小心者の相方
優介はゾンビ――生ける屍とは程遠い、落ち着きの無い少年だった。
特に好きな女の子の前では、その落ち着きの無さは病的なレベルになり、周囲に
地震を起こすほどの貧乏揺すりをする。理解不能なほど早口になり、まるでネイ
ティブがフランス語をしゃべっているかのようだった(実際にフランス語をしゃ
べらせると、『ボンジュール』しか言えない)。
それで、イケメンの部類であるにもかかわらず、生まれてから高校に入って十
日目の現在まで、彼女ができた試しがなかった。
自分の小心さに悩み、死にたい(死体は一番落ち着いているから)とまで思い
つめたこともあったが、そのうち治るのではという希望が捨てられなかった。
「そゆわけで、この年まで生きながらえてきたんだ」
優介は高校に入ってできたばかりの友人・佐路佳治に話した。
「この年……って、まだ十六だろ」
佳治が学食の安いカレーを口に運びながら苦笑する。
「悩みが深いと、年月が長く感じるんだよ。もう、六十年も生きてきた気分だ」
「お前のあだ名、『ジジイ』に決定ね」
「やめろよ! 俺のどこがジジイなんだ」
確かにサルづらの佳治と違って、つぶらな目をした美少年なのだ。
「六十年も生きてきた気分って、おめーが言ったんだろっ」
怒鳴り合う二人に周りが視線を向けた。ブサイクな女の子達がクスクス笑ってい
る。
佳治が声を落とし、
「ブスでも笑ってもらえるとうれしい」
「何言ってんだ」
「俺、お笑い目指してるから」
「えっ、そうなの」
佳治は毎朝クラスの女の子を集め、廊下で漫談をやっていたのだ。もちろん、全
てのネタが受けるわけではなく、白ける時もあった。しかし佳治はめげることなく、
機関銃のようにギャグを繰り出していた。
「プロになろうと決意したのは、つい最近だけどな」
「モテたいから女の子を笑わせていたんじゃなかったのか」
「俺はそんな不純な動機でお笑いをやってねえ」
「それじゃ、崇高な動機でやっているんだ」
「そうだ。お笑いで成功して、女優にモテたい」
「じゅうぶん不純な動機だろっ」
「女に対する理想が高いってことだ」
後ろのテーブルからクスクス笑いが聞こえた。例のブサイクな女の子達だ。拍手
をしている子もいる。漫才でも聞いているつもりなのだろう。優介は声をひそめる
と、
「お前のせいで、笑いものになってるぞ。こっちは深刻に悩んでるのに!」
「ああ、気がちいせーって話ね」
「そうだ、どうしたら直るかとゆー相談だ」
「んー……そうだなあ」
佳治はカレーを口に入れながら考えている。
「このカレー、肉が入ってねえな」
全然考えてない。
「なんだよ!」
「運がいい時はひと切れぐらい入ってるんだが」
「んなこと、どうでもいい!」
「そうイラつくな。いいこと思いついたから」
「マジか! なんだ、それは」
優介は横の席から佳治に顔を近づける。
「おい、迫るな。そのケはねーから」
「早くしゃべれ、『いいこと』ってのを」
「それはね……『肉入れて』ってオバさんに頼むの」
「いい加減にしろ!」
優介は佳治の頭をはたいた。
「いいぞ!」
佳治はなぜか目を輝かせている。
「何がいいんだ。お前は?か」
「そうじゃない、お前の突っ込みはサイコーってことだ」
「俺は文句を言っただけだ」
「それでいいんだ。お前は俺と息がぴったりだ」
「おい、一人で興奮すな」
「俺とコンビ組もう! それでみんなの前で漫才やるんだ。そうすれば、お前の小
心さも直るぞ」
「なんだって? 俺みたいなイケメンが何でみんなの笑いものにならなきゃいけな
いんだ」
「お前、マジで気の小ささを直したいと思っているのか?」
「思ってるよ。このままだと一生彼女も作れない」
「それじゃ、人に笑われたっていいじゃないか。いや、むしろ笑われることで自分
のちっぽけな見栄が崩壊して気の小ささが直るんだ」
「なるほど」
佳治の説得力のある話に優介は思わずうなずいた。さすがに口先で生きるお笑い
芸人を目指しているだけある。
「俺、帰ったら台本書いてお前のパソコンに送るから、明日までに覚えておいてな。
体育館の裏で早朝練習したあと廊下でやるからな」
「分かった」
深い考えもなく、優介はうなずいた。これが後に自分にとって恐ろしい災厄がも
たらされるきっかけになるとも知らずに。
優介の家はマンションのローンを抱え、やり繰りに苦労していた。
一人息子にもかかわらず、お金を掛ける気はなく、入れた高校も偏差値低めの都
立だった。本人にも向上心がなく、学力を磨いて進学校に入ろうなどという志は持
っていなかった。優介は自分に勉強を押しつけない親に感謝していた。親のほうも
私立に行きたがらない息子に感謝していた。だから親子仲はとても良かった。
父親の帰りが遅いので、夕飯は母親と済ませることが多い。
六時ごろパートから帰った母親が、あわただしく料理を作る。
「コロッケ二個だけ? 三個にしてよ」
勉学に対する意欲は無いが、食欲は人一倍あったので、塾や学校に対する望みは
一切口にしない分、食べ物には常に注文を付けていた。
「それじゃあ、私のをあげるわよ」
母親はしかめっつらで自分の皿から息子の皿にコロッケを一個移動させる。
「悪いね。今度、母の日に奮発するから」
「へえ。少ない小遣いから何をくれるっての」
「肩たたき券」
「タダじゃないの! そういうのは『奮発』とは言わないの」
「それじゃ、ダイヤのペンダント」
「マジ!?」
「の写真」
「アホッ」
親子漫才のような夕食を済ませると、優介はすぐに自室に引き揚げた。
佳治の話では、八時には台本を送信するというのだ。
「そんなに早く書けるのかな」
きっと宿題もやらずに作るのだろう。優介はと言うと、小心者なので、教師に怒
られるのが怖いため、宿題は必ずやることにしていた。しかも今日は数学、英語、
国語の三科目も出ている。漫才どころではない。
優介は真面目に宿題をやり出した。
気がつくと、十時を過ぎていた。
「あ、台本が届いているんだっけ」
しかし、まだ宿題は終わっていない。四苦八苦しながら難しい数学の問題を片付
けると、ようやくノートパソコンを開いた。
ジャンクメールが次々と迷惑メールフォルダに落ちる中、「裏・無修正DVD」
が消えた次に「★漫才台本」が残った。
「これか」
メールを開いてみると、ひとこと「明日までにしっかり憶えてくるように」とあ
った。
「えらそーに」
優介はブツブツ言いながら添付ファイルを開く。
「かーっ、二ページもあるのか!」
プリントアウトした台本を読みながら、なんでこんなくだらないものを試験でも
ないのに暗記しなければならないのか、と馬鹿らしくなってきた。
自分の小心さを直すためだ――という言葉が浮かんだ。
守護霊様のお告げかもしれない。
(そうだ、彼女いない歴八十年なんてことになったら悲劇だからな。女の子達の前
でしゃべりまくれるようになるんだ)
優介はYと書いてある自分のセリフを真剣に憶え始めた。
翌朝、優介と佳治は体育館の裏で落ち合った。校門が開いてまだ数分も経ってい
ない。
「憶えてきたか?」
「ああ。なんとか憶えた」
佳治の問いに、眠そうな顔で答える。
「おい、もっとしゃんとしろ。お笑いはテンションが高くないと面白さが半減する」
「憶えるのに夜中まで掛かったから、眠くて眠くて」
「なんで。八時には送ったろ」
「十時過ぎまで宿題やってたんだよ」
「なんで」
「なんでって、宿題やるのは当たり前だろっ」
「そんな法律無いよ」
「法律は無いけど、当てられた時に恥をかきたくねーんだよ!」
佳治は眉を寄せた。
「そういう小心さを直すために、やるんじゃないか」
「そこまで厚顔無恥になりたくない! 宿題は今後もやるからな」
「分かったよ。でも、漫才に支障が出ない程度にしろよ」
「わけ分かんねーっ」
佳治は優介の手を握り、
「お前はマジいい突っ込みだ」
「やめろ! そういう趣味は無い」
「さあ、ふざけるのは終わりだ。やるぞ」
佳治は元気に手を上げる。
「どうもー! 佳治でーす!」
「……優介です」
「何なんだ、そのゾンビみたいなしゃべりは!」
「そんなセリフあったか?」
「無いよ! 駄目出しだ! もっと元気よく言え!」
「だって静かな校庭に響き渡るじゃないか。見っともない」
「あのな、見っともないなんて思ったらお笑いなんかできねーの。そういう見栄が
お前の気の小ささの原因なんだよ」
「そうか……見栄か」
「そうさ。だから、恥をかくつもりで馬鹿なことを大声でしゃべるんだ。そうすれ
ば、どんなにきれいな女の子とでも、震えずに話せるようになる」
「分かった」
優介はうなずくと、勢いよく手を上げた。
「優介でーす!」
「元気はいいが、選手宣誓みたいだな」
「いちいちうるせーな!」
「おい! 教えてもらっているのに『うるせー』とは何だ。漫才だって一つの文化
であり、いい加減にできるようなものじゃないんだ!」
「すいません」
「顔がかてーんだよ。もっと崩せ」
「この美しい顔を崩せだと?」
「それが見栄だろう!」
「分かった、分かった。優介どえーっっす!」
「いいぞ、そのアホづら」
「アホづらとは何だ!」
「誉め言葉だ!」
「早くネタに入れよ!」
「お前のせいで入れないんだろう!」
ようやくネタに入ったが、途中で優介がセリフを忘れた。
「えっと……サンマの塩焼き?」
「そんなのねーよ!」
優介がポケットから台本の紙を取り出すのを見て、佳治はせせら笑った。
「これだから馬鹿は」
「お前のほうが成績悪いだろっ。まともに宿題に答えられたことねーよな?」
「ああ、確かに成績は悪いがな、ネタを忘れるようなことはねえ」
「自分が書いたネタだからだ!」
「いいから早く自分のセリフをしゃべれよ!」
「どこだか分かんない」
「それじゃあ、教えてやろう。正しいセリフは『マグロの刺身』だ」
「サンマの塩焼きと大して変わんねーや」
ようやく最後まで練習が終わると、佳治が渋い顔で腕組みをした。
「お前は台本を使うと全くの棒読みだ。日常会話はいい突っ込みができるのに」
「しょーがねーだろ、プロじゃないんだから」
「まあ、いい。教室に行ってお披露目だ」
「えっ……もう、やるのか」
「早くやらないと授業が始まっちまう。女の子達も待ってるぞ」
優介は胴震いがしてきた。
「女の子……」
「おい、顔が青いぞ」
「やっぱ俺、できない」
「何言ってんだ、彼女いない歴八十のジジイになりたいのか」
優介は佳治の腕にすがりつく。
「それを言わないでくれ」
「自分に勝たなきゃ、このままチェリージジイに一直線だぞ」
「分かった! やる! 俺は自分に勝つ!」
「よし、来い!」
胸を張って歩く佳治の後ろを、へっぴり腰の優介が続く。
「あっ、佳治だ!」
「待ってたよー」
一年B組の教室に入ると、ファンの女の子達が歓声を上げた。ファンと言っても
四、五名だ。
「やあ、待たせたな。廊下に出てくれ。今日は優介と漫才をやるから」
「えーっ、太内君が漫才?」
「ウッソー」
優介の小心ぶりは、すでにクラス中の女子に知れ渡っていたのだ。
「さあ、外に出るんだ」
佳治は顔を紅潮させている優介の腕を取った。
「マジできんのー?」
「信じらんなーい」
女子達が笑いながら教室の外に出る。
廊下に出た佳治は、うなだれている優介に耳打ちした。
「顔を上げろ」
「駄目だ。ゆでダコみたいになってる」
「かえって面白い」
「できねえ」
「カッコつけるな!」
「でも」
「彼女いない歴八十年」
佳治の言葉に、優介は必死の思いで顔を上げた。とたんに、女子達が大爆笑した。
「お、すげーな。顔だけで笑いを取ったぞ」
なにしろ優介の顔は白目まで赤くなっていた。人間の顔というより、リンゴかト
マトみたいだった。
「優介でーすっっ」
手を上げ、中空を睨みながら叫んだ。再び爆笑が起きる。
(こいつ、俺より面白いぞ)
佳治は顔をこわばらせ、負けじと滑稽な仕草で手を上げた。
「佳治どえ―すっ」
誰も笑わない。
(芸人志望の俺のほうがつまらねってか?)
佳治は焦りながらネタに入った。ところが優介は一言も発しない。
「おい……どうしたんだ」
優介は貧乏揺すりをしながら、あたりをキョロキョロ見回している。
(逃げ出そうってんじゃねーだろうな)
「はいはい、優介君、落ち着いて」
笑いが起き、佳治は少しホッとした。しかしこのままでは先に進まない。
「お前、消費税についてどう思う?」
「●×△◆◎□」
意味不明な宇宙語のようなものを口走っている。
「すいませんねえ、今ちょっと宇宙人の霊が憑依しているみたいです」
女子達の爆笑を聞き、優介はますます混乱し、全身をけいれんさせながらうわ言
のようなものをしゃべり続けた。佳治は引きつった笑みを浮かべ、
「はいはい、落ち着いて。ねっ、よく聞いてくださいよ。お前、消費税についてど
う思う?」
優介を睨みつけながらもう一度聞いたが、やはり無反応で意味不明な言葉を口走
っている。
「優介、頑張れ!」
その時、ドングリ眼にぶ厚い唇の女の子が活を入れるように叫んだ。
知田沙織――後に大変な禍をもたらす女子が、このとき優介には天使に見えた。
優介は正気に返ると、猛烈な勢いでネタをしゃべり出した。つられて佳治のしゃ
べりも速くなり、あっと言う間に終わってしまった。
女の子達は笑う暇もなかったが、拍手だけはしてくれた。
「面白かったよー、何言ってるか良く分からなかったけど」
沙織が励ましとも駄目出しとも取れる言葉を掛けた。
優介は青ざめた顔をもう一度真っ赤にすると、教室に駆け込んだ。
「初日にしちゃ、良かったぜ。最初はどうなることかと思ったが」
学食でいつものカレーを食べながら、佳治が誉めた。
「いいわけないだろう」
優介は思い出すのも嫌なようすだ。
「女の子の前でしゃべって、少しは度胸が付いただろ?」
「俺、しゃべったのか。全然覚えてない」
「まあ、棒読みだったけどな、初日はそんなもんだよ」
「初日にして千秋楽だ」
「何言ってんだ、千秋楽はこの学校を卒業する日だ」
「そんなに長くやってたまるか!」
「ったく、お前は逃げることばかり考えるな」
「……」
「人間というものは、長い時間を掛けて成長していくものなのだよ。少しやっただ
けであきらめていたら、何事も中途半端で終わるだろう」
「説教がうまいな。お前はお笑いなんてやめて、教師になれ」
「じょーだん! ガキの相手なんて」
そこへ沙織がサンドイッチの皿を手に、近づいてきた。
「さっきの漫才面白かったよ!」
なれなれしく優介の肩に手を置く。
「どうも」
優介は沙織に向かって余裕の笑みを浮かべた。タコのような親しみを持てる顔な
ので、それほど緊張しない。
「持ち上げないでくれ。優介のしゃべりは速過ぎて、面白さが半減したはずだ」
「でも、じょうずだったと思うよ」
沙織は優介の隣に座ると、誉め続けた。
「立て板に水って、ああいうしゃべりよね。今はああいうのが流行りなの」
優介は苦笑してうなずき、
「明日もあれで行くよ。すぐに終わるからな」
「何言ってんだ! 早く終わればいいってもんじゃない。客に理解されなきゃ意味
が無いだろ」
「でも、このヒトは面白いって」
佳治は優介越しに沙織を睨み、
「おい、無責任な誉め方はやめてくれ。あんたみたいな甘いだけのファンは芸人を
スポイルする」
「俺は芸人じゃないぞ」
「そういう甘えた意識が駄目なんだ。そんなんじゃ、いつまで経っても上達しねー
ぞ。人前でやるからにはプロのつもりでやれ」
「優君は立派な芸人になれるよ」
「何言ってんだ、二人とも。俺は芸人になんかならねーぞ!」
「優君なら、なれるって」
「やめてくれ!」
「おい、沙織! お前みたいなおもねるだけのファンは迷惑だ。あっち行ってくれ。
しっしっ」
沙織は肩をすくめると、サンドイッチの皿を持って女子達の席に帰っていった。
「優介。ああいう女に勘違いさせられちゃ駄目だぞ。自分の力量は客観的に判断で
きないと、芸人として成長できない」
「お前、さっきから芸人芸人言ってるけどな、俺は芸人になんかなるつもりはこれ
っぽっちもねーからな!」
佳治はニヤリと笑い、
「ああ、分かってるよ。女子の前で落ち着いてしゃべれるようになれればいいんだ
ろ」
「その通りだ」
「それじゃ、今夜も台本送るからヨロシク」
「ああ、明日は絶対忘れるような事はしない」
その宣言も虚しく、翌日も「優介でーす!」の後、貧乏揺すりが始まった。
(またやってやがる)
進歩と言えば、昨日と違って顔が赤くなっていないところだった。赤ではなく、
青くなっていた。意味不明な宇宙語を口走る優介に、
「優君、頑張れ!」
沙織が昨日と同じように声を掛けて励ました。優介はハッとしてセリフを思い出
し、猛烈な勢いでしゃべり出した。沙織は目を輝かせ、にっこりと微笑む。
(優君は私がいないと駄目なんだ)
よどみなくしゃべる優介を、沙織は満足げに見つめた。
「いい加減にしなさい」
優介のセリフで終わると、女子達から笑いと拍手が起こった。
「昨日より全然いい!」
「進歩してるー」
優介はうれしそうに顔を赤らめた。
「優君、よくやったよー」
沙織が手をたたきながら母親のように誉める。相手がタコのような女の子で全然
興味が無くても、誉められればうれしいものだ。優介は晴れやかな美しい微笑を向
けた。それで沙織は勘違いした。
(優君、私が好きになったかも)
教室に入りながら、佳治が耳元でささやいた。
「よかったぞ」
「今日は昨日より落ち着いていただろ?」
「ああ、昨日と同じで始めはどうなるかと思ったけどな」
「明日は出だしからちゃんとやる」
「そうか。それじゃ、もっとハードルを上げよう」
「ハードルを上げる?」
「沢野留奈に見てもらうんだ」
「沢野……」
クラス一の美人で性格も頭もいい子だ。
「漫才なんて見てくれるか分からないけど、優しそうだから拝み倒せば『うん』と
言ってくれるだろう」
「やめてくれ! 俺、どんな状態になるか分からない」
「大丈夫だ。ちゃんと女子達の前で、できるようになったじゃないか」
「みんなブスだからだ」
「美人の前でひどい状態になるんじゃ、社会に出てからやっていけんぞ。大人は整
形美人がいっぱいいるんだから」
「そうだな……いま直さないと、ひどい恥をかくのは分かっている」
「だろ。だから勇気を出して、沢野留奈の前で漫才をやってみろ」
優介は眉間にシワを寄せると額に脂汗を浮かべ、
「それはヘビ嫌いに『ヘビを素手でつかめ』と言っているに等しい」
「大げさな」
「お前に俺の苦しみなんか分からないさ! いや、世界中の誰にも分からないだろ
う! 天にまします我らが神のみぞ知るだ!」
「何一人でシェークスピアやってんだ」
「私の苦悩は漫才のようなおちゃらけたレベルではないのだ! おお、神よ」
「分かった、分かった! それじゃ、沢野留奈はそのうちという事にしよう」
優介はホッとして額の汗を拭いた。
翌日のパフォーマンスは出だしから快調だった。優介は女の子達の視線にも慣れ、
何とも思わなくなっていた。ここは水族館で、見ているのはイワシやタコ――と思
うことにしたのだ。タコの沙織は「頑張れ、優君」と呪文のようにつぶやきながら、
祈るように見ている。興奮すると口が突き出てくる癖があるようだった。
優介が一度もつっかえずにしゃべり終えたのを見て、沙織はホッとすると同時に
声を掛ける場面がなく、少し寂しい気持ちだった。一人で立派にできるようになっ
たら、自分はもう必要ではなくなる。
(私が必要でなくなる時が来るとしても、それまで私が優君を支えてやらなきゃ駄
目なんだ。彼が一人前の漫才師になるまでは)
勝手に優介が芸人になるものと決めつけていた。
「今日はサイコー!」
「一番よかった!」
水族館のサカナ達が口々に誉めたたえる。佳治はニヤつきながら優介の耳元でさ
さやいた。
「明日あたりは、もう沢野留奈いけんじゃね?」
「人間はまだ駄目だ!」
「は?」
「いや、こっちの話だ。とにかく留奈は僕にとって、ここの女子達とは別の生き物
なんだ」
「しょうがねーな。モノホンの舞台に立ったら、美人なんていくらでもいるぞ」
「舞台なんか立たねえ!」
優介が睨みつけると、佳治は薄笑いを浮かべて黙った。
それから二十日が経ち、優介は緊張のあまりセリフを忘れることもなくなり、余
裕でしゃべれるようになっていた。佳治からも女子達からも誉められ、優介は自信
を付けていった。
自信とは一人前の漫才師になる自信ではなく、沢野留奈に面と向かって告白する
という自信である。芸人を目指しているわけでもない彼にとって、それこそお笑い
をやってきたモチベーションと言えるのだった。
沢野留奈――さまざまな男子が告っていたが、成功した者はまだ一人もいないら
しい。男子には興味が無いのか、対応も素っ気なかった。でも、オナベには見えな
い。切れ長の目にポニーテールの清楚な美人だ。近づくと石けんの匂いがしてきそ
うな清潔感がある。洗濯石けんではない。香料入りのボディーソープだ。きっとそ
れをナイロンタオルに付けて、しなやかな体を洗っているのだろう、と優介は毎日
妄想していた。
自分だってクラスの中ではイケメンのほうだし、それは彼女も認識しているだろ
う。
もしかしたら、「カッコいい」かなんか思ってくれているかもしれない。体を洗
っているところは妄想していないだろうけど。
今のところ彼氏はいないようだが、ぐずぐずしているとそのうちできてしまうか
もしれない。そして、子供まで作ってしまうかもしれない。いや、そこまでは無い
だろう。なにしろとても奥手に見える子だ。もしかしたら彼氏いない歴八十になる
かもしれない。いや、そこまで奥手ではないだろう。しかし、本当に奥手なのだろ
うか?
十代から彼氏がいたのに、黙っていたアイドルもいたぞ。留奈も既に彼氏がいる
からこそ、言い寄ってくる男子達を振り続けているのではないか。
えっ、まさか子供もいて、それが里子に出されていたりして。しかもそれが相手
の男にそっくりのブサイクな女の子なのだ。そして里子に出された家で虐待を受け、
本当の母親を探し始めるのだ。
そのころ留奈は初めての結婚に失敗し、小さなアパートで一人暮らしをしている
のであった。
優介の留奈に対する妄想は、ドラマの脚本レベルにまで広がりを見せていた。し
かも授業中や試験中にまで考えてしまうほど重症になっていた。
(いつまでもこんな事はしていられない。この無駄な妄想をやめるには、留奈と付
き合って、真実を知るしかない)
勇気を出して、やるんだ。漫才の初日のように。
優介は留奈の後をつけ、告白のスキをうかがった。学内ストーカーである。学内
だから、警察に通報される心配も無いだろう。しかし、留奈が一人になる時はなか
なか訪れなかった。このままだと留奈に自分のストーカー行為を気づかれてしまい
そうだった。
(もう、やめようかな)
優介が弱気になりかけた時だった。
一時間目の授業中、優介はノートを取りながら激しい便意に襲われた。
朝食の中に腐ったものがあったらしい。夕飯の残りの卵焼きか、ハムサラダか。
この際、犯人捜しをしている暇はなかった。
優介は数学の教師に頼んでトイレに行かせてもらった。
腰を引き気味に内マタで廊下を歩いていると、なんと前から沢野留奈がやってき
た。何か事情があったのか、遅れて来たのだ。
留奈は優介と目が合うと、にっこりした。
か、可愛い。
優介はへっぴり腰のまま停止した。
留奈も立ち止まって小首をかしげた。
か、可愛い。
(いつ告るの。今でしょ!)
守護霊様のお告げが聞こえた。
(てか自分の声だ)
「おはよう。どこ行くの?」
留奈のほうが声を掛けてきた。
(トイレ――なんて言えるか)
優介は留奈の顔を凝視したまま貧乏揺すりを始めた。そして、鏡に映ったおのれ
の姿を見ながら汗を流すという四六のガマのように額から脂汗を噴き出させながら、
例の宇宙語をしゃべり出した。
留奈から笑みが消え、怪訝そうな顔で優介の横を通り抜けると教室に入っていっ
た。
カンペキに「おかしな奴」と思われたに違いない。
今の症状は猛烈な便意のせいだったのか?
(いや、違う。やっぱり緊張したせいだ)
漫才を続けてきた最大の目的である気の小ささの克服は、達成できていなかった
のだ。
優介は落胆のあまり、その場に座り込みそうになったが、中身が出そうになった
ため、あわててトイレに駆け込んだ。
翌日、体育館裏の練習の時から、優介のテンションは低かった。
「おい、やる気あるのか」
佳治がイラッとして、優介の胸をはたいた。
「どうせ俺なんか、いつまで経っても沢野の前でやるほどの度胸は付かないんだ。
漫才なんかやったって無駄だ」
「そうか。ブスの前でばかりやっているからだな」
「水族館の前でやる度胸は付いたんだけどな」
「何なんだ、それは」
「とにかく沢野だけは勘弁してくれ」
「そういうことか」
佳治は半眼で優介を見た。
「お前、沢野が好きなんだな?」
優介は顔を真っ赤にして佳治に迫り、
「クラスに沢野が好きじゃない男子が一人でもいるってのか」
開き直って言った。
「そ、そりゃ……いねーよ」
佳治もサルづらを赤くした。
「お前もか」
「まあな」
「その顔じゃ無理だ」
「るせー! 男は顔じゃない、度胸だからな!」
「てめえ……俺の心を深くえぐるようなことを言ったな」
「ああ! お前みてえなノミの心臓は滅多にいねえからな」
「ノミだと!?」
「いや、ノミ以下だな。ノミは沢野の血だって臆することなく吸うだろう。お前は
血を吸うどころか、沢野をまともに見ることすらできない」
「てめえ! ディスりやがって」
「事実を言ったまでだ」
「確かにそうだが」
「分かってるなら、逃げずに直そうとしたらどうだ?」
優介はうつむくと、体を震わせた。
「やめてくれ……沢野だけはやめてくれ……彼女の前で恥をかきたくない」
「分かったよ。それじゃ、路上ライブで他の美人を探そう」
「路上ライブ!?」
「そうだ。チマタには沢野並みのきれいな子はいっぱいいる。小学生から熟女まで」
「……いいだろう。別に付き合う可能性の無い他人になら、どんなに恥をかいても
いい」
佳治はうなずくとスマホを取り出し、メモを開いた。
「過去に一番受けたネタを五本やろう。『僕の彼女』に『僕のペット』、『僕はイク
メン』に『富士は世界の宝物』、『宿題いつやるの。今でしょ!』だ」
「そんなのとっくに忘れてるよ!」
「なんだって? 落語家は噺を幾つも憶えていて、他の出演者とかぶらないネタを
やるんだぞ」
「俺は落語家じゃねえ! ただのイケメン高校生だ」
「イケメンは余計だ。それじゃ、放課後に全部練習して、六時ごろ駅前でやるぞ」
「いねえだろうな、沢野」
「とっくに家に帰ってるよ」
「それじゃ、これから必死に台本を読み返す」
二人で教室に入ると、佳治がファンの女子達に告げた。
「今日のパフォーマンスは中止です」
「なんでー」
沙織が口をとがらせたので、ますますタコのような顔になった。
「今日は路上ライブをやるんだ。今から台本を読み返すから忙しい」
「マジ!? どこでやるの!?」
目を丸くしたので、タコそっくりになった。
「来なくていいよ。赤の他人の前でやることに意義があるんだ」
「そんなこと言わないで教えてよ! いっぱい笑ってやるから」
「サクラはいらない。厳しい環境でやりたいんだ」
「そりゃ、佳治君は慣れているからできるだろうけど、優君は私が励まさないと駄
目なの」
優介はムッとした。
「そんなことない。君がいなくても大丈夫だ」
「……」
沙織は悲しそうな顔でタコのような口をつぐんだ。




