人生の転換点
完結できるよう頑張ります。楽しんで頂けたら嬉しいです。
──ロアン・ノア・ストーンリッジの人生が決まったのは、間違いなくこの瞬間であった。
「わたくしの名前はヴィエラ・ル・ルナリエ・グラディアスよ。ロアン・ノア・ストーンリッジ」
人形のように美しい少女がそう名乗った瞬間、控えていた侍女は小さく悲鳴を上げ、地面に膝をついた。
だが当時五歳であったロアンには理解出来なかった。『グラディアス』の名がこの国で二つしかない公爵家の名前であることも、『ル』の称号が王家に連なる者にのみ許されたものであることも。
ただぼんやりと、風に揺れる王族と同じ金髪と、王族にのみ現れるという赤い瞳を見つめていた。
◇ ◇ ◇
ロアン・ノア・ストーンリッジは伯爵家の次男だ。長男、長女、そしてロアンの順に産まれた。ストーンリッジは元は子爵家であり、二代程前に当主が功績を立てたことで昇爵された。つまりは伯爵家の中でも『新参』である。とはいえ、ロアンにとって先祖が行ったことに興味はない。彼の視線はいつだって人とは違う──決して『貴族らしくないもの』に向けられていた。
「キャアアア! ロアン! アンタまたなの?!」
勢いよく布を引き裂いたかのような鋭い悲鳴を上げたのは、ロアンの姉だ。彼女は恐怖と嫌悪に満ちた瞳で、しゃがみこんでいるロアンの手の平──の中にいる、もぞもぞと蠢く芋虫を睨みつけていた。
「早くどこかにやって! 気持ち悪い!」
「ええ……。勝手に近付いてきたのは姉さまなのに……」
「うるさいわね! わたしはこれから庭でお茶をのむのよ! 早くその気持ち悪いのといっしょにどこかにいって!」
キーキーと甲高い声で喚かれ、ロアンは渋々芋虫を両手で包んで移動する。その足にはサイズの合っていない、庭師用の長靴を履かされており、幼い子供が歩くには非常に不格好だ。そしてそんな子供がえっちらおっちら歩く姿を見ても使用人たちはクスクスと笑っている。
ロアンはこのストーンリッジ伯爵家で異端扱いされている子供だった。
何故ならロアンが興味を示すものが貴族らしからぬもの、昆虫か宝石、その二択だからだ。もう一つ挙げるとするならば、強く惹かれているわけではないものの、植物にもある程度興味は示す。何故なら『昆虫が何を食べるのか』知るためである。決してご令嬢に花を送るためではない。
そんな弟に長男と長女だけでなく、両親も手を焼いていた。
毎日のように服を泥だらけにし、爪の中に土が入ってもお構いなしに地面を掘る。もぐらに噛まれて血が出てもお構いなしなうえ、天然パーマ寄りの髪が汗と皮脂で乱れようと一切気にしない。むしろその中に虫を隠していた時は使用人含めて悲鳴をあげたほどだ。
そんなロアンの元に突如舞い降りたのが、天使のように美しい『ヴィエラ』であった。
「お前、そんなところで何をしているの?」
声を掛けてきたのはヴィエラからだった。彼女は伯爵夫人が開催したお茶会に母親と共に参加しており、大人との会話に飽きて会場を離れたばかりだった。
ロアンはこの時、目の前に『天使が舞い降りた』のかと錯覚した。
膝丈までの白いドレスに、深紅の薔薇が象られた髪飾り。シルクで作られた長手袋は日傘の下でも光沢を放っており、少女の独特な雰囲気によく似合っていた。
他人に興味を示さないロアンが思わず「てんしさま……?」と呟いてしまうほど、ヴィエラは美しく、品があった。家族を含め『女性』という存在に毛ほども興味を持たなかったロアンの意識をすべて奪うほどに。
「え、と、あの、あっ」
話しかけられたのだから何か答えないと──。
我に返ったロアンはハッとしたが、すぐに慌てた。何せその日も手の中には小さな虫がいたからだ。彼は虫が好きであったが、虫の名前は知らない。ただ『虫』を観察するのが好きなだけで、研究したいわけではないからだ。
だが女性は虫を嫌う。天使のように美しい少女に、姉のように悲鳴を上げ、憎しみを込めたような目で睨まれるのだけは避けたかった。
それなのに、姉とは違い、柔らかい土をものともせず近寄ってきたヴィエラはしゃがんだまま動けなかったロアンの手を覗き込み、王家の血をひく者にしか現れない赤い瞳を丸くした。
「あら。それ、ロリーポリーじゃない」
「ロリー……ポリー?」
ヴィエラの後ろについていた侍女がロアンの手の中にある虫を見て、小さく「ヒッ」と悲鳴を上げる。指先で突いたら丸くなるだけの小さな虫に、何故悲鳴を上げるのか。ロアンには分からない。
しかも小さな主人を止めるようにヴィエラの名前を呼んでいる。だがヴィエラはその声に振り向くことすらせず、スカートが地面につかないよう両手で纏めてから隣にしゃがみこむ。
「お前、ロリーポリーの名前も知らなかったの? 小さくてずんぐりした者、って意味があるのよ」
「そうなんだ。この子は『ロリーポリー』っていうんだね。いつも見てたけどわからなくて、さわると丸くなるから、マルムシって呼んでた」
「マルムシ? フフッ。いいじゃない。似合ってるわよ」
ヴィエラは姉のように叫ぶことなく微かに笑うと、ヒラヒラと頭上を飛んでいた蝶に気付いてそっと手袋に包まれた小さな手を向ける。すると吸い寄せられるように青い翅を持つ蝶が指先に止まり、翅を閉じた。
ロアンはそんなことが出来ると知らなかったため、丸い目を更に見開き瞳を輝かせる。
「わあ……! すごい! ゆびにとまってる!」
「フフ。この子は『ルミナチョウ』といってね。青いハネをもつのはオスだけなのよ」
「ルミナチョウ……キレイ……」
「フッ。お前もいつか、こうして指にとまらせることができるようになるといいわね」
シルクの長手袋に包まれた小さな手が、指先に止まった青い羽を持つ蝶を空へと返す。その仕草も日に照らされた横顔も、ロアンが見てきた中で『一番美しいもの』だった。
人生で初めて『異性に見惚れる』という体験をしていたロアンに、ヴィエラは当然のような口調で「お前、名前は?」と尋ねる。
そこでようやくロアンも自己紹介をしていないことに気付き、慌てて立ち上がり、最近習い始めた挨拶を口にした。
「ご、ごきげんうるわしく、ぞんじます。ぼくは、ストーンリッジ家の次男、ロアン・ノア・ストーンリッジです」
「そう。ロアンね。覚えたわ」
ヴィエラはそう言って微笑むと、優雅にスカートの裾を摘まんで挨拶を返した。
「ごきげんよう。わたくしの名前はヴィエラ・ル・ルナリエ・グラディアスよ。ロアン・ノア・ストーンリッジ」
その名前を聞いた瞬間、ストーンリッジ家の年若い侍女は地面に膝をついた。彼女はこの家に来たばかりの新人で、ロアンより十歳程年上だ。だがその年齢であれば『軍事を司る公爵家』の名であると判断出来るらしい。顔を青くして震えている。
だがロアンはそんな侍女すら目に入らず、優雅に挨拶を終えたヴィエラの胸元を見つめていた。
「キレイ……」
「あら。今度はこっちに興味をもったの? せわしない子ね」
ヴィエラは『生まれつきの天才である』と社交界では有名だ。齢二歳で殆どの言葉を理解し、三歳の頃から剣術を習い始め、四歳の頃に学問を習い始めた。そんな彼女は今年五歳を迎え、こうして他家の茶会に顔を出すようになった。
そんな彼女の胸元には、子供用にしては少々大きめなブローチがついている。そこには伯爵家では見たことのない大ぶりな宝石がついており、ロアンは新緑の瞳を輝かせて魅入った。
「お前、宝石も好きなの?」
「うん。ほうせき、すき。キラキラしてキレイだから。でも、こんなにキレイなほうせき、はじめてみた」
顔を真っ青にした侍女は完全に腰が抜けており、必死に声にならない声で「無礼な口の利き方をしないでください」と伝えている。だがロアンには聞こえておらず、一心不乱にブローチについた宝石──真っ赤なルビーを見つめている。
「もっと近くで見てみる?」
「え?! いいの?!」
「ロアン様!」
流石にこれ以上はまずいと判断したらしい。這うような体で近づいていた侍女がロアンを呼べば、当の本人はキョトンとした顔で首を傾ける。
「なあに?」
「い、いけません! グラディアス家のお嬢様に無礼を働いては……!」
「ぐら……なんて?」
侍女は心の底から「このぼんくらが!」と毒づいたが、自分が仕えている相手が高位貴族に無礼を働けばどうなるか。自分の首すら怪しいと必死に立ち上がろうとしたが、ヴィエラは構わず控えていた己の侍女を片手で呼びつけ、ブローチを外した。
「ほら。特別に見せてあげる。感謝しなさい」
「はい! ありがとございます!」
今後二度と目にする機会がないであろう、立派なルビーを差し出され、ロアンは満面の笑みを浮かべる。
だがどんなにテンションが上がっていようと伯爵令息だ。もしくは美しい宝石を汚したくなかったのか。土で汚れた手で受け取ることはせず、いそいそと取り出したハンカチの上にブローチを乗せてもらった。
「わあ……! キレエ……」
光を反射し、カットされたルビーがキラキラと輝きを放っている。ずっと覗き込んでいたら吸い込まれそうなほどに美しいルビーを前に、思わずロアンの口から涎が垂れそうになる。
流石にそれは、とヴィエラの侍女も体を動かしたが、その前に彼の侍女がその口元にハンカチを押し当てた。
「いけません、ロアン様!」
「ふぁぁ」
口がぽっかりと開いていたことに気付かなかったのだろう。ロアンは丸い瞳をパチパチと瞬かせた後、そっと口元に当てられていたハンカチから顔を離した。
「ごめんなさい……」
「いいわよ。そこの侍女が止めたのだから」
「あ、ありがとうございます……」
侍女は男爵家出身だ。三女という立場のせいで働かざるを得なくなり、どうにかこのストーンリッジ伯爵家に転がり込んだのだが、まさかそこで『噂の天才児』と出会うことになるとは思ってもみなかった。
バクバクと心臓が早鐘を打つ中、主人であるロアンは気にせず宝石を返す。
「グラ……さま、ありがとございました」
「いいわよ。ところでお前、何歳なの?」
身長はヴィエラと然程変わらないが、まだ若干舌足らずで話す言葉はたどたどしい。だが挨拶を習っているのであれば四歳か五歳程度だろう。そう目処をつけたヴィエラが尋ねれば、自分と同じ五歳であることが分かった。
「そう。ならグラディアス家のことが分からなくても当然ね。それにしても、伯爵夫人はずいぶんとひどいことをなさるのね」
「なにが?」
侍女にブローチをつけなおして貰っていたヴィエラは唐突にそう述べる。事態が呑み込めないロアンは首を傾けるが、侍女はギクリと全身を固くした。
「お前の母親、ストーンリッジ伯爵夫人は、わたくしたちに『末の子どもは体調が悪くて休んでいる。あいさつができなくて申し訳ない』と謝罪したのよ。でも、不思議ね。わたくしが思うに、ロアン。お前はストーンリッジ家の次男なのでしょう? 熱もなく、元気なのよね?」
「うん。そうだよ」
頷くロアンと対照的に、日に照らされながら俯く侍女の全身からは汗が吹き出ている。そんな侍女の反応を視界の端に捉えながら、ヴィエラは少しだけ乱れていた服装をすべて整えた。
「つまり、お前の母親はわたくしたちに『うそをついた』ということよ。ねえ、ロアン。うそをつくことはいいこと? それとも悪いこと?」
「わるいこと!」
誘導尋問のようだが、ロアンだって「嘘を吐くな!」と叱られたことは何度もある。嘘じゃないと言っても信じて貰えず、頬を叩かれたことも一度や二度ではない。だからこそ「うそはよくないことです!」と自信満々で答えた。決して家族を罰して欲しいと思ったわけではない。ただ『真実』として「うそはよくないことだ」と述べただけだ。
そんなロアンにヴィエラは満足そうに笑みを浮かべると、長手袋に包まれた手をロアンに向けて差し出した。
「お前に栄誉を与えてあげる。ロアン、わたくしを庭までエスコートしなさい」
ヴィエラにとって男性が女性をエスコートするのは『当然の行い』である。だがヴィエラと違い、まともに教育を受けていないロアンは首を傾けた。
「えすこーと、って、なあに?」
「え?」
侍女はこの時ほど心の底から悲鳴をあげたかったことはない。
ロアンに知識がないこともそうだが、今日は庭師が履くブーツに、汚れてもいい服装をしていた。決してお茶会にご令嬢をエスコートできる姿ではない。
だが動こうとした侍女を睨むことで黙らせたヴィエラは、無垢な少年に向かって呆れた顔を見せた。
「あきれた。お前、なにも知らないのね」
「ごめんなさい……」
「いいわ。今日はコレで許してあげる。ついてきなさい」
「お、お待ちください! グラディアス公爵令嬢様!」
しょんぼりと雨に濡れた子犬のような体で謝罪され、ヴィエラは「ちゃんと教育をしないお前たちが悪いのよ」という目で侍女を睨んでからロアンの手を握った。無知は恥ずべきことだが、学ぶ場を最初から奪っていたのであれば話は変わる。ヴィエラは伯爵夫人に灸をすえるためにも、ロアンの手を引いて歩き出した。
「お前たちもついてきなさい。ロアン、行くわよ」
「はい!」
本来であればこのような姿で出向くことは無礼に値する。またヴィエラがロアンの姉のような性格をしていれば、彼を”笑いもの”にするために会場へと連れて行っただろう。
だがヴィエラはそんな生易しい性格をしていない。むしろ『貴族として』学ばせるべきことをまともに教えていない者達に怒りを覚えている。
だからこそロアンの汚れた手を握ることも厭わず、五歳児とは思えない威風堂々とした姿で会場へと続く道を歩む。
そうして庭師の子どものような格好をしたストーンリッジ家の次男を連れて戻ったヴィエラは、頬を引き攣らせた伯爵夫人とその兄姉に向かって目を細めた。
「遅くなり申し訳ございません。道に迷っていたところ、ロアン様に助けていただきました」
「え?」
僕助けてないけど? という顔をしたロアンだが、ヴィエラの母親であるセラフィア公爵夫人だけはすぐに「あ。あれは頭に来ている時の顔だわ」と察する。現にヴィエラの後に続いていた侍女に目配せすると頷きが返ってきたため、優雅に、けれど即座に立ち上がると娘へと近づいた。
「ヴィエラ。怪我はない?」
「はい。お母様。わたくしに問題はございませんわ。ロアン様と”楽しく”お話しておりました」
ヴィエラの透き通るような声はよく通る。そして赤い瞳を持つ少女はしっかりと伯爵夫人を見上げ、僅かに作っていた笑みを消した。
「わたくし、非常に悲しいですわ。はじめて参加させていただいたお茶会で、まさか伯爵夫人に『うそ』をつかれるなんて……」
「ちがいます! グラディアス公爵令嬢! 誤解でございますわ!」
ストーンリッジ伯爵夫人は酸欠になりそうな頭で何度も『何故』と考える。そうして薄汚れた格好の我が子を見下ろし、舌打ちしたい気持ちに駆られた。
「き、きっと起きたら体調がよくなったのでしょう。そうよね? ロアン」
伯爵夫人は必死に笑顔を取り繕うが、ロアンは首を傾ける。何を言われているのか分からなかったからだ。
そんな伯爵夫人を追い詰めるように、ヴィエラはロアンに「ねえ」と声を掛ける。
「どうしてそんな恰好をしているの? それではまるで『庭師』のようだわ」
「そ、それはですね、グラディアス公爵令嬢……」
「お母さまが『お前はすぐにきたなくなるからこれをきろ』って」
咄嗟に伯爵夫人が誤魔化そうと口を開くが、それよりも早く純粋なロアンが答えてしまう。
当然ながら伯爵夫人は頭を掻きむしりたくなった。そしてすぐさま「何故部屋に閉じ込めておかなかったの」と侍女を睨みつけたが、侍女はただ俯き、震えることしか出来ない。その姿を憐れに思うほど貴族は甘くないが、公爵令嬢が不憫な令息のために怒っているのだ。誰も彼もが伯爵夫人を責めるように見つめ、彼女は奥歯を噛みしめる。
「も、申し訳ございません……。事実無根のことを申し上げ、場をお騒がせいたしましたこと、心より深く、お詫び申し上げます……」
普段であればヴィエラもここまではしない。だが嘘をつくならもっと巧妙に隠すべきだった。
ヴィエラは少々潔癖な面があるうえ、誰よりも矜持が高い。自分を『欺いても問題ない相手』として見ているのであれば『徹底的にやり返してやろう』という気になるのだ。だからこそ「わたくしではなく、ロアン様に謝罪してほしいですわ」と答え、更に伯爵夫人の精神を痛めつけた。
「ごめんなさいね、ロアン。私が至らないばかりに……」
「いいよ。いつも服をよごすのはぼくだから。それに、このようふくもきにいってるよ」
「ロアン……」
ロアンはニコニコと笑っているが、伯爵夫人は笑えない。庭師のような服を、伯爵令息が「気に入ってる」と口にしたのだ。明日から社交界で笑われ者になってしまう。
心の中で悪態と嘆きを繰り返していた夫人の前で、ヴィエラはロアンに声を掛けた。
「ねえ、ロアン。今度はわたくしが招待してあげるわ。そこでまた改めて、ゆっくりお話をしましょう」
「いいの?」
「ええ。お前が好きそうな宝石もたくさん用意してあげるわ。だから今度はちゃんとした服でいらっしゃい」
ヴィエラはそう言ってロアンにだけ笑みを向けると、母親を見上げた。
「帰りましょう、お母様」
「……ええ。そうね」
時間帯的に考えてもまだ長居出来たが、挨拶が必要な相手との会話は終えている。公爵夫人であるセラフィアは頷き、ヴィエラの手を握った。
「では皆さま、私たちはこれで失礼いたします」
「ごきげんよう」
美しい親子はこうして嵐のように去って行った。この日、ロアンの記憶に残ったのは美しい少女の笑みと宝石ぐらいだ。そんなロアンの元に『グラディアス公爵家』からの招待状が届いたのは、お茶会から三日後のことだった。




