声音
君こそ、僕でいいのかい。
浅葱が自分の方に顔を向けてくれる前に、史月は静かに問いかけた。
「僕は睡眠と呼吸を除いて、運動や買い物や食事や皿洗いや洗濯や掃除や着替えや入浴や交流や健康維持など、必要最低限の生命維持活動ですら億劫に感じるくらい、ものぐさな人間だ。君みたいに一途に考えたり行動したりすることがあって、生命維持活動が面倒だと考えているのではなく、ただ単に、ものぐさな人間なだけだ。結界師という仕事に就いてはいるが、君みたいに四六時中結界で頭が占められているわけでもなく、結界について、あれこれと試行錯誤しようとも思わない。向上心もない人間だ。今の自分で満足している。こんな僕で本当にいいのかい?」
「必要最低限だろうが何だろうが、おまえはやるべきことをしながら生きている。俺の薬草も、他の依頼人の薬草も、魔草も、結界で守っている。それでいいんじゃないか?俺はおまえが交際相手として適してないとは思わない。それに」
一旦口を閉じた浅葱は立ち上がると、史月の前に立っては、史月の両頬に手を添えて、グッと顔を近づけた。
「交際しているからこそ、俺がずっと見ていたいと希っていた、おまえの凛々しい瞳が見られている。俺は、おまえが交際を申し込んでくれて、本当によかったと、思っている。ただ。やはり、少し、照れくさい。と、言うのだろうか。見たいと思っていたが。ずっと、見ていられると思ったが」
浅葱が史月の両頬に添えていた両の手を離そうとするのを、史月がその上に両の手を押し付けることで、それを防いだ。
柔らかかったり、硬かったり、がさついていたり、つるつるしていたり、出っ張っていたり、へこんでいたり。
両頬に添えられた浅葱の小さな両の手に刻まれた様々な感触。ずっとずっと、薬草に触れてきた両の手。
堪らなくなった。
何に堪らなくなったのか。わからない。けれど、
遠くから。とても遠くから、聞こえてくる声。自分の欲求。訴えてくる声。
集中して聞こうとしなければ、聞こえないほどに小さい声。
打ち捨てるべき声。追求してはいけない声。
(だめだ。この声は、)
聞いてはいけない。
「史月。どうした?」
「いや。申し訳ない。交際しているので、少し、それらしいことをしてみたいと思ったけれど、やっぱり、僕には合っていなかったみたいだ」
史月は浅葱の両の手に押し付けていた自分の両の手をそっと退けた。
浅葱もまた、史月の両頬に添えていた両の手を、そっと退けた。
「僕たちは、僕たちらしい、交際をしていこう。今迄とほとんど変わらない。ほんの少しだけ、違う、そんな交際生活を送ろう」
「………史月」
「何だい?」
「ものぐさなところ。責任感を持って仕事をしているところ。俺は、おまえのことをほんの少し、ほんの一欠けらしか知らない。それなのに、何故だかは知らないが。今のおまえの言葉が嘘だということだけはわかる。おまえは。もっと俺に触れたいと思っているのだろう。俺に触れられたいと思っているのだろう」
「………」
カッチンコッチンガッチンゴッチン。
ぽやりぽやりと、すべてが柔らかくなっているはずの頭の中で、どうしてか、硬い物と硬い物が軽くぶつかった時のような音がした。
何度も何度も何度も。
冷静になっていっているのだろうか。
現実を見られるようになっていっているのだろうか。
いや。いいや、そうではなく。
浅葱がこんなことを言うはずがない、やはりまだ夢の中に居るのではないかと訝しむところだろうに。
触れたところで、想いの熱と深さの違いをより一層強く感じられて、虚しくなるのではないだろうかと訝しむところだろうに。
(僕は、)
ごくり。
生唾を飲み込んだ時に、強く大きく鳴り響く音が聞こえた。
(2024.9.26)




