彼岸のカフカ
この崖は自殺スポットとされていた。
が、あまり有名な自殺スポットではない。
もっとも、<有名な自殺スポット>などというものがあったとした場合、みんなが気をつけるので、自殺することは難しくなる。
ここに14歳の少年がやってきた。
思いつめた表情で。
崖の下を見下ろす。
するとそこには町が見えた。
……町?
少年は目をこすった。
この下に、町があるはずがないのに。
それも、赤い灯のたくさん灯った、にぎやかな町。
この前ここを調べにきた時には、町なんてなかったのに。
それでも少年は、それをおかしいことだとは思わなかった。
きっとこれは、死を目前に控えた者だけが見ることができる、この世界の、本当のリアリティのようなものなのだろう、と。
背後から足音。
少年は振り向いた。
そこには清潔な身なりをした、背筋もちゃんと伸びている老人がいた。
「自殺かな」
と、老人はしわがれた声で言った。
「いいえ違います」
と少年は答える(こう言って、安心させてやり過ごそうと思った)。
「あははあはは、自殺する人はみんなそう言うよ。しない人が、冗談で『はいそうです』って言うものなんだよ」
「本当に違うんですってば!」
老人はにっこり笑って、
「おいで、自殺してもしなくても、どっちでもいいのさ」
と、そのまま少年を通り過ぎて、そのまま崖の方へと進んだ。
「危ない!」
と少年は、さっきまで自分が死のうとしていたくせに、手を伸ばして老人の腕を掴もうとした。
が、老人が何か、特殊な武術のようなものを使ったので、すり抜けてしまう。
少年は崖の下を見下ろした。
そしたら。
「どういうことだ? さっきまでここに階段なんてなかったのに?」
そう、老人はいつの間にか出現していた階段を使って、下にある町の方へと降りていくのである。
少年は老人を追いかけた。
階段は幻覚などではなく、ちゃんと足で踏んで、降りていくことができるようである。
きっとこれは、死を目前に控えた者だけが見ることができる、この世界の、本当のリアリティのようなものなのだろう。少年は再びそう思った。
「君、名前は?」
と老人が言った。
「カフカです」
と少年は思いついた名前でパッと答えた。
村上春樹。
「カフカ君か。贅沢なだねえ。今日からお前は、『カ』だ」
「……え?」
「冗談だよ。いい名だ」
「おじいさんのような人でも、『千と千尋の神隠し』を見るんですねえ!」
町へ出た。
老人は言った。
「おめでとう、君は死んだよ」
「生きてますが?」
「死んだよ」
とにっこりと笑って、そのまま役所のようなところへ案内された。
そこで書類のようなものを渡されて、少年はそれに書けることだけ記入した。
つまりロクに記入されてない。
それを受け付けの女性に渡すと、なんとそれが何かに通ったらしく、そのまま再び外に出て、どこかに案内された。
小さなアパートにたどり着いた。
「今日からここに住んでもらいます」
少年は与えられた部屋のベッドの上でじーっと横たわっていた。
なんだろう、ここは死者の町なのだろうか……なんて考えながら。
ゴキブリが天井をはっていくのをぼーっと眺める。
それが突然、顔面に落ちてきたので、
「ぎゃあ!」
と少年は叫ぶ。
そのままドタバタとゴキブリとの戦闘が開始された。
そこに、
「ちょっとうるさいよ!?」
と隣の部屋から来たらしい女の子が、勝手にドアを開けて少年に言った。
「って、Kくん?」
と女の子は気づいて言った。
「……Y」
と少年は言った。
彼女は去年死んだはずのクラスメートだった。