和解と約束
〈首筋をよく狙うんだぞ〉
沙織はうなずいて、スカートのポケットに入れたカッターナイフを握りしめた。
その時、「留奈!」と呼ぶ声がして、沙織は出そうとした手を引っ込めた。
「どうだった!?」
優介が駆け寄ってきた。
「サイコーだったよ!」
留奈のはずんだ声を聞くと、沙織の胸はキリキリと痛んだ。
(私が風俗嬢になることも覚悟して、優介をゾンビにしたからよ。だから、彼は漫
才師としてレベルアップしたの)
自分はこれから苦界に身を落とすと言うのに、二人がこのまま幸せになっていく
のが許せなかった。
悪霊は沙織の心を読みながら、ほくそ笑む。
〈さあ、今こそ復讐の時だ。やれ!〉
沙織が握りしめたカッターナイフを出そうとしたその時、
「沙織! どうだった? 俺、うまくなったろ?」
優介が自分にも話しかけてきた。
沙織は戸惑いながらも笑みを浮かべ、
「う、うん。すごく良かった。落ち着いてたし、アドリブもうまかった」
「これも君のお陰だよ。君が僕をゾンビにしてくれたから」
「そ、そんな……私がやったことはサイテーなことだよ」
「そうだったとしても、僕は感謝している。ゾンビにならなかったら、あんなに落
ち着いて漫才できなかった。きっと下手くそなドシロウト漫才で終わっていたと思
う。僕は今日、プロになれるって自信を持ったんだ。これもみんな君のお陰だ」
「私なんか何もしてないよ……優君を独占しようとしてサイテーなことをしただけ
……許して」
沙織は顔を覆って泣き出した。
〈おい、泣いてる場合か! ナイフを手に取れ! 留奈を切るんだ!〉
悪霊は焦ってけしかけたが、沙織の心は後悔と悲しみで満たされ、殺意はどんど
ん萎えていった。留奈が優しく慰め出したため、それはさらに倍加した。
「私なんかより、沙織のほうが真剣に優君を想ってたと思う。それが行き過ぎてし
まっただけだよ。それにね、私の念で生きているから、優君は一生浮気できないで
しょ。浮気できない人と一緒になれる私は、とっても幸せだと思うの。だから、沙
織には心から感謝してる」
沙織はすっかり留奈に対する殺意が無くなり、彼女にすがって号泣し始めた。
〈駄目だ、こりゃ〉
悪霊はあきらめて沙織の体から出ていった。とたんに沙織の体が軽くなり、今ま
での強迫観念が消え去った。
「マジひどい目にあわせてごめん。優君、ゾンビにしちゃったこと許してくれる?」
「もちろんだよ。一つだけお願いがあるんだけど、僕がゾンビだってこと、誰にも
言わないでくれるかな。
ゾンビだから上がらないんだ、ゾンビだから落ち着いてできるんだ、ゾンビの七
光――って言われたくないからね」
「分かった。絶対言わない」
沙織は口にチャックをする仕草をして笑った。




