世界は寒く四角い
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だからねぇ――と幾度発音した事だろうか。
「だからねぇ、お嬢さん。あなたの言っている事は全く訳が解りませんよ。本官に限らず、恐らくは誰が聞いても解らない。説明になっていないのです。良いですか、説明というのは一から十まで順を追い、きちんと伝えて初めてその役目を果たすのです。しかし、あなたが言うのは一から飛んで八か九だけではありませんか。解りませんよ」
解りかねます、と駄目押す。
だからァ――と言うヒステリックな声を聞くのも一体何度目だろう。
「訳が解らないのはこっちなのよ! 自分にだって訳が解らない事を訳が解る様に説明しろと言う方が無理なのじゃなくって? そうでしょう刑事さん」
「巡査です」
「刑事でも巡査でもSPでも何でも良いのよ私には。警察官なんでしょう? なら同じよ。同じ事じゃないの。市民を助けるのが仕事なんでしょうが」
それはそうなのだが。
机を挟んだ女性――身元不明の不審者はぶるぶる震え肩を抱き、更にさすりながら喚き散らすばかりである。
僕は困っている。困り切り疲れ切ってしまっている。
「もう、寒いわ。あなた寒くないの。寒いでしょうよ。そこの戸を閉めて頂戴」
早く早くと捲し立てられて、僕はやれやれと立ち上がる。
彼女、波木恵美と名乗った女性を発見したのは、今から二十分程遡った頃だった。決まりの時間に従い自転車で巡回をしていた、その帰りである。大通りを縮こまって歩いているのを発見したのだった。現在同様に肩をすぼめ、背を丸くし、周囲をキョロキョロかつオドオドと見回しながら歩く姿は、それはもう絵に描いた様な不審ぶりであった。ならば警察官であるところの僕が職務質問を掛けるのは道理というものだろう。
ああお巡りさん。お巡りさんよねあなた――と、波木恵美は言った。
良かったわ。私どうにかしてしまいそうなの――。
ここは一体どこなの。それに酷く寒いわ――。
交番だか派出所だかがあるでしょう。連れて行って頂戴――。
そう早口に訴えられた。
何か困っているのだろうと、最初こそは思った。だから僕は、何かお困りですかお嬢さん、と実に警官らしく尋ねたのである。ところが。
ええ困っているわ。困っているのよ――。
一体どこなの。寒いわ。何なのよここは――。
ねえ私はどっちから来たの――。
逆にそう聞き返されてしまったから、<お困りの市民>から<困った市民>へと認識を切り替え、この派出所までご同行願った訳である。
――さて。
言われるがまま戸口を閉め、ついでに窓まで閉めて戻ったが、波木恵美はまだ満足出来ぬ様子だ。セーターなど暑そうな服を着ているにも関わらず、まだ肩を擦り足を擦り、ソワソワかつモゾモゾとして止まない。
「あなた。警察の人。あなたそんな格好で良く平気ね」
「これは制服ですが」
そうじゃなくってェと金切り声を上げる。
「半袖よ。半袖! このクソ寒いのに良く半袖なんかで居られるわねって」
「はあ。普通だと思いますが。寒いですか」
「だからァ、寒い寒いってさっきからずゥッと言ってるじゃない! 寒いわよ! 寒くて凍えて死にそうよ。もう死んじゃうわ。今にも死ぬわよ。今だわ」
「また訳の解らない事を言いますね」
訳の解らない事ばかりなのだ、さっきから。
波木恵美は頬も鼻の頭も赤く上気させ、ズズッと鼻をすすった。
「何でも良いわ、何か着るものを頂戴。この際新聞紙でもコンビニ袋でも、何でも良いから寄越しなさい」
「はあ。まあ新聞なら」
ちょうど、警邏に出掛けている間に届けられた新聞が事務机に置かれていた。それを取って渡すと、波木恵美は慌ただしい手付きで拡げ、一枚剥がしたと思えばグシャグシャ丸め、恥じらいも無く服の中へ突っ込んだ。二枚目三枚目と同様に繰り返し、とうとう全てを取り込むと、顔だけ痩せた相撲取りの様な体格に変貌する。
それでも気持ち十分とはいかなかった様で、やはり体中あちこちを擦るものだから、この狭い派出所内はガサガサという騒音に支配される事となった。
「あなた病院から出て来たのですか? 閉鎖病棟とか……」
閉鎖病棟ォ――とまた素っ頓狂な声を発する。耳が痛い。
「ちょっと警察。閉鎖病棟ったらあの閉鎖病棟の事でしょ。あんた私がおかしいと思ってんの? 私はおかしくないわ。おかしいのはあんたよ。あんた!」
「だからねぇ……そういう物言いをするから余計おかしく見えるんです。じゃあ、一応確認の電話をしますから。あなたはそこでじっとしていてください」
「ええどうぞ。好きにすればいいじゃないの。好きなだけ架けまくりなさいよ」
フンと波木恵美はそっぽを向いた。
端折って結果を先に言えば、空振りだった。どの病院に確認しても、消えた入院患者は一人も居ないと言うのだ。
ほらご覧なさいと勝ち誇って、顔の小さなプロレスラーの如く腕組みをする。
「困りましたね」
「そうよ。困っているのよ。本ッ当に物解りが悪い公務員ね。馬鹿じゃないの」
何故僕が罵倒されなくてはならないのだ。
しかし漸く落ち着いてきたのか、もう体を擦り合わせるのは止まっていた。全部閉め切った室内はかなり暑くなっている。
「それじゃあですね。もう一度お聞かせ願えませんか。一から十まで、ちゃんと」
波木恵美はふて腐れていたが、けれど納得させねば気が済まないと喋り出した。
まず、彼女は会社の飲み会に参加していたらしい。生まれ付いての酒好きと豪語する彼女はそれはもうしこたま飲んだ。ビールをジョッキで四杯、ワインをひと瓶ウィスキーにカクテルにその他諸々、ここぞとばかりに飲みまくった。
解散後自宅に帰り、そのまま眠りに落ちた。服を着替えるのも忘れて倒れた。
そして目が覚めたらここに居た――と言うのだ。
僕はまあ、再び閉口する。
「何よ。それが真実なんだって。お酒飲んで寝て起きたらこんな見も知らない所に居たの。それだけなの。全部よ、全部」
「だからねぇ。そのご自宅は……どちらですって?」
「サイタマ県はハンノウ市ミスギダイよ」
「知りませんねぇ、そんな所は」
「だからァ。あんたが知らなくてもあるの。あるのよ。あんたが知らない事も世の中には沢山あるの。相対性理論だってビッグバンだって知らなくてもあるのだわ」
「まあ知りませんね。じゃあ、それは本官が悪いという事に致しましょう。それで良いでしょう。しかしやっぱりさっぱり意味不明ですよ。寝て起きたら知らない所に居たって言うのでしょう? 夢遊病を患っていたりします?」
患うもんですか、と波木恵美は強く否定した。
「なら、泥酔したあなたは、自宅だと思って道端で眠り込んでしまったのではありませんか? 職務上そういう方には良く出会すんですよ」
「無いわ。絶対に無い。だって、何を飲んだかしっかり憶えてるんだから。帰りのタクシー代だって憶えてるわよ。一四八〇円。そりゃ沢山飲んだわ。つまみも全然食べないで飲むだけ飲んだのよ。でもね、私は女なの。花も恥じらう乙女なのよ。そんな危なっかしいマネをすると思って? 自分の身は自分で守るわ」
「でも結果はこうなってしまった訳ですから」
「うるさいわよ。この公僕!」
酷い言われ様だ。
「なら逆に訊いても良いかしら。良い? ちゃんと訊くからちゃんと答えるのよ」
「はい。何でしょう」
「ここは何県何市の何区だか何町だかなの?」
物凄く真剣な面持ちで言う。成る程、そこからなのか。
「解りました。ちゃんと答えますから。ここはですね、一層県門前市……」
「ちょ」
ちょっと待てと突然命令口調で口を挟んでくる。何なのだ。
「今、何県って?」
「だからねぇ。一層県ですよ」
「無いわ。そんなの」
「は?」
無いのよ――と眉間に縦皺を刻んだ。
「知らないんじゃないわ。無いのよ、そんな県。四十七都道府県にそんなの無い」
無いじゃないの、といきなり叫んだ。僕はたまげた。
「おいあんた制服! 私の事を馬鹿にしているの? ナメてる? いやコケにしているのかしら。何だって良いけど訳解んない事言うなコラ!」
「わ、訳が解らないのはそっちですってぇ」
思わず泣き声が出た。これではどっちが尋問されているのか判らない。
僕は何やらとんでもない女を拾ってしまった様である。どうせならさっきの電話で引き取ってもらえば良かった。いや、今から救急車を呼ぼうか。
もう何なの、何なのよ、何が何だか何なのだか――。
女はそんな事をぶつぶつと呟いている。もうこうなると波木恵美という名前さえ疑わしく思えてきた。
一体、この女をどうするべきか。
そう考えていると、やいお前、と俄然指を突き付けられた。
「な、何でしょうか」
「こんな所に居られないわ。居ても立っても居られないのよ座ってるけど。だから外を案内しなさい。するのよ!」
一方的に喚き立てられて僕は――渋々肯いた。
女は怪しい。妙である。だがそれだけでは拘束する正当な理由にならない。
外に出ると女はまたモゾモゾし始め、暗いわ、と至極当たり前の事を言った。
「寒いし。今何時なの」
「はあ。二十時ですね」
「なら殆ど丸一日か、それ以上眠りこけていたのね、私」
噛み締める様に言う。どうやら判断力が欠けているのではないらしい。
まず女が最初に発見された――目覚めた地点まで連れて行けと言うので、僕は暗い道を街灯と懐中電灯を頼りに歩いた。女は半歩程後ろをガサガサ音を立てながら続く。
途中で、ねェ、と呼ばれた。
「あんた、本当にそんな格好で寒くないの?」
「寒くありませんよ。普通です」
振り返って照らしてみれば、女は弱々しい表情でがたがた震えていた。寒い寒いと聞かされ続けたが、よっぽど寒気が酷いらしい。
「大丈夫ですか?」
僕は急に心配になった。と言うのも、今の今まで女の言動の怪しさばかりに気を取られていたからだ。言動も異常だが、それほどの悪寒というのも異常である。
「大丈夫じゃないわよ。寒いのよ。死にそうだわ」
きいい、と地団駄を踏んでみせる。それだけの元気があれば平気だろう。
女の発見地点までやって来た。女は発見当時と同じ様にキョロキョロと周囲を見回す。当時と違うのは、彼女の上半身がモコモコのお化けである事だけだった。
「やっぱり見覚え無いわ。全然記憶に無いわよ。どこなのここは」
「門前市中町ですよ」
「中とか外とか言われたって解んないわよ。ねェもっと向こうまで連れて行って」
通りの先を指差して、不遜な態度で言った。やれやれである。だがこれも警察のお仕事と割り切って、女の言うに従う事にした。
「ねェ、ねェってばお巡りさん」
「何です? 何か思い出しましたか」
違うわよ、と理由も無く怒鳴られた。
「さっきから誰とも擦れ違わないわ。車も通ってないじゃない。どうしてよ」
「はあ。それはそうでしょう」
「だからァ。どうして『それはそう』なんだか訊いてるんだって。治安が悪いの? 痴漢が出るとか」
「違いますよ。失礼だなぁ。警察官の僕が居るんだから、そんなもの出ませんよ。あのですね、こんな時間に出歩いているのなんて、本官やあなたくらいなものなのですよ。どうして善良な市民の皆様が出歩く必要あるのです?」
えっ、と女は阿呆みたいな顔をした。
「だって、この時間なら仕事帰りの人だって」
「馬鹿言わないでください。さっきも言ったでしょう。今二十時ですよ。二十時。こんな早い時間に出歩くのはいかがわしい仕事をしている人間か、本官の様な謹厳実直な警察官、新聞郵便の配達、でなければあなたの様な不審者じゃないですか。皆さん寝ているのですよ」
「寝てるのォ?」
眉と口の端とをそれぞれ逆にひん曲げて、奇声を発した。近所迷惑も甚だしい。
「あのねぇ波木さん。僕だって本当は眠いんですよ。本来は今頃寝ていたのです。でも巡査部長、つまり僕の上司が突然勝手にシフトを変えてしまったものだから、仕方無しこうして僕一人当直に就いている訳ですよ。僕の気持ちも考えて下さい」
つい、愚痴をこぼしてしまう。こんな身元不明で挙動不審な女にして良い話ではないのだけれど、それは僕も警察官である前に人間なのだから、苛つく時は苛つくのだ。
女はぽかんとした。口をあんぐり開けた顔は、それはもう、ぽかん、だった。
全く非常識極まり無い。非常識極まり無い人物との非常識極まり無い会話だ。
と――辺りに橙色の光が満ちた。僕は一瞬目が眩み、女は短い悲鳴を上げてしゃがみ込んだ。
ぶわっと熱風が吹く。
暫くして、光は消えた。辺りは平素通りの暗さを取り戻した。
何なのよォ、と波木恵美は嘆き声を出した。本当に喧しい女である。
「何? 何なの今の光は。それと温かい風! 何なの、一体何なの」
「いやあなた。あなたお仕事までしてて、お酒を飲める年齢でしょう? なのに、知らないんですか? 非常識過ぎませんかね。あれはたぶん誰かが……」
「非常識なのはここよ! このナントカ県よ! もう発狂しそうよ私!」
と、がなり立てた。とっくに狂っているのではないかと思う。しかし本人がまだ狂っていないと言うのだから、大丈夫だろう。
何だか飽き飽きした気分でとぼとぼ歩いていると、やっと壁まで辿り着いた。
「今度は壁だわ」
また当然の事を言って、女は壁を見上げる。そして、高いわ、とまた普通の感想を述べた。壁をペタペタ触って、冷たいわ、とこれまた解り切った事を言う。
「白くて、それにツルツルしてるわ……プラスチックかしら」
「樹脂でしょうが、詳しい事は知りませんよ」
「何だって良いわよ。で、この壁は何? どこまで続いてるの?」
「端までですが」
そりゃ端はあるでしょ、と何故か呆れられた。
「あのねェ、ベルリンの壁だってバンリのチョウジョウだって端っこはあるのよ。それが壁というものよ。当たり前じゃないの。だから端っていうのはどこにあるのかって訊いてるんじゃない」
「は、はあ。まあ、端は端としか……」
そう端は端だ。端っこから端っこまでである。壁は端から端へ続いているのだ。
だからァ――食い下がろうとした女は、ふと真顔になり、ちょっと待て、と再び言った。
「あのね。すごォくおかしな事を訊くわよ。とッても変な事を言うわ。もしかして……壁の端には、また壁があるの?」
前置き通り、とてつもなく奇妙な質問である。しかしいずれ奇妙であるのは先刻承知の上なので、僕は、そうですよ、と答えた。
「壁の端まで行ったら、直角にまた壁です。で、それを伝っていくとまた壁です」
それがどうかしたのか。
愕然――という顔を僕は初めて見た。さっきの<ぽかん>に加えて目を見開き、更に眉を吊り上げて、女は硬直した。
か、か、か。女は謎の生き物の声帯模写をしたかと思えば。
「囲われているの?」
と尋ねてきた。
「囲われて……いますかね。はい」
どうにもその表現には違和感があった。何がどうとは言い表せないが、どこか、言葉として適切でない印象を受けた。
「ちょ、ちょちょ、ちょっと警官! それ貸しなさい!」
女は僕の手から懐中電灯を引ったくって、壁を照らした。
そして光の円を徐々に上へ上へと昇らせていく。円はどんどん楕円に形を変え、いずれ扇状となったが、角に突き当たったところで、再び円形を取り戻した。だがその高さでは輪郭を失って、ぼんやりとしている。
女は、天井だ、と呟いた。
「天井があるわ」
「そりゃ、ありますよ」
「何が『そりゃ』なのよッ!」
俄に女が掴み掛かってきた。懐中電灯を放り出し胸倉を掴み上げてくる。
「こ、こら君何をするんだ! た、たた逮捕するぞ!」
「逮捕だって何だってすれば良いわよ! 禁固刑にでもすれば良いわ。だってもう監禁されているじゃないのッ」
「か、監禁?」
何を言っているんだ。今更ではある。僕こそ何を言う、とも思う。しかし、何を言っているのか本当に解らない。今までは、どうにかこうにか頭の中で噛み砕いて理解しようと努めてきたが、最早僕の脳では処理し切れない。
女は不意に脱力して、その場にへたり込んだ。咄嗟に腕を掴んで支えようとしたが、女はそれを振り解いた。
一瞬触れた女の腕は、異様に熱かった。
「触らないで、冷たい!」
「お、落ち着いてください。兎に角落ち着いて。ぼ僕には、あ、あなたの言う事が全然解らないんです。さっぱりですよ。もうずっとずっとおかしな事ばかり言う。何故だか段々、僕の方が……」
おかしい様な気がしてくる。
僕がおかしいのだろうか。
「ねェ刑事さん巡査さんお巡りさん……ここはどこなの?」
「で、ですから。一層県……」
一層――女は僕の言葉を反復し、ふ、と息を吐いた。
笑ったのだろうか。
「つまり、そう。ここが一層なら、天井の上には二層があるのね?」
「え? え、ええ。そうです。上は二層県ですよ。僕はあまり行きませんが」
ここは一層県、上は二層県。もう一段上に三層県がある。それが何だと言うのだろうか。普通の事ではないか。
いや――この女、波木恵美にとっては、普通ではないのか。
波木恵美はへたり込み、地面に向かって何事か独りごちていた。ぼそぼそと聞き取れない言葉を並べている。それらに何の意味があるのか想像だに出来ず、僕は、ただ恐ろしかった。
しかし、一際明瞭な声音でこう言ったのだ。
「異世界に来てしまったのだわ」
「異世界?」
異世界。異なる世界。別の世界。ここではない、どこかの世界。
そうよ、と波木恵美は顔を上げた。その表情は全てを悟り切った様だった。
「あんた……あなた、お巡りさん。この壁の向こうはどうなっているの?」
「壁の向こう?」
僕はただ阿呆の如くおうむ返しする事しか出来なかった。そうよ、向こうよ、と波木は叫んだ。
「あるんでしょう? 壁には必ず向こう側があるの。良い? 全ての物には両面があるのよ。三次元世界で片面しか無いものなんて、コンピュータグラフィックスのポリゴンだけだわ。だからこの壁には向こう側があるのよ。反対側があるの」
「は、はあ。しかし」
この壁の向こう側は。
「無い……ですよ」
「無い? 無いですって?」
「はあ。無いです。ありませんよ向こう側なんて。だって世界は四角いですから」
常識だ。いや真理だ。
そうだ――<囲われている>という言葉の違和感の、その正体に気付いた。
<囲われる>というのは、向こう側がある事を前提とした言葉なのだ。こちら側とあちら側とを区切られた状態を言うのだ。例えば部屋の中は壁に囲われているが、確実に外がある。脱出の可能不可能を問わず、外があるから、<囲われている>と表現出来る。
しかし、世界に外など無いのだ。
外が無いのだから、<囲われている>とは言えないのである。
波木は高笑いした。いきなり、ハハハハ、と大笑いし出した。
「ど、どうしたんですか!」
「いや、可笑しくって。ハハハ! やっぱり、やっぱりそうなのね」
「だから! 何が『そう』なんですか」
「私はね……そう。私は」
丸い世界から来たのよ――と、波木は言った。
「ま、丸い世界?」
――それは、どんなだろうか。
僕は想像する。反り返った街並み、道を歩く人のつむじが見える。見上げれば、ビルの屋上がある。重力はどうなっているのだろう。ずっと上り坂では、自転車を漕ぐのは大変だろう。
僕の頭の中を見透かした様に波木は、違う違う、と笑った。
「大きい、それはもう物凄く大きなボール、球体の上に私達は住んでいるのよ」
ホシよ、と言った。
「『ホシ』ですか」
「そう、星。惑星。あなた達は知らないでしょうね。こんな風に囲われていたら、ソラも見えないんですもの。いえ、ソラが無いんだものね。一面に輝くホシゾラを知らないんだわ。私の世界はね、その何億もある光の中の、一つにあるのよ」
訳が解らない。何を言っているのか理解が出来ない。
けれども僕は、波木の言葉を真実として聞いていた。
根拠は無い。妄想の産物かも知れない。けれど何故か、どうしてか波木の言葉の一つ一つに凄まじい説得力を感じていた。
ああ――波木は深い溜息を吐いた。
「やっと解ったわ。解ったけれど……解ったからって、どうにもならないわ。もう死んでしまいそう」
「あの」
僕は口を挟んだ。彼女の口から語られる別世界の話をもっと知りたいと思った。
「さっきもそう繰り返していましたが、その『シ』とは何なのですか? 『シぬ』とか『シんじゃう』とか、何度も仰ってますが、その意味は、あなたの世界のものなのでしょうか?」
波木はきょとんとした。暫く僕を見詰め返してから、え、と聞き返した。
「待ちなさいよ。ここには『死』も無いの?」
「あるとか無いとか言われても、解りません。何と言えばいいのか、その、言葉に何の意味も見出せないと言うか、何の概念も抱けないと言うか」
「ま、待って。本当に待って。ごめんなさい。全然違う話なのよ、それは」
違うのか。いや、何が違うのだ。
波木は胡座をかいた。スカートだと言うのに、太腿が露わになるのも意に介さずに、考え込んだ。
ややあって、波木はやおら、ほう、と息を吐いた。
「そうなのね」
そういう事なのね――うみ疲れた顔を上げ、体を後ろに逸らし、そのまま仰向けに倒れた。腕を大の字に拡げ、まるでもうどうにでもなれという風な格好をする。
そして。
「レイゾウコなのね」
と言った。僕がその音を真似すると、そうよ、と波木は微笑んだ。
「レイゾウコよ。冷やす蔵の庫よ。冷蔵庫よ。だからこんなにも寒いのね」
「すみません、意味が……」
微塵も解らない。解らない事だらけなのだけど。
しかし意味が解らないからこそ、僕は必死に手探りで意味を探している。
「ねェ巡査さん。あなた達が終わる時は、どうなるの?」
「終わる時? 終わる、とは?」
「そうね。一生、生涯、生活が幕を下ろす時。いいえ、あなた達が『無くなる』時の事よ。私の世界ではそれが『死ぬ』なのよ。けれど、違うのでしょう?」
無くなる時。自分を失う時。
それはたぶん――。
「『腐る』……でしょうか」
僕が考え抜いて導き出した言葉を受けて波木は、ふうん、と素っ気無く鼻を鳴らした。そして、やっぱりね、と言った。
「やっぱり冷蔵庫なのだわ。ああ、それじゃあさっきの光は、誰かが『腐った』のかしら?」
「そうだと思います」
誰かが腐ると、この世界は橙の光に照らされる。
そして腐った人間は、居なくなる。無くなる。
それが、波木の世界で言う<死>なのだろうか。
「違うわ。全然違うわ。馬鹿ね」
鼻で笑った。
「良い? 『腐る』のは死んだ後よ。死んでいるから『腐る』の。お解り?」
「解……りません」
馬鹿ね、と繰り返して、波木は大笑いした。
ハハハハハハハ――波木の笑い声は壁に、天井に反響し、世界中に響き渡った。
「あ、あの。大丈夫ですか?」
僕が手を差し伸べると、波木は僕をぎろりと睨め付けた。
「触らないで頂戴。穢らわしい」
「えっ」
「死人に触れられたくないわ」
何故だか侮蔑のこもった声音で言い、波木は一人で立ち上がった。
そして、僕に背を向けて歩き出した。
「冷蔵庫は死の世界。冷蔵庫は死の世界……」
歌う様に繰り返し繰り返し、その言葉を口にしながら、どんどん離れて行った。
僕は――止める事も追う事も出来ず、ただ立ち尽くしていた。
闇に消えた波木恵美と、その後再会する事は無かった。
僕は僕の日常を送りながら彼女の足取りを追ったが、誰に聞いても、彼女を知る者は遂に現れなかった。誰も彼もが、そんな女は知らないと言った。
だから、この世界で僕だけが知っている。
丸いホシという世界から来た波木恵美という女を。
この世界は<冷蔵庫>と言うのだと。
僕や僕以外のこの世界の住人は、皆<死んでいる>のだと。
――冷蔵庫は死の世界。
「冷蔵庫の中」
「主人公が外の世界に気付く」
というお題の元に半日で書きました。
お題を下さった某氏に感謝を。