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砂漠を旅する白い馬

 第百六十九回の芥川賞を受賞したのは、市川沙央の『ハンチバック』だった。


 受賞作の全文が掲載された2023年9月号の文藝春秋を購入してから数ヶ月。

 時間を作ってゆっくり読もうと思いつつ、あっという間に日々は過ぎていった。



 つい先日ようやく読み終えたのだが、受賞作よりも「受賞のことば」に書かれた文章の方が心に残った。


「受賞のことば」の冒頭には

『一頭の白い馬が、太陽と会話しながら砂漠を旅する物語。それが十歳ごろに初めて書いた、小説らしき断片のイメージである』

 と書かれている。


 とても簡潔な文なのに、一気に引き込まれる。続きが読みたくなる。

 受賞作だけでなく、この人が書いた他の作品も読んでみたい。そう思わせるような文章だった。



 受賞作の『ハンチバック』の中で、感情を大きく揺さぶられた場面があったので、以下に引用する。


『壁の向こうの隣人が乾いた音で手を叩く。私と同じような筋疾患で寝たきりの隣人女性は差し込み便器でトイレを済ませるとキッチンの辺りで控えているヘルパーを手を叩いて呼んで後始末してもらう。世間の人々は顔を背けて言う。「私なら耐えられない。私なら死を選ぶ」と。だがそれは間違っている。隣人の彼女のように生きること。私はそこにこそ人間の尊厳があると思う。本当の涅槃がそこにある。私はまだそこまで辿り着けない』


 それから

『私はせむし(ハンチバック)の怪物だから』

 という一文。


『ハンチバック』というタイトルに込められ想いが何なのか。それはきっと作者にしか分からないのだろうし、もしかしたら何の意味もないのかもしれないけれど、読み終えた後も、私はずっと自分なりの答えを探し続けている。




 この号には芥川賞の選考委員による選評も載っていて、山田詠美の選評が面白かった。


 彼女は選評で『このところ何度となく、「芥川賞選考会は、他のジャンルから出て来た候補者には授賞しないと決めたようだ」という当て推量めいた文言を目にしたのだが…いいえ、そんなこと全然ありません! 元来、この賞は、「若者」「よそ者」「バカ者」にたいそう優しい。でも、それだって、作品の出来次第……っていうか、はあ? いったい誰に向かってモノ言ってんの?って感じ』と述べている。


 そして、受賞作については『文学的に稀有なTPOに恵まれたのはもちろん、長いこと読み続け、そして書き続けて来た人だけが到達出来た傑作だと思う。文章(特に比喩)がソリッドで最高。このチャーミングな悪態をもっとずっと読んでいたかった』と評価していた。


「障害者に受賞させて話題作りする芥川賞」という世間の声に対して山田詠美が出した答えは、これまで見聞きした様々な意見の中で、最も腑に落ちた。



 同時期に発売された文學界にも市川沙央の書いたエッセイが掲載されており、そちらも購入していたので続けて読んだ。

 彼女のエッセイは『予言癖がある』という印象的な一文から始まり、自身の経験した挫折やその時の感情についても綴られている興味深い内容だった。



 文藝春秋も文學会も2023年の9月号だから、半年近く経ってやっと読み始めたことになる。

 少しずつしか読み進められていないので、同じ号に掲載されている他の作家の作品を全て読み終えるまでには、あともう半年、あるいはそれ以上の日数がかかりそうだ。


 気軽に読める作品を読むのも好きだけれど、時間をかけてじっくり読む作品というのも、また別の味わいがあって良いものだなと思う。

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