想われず、呼べば
しばらく雨ばかりだったので久しぶりにのぞいた青空は手が届かないくらい高かった。
出掛けようよ、とハヴァはぼくの指をにぎって言った。ようやく晴れたんだ、今がチャンスだよ、今しかないんだよフズム。ハヴァはぼくの名を愛おしげに呼ばわる。フズム、ねえフズム、行こうよ、それともぼくを嫌いかい。ねえ、ねえ応えておくれよフズム。
ダメだ。ぼくは答える。雨が止んだばかりではそこかしこが海になっている。わかるだろう、きみも命は惜しいだろう、ハヴァ、聞き分けるんだ、ハヴァ。ハヴァはいい子だろう、我慢するんだ。ぼくも何度もハヴァの名を呼ぶ。呼んでやらないとハヴァは自分が話しかけられているとわからないのだ。それでとても不安になって暴れ出してしまう。自分の周りに行き先不明の声が飛び交っているのがとても恐ろしいのだ。そうなるとぼくでも手がつけられなくて、疲れ果てるまで一生懸命暴れまわる。爪を噛んでるうちはまだ我慢しているけれど、腕を掻き毟ったり、髪の毛を引き抜いたり、わざと壁を蹴って指を痛めたり、大きな岩に体当たりしたり、しまいには物見櫓に駆け上がってそこから飛び降りたりしようとする。とにかく手がつけられなくなる。
だからぼくらは森の奥深くのこの粗末な小屋に入れられている。ほんとうはハヴァ一人を入れると、村の会議ではそう決まったのだけど、ぼくは自分で一緒に行くと決めた。ハヴァは独りじゃなんにもできないのだ、ぼくがついていてやらねば。
ねえフズム。ハヴァが呼ぶ。ハヴァは行き先不明の声が嫌いだ。だから自分でもはっきりと行き先の決まった言葉しか話さない。ハヴァは間違いのないようにぼくの名を呼び、ぼくの瞳をしっかりとのぞきこんで、言う。フズムは、ぼくが好きかい?
ああ好きだよ。好きでなければ一緒にはいないさ、ハヴァ。
本当かい、フズム。本当さハヴァ。ありがとうとハヴァは笑う。なにかお礼をしたいよ、とハヴァは言う。ぼくはそんなこと望んでいない。可愛そうなハヴァから何かをまきあげるために一緒にいるのじゃないのだ。それよりお眠りよハヴァ、きみは昼寝が大好きだったじゃないか。ねえもう一眠りしようよ。
うん、フズム、それより出掛けようよ。今しかないって気がするんだ。
―――ああ、もういいかげんにしてくれ。うんざりなんだ。
僕は黙ってうなずきながら眼を閉じて横になった。ハヴァはしばらく未練がましくぼくの手を引いたりいじったりしていたけど、おとなしく横になるのを感じて、ようやくぼくも眠りに落ちた。
目を覚ますと夜になっていた。星が瞬いているから、どうやら空はまだ晴れているらしい。寝返りをうって、小屋の様子がおかしいのに気づいた。ぼくの指をにぎる手の温もりがない。
ハヴァ。返事がない。ハヴァ、いるかい、ハヴァ。返事がない。
外に出てみると、やはりそこらじゅうが水浸しになっていた。この森は雨のおかげでいつもこんなだ。眼を凝らして足元の泥土に這いつくばると、ささやかな星明かりに、ハヴァの小さな足跡がいくつも浮んで見えた。足痕はしばらく戸の前ではしゃぎ回り、小屋のぐるりを一周回り、それから森の奥の奥のさらにずっと奥深くにまっすぐ伸びていた。
あのバカ。
あいつはこの世界のことなんか全然わかっちゃいない。森にどんな影が蠢いているか、海にどんな闇が潜んでいるか、どれだけの泥たちが獲物に喰らいつこうと牙を剥いて待っているかを、あいつは全然何も知らないのに。だから村の誰も近づかないこんなところに追いやられたのに。だからぼくが、一緒に来たのに。
森の闇の奥から長い悲鳴と、水面を打つ鈍い音が流れてきた。飛びだそうとして、足元の泥と海に気を取られる。ぼくはこの森をよく知っている。影も闇も泥もよく知っている。見上げる空の、星の瞬きは、手が届かないくらい高い。
だけどぼくは駆け出した。ハヴァ。あいつの名を呼ぶ。返事はない。ぼくは悲鳴のあったほうに走る。泥に足をとられ、影と闇に呑まれながら。
ハヴァ、ハヴァ、ハヴァ。ぼくの名前を呼んでくれよハヴァ。ねえフズムって、ぼくのこと好きかって、しつこく、うんざりするくらい訊いてくれよ。
ハヴァ、ハヴァ、ハヴァ。返事はない。もう永遠にないかもしれない。
それなら、この声は、いったいどこに届くのだろうか。
泥と闇と影がぼくの足に食らいついた。