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うるわしきひと

作者: 温風

うるわしきひと


 猛禽の類であるのは、鋭いくちばしや鉤爪の線からおのずと分かる。

 それはたったひとつの、祖父の形見の品だった。


「お宅に鷹の絵があるでしょう? あれを、引き取りたいのです」

 怪しげな客は左近とだけ名乗った。

 左近が名にあたるのか姓であるのか、律には判別がつかない。

『……律や。鷹を探す人が訪ねてきたら、それは化人だ。人に見えて人ではない。神仏か、あるいは人を喰らう、鬼か畜生か。用心しなさい』

 孫に残された、祖父の遺言ともとれる約束だった。病を得て弱気になった老人の夢現のたわごとであろうと、律は祖父の気が済むまで話を聞くことに徹していた。

『あの絵のことを訊かれたら――絵は渡して構わない。逆らわないことだ。素直に言うことを聞いて、お帰りくださいと頼むんだよ』

 噛んで含めるように、言い聞かせられた。

 この家で男はお前だけ。だからお前にしか頼めないのだと、晩年寝たきりになった祖父は律を枕元に呼ぶたび、この話をした。

 けれど、律は祖父の言うことを鵜呑みにはしたくない。胸の奥に微かな反抗心のようなものがつかえているせいだ。祖父の望むようにすることも、ひとつしかない祖父の形見の品を引き渡すことも、納得できないのだ。

「……そういったものはありません」

 気がつけば、口が勝手に断っていた。

 自慢ではないが、祖母にも母にも「あんたは愛想が足りないよ」などと散々言われてきたので、他人を寄せつけない自信はあった。

 だが、客人も譲らない。玄関の戸に手をかけ、閉め出されまいとする。

「記録があるんですよ。鷹は、お宅に棲んでいると」

 絵を擬人化でもしたかのように左近は言うが、律にはどうでもよかった。

「あったとしても、祖父も祖母も死んだので捨てました。断捨離したんです」

「嘘ですね。だって臭いますよ、この家。鳥臭い」

 端正な面構えと対照的に、男はしつこく食い下がった。

 人の家に向かって臭いだと――無神経にもほどがある。律は顔をしかめた。

 柔和な佇まいで三和土に立つ男は、見たところ、学生の律より十は歳上だ。仕立てのよい細身のスーツに身を固めているのだから、社会人としてそれ相応の振る舞いをしてほしい。押し売りだかなんだか知らないが、これ以上関わりたくない。

「あんた、どこの業者? 名刺も出さずにいいご身分だな。こっちがないって言ってるんだ。あまりしつこいなら警察を呼ぶ」

「きみこそ嘘は良くないな。警察にどうこうできる問題じゃありませんよ」

 相手が引くことを期待したが、これでは埒が明かない。お帰りくださいと力任せに相手の胸を押して、相撲取りのごとく玄関から締め出すと、ぴしゃり、戸を閉めた。

「お宅にあるのは分かってるんだからね〜!」

 左近はまだ門前で声を張り上げ叫んでいる。あれではまるで借金取りだ。塩でも撒いてやりたいと本気で思ったが、ひとつまみの塩でさえ、もったいないが先に立つ。

 律の家は先代からの持ち家だったが、これといった財産はない上、祖父母が相次いで逝去したから相続に関わる出費も馬鹿にならなかった。おかげでは現在は母子二人、つつましく生活を送っている。

 居留守を決め込んでベッドに寝ころがり、やりかけのスマホゲームに打ち込んでその日をやり過ごした。


 左近と再会したのは、あくる日のことだ。

 律の攻防むなしく、母があっさりと左近を家に招き入れたのだ。

「息子の部屋にありますよ。律ー! おじいちゃんの絵、お客様にさし上げて。台所にデパートの紙袋があるから、それに入れなさい。いいですいいです、お金なんていりませんよぉ。ちょっと煤けてますけど、どうぞ持ってって」

 母はそのまま左近と入れ替わりにパートへと出かけていった。律の意見など求めもしない。

「すてきなお母様ですね。話がわかるいい女だ。デパートの袋はいりませんけど」

 ぬっと居間に入り込んだ男は、整った顔にうすら寒い笑みを浮かべている。

 ……まさか母に色目でも使ったのだろうか。息子としては当然面白くない。厄年もまだだというのに、図々しく強力な疫病神にでも取り憑かれた気分だ。

 律は無意識のうちに、いじけた声で応えた。

「――いやだ」

 あの絵は故人を偲ぶ、たったひとつの形見の品だ。母は身内だし、サバけた性格だからしかたないとしても、赤の他人に律の思い入れを蹂躙されるいわれはない。

「……では、くださいというのはやめましょうか。きみがそんなに嫌がるなら考慮します。見るだけ、というのはだめですか? 僕はね、あの鷹を一目見せていただければ、それ以上はなにも言いませんし関わりません。品物は在るがまま、この家に残すとします。お金も要求しないし、いちゃもんもつけないと約束しましょう」

 男は自身の要求をあっさり覆し、譲歩してみせた。だがその態度は却って律の不審を誘う。

「……口約束じゃ意味ない。もう一度言ってくれ。一言一句録音させてもらう」

 スマホを取り出し、録音メモを起動した。左近は快活な笑い声をあげた。

「しっかりした坊ちゃんだ」

「この家に男は俺一人だからな。しっかりしなきゃとは思うだろ」

「律くんは、おじいさまから帝王学でも叩き込まれたのかい?」

「帝王学?」

 早くに父を亡くし母の実家で育った律には、祖父が父親のような存在だった。帝王学とは呼べぬだろうが、いないはずの父の役割を補完しようとしてくれたのは否めない。ただ、ところどころが前時代的だった。

 ……律は思い返す。祖父が病みついて寝たきりになると、多少横暴な部分が目立ちはじめた。祖父はシモの世話を女の仕事だと考えていて、母や祖母を律が手伝おうとすると激昂するのだ。

『手を出すんじゃない。お前は長男だぞ。女の仕事なんぞ手伝おうとするな』

 そういうものなのかな、と当時付き合っていた彼女に打ち明けると、

『あんたのじーちゃんヤバくない? ま、年寄りって頑固だもんね』

 と若干の嫌悪感を表明しつつ、律を哀れんでくれた。

 訪問介護も週に二度お願いしていたが祖父が頑なに受け入れず、家族で負担するしかなくなった。日常生活に介助が必要になってから、祖父への愛情に複雑なものが混ざるようになったのは確かだ。

 祖母が家庭での介護の中心を担ってくれたし、母もそれを手伝った。終わりの見えない日々の中、母が一度だけこぼしたことがある。

 当時、家の中には常にうっすらと糞尿の臭いがこもっていた。薬の影響なのか、祖父のものは大も小も臭うのだ。縁側の戸を開けて空気の入れ替えをしていた母が、馬鹿みたいに大きなため息をついた。鼻の粘膜の奥の奥に祖父の臭いがこびりつき取れないのだ、と。

『あー、もううんざり。臭いだけで、おかしくなりそう』

 結局、律が祖父の介護に直接手を貸すことは最期までなかったが、介護のしんどさを間近に見ているだけで病みそうだった。


「……この絵ですけど」

 それほど大きくないものだから二階の律の部屋から持ってこようとしたのだが、左近は「僕が移動しますよ」と言って、ちゃっかり律の部屋にすべり込んだ。律はもう、男の気が済むようにさせてやろうと思っていた。

 件の絵は部屋の壁にそっけなく立てかけられている。二十センチ四方の色紙絵だ。サインも落款もないが印刷ではなく真筆。といっても、名のある絵師の作ではないらしい。由来は知らないが、塗装の剥げかけた金縁の額と老緑のクッションマットで額装されていた。

 枯れた古木に、一匹の鷹がとまっている。

 黒みの強い褐色の羽根は艶があり、折りたたまれた翼は僧侶が纏う黒衣のようだ。

 画題であるはずの鳥は、見る者に背を向けている。この色紙絵は鷹の後ろ姿を描いているのだ。表情を伺い知ることは叶わない。頭部を斜め下にうつむけていて、頭部横からかろうじて尖ったくちばしが覗く。いわば、見返り美人のポーズである。

 木の幹を掴んだ爪は、力強く無駄のない筆が過不足なく形を捉えている。絵師の技量が伝わってくる部分だ。色彩は多くなく、黒と茶が画面のほとんどを占める。岩彩だと知らなければ、水墨画だと思うだろう。

 祖父はこの絵がいちばんのお気に入りで、絵の前で酒を酌むのも好きだった。『見事だ。あんたはなんてうるわしいひとだろう』と語りかけるほどの特別扱いだ。愛鳥家ではなかったから、これは相当愛着のある絵なのだと律は思った。

「祖父を偲ぶものは、この絵だけなんです」

「おじいさまが好きだった?」

「俺には父がいないんで。かわいがってもらいました。だから……絵のことも、知らないふりをした。あなたに意地悪したわけじゃない。それは分かってほしい」

「……あの男、良い孫を残したじゃないか」

「え?」

「なんでもない。きみにとっておじいさまは、お父さん代わりだったんだね」

 父は律がまだ幼い頃、亡くなった。

 母は実家に戻ることにためらいがあったようで、しばらくは女手一人で頑張るつもりだったらしいが、小さな律を寂しい環境に置くことは耐え難く、一念発起して実家に帰ったのだ。

 この家の女性は忙しかった。祖母は家事を一手に引き受け、母は平日も土日も関係なくパートを詰め込んだ。律の遊び相手は祖父だけだった。

 母の父だという人はいつも和装で、とてもおしゃれな人だった。律のじーちゃんはかっこいいなと言われるのが、自分を認められるよりも律には嬉しかった。

『ああいうのはね、着道楽っていうの』

 母がこそこそ話でもするように「キドーラク」という言葉を教えてくれたが、この頃の律はまだ気づかなかった。祖母も母も着飾る余裕などなかったことに。

 小さな律の手を引いて、祖父はいろいろなことを教えてくれた。野に咲く花の名前や、手折った花を活ける方法。お習字。はては、着付けに謡まで。

 あるとき、祖父を真似た口調で律は、祖母と母のことを「女ども」と呼んだ。すると二人は顔を見合わせて、なんともいえない表情をした。

 律は首をかしげた。純粋に疑問だった。大人はみんな、小さな律が新しい言葉を覚えて使うたび、驚いたように笑って褒めてくれるのに。

「女ども」という呼び方は、祖父のような大人の男にしか許されないのだろうかと思った。

 その週末のことだった。

『律。お母さんと遊びに行こうか』

『えっ、いいの? お仕事は……?』

『たまには休まないとね』

 車を出して、隣町の映画館と遊園地に連れて行ってくれたのだ。母の実家に居を移して初めての母子水入らずでの外出だった。

『今度のお休みは、動物園もいいね』

『やったぁ! 僕、ゾウが見たかったの。ライオンも、ゴリラも、パンダも見たい!』

 毎日働きづめだった母が、なぜ急に家を離れて街に連れ出してくれたのか。理由は分からなかったが、律は無邪気に嬉しかった。忙しい母に甘えてはいけないと子供心に誓っていたから、母との時間は切なくて泣きそうになるほど嬉しかった。

 律が高校に進学すると祖父は寝たきりになった。

 晩年、事あるごとに律は枕元に呼ばれた。『お前だけが頼りだ』と祖父は何度も繰り返した。家族を託したという意味だと律は受け取った。

 祖父は長患いの末、亡くなった。


「……おや、外にお堂が。地蔵堂ですか」

 左近が断りもなくがらがらと窓を開けた音で、律は昔の記憶から引き戻された。窓から見える景色は、ぽつぽつと建つ住宅と防風林、それ以外はすべて田畑だ。生育した菜花があちこちで風に揺れている。

「おい、網戸まで開けるな。寒いだろ」

「素朴な祠が道端にある鄙びた風景。たまらないですね。あの破風の下の飾りは、鼠?」

「よく見えるな。視力いくつだよ」

 田畑のあいまにぽつんと立つ地蔵堂には、祖父と共に手を合わせたこともある。古くて朽ちかけているが、日頃から色鮮やかな仏花とすあまが供えられ、大事にされているのだ。軒下の梁と虹梁のあいだには、鼠の木彫刻が嵌め込まれていた。

「……目覚めるのに、ちょうどいいか」

 左近が何事か口の中で小さく呟くと、絵に近づいた。鷹に顔を寄せ、熱のこもった視線を額縁の中に注ぐ。

 ただならぬ気配に律は息を呑んだ。

「あの人は死んだ。きみがここにいる必要はもうないだろう。がらくたとして無駄死にしたくなければね」

 絵の中の鳥に向かい、静かに響く声で語りかけると、ふうっと額縁のガラスに息を吹きかける。それはまじないの儀式めいて見えた。

 白く凝ったのは男の吐息か。きらりとガラスの奥で何かが光る。すると、背を向けていた鷹がくるりと動いて翼を震わせ、描かれていないはずの猛禽の瞳がみずみずしく開いた。

 はっ、と律が息を漏らすと同時に、ピューイ!と甲高い鳴き声があがる。

 鷹が鳴いている。ピューイピューイと何度も何度も鳴いている。それはまるで女の金切り声だった。

 律は絵に駆け寄り、どういうことだと左近の肩を掴んで額から引き離す。

 それと時を同じくして、鷹が羽ばたいた。律の頰を、乾いた刷毛のようなものがサッと掠める。風切り羽根だ。鳥は爪でサッシを掴むと、開け放たれた窓から空を見定めた。

 一閃、彗星の如く窓辺から跳躍し、飛翔する。そこから上空へ向かうと思いきや、畑の畝のほうへ滑空し、鷹はお堂へと突進した。

「――ぶつかる!」

 ところが、グライディングした鷹はせわしなく羽ばたきながらガツガツとくちばしでえぐるような動きを繰り返し、お堂からひとかけらの木材をもぎ取った。木彫りの鼠である。

 獲物を咥えた猛禽は翼を広げ、気流に乗る。風を読んだのか、優雅な羽ばたきで空に舞い上がり、くるりくるりと勝利の旋回をすると、天空のゴマ粒になり、やがて見えなくなった。

 額縁の中の色紙には、古木だけが残った。

「あーあ、飛んでっちゃった」 

 のほほんと空を見上げる左近と違い、律は今見たばかりの光景を受け入れられずにいた。じっとりと脇の下に冷たい汗が滲む。

「嘘だ、おかしい。だってあれは、ただの絵だった。じいちゃんの形見で……」

「言っとくけど、その額縁のほうがお宝だよ。ばけものを入れる檻でね、もののけ避けになる縁起物なんだ。きみのおじいさま、見る目だけはあったな」

「あんたが絵を台無しにした! 弁償しろ! あれは、あの鷹は、唯一の形見なんだぞ!」

「本当に弁償が必要かい? きみはあの絵が好きじゃなかっただろう」

 でも、でも……と、口を開いたが、ぐっと喉が詰まった。開いた口を閉じ、また開けたが、ふたたび閉じる。言い返すことはできなかった。

 左近の言うとおりなのだ。病床の祖父の言葉は刷り込みのようなもので、なんとなくあれは律が持つべきものだと信じたけれど、そこに律自身の愛着や執着があったわけではない。ろくに眺めることさえしなかった。

 鳥を見つめる祖父の目は、病床にあっても、どこか欲の焔を燻らせていて――それが不気味でさえあった。

 律は学習机の使い込んだ椅子にへたりと腰を下ろした。

「鷹の天敵って、なんだと思う?」

 律の傍に膝をついた左近が視線を合わせて律に訊ねた。

「……鳥の世界では、いちばん強いんじゃないのか」

 頂点捕食者というのだ。天敵に悩まされることのない、食物連鎖のトップにいる生物だ。

「それってどういうことか分かるかい? つまりね、鷹の敵は、同じ鷹なんだ」

「は?」

 鋭い光が左近の目によぎり、瞳孔がきゅっと細く縦に引き締まった。

 律はその尋常ならざる男の瞳に思わず見入る。虹彩に窓からの光が差して、仄暗い琥珀のように輝いた。

「遊び人だったきみのおじいさま。あの人には鷹の雌と鷹の雄、二人の愛人がいたんだ」

「雌と雄? 愛人……? 何の話だか、俺には――」

「両刀遣いってやつだよ。おまけに上手い。艶本だって、僕が勧めるはしから買ってくれた」

 律の頭の中にある洒脱で物識りだった祖父の像が、ぱきりとひび割れた。

 左近は口の端を釣り上げて婉然と笑っている。色めいた微笑みは禍々しいまでに艶やかだ。嫌でも赤くしっとりとした唇を意識してしまう。

「真性のクズだったけど、なかなかどうして、良い孫を持ったよね」

 左右対称の整った顔は微笑んでいてもどこか人間味を欠いたまま、目前に迫る。

「……鷹は、どこへ行ったんだ?」

 微かな怯えとほんの少しの興味とがないまぜになった状態で、律は訊ねた。

「さあ。別の巣があることを思い出したか、狩りの愉しさに目覚めたか。ここにはもう、戻ってこない」

 いつのまにか左近と律の距離は、鼻頭同士がくっ付きそうな程近づいていた。

「いいことを教えてあげようか。飛び去ったあの鷹は、女なんだ」

 左近が吐息だけで妖しく囁いた。

「あれは飼い殺しをよしとしない鷹だったのさ」

 絵から抜け出した鳥は彫刻の鼠を戦利品に大空を翔けていく。小さくなって点になって、そして見えなくなった。

 鷹は解き放たれたのだ。

「……だけど、僕はべつの趣向が好きでね」

 左近は両手でパンとひとつ、柏手を打った。澱みを祓う破邪の音だ。

 まわりを包み込んでいた温かな羊膜がぱちんと弾けて、律はまるで、今やっと世に生まれ出たような気がした。

 祖父の鷹はどこかへ消えた。

 律は視線を、左近から色紙絵へ巡らせた。

 そこには今までなかった色彩がぼんやりと滲んでいる。

 色紙の白い虚空に、薄紅色をさっとひと刷毛。古木の周囲にうっすらと。

 猛禽が去った枯れ枝に、桜が咲いていた。

「この背景……」

 どうせこれも左近による手品かいたずらで、なんの因果があるのか、この家の者をからかって愉しんでいるのだ。苛立った律はくるりと振り返った。だが、そこにあるはずの左近の姿は、どこにもない。

「……左近さん? 勝手にうろつかないでください、怒りますよ」

 呼んでも返事はない。ついさっきまで、あの男はすぐ傍にいた。律の目の前で赤い唇をにいっと吊り上げて、艶やかに笑んでいたのに。

 これは夢か。ぜんぶ夢なのかもしれない。

 だとしたらずいぶん趣味の悪い、春の午睡の夢だ。

 ひとり残され、律はなすすべなく、部屋の中で右往左往した。

 ――きみも存外、妄執が深いよな。おじいさまの才を継いだのか。隔世遺伝はよくあることだ。

 くぐもった声がどこからか響く。

「他人の家でかくれんぼなんて、悪趣味だぞ!」

 左近の姿を見失い、視野狭窄気味の律に、左近がおかしそうに言う。――律くんは無自覚なんだな、と。

 ――まあいいさ。きみの生きてるあいだ、付き合ってあげても。花を手折るのは、鷹よりも人のほうが絵になる。

 室内に強い風が吹き寄せた。律は急いで窓を閉める。部屋の中にくつくつと響くのは、左近の笑い声だ。

 ――若くてうぶな子と遊ぶのは愉しいだろうな。退屈はさせない。その代わり、きみのこころを注いでくれ。いいかい? 裏切ったら、ろくなことにならないよ……。

 穏やかに脅し文句を吐く男の声は、春のそよ風のように律の鼓膜をくすぐった。


 仕事を終えて帰宅した母は左近のことを訊いた。律はとっさに嘘をついた。

「……ううん。思ってたのと違ったらしくて。すぐ帰った」

「あらあ、残念ねえ。おじいちゃんも見る目がなかったってことだわね」

 がっかりした口調とは裏腹に、母は勢いよく味噌汁を啜った。


 ひそやかだけど、おかしな家だった。

 律だって頭のどこかで変だと感じてはいた。気づいてはいても受け入れ難かったから、心にバリケードを築いて理解を拒んでいた。

 たとえば祖父母といっしょにテレビドラマを見ていて、男女の絡み合うシーンが始まるとする。そんなとき、きまって祖父は取り澄ましたように背筋を伸ばし、画面から目を逸らす。祖母は祖母で画面と祖父を見比べ、フンと鼻を鳴らす。

 どの家にもある、家族ゆえの気まずい場面だと思ってきたけれど、そこには何かべつのわけがあったはずだと今の律は考える。

『おじいちゃん。エンプクカって、どういう意味?』

『ははは、艶福家か。そりゃあ、じいちゃんのことだな。若い娘をこう、じっと見つめるとな、みんな、ふらっとよろめいて頬を染めるんだ。まるで漫画の世界だろう? 本当なんだよ。律があと二十年早く生まれていたら、じいちゃんと恋の鞘当てをしていたかもなあ』

 時代劇を見ながらそんな話をしたとき、祖母はなにを思っただろう。

 祖父がどういう男だったか。わざわざ子細を母に問うことはしない。

 祖父母の夫婦生活に関しても、知りたいとも思わない。

 長年の介護から解放された祖母は、祖父の後を追うように急死した。スーパーの駐車場で倒れているのを発見され、救急車で運ばれたけれど、そのまま逝ってしまった。その年、律の家は二度目の葬式をあげた。

『お母さん、寝付かずに逝ったね。私たちが大変になるから最期まで気を遣ったんだ……』

 四十九日の後で、母は力なくそう言った。

 それから母は大規模な断捨離を敢行した。愛用の品くらい残しておけばいいのに、と律が声をかけても、がらくたに情けは無用と取り合わない。

 殊に思い切りよく捨てたのは、祖父が蒐めた骨董の山だった。器も着物も掛け軸も一考の余地なくホイホイと捨てられ、廃品回収のトラックに山と積まれていった。かろうじて律が守り通せたのは鷹の絵、ただひとつだった。


 祖父の浮気性は四十を過ぎる頃、骨董に移った。

 祖母はうすうす勘づいていた。

 店の女の機嫌をとるために、花瓶だの掛け軸だの、勧められるまま買っているのだろう。白磁の瓶のなめらかな鶴首を指で撫で上げながら、女の濡れそぼった口にでも思いを巡らせているのだろう――と。

 祖母は骨董店を訪ね、店主の女の前で啖呵を切ったそうだ。

『あんな道楽者、喜んでくれてやります。だけど搾り取るなら金じゃなくて、あの人の精にしてください』

 姉の店を手伝っていた左近は、祖父に売った品々をできる範囲で買い取ろうと持ちかけた。嫉妬に狂う女性に壊される前に、骨董を引き上げたいと思ったのだ。けれど祖母はその申し出をきっぱりと断った。

『物に当たるのは、あの人の男冥利を満足させてやるようなものです。ご安心ください。そんな悋気、私は起こしません。売りもしないし壊しもしないわ』

 祖母が短慮で短気な人であったなら、皿や花瓶は割られ、あの色紙絵も破り捨てられていたかもしれない。

 ――きみが良い孫なのは、あの男よりもおばあさまの血のおかげだね。


 鼠のいたお堂は鷹が飛び去った数日後、春雷で焼け落ちた。

 しばらくして神職の人がお祓いに訪れ、お清めがなされると、ブルドーザーが入り、更地となった。

 今まで見えていたものは見えなくなったが、代わりに、それまで見えなかったものが少しずつ見えるようになった。あらぶるけものは何処かへ去り、死者から受け継いだ絵に花が咲く。

 左近とはあまり顔を合わせることはないが、彼の影が時折、絵の中をうろつくのを律は知っている。

「……困ったひとだよな」

 時節は彼岸。色紙の桜は花盛りだ。


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