マジカル・ドロップ
――なんだかとても嫌な予感がする。またミユの悪戯かもしれない。
俺がそのことに気づいたのは、青年が薬局のガラス扉を開け、こちらへ嬉しそうに出てくるのを見た時だ。茶色い紙袋を大切そうに抱えたその青年は、スキップしながらほくほく顔で通りの向こうへ走って行く。俺は若干胸が重苦しくなるのを感じながら、今まさに青年が出てきたばかりの薬局の中へ入った。
「みゆ。……お前ひょっとして、またやったか?」
「あ、お兄ちゃん! お帰りなさい」
店内のレジカウンターに座る小学生の妹は、ご機嫌に笑い手を振ってきた。今朝見た時と同じ姿のまま、肩までの髪をツインで上にまとめ、学校制服の白シャツと紺のつりスカートをはいている。行儀の悪いことにカウンターの上で足をばたつかせている、その足下に赤いランドセルが打ち捨てられていた。
「勝手にお客さんに商品を売るなって言ったろ?」
俺がランドセルを拾いながら文句をたれても、みゆは満面の笑みだ。
「あの人、喜んでくれたよ? みゆ、魔法のお薬あげたから」
「は……何を売ったって?」
「だから、魔法のおくすり」
俺は慌てて店の帳簿と在庫を確認し始めた。それをみゆが横でにやつき見ている。
「おい、どの薬だ!?」
「さぁ、どのくすりでしょう?」
「ふざけてないで俺にちゃんと……!」
「それ」
そこの薬、とみゆが指さしたのは栄養サプリの棚だ。帳簿で確認してみれば確かに一つだけ在庫が少なくなっている。
「お前な。本当にいい加減にしろよ?」
俺は安堵のため息をついた。うちの薬局には様々な薬が置いてあるのだ。栄養サプリから風邪薬、漢方に消毒液、中には使い方を誤れば危ういものもあり、それらは妹の手の届かない場所へ鍵付きケースに入れて保管してある。まさかとは思ったが、その中の危険な薬が売られたかと危惧したのだ。俺は帳簿を丁寧に元あった場所へ戻し、みゆの頭を小突く。
「まったく……隼人がいないのに勝手に薬に触るんじゃない。で、その店番の隼人はどこに行ったんだよ?」
「わかんない。お散歩じゃない?」
みゆは隼人の物真似をしてみせた。猫のように両手で拳をつくりにゃぁと微笑み鳴いてみせてくる。俺はそれを見て本日何度目かのため息をついてしまった。
隼人は俺が雇ったアルバイトだ。俺はこの店を何かと留守にしがちで、その間の店番を彼に任せている。今日も俺が店を出るまでは、確かに隼人はここへ来ていたのだが。
(隼人め、またさぼったな)
隼人は妹のみゆがいると、店番をさぼってしまうことがままあった。小学生の妹一人に店を任せて、それで間違いがあったらどうする気なのだろう。今まで大きな問題になっていないからと、目をつぶってきた俺がいけなかったのかもしれない。
(まぁ、みゆが売ったのは栄養サプリだ。売ってしまった物は仕方ないか)
特に害になる薬ではないし問題なかろうと、半ば自らへ言い聞かせるように納得した俺へみゆが言う。
「さっきのお客さん、またそのうち来るよ」
「ん?」
怪訝な声を上げる俺に、妹は自信たっぷりに胸を張った。
「だって悩みがあるって言ってたから。魔法のお薬がまたほしくなるよ」
「栄養サプリな」
俺のため息は止まりそうにない。吐く息と一緒に幸せがどんどん逃げていってしまいそうだった。
わが妹、みゆはちょっとした嘘や悪戯が大好きだった。店を訪れる客に適当なことを言っては、その無邪気な笑顔と口八丁で商品を売りつけてしまう。
「おばあちゃん、これは魔法のお薬ですよ。これを痛むばしょに貼れば、魔法によって痛みが取れてしまうのです」
今日も今日とて、みゆは訪れた常連の老婦人へ湿布を売りつけようとしていた。数百円払えばスーパーでも買える湿布を片手に満面の笑みな妹へ、人の好い常連の老婦人はふんわりと笑う。
「相変わらずみゆちゃんは商売上手ねぇ。良いわ、私にその『魔法のお薬』をひとつくださいな」
「はい! これで腰の痛みはすぐに良くなりますよ、おばあちゃん……みぎゃっ!?」
「みゆ! いい加減にしろって!」
俺が拳骨でその頭を叩くと、涙目になった妹はあろうことか客である老婦人の影に隠れてしまった。
「おばあちゃん、お兄ちゃんが苛めてきます」
「まぁまぁ、妹さんには優しくしてあげてね。こんなに可愛らしいんだから……そうだわ、なにかみゆちゃんのお勧めのお薬があれば、もうひとつもらって帰ろうかしら」
優しく妹の機嫌をとる老婦人に、みゆはあっという間に顔を輝かせる。
「それなら、とっても良い魔法のお薬がありますよ! これはお孫さんと仲良くなれる魔法の薬なんです!」
そう言いみゆが勧め出したのはビタミン剤の肝油ドロップだ。甘味のあるそのドロップは確かに子供向けだが、それはただの栄養剤であり妹の言うような『魔法のお薬』などでは決してない。老婦人はその商品を初めて目にしたのか、不思議そうな顔をしている。
「まぁ、これが『魔法のお薬』? うちの孫とも仲良くなれるかしら?」
「もちろん! これを毎日ひと粒ずつあげるんですよ。ひと粒だけですよ? もうひとつ欲しいと言われたって、次に来るときにね、って答えないとだめですよ?」
みゆの自信ありげな物言いに俺は首を傾げてしまう。その栄養ドロップでなぜ老婦人とお孫さんが仲良くなれると考えたのか。そんな物をあげるくらいならまだしも、キャンディやチョコを渡した方が良いと思う。そのまま笑顔で何やら話を続ける妹へ真剣に相槌を返していた老婦人は笑った。
「じゃぁこの湿布と、みゆちゃんのお勧めのその、ドロップを頂くわ」
結局みゆに丸め込まれたのか、老婦人は俺に二つ分の商品の会計を支払おうとするので、俺は慌てて首を振る。
「ばあちゃん、みゆに付き合ってやる必要ないよ。悪かったな、これはそのまま貰っていってくれ」
「いいえ、いけないわ」
老婦人はにっこりと笑い、きちんと二つ分の商品の代金を渡してくる。
「私は納得して買うんだもの。良い物が見つかって嬉しいの」
「はあ」
俺が鋭くみゆを睨むと、それまで胸を張り満面の笑みだった顔が途端に嘘くさく怯えたものになる。我が妹ながらくるくると変わるその表情と演技力には感動を禁じ得ない。すると俺の顔を見た老婦人に諭すように言われてしまった。
「みゆちゃんを苛めちゃだめよ」
「だってこいつは、いつも悪戯ばっかり。この間だってどこかの客に栄養サプリを売りつけて……」
「売りつけてないもん! あの人、喜んでたもん」
即座に話へ割り込んできたみゆへ、俺は怒鳴りたいのを必死にこらえた。
「客が喜んでもだめなもんは駄目だ! お前、適当な嘘ついて商品を売ったろう」
「嘘じゃないもん! みゆ、あの人に魔法のお薬あげたんだもん!」
涙目になり言い返してくる妹へ俺がさらに口を開こうとしたとき、穏やかな声で老婦人が止めに入った。
「まぁまぁ、二人とも。みゆちゃんは『魔法のお薬』をあげたのよね?」
「そ、そうだよ、っ、絵描きの、お客さん、喜んでくれたもん!」
みゆの大きな黒目からついに涙がこぼれ落ちた。俺は少し気をそがれながら、妹の口から出たその単語に首をひねる。
「絵描き?」
この近辺に絵描きがいただろうか。ご近所さんや通り一帯を思い浮かべてみるが聞いたことがない。すると老婦人が手を打ち言った。
「ひょっとして柏木さんのことかしら」
「柏木さん?」
「最近この辺りに引っ越してきたのよ。歳は二十くらいで……たしか美大の先生だって」
記憶を辿るように老婦人は続けた。その柏木という名の青年は、うちの店からほど近い距離へ越してきたらしい。場所を聞けばたしかに店から歩いていける範囲内だ。そこまで話して、ふと老婦人は思い出したような顔になる。
「みゆちゃん、その絵描きさんの悩みって……ひょっとして恋の悩みじゃなかったかしら?」
「そうだよ。だから魔法のお薬あげたの。『これは両想いになれるお薬です』って」
俺はその発言にぎょっとする。
「お前、そんな嘘であの栄養サプリを売りつけたのか!?」
「嘘じゃないよ、それに売りつけてないもん! あの人がそれ、欲しいって自分で言ったんだもん!」
「まぁまぁ、落ち着いて」
やんわりと微笑んだ老婦人が言う。
「みゆちゃん、おばあちゃんにも教えてほしいわ。絵描きさんはみゆちゃんへ、何て言ってきたの?」
みゆの話をつなぎ合わせればこうだった。
店を訪れた青年は、片想いの相手のことで悩みがあると言ったそうだ。それを聞いたみゆが『恋の成就する魔法の薬』だと店の栄養サプリを勧めたところ、青年はその説明を聞き大層喜んで商品を購入して帰ったらしい。一連の顛末を聞いた俺は怪訝な顔になっていたことと思う。
「まさかその人はそれを、本当に信じて買ったわけじゃないよな?」
いくらなんでも二十歳を過ぎた大人が、『恋の成就する薬』などという小学生の妹のたわ言を信じたとは思えない。それに商品の容器には小さく確かに「栄養剤」と書かれており、文字が読める普通の大人であれば、それが『魔法の薬』などではないと分かるはずだ。しかしその青年が『とても喜んでいた』という点が気になった。俺が唸った横でみゆは頬を膨らませてくる。
「ほんとの本当に喜んでたもん! 魔法のお薬があの人、欲しかったんだもん!」
「いや、そりゃねぇだろ……」
もしそれが本当なら、その人はかなりの変人、もしくはファンタジーに生きる人間だ。俺が首を傾げる横で、それまで黙っていた老婦人が言った。
「柏木さんは今ご近所でも有名なのよ。ご令嬢に熱烈にアプローチする『恋する絵描き』って評判なの。だから私も知っていたのだけれど……不思議ねぇ」
老婦人は穏やかな表情で頷き言った。
どうやら『柏木さん』は、この近所で噂になっている有名人のようだった。彼の想い人であるご令嬢への熱烈なアプローチが、町内のあちこちで目撃されているらしい。しかしその恋路は今のところ上手くいっておらず、プライドの高いご令嬢に柏木さんはすげなく扱われているのだとか。話を聞いて顔を引きつらせた俺へ老婦人は安心させるように笑う。
「きっと大丈夫よ。喜んでいたのなら問題ないでしょう」
「……だと良いけど」
何事もなければ良いが、妹が売りつけた商品のせいでなにかトラブルがあってはまずい。
極論、みゆの売った栄養サプリを飲んで『恋が成就しなかった』と言われても困るのだ。俺は一応この薬局の店主として、柏木さんが講師を勤めるという美大を訪れてみることにした。話ができるようであれば直接会って、俺から妹のしたことを説明し代金を返した方が良いかもしれない。老婦人は俺へ、柏木さんが働く美大の場所を教えてくれた。その顔は優しく微笑んでいる。
「でもね、私は心配いらないと思うのよ。柏木さんも喜んでいたみたいだし、本人が良いならそれでいいんじゃないかしら?」
「いやでも、万が一ってこともあるだろうしさ」
納得がいかず不安な俺を老婦人の優しい瞳が見つめてきた。
「私はね。みゆちゃんが『魔法のお薬です』って言ってくれると、とても心が温かくなるの。本当に安心してそう思えてくるのよ。だから柏木さんもきっと、安心して満足していると思うわ」
俺はその言葉に唸るばかりだ。その妹の口八丁が、そもそもの間違いでトラブルの元なのだ。一連の元凶である当の妹といえば気楽に鼻歌を口ずさんでいて、俺は口を閉じ必死でため息をのみこんだ。吐き出す息と共に数少ない幸せまで外へ逃がしてしまいたくはなかった。
俺が訪れた青年の働く美大は、小ぢんまりとした規模だった。とはいえ部外者の俺には、見慣れぬ建物と敷地のどこをどう進めばいいのかわからない。仕方なく入り口にある警備員室で探し人について尋ねてみる。
「あの、ここに『柏木』っていう先生はいらっしゃいます?」
恐る恐る尋ねた俺へ、人の良さそうな警備員のおじさんは数瞬考え、笑顔で教えてくれた。
「ああ、あの柏木さんかな? いるよ、いるいる。なんか用事?」
「はあ。どちらに行けば会えますか?」
すぐに話が通じたことを疑問に思っていると、警備員のおじさんはからりと笑う。
「この時間なら、もうすぐここを通ると思うよ。いやぁ、俺も一時はどうなるかと思ったけど良かったよねぇあの二人」
「あの二人?」
「あ、ほら来たよ」
示された方を振り返ってみる。大学の入り口から、線の細い眼鏡の青年とすらりとした美女が一緒に歩いてくるところだった。笑顔で談笑する二人はいかにも仲睦まじく、茫然と立ちすくむ俺のすぐ横を通り過ぎ学内へと入っていく。警備員のおじさんが耳打ちしてきた。
「あのお嬢ちゃんが登校するとき、柏木さんがいつも送り迎えして一緒に来るんだよ。この間まで柏木さんの方だけが熱烈だったんだけど、急に二人とも仲良くなってなぁ。柏木さんもあんなに嬉しそうにして、もうプロポーズでもしそうな勢いだよねぇ……あれ? あんた、呼び止めなくていいの?」
「いえ、やっぱりいいです」
不思議そうな顔の警備員さんを残して、俺はそそくさとその場を去った。どうやら柏木さんのご令嬢への片想いは成就したようだ。この調子であれば、みゆが売りつけた薬の件は特に問題にはならないだろう。なにしろみゆが売ったのは『恋の成就する魔法の薬』である。その恋が叶っているのなら、何はともあれ問題にはならないはずだ。
しかし俺がそうやって胸を撫で下ろせたのも、たった数日のことだった。そのきっかり三日後に、柏木さんがうちの店へやって来たのだ。
柏木さんが来たのは、またもや俺が店を留守にしていた時だった。今度はきちんと店番をしていたアルバイトの隼人が、俺が店に戻るなり意気揚々とその事を報告してきた。隼人はひどく上機嫌な様子で、その糸目が猫のように細められている。
「いやぁ、みゆちゃんは本当に商売上手だよねぇ! さっきのお客さん滅茶苦茶喜んでたよ!」
「えっ……みゆが?」
俺はじろりとみゆの方を見た。レジ横のカウンターの上へいつものように座る妹は満面の笑みだった。
「魔法のお薬、また売れたよ! みゆ、頑張ったもん!」
「あははは、本当にね!」
妹の頭を優しく撫でる隼人はどうにもみゆに甘すぎるきらいがある。みゆに相対しているときの隼人は甘え上手な猫に似ており、上機嫌なその笑みが、顎下を撫でられ喉を鳴らしているように見えた。
「隼人、お前がついていながら……みゆを止めろよ」
俺がげんなりとした声を出しても、隼人は不思議そうな顔だった。
「え、なんかまずかったの?」
俺と隼人の視線を受け、みゆは首を振る。
「あの人、喜んでくれたよ?」
「……それで。今度は何をどう言って売りつけたんだ?」
するとみゆは胸を張った。
「今度は、好きな人に言いたいことがあるって言ってた! だからみゆ、『告白が成功する魔法のお薬』をあげたの!」
俺はみゆのその言葉に絶句する。脳裏をすぐに掠めたのは、先日目にした柏木さんとご令嬢の様子、そして警備員さんの極めつけの一言だ。
――柏木さんもあんなに嬉しそうにして、もうプロポーズでもしそうな勢いだよねぇ。
柏木さんはみゆに、「好きな人に言いたいことがある」と言ったそうだ。「好きな人に言いたいこと」、つまりプロポーズ。そこへみゆは「告白が成功する」と銘打った薬を売ったという。俺の胸の辺りが鉛を詰められたように重たくなった。
「お前、またなんて嘘をついたんだよ……」
これは非常にまずい事態だ。この間、妹が売ってしまった『恋の成就する薬』の件は、なんの因果かトラブルにならなかった。しかし今回もまた上手くいくとは限らない。
「柏木さんがそれを本当に信じて、告白に失敗したらどうするんだよ!」
「失敗しないもん! 魔法の薬だもん!」
憤慨するみゆを無視し隼人の方へじと目を送ると、隼人は途端に焦り出す。
「え!? でも大丈夫でしょ。あのお兄さんが買ったの、のど飴だし。まさか本当に『魔法の薬』だと信じたわけでもないんじゃ……」
「本当に信じていたらどうするんだよ!」
俺の言葉に隼人は初め軽く笑って、その後ですぐさま真顔になった。その可能性を否定しかけた口が閉じられへの字になっている。俺自身は直接この店で柏木さんと話したわけでもないし、みゆが彼と話すのを見たこともない。『柏木さん』がどういった人物か知らないが、隼人の表情と先のいきさつを鑑みるに、どうにも物事を信じこみやすいタイプに思えて気が気でない。俺だって、柏木さんが妹の戯言を頭から信じているとは考えたくない。けれど彼には、うちの店でみゆに言われ『魔法の薬』を購入した途端に、念願叶ってご令嬢と結ばれたという経緯がある。もし今後みゆが言った通りに『告白が成功』しなかったと文句をつけられたら困る。頭を抱える俺にみゆは笑顔で言った。
「みゆ、あの人を見に行ってくる」
「はぁ? 謝りに行くのか?」
期待を込め聞き返した俺を、なぜか隼人が複雑そうな顔で見ている。
「いや、みゆちゃんが言ってるのはたぶん……あのお客さん、今から告白しに行くって言ってたから。それを見に行くってことなんじゃないかな」
「なっ、今から!?」
声を荒げる俺に隼人は顔を引きつらせた。慌てて告げられたのは近所のカフェの名だ。どうやらみゆが柏木さんと話す中でそんな話が出たらしい。さっそくカウンターから飛び降り一人で店を出ようとした妹を慌てて引き止めた。
「待て! 俺も行く」
みゆは小首を傾げて愛らしく笑った。
「お兄ちゃんは心配性ですねぇ」
すると隼人までが同意するように頷いてくる。
「本当、みゆちゃんのお兄ちゃんは心配性だよねぇ、俺も放っときゃいいと思うけどねぇ、あ痛っ!」
俺は隼人の頭を拳骨で殴りつけ睨み、みゆと手をつないだ。
「お前! 今度こそちゃんと留守番してろよ!」
店を出る直前、隼人が猫のように唸りながら「いってらっしゃい」というのが小さく聞こえた。
俺がみゆを連れ早足でやって来たそのカフェで、すでに騒動は起きていた。入り口の扉を開け一歩中へ入った瞬間に、ご令嬢の怒りの声が聞こえてくる。
「あんた、最っ低! 死ね!」
驚いて声の方を見ると、店の真ん中にあるテーブルで柏木さんがご令嬢にビンタをくらったところだった。勢いよく立ち上がったご令嬢はさらにコップの水を柏木さんへひっかけ、鬼気迫る顔で店の出入り口へ、つまりこちらに歩いてくる。俺は思わずみゆを自分の後ろへ庇ったが、こちらを一瞥もせずに彼女は店を出て行ってしまった。決して客が多いとはいえない店内は気まずい雰囲気だ。その中心にいる水の滴る青年の元へ、みゆが俺の手を振りほどき走って行ってしまった。
「あっ、おいみゆ!」
「絵描きのお兄ちゃん! 魔法のお薬……飲まなかったんですか?」
「……みゆちゃん、」
俯いていた柏木さんは、しょんぼりとした妹の声にその青ざめた顔を上げた。水滴を垂らした顔が微笑んで、ゆるりと首を振る。
「いや、ちゃんと言われた通りに飲んだよ。けれどこれで良かったんだ……ありがとう」
その答えに悲しそうな顔をしたのはなぜか妹の方で、柏木さんはただ笑っていた。
「最初から分かっていました。彼女と僕が上手くいくはずがないって」
みゆの兄だと名乗る俺に、柏木さんは事情を説明してくれた。おしぼりで顔を適当に拭きながら、向かいに座る俺とみゆへ言う。
「でもどうしても彼女とお付き合いしたくて、あの日みゆちゃんに話を聞いてもらいました……誰かにきちんと話を聞いてもらえたのは初めてで、背を押された気がしました」
勇気が出たんです、と青年は笑った。みゆからの『魔法の薬』が何かのおまじないのように思えたと。俺はその話を聞いてひどくほっとしていた。当然のことながら、柏木さんはみゆの言う『魔法の薬』なんて信じていなかったのだ。きちんとそれが栄養剤やのど飴であることを理解し、購入してくれたらしい。隣でパフェを口に運んでいたみゆが不思議そうに首を傾げている。
「絵描きのお兄ちゃん、みゆがあげた『告白が成功する魔法のお薬』、本当に飲んだんですか?」
「お前、まだそんなことを言って」
慌てて謝ろうとした俺に青年は柔らかに微笑んでくる。
「いいんですよ。みゆちゃん、告白は大成功だったよ。僕の告白は……僕は彼女に別れようって告白するつもりだったんだ。勝手な話だけどね。いざ付き合ってみるとやっぱり色々と上手くいかなかくてね」
柏木さんはご令嬢と付き合い出してから、彼女を喜ばせるために無理ばかりしていたらしい。気位の高いご令嬢は柏木さんへの当たりもきつく、そんな関係に早くも限界を感じていたそうだ。ため息をついた彼は言う。
「けれど僕は臆病だから、中々別れたいって切り出せなかったんだ。なにしろ付き合い始めたばっかりだったし、僕の方からあれだけ言い寄ってしまったから……情けない話だけれど」
それで今日、柏木さんはまたうちの店へみゆに会いに来たのだそうだ。どうやら妹の言う『魔法の薬』が目当てではなく、話を真剣に聞いてもらうことを目的としていたらしい。
「みゆちゃんに話を聞いてもらって『魔法の薬』をもらうと、なぜだか勇気がわいてくるんだ。それで今日は自分の思うことをやっと言えたんだよ。本当にありがとう。みゆちゃんのおかげだよ」
みゆは口いっぱいにバニラアイスを頬張り、それでも青年とご令嬢が上手くいかなかったことが腑に落ちないようだ。難しい顔で小首を傾げるその頭を、俺は無理やりに押さえ下げさせた。
「本当にうちの妹が、申し訳ない。今後はきちんと言いきかせますから」
「いいえ、止めてください。僕は本当に、みゆちゃんの『魔法のお薬』で救われたんです」
柏木さんの笑みに嘘偽りはなさそうだ。それを見てなんとも言えない気持ちでほっとしていると、パフェを食べ終えたみゆが得意げに笑う。
「また遊びに来てください。今度はもっと違う魔法のお薬をあげますよ!」
「こら! お前は全く懲りないな!」
柏木さんはすると嬉しそうに笑った。
「ありがとう。僕にとってみゆちゃんは本当に『魔法使い』みたいだな。また遊びに行くからよろしくね、みゆちゃん」
「はい、任せてください!」
口の回りに白いアイスをべっとりとつけて、妹は満足げに笑っていた。
店に帰ると、店番をしていたはずの隼人の姿が無い。代わりのように丸椅子にちょこんと腰かけていたのは、常連客である老婦人だった。
「あっ、おばあちゃん!」
みゆが真っ先に笑顔になり老婦人の方へかけていく。俺は隼人がまた店番をさぼり消えたことに驚いていた。
「あいつにも今度きっちり言ってきかせないとな」
呆れている俺の横でみゆが、老婦人に今日あったことを報告している。楽しそうに話を聞いていた老婦人が、優しく微笑みながら言った。
「まぁ、みゆちゃんはまるで『魔法使いさん』みたいね。実は私も、孫がたくさん遊びに来てくれるようになったのよ。みゆちゃんにもらった『魔法のお薬』のおかげかしらね」
「そうですよ。みゆは魔法使いなんです!」
全く懲りる様子のない妹を俺が怒ろうとしたとき、足元を黒い何かが通り過ぎた。勢いよくみゆの方へ走って行くその黒い毛の塊に俺は思わず飛びすさる。
「うわ!」
「あ、隼人だ!」
それはどこからか現れた一匹の黒猫だった。みゆが嬉しそうに抱き上げると、黒猫はゴロゴロと気持ちがよさそうに喉を鳴らした。
「なんだ、みゆ。どうしたんだその黒猫は?」
「隼人が帰って来たんです。お散歩に行っていたんですよ」
「お前なぁ、猫に隼人って名前つけたら紛らわしいだろう。それに本物の隼人は良い気がしないと思うけど」
「だって隼人なんです!」
「いや、それは……確かに似ているけどさ」
みゆの腕の中で、隼人に似た黒猫は目を細め笑っているように見える。本物の隼人へ話しかけるように猫へ接する妹を見て、俺の口からまたひとつため息が落ちてしまった。みゆの笑い声と老婦人の微笑み、薬の匂いの満ちる店内に俺のため息も溶け込んでいく。黒猫がひとつ笑うように鳴いた。