ROCK・ペーパー・フラワーズ
よろしくお願いいたします。
神保町駅から九段下駅までの一分間は、あなたにとってはただの乗車時間でも、私にとっては、たぶん、酸素を吸うのと同じくらい不可欠な一分だった。
*
あなたは神田古書店街に出るために、いつも神保町駅のA1出口を選んだ。理由を聞いたら、「本屋の一角から出られるこの出口こそ、古書のメッカにふさわしいから」と、ろくに本も買わないくせに通な顔を浮かべ、顎ひげを撫でて言った。あなたの職業は美容師で、渋谷にあるサロンは経営を維持できる程度に繁盛していた。ただの客の一人だった私が、こうして一緒に古書店街に行く間柄になったのは、私の住んでいる場所が九段下駅の近くで、帰りに泊まるのに便利だったのがきっかけだった。
あなたはいつもつばの広いグレーの中折れ帽をかぶり、白いマスクの両側に黒いソバージュの髪を垂らし、トリートメントの桜の花の香りをブルべ色の長い指にまとっていた。その指が本をめくるとき、私の髪をまさぐる強くてたおやかな力を思い出させて、後頭部がざわざわと色めきだった。
古書店街をうろつくのは、大体決まって平日のお昼前から夕方までだった。読みだすと何時間でも没頭できる本好きの私と、昼休憩なしの仕事に慣れているあなたが、この街で一緒に食事をすることは結局、一度もなかった。私が歩き疲れた頃を見計らって、あなたはよくジャンケンをしかけてきた。不意打ちをくらうとグーを出す私を見越して、あなたはパーで勝利を簡単に手にした。
ただ二人でメトロに乗って書店を巡り、本を漁り、そしてまたメトロに乗って帰る。それだけのデートだった。
出会った当初にあなたが私に見せてくれた愛が、徐々に古本の印字のように薄れても、私が誘えばあなたはいつも渋谷からメトロに乗って来てくれた。
そして、毛先に前のカラーが残っている程度の軽い触れ合いだけになっても、あなたと一緒にこの駅から地上に出ることを、私は未練がましく求め続けた。
11月、枯れ葉とともに神保町駅のホームへと階段を駆け下りていく途中で、6番線の「夕涼み」のメロディーが鳴り響いてアナウンスをかき消した。帰りの5番線の電車は立ち去ったばかりで、あなたのソバージュがホームの風で束の間、顔に張りついた。
「今日は何買った?」
そう聞くあなたの手には、本と全然関係のない、黒い石が握られていた。水に濡れると艶々と輝きそうな、素朴な色合いをしていた。
「やだ、また石買ったの?」
私が質問で返すと、あなたは目を細めた。象のような優しい穏やかな眼。
「石には力がある。人を癒やすヒーリングストーンだ」
「ローリングストーンみたいね」
「どちらも偉大だ」
短い答えですべてを示してしまうのが、あなたの悪い癖で、個性だった。
「こんなボロい本、よく買ったな」
ホームのベンチに座った私が見せた古本に、あなたの人差し指がぎりぎりまで近づいた。それはポケットサイズの文庫本で、絵具のダークカラーを混ぜ合わせたような染みが、本の表紙や天のほとんどを覆っていた。本の背には幾筋もの縦線が刻まれて、お気に入りの場面が多々あったことを彷彿とさせた。
本の中身はシェイクスピアと同時代の作家による、古典的な恋愛小説の和訳だった。「ゐ」や「ゑ」といった旧仮名や、辞書無しでは見当もつかない旧漢字たちがひしめき合う中で、女主人公のある台詞に私の目は引き寄せられた。
これが恋と云ふものかしら。
これが、恋と云ふものかしら。
「ねえ、ここ素敵じゃない?」
「同じこと二回も書いてる」
「ううん、違うよ。この読点があるのとないのとでは、全然違う。『これが、恋と云ふものかしら』の方が、きっと思いは強い気がする」
「じゃんけんぽん! 俺の勝ち!」
「あ! ずるい!」と私は握りこぶしのまま、手を振り上げて笑った。
「おっと電車だ」
あなたは手に持っていた石を、斜めがけにしていたショルダーバッグに入れて立ち上がった。暗いトンネルの向こうから雨の降り始めのような音を立てて、電車がホームに滑り込んできた。アナウンスのあとにホームと車両のドアが二つとも開くと、お囃子に似た軽快なメロディーが、並んでいた私たちの耳に飛び込んできた。
「ねえ、この曲の名前、何ていうか知ってる?」と、私は乗車しながらあなたに聞いた。
「祭り、とか?」
「正解はね、ブックマーク」
「『しおり』か。さすがは古書の街だな」
あなたとの会話は、ここで終わりにしないといけなかった。電車が出発すれば、わずか1分後には私の降りる駅に着くからだった。車内では長くなりそうな話は一切せず、言い忘れたことはないかなど、まさに東京メトロの路線のように、私はさまざまな思考を蜘蛛の手に張り巡らせた。
九段下駅に着くといつも、あなたは「じゃあ」と言うために、マスクを少しずらしてくれた。言動は一致するというけれど、私のわがままに、あなたはいつも最低限の動作で答えてくれた。
私が降りると電車は出発し、あなたを乗せて駅から遠ざかっていく。私はその光景を、都営地下鉄新宿線の黄緑色のベンチと、東京メトロ半蔵門線の紫色のベンチとの間に立って見送った。その日のデートの終わりは完璧だったつもりが、じゃんけんで途切れた小説の話を思い出した途端、自分の手から貴重な水がこぼれたような心残りを覚えた。
*
あれは翌年3月下旬、あなたが古書店街デートの帰りに、私に別れを告げた日のことだった。
東京メトロの路線の地上のあちこちで、一斉に桜の花が芽吹き始めていた。
「選び損ねた方が愛しいと思うことって、きっとあるんじゃない?」
神保町駅のホームで、紫色のベンチに座る私は爪をいじって言った。
「へ?」と、あなたの眉がマスクの上で八の字を作った。
「選んだ方への愛が勝っていたとは、限らないよね」
私が言うと、あなたは帽子のつばで顔をわざと見えなくした。
「じゃんけんぽん! 最後まで俺の勝ちだな」
「もう! 人が真剣に言ってるのに」
私がグーであなたの二の腕を叩くと、思いのほか脂肪がついていて柔らかかった。二人とももう三十路過ぎたものねと、付き合った年月の長さがしのばれた。
メトロの地下の空気には、ゼリーのように人を閉じ込めてしまう温かな重圧があった。サロンの移転を理由に私から離れようとするあなたを、なじったり泣いたりしたい気持ちまで、ゼリーの中に吸い取られていくような気がした。
やがて5番線に電車が来ると、あなたは躊躇なく乗り込んだ。今日でお別れでもあなたには関係ないのかと思うと、「ブックマーク」の明るいメロディーが、やけに寂しく聞こえた。
「ねえ、最後にお願いがあるんだけど」
二人の乗った車両が出発するや否や、私は切り出した。
「一瞬でいいから、手をつないでほしい」
電車はあっという間に九段下駅に着くだろう。せめて5秒でもいいから。
「手をパーにして」
「パー?」
聞き返した私を、あなたは急かした。
「いいから早く。この上に乗せて」
そう言うと、あなたは自分の右手でこぶしを作って、ドア付近に立つ私の前に差し出した。鼻先にほんのりと、トリートメントの甘い香りが漂う。電車が着くまであと40秒ぐらい。
「こう?」と、私は手のひらを広げてあなたの握りこぶしの上に乗せた。電車が揺れた拍子に、少しだけ包みこむように指先を曲げたら、こぶしの山が私の指の関節にピタッとハマった。
冷たくてゴツゴツして、少し肌荒れした感触は、まるで石だった。温かみも柔らかさもなかったのに、その重みが底なし沼のように、心にずぶずぶと沈み込んでいくような感覚がした。
そのあとの数十秒間、あなたのこぶしが緩むことはなかった。
「ハイ、俺の負け」
「え?」
見上げると、あなたはマスクを外して私を直視していた。象の眼が笑った。
「じゃあ、元気でな」
あなたが帽子を目深にかぶって、笑顔が下半分だけになったとき、電車は暗いトンネルからホームに出た。石板色の四角柱の波が窓の外を流れる。
「ありがとう」
向かい側のホームにある円柱の、「九段下」の文字がくっきりと見える位置で車両は停止した。私は夢から醒めるのを惜しむように、なるべくゆっくりと、こぶしから手を離した。
あなたの後ろの車窓には、半蔵門線のシンボルカラーである紫色のラインが壁を一直線に走っている。途切れることのないメトロに挟むための、長い長いしおりのようだった。起点から終点まで一度も地上に姿を見せない半蔵門線のメトロは、最後まで本心をさらけ出さなかったあなたによく似ていると、こんな別れ際で思い至った。
あなたが後ろを振り向く前に、私はドアへと踵を返す。その手の中に、本物ではないけれど、桜の花の香りをわずかに握りしめて。
九段下駅から地上に出たら千鳥ヶ淵緑道に寄って、桜並木を見上げて泣こうと思った。
(了)
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