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ロングヘア

作者: レイ

僕は必ず出勤の2時間前に起きると決めている。そしてそのうちの1時間は身だしなみを整えることにつかう。美容師にとっては外見が全てだ。お風呂に入って、髪をセットして、今日着る服を決める。なんとなく、窓の外を眺め、よし、今日は淡い色のシャツとカーキのパンツにしよう、と思った。準備を終え、リュックを背負って、部屋のドアを開ける。マンションからでると、春の陽気が体に降りかかった。この服にしてよかった、なんてことを考えながら店へと向かう。マンションをでてすぐのところ、塀の上で日光浴をしている猫に朝の挨拶をする。この猫はタマだとかタロウだとか色々な名前がある。今日はどんな名前で呼ばれるんだろうか。「ニャー」と気だるげな声を背にまた歩みを進める。僕が働いている店はマンションから徒歩5分ぐらいで着く。角を曲がると隣の花屋のおばあさんが花に水やりをしていた。「いい天気だねえ」と声をかけられたので、「そうですね」とこたえた。少しの会話が心地いい。「では」といい、店のドアを開ける。カランカランという音と共に足を踏み入れる、この時、僕はふと色々と考えてしまう。上京して2年、働き始めたばかりの頃は雑用ばかりだった僕もいまではそれなりに美容師としての仕事をこなせるようになってきた。後輩も入り、常連客もでき、なかなか軌道にのっていると思う。店に入ると、先に来ていた後輩から「おはようございます!」と挨拶をされた。「おはよう」、そう返し、準備を始める。開店まで20分、予約を確認したり、器具の用意をしたり、後輩や先輩と話したりして過ごす。そしてそのうち壁にかけてある時計が9時を指したのを確認し、表に看板を設置する。いつもと変わらない朝だった。

開店して数分、カランカランと音がしたのと同時に話し声が聞こえる。今日初めてのお客さんだ。レジにいた後輩から「カットお願いします。今日初めてご来店されたお客様です。」と声をかけられ、椅子に座ったお客さんをみた。小豆色の、ロングヘアの女性だった。「おはようございます。こちらへどうぞ」、そう言いながら窓際の席へ案内した。小豆色の髪の毛が、窓から差し込む淡い光と溶け合っていた。

「本日はどのようになさいますか?」

そう問いかけると、その女性は、

「髪を短く切ってほしいんです。」

とこたえた。

「かしこまりました。」

そう言い、細かいことを聞いていく。その女性がいうには、とにかく短くすればいいとのことだった。彼女はどこか儚さを纏っていて、髪を短くして欲しいとうこともあり、大体検討はついていたがなんとなくふれてはいけないような気がして、何が好きだとかどこ出身だとかそんな他愛ないことを話しながら髪を切っていった。もうだいぶ終盤にさしかかったころ、彼女はふと顔をあげ、鏡に映る髪の短い自分をみつめてこう言った。

「一昨日、恋人と別れたんです。」

僕はそれを聞いた時、正直まあそんなとこだろうなと思った。そして、その女性は彼氏だった男のことをぽつりぽつりと、話し始めた。彼はロングヘアが好きだったとか、初めて会ったのがこの街だったとか、僕にとったらどうでもいい事を、彼女は大事そうに話していった。僕は手の動きを少しとめて、彼女の器にはいりきらなくて零れた言葉を受け止めようとした。彼女は彼のことをとても愛していたようだったし、話を聞く限りでは彼も彼女を愛していたようだった。別れた理由こそ言わなかったものの、2人は円満に別れたようではないらしい。やがて話が終わり、僕は残りの作業を済ませた。彼女は鏡に映った自分を見つめながら、髪を切ったことに対してか話を聞いたことに対してかよく分からないようなかんじで、「ありがとうございます」とお礼を言った。帰り際、店をでたところで「また来ます」と彼女は言うので、「お待ちしています」とこたえた。ふと、口をついてでた言葉だった。


「また」、その言葉は使命をしっかり果たした。その日、いつものように出勤していた僕は、いつものように「カットお願いします」と声をかけられ、お客さんを案内しようと椅子に座る女性をみた。

「案外早かったですね」

そう声をかけかけるとその女性が振り返った。前に来た時よりも明るい顔をしていた。

彼女は、

「毛先を少し整えて欲しくて」

と言った。

その後も彼女は度々店を訪れた。髪色を少し暗くしてほしいとか、前髪を切ってほしいとか、そんなかんじで。そして、毎回使命するのが僕だった。技術面で使命しているのか話しやすさや雰囲気で使命しているのかは分からなかったが、どちらにせよ嬉しかった。

ある時は友達の結婚式に出席するからヘアセットをやってほしいと言われた。僕が髪の毛をやっている間、彼女はずっとその友達のことを楽しそうに話していた。

高校で初めて出来た友達なんですとか、すごく友達思いなんですとか、これまた僕にとってはどうでもいいことではあったけど、彼女があまりにも楽しそうに話すので、その友達はさぞかし幸せなんだろうなと胸が少しだけあたたかくなった。彼女のヘアセットを終え、その後も数件の仕事をこなし、帰路についていた時、たまたま結婚式帰りの彼女を見かけた。バッグからブーケをのぞかせながら、幸せそうに歩いていた。いや、幸せそうだったんじゃない。多分、あの時、彼女は間違いなく幸せだったんだ。



今日も出勤の2時間前に起きた。お風呂に入って、髪の毛をセットして、今日着る服を決める。クローゼットを開けて、近くにあった服をとった。紺のTシャツと黒のパンツだった。さっさと着替えてリュックを背負って部屋をでる。マンションをでてすぐ、塀の上で日光浴をしている猫に挨拶をして、角を曲がり、花屋のおばあさんと少しだけ、言葉をかわす。なんてことは話さない。すぐ隣、見慣れたドアを開ける。カランカランという音、「おはようございます!」という声、全てが日常の1部で、でも僕の日常には1つだけ、でもとてつもなく大きい欠陥があった。今日も少しの期待とたくさんの諦めをもって表に看板をだす。ふと目をあげると、春を纏った小豆色の髪の毛と、楽しそうに笑う女性が、通り過ぎた。

彼女の髪は、長く、長く、伸びていた。



朝起きて、お風呂に入って、髪の毛をセットして、今日着る服を決める。部屋の隅に綺麗に畳まれた服を手に取る。淡い色のシャツとカーキのパンツ。今日はゆっくり着替えよう。リュックを背負って部屋のドアを開ける。マンションから出ると、春の陽気が体に降りかかった。

ぱたん、と、本の裏表紙が閉じる音がした。


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