのだ。
神島家の人々は命日である八月八日に、珠景姫の魂が眠る御神体へと祈りを捧げている。
百年間、このお祈りが続いた意味を紬はまだ知らない。
小さな花束と和菓子の箱を持って、紬は一人で御神体へと向かう。
始まりの夏は、終わりの夏。
特別な一年が始まった。
苔に覆われた小さなトンネル。
その先に、御神体はひっそりと佇んでいる。
トンネルを抜けると、白い砂浜が出迎えてくれた。
ここは、島の人々に忘れられた秘境の地。
神島家の敷地からしか入る事が出来ず、ここ数年は紬しか足を踏み入れていない。
ふかふかの砂浜を進み、潮だまりの先にある御神体を見上げた。
二つの大岩で形成された岬の上に聳え立つ、樹齢千年の杉の巨樹。
岩を呑み込むように太い根を張り巡らし、枝の先の深緑は空を目指している。
夕陽の光を身に纏う姿は神々しく、息を呑むほどに美しい。
御神体の影が伸びる場所へと足を踏み入れ、岩を彫って作られた献花台に、小さな花束と和菓子を供える。
木漏れ日が揺れる地面に正座し、顔の前で合掌して目を閉じた。
そして、御神体に眠る珠景姫の魂へと祈りを捧げる。
どうか、安らかにお眠りください。
ゆっくりと目を開ける。
「また来年」
御神体に深々と一礼した後、紬は苔の生えたトンネルへ向かって歩き始めた。
もうすぐ日が暮れる。
灯りの無いトンネルの中は、夜になると真っ暗になるのだ。
日没前に通らなければ、臆病で怖がりな紬は一人で帰れなくなってしまう。
潮溜まりと砂浜の上を足早に進み、トンネルの前で足を止めた。
あとは、無我夢中で走り抜ければ良い。
毎年、そのやり方でトンネルの恐怖に打ち勝ってきたのだ。
ふぅ。と息を吐き、紬は呼吸を整える。
そして、何気なく御神体の方を振り返った。
「……え……」
ある光景を見てしまい、紬は怯えた声を漏らして立ち尽くす。
一人の少女が、珠景姫が飛び込んだとされる大穴から出てきたのだ。
「……なんで、人が居るの……」