第七章 湖畔の夜にだけ、王子は少しやさしい
森の調査を終えた一行は、そのまま近くの湖畔の館で一夜を明かすことになった。
元は王家の夏の離宮だったらしいが、今はほとんど使われていないという。静かな館で、窓を開けると湖が月を映していた。
夕食後、ひまりは一人で外へ出た。
館の廊下は広くてきれいだが、見慣れない景色の中ではときどき無性に、神社の縁側や台所の匂いが恋しくなる。母の味噌汁、父の低いくしゃみ、近所の子どもたちの騒ぐ声。異世界へ来てから必死で目の前のことをこなしていたけれど、夜になるとどうしても思い出してしまう。
湖畔に座り込むと、トトが水面へ降りて小さな波紋を作った。
『さみしい?』
「……ちょっとだけ」
『帰りたい?』
答えに困った。
帰りたい、と言えば嘘になる。家族に会いたい。神社が気になる。けれど、この世界を離れたくない理由も、少しずつ増えていた。
「分かんない」
膝を抱えていると、後ろで草を踏む音がした。
「ここにいたか」
レオンだった。上着だけ羽織った姿は昼間より少しだけ年相応に見える。彼はひまりの少し離れた場所へ腰を下ろした。
「部屋にいないと侍女が騒ぐ」
「すみません。ちょっと風に当たりたくて」
「責めているわけではない」
湖の方を見たまま、彼はしばらく何も言わなかった。沈黙は気まずくない。水の音が代わりに話しているみたいだった。
やがてひまりはぽつりと零す。
「私、帰れるんでしょうか」
「……分からない」
正直な答えだった。
「ですよね」
「期待させることは言えない」
「でも、分からないって言ってもらえる方が助かります」
大丈夫だとか、何とかなるとか、根拠なく慰められるよりずっと。
レオンは横目でひまりを見た。
「怖いか」
「怖いです。知らない場所だし、知らないことだらけだし。たまに、自分が急に消えちゃうんじゃないかって思うときもある」
言ってしまってから、ずいぶん弱音を吐いたと気づく。けれどレオンは笑わなかった。
「消えない」
「え?」
「少なくとも、私がそうはさせない」
低く静かな声だった。
ひまりは息を止める。
「殿下」
「この国が、おまえを必要としている」
それは王子としての言葉かもしれない。けれど、そのあと少し間を置いて彼は続けた。
「……私も」
風が止まった気がした。
ひまりは何と返していいか分からず、ただ湖面を見つめる。月が揺れて、トトがぱしゃんと跳ねた。
『言った』
『いま言った』
『本人は気づいてない』
精霊たちが大騒ぎし始め、ひまりは慌てて「静かに」と小声で叱る。
「また精霊か」
「はい」
「都合の悪いときほど賑やかだな」
「そうなんです……」
思わず顔を見合わせ、二人で少しだけ笑った。
笑いが落ち着いたあと、ひまりは勇気を出して尋ねる。
「殿下は、どうしてそんなにこの国を守ろうとするんですか」
「王族だからだ」
「それだけですか」
すぐには答えが返らなかった。やがて彼は湖の向こうを見たまま言う。
「母が病で伏していた頃、王都の中庭だけは元気だった。母が毎日そこへ行って、花や水に触れていたからだ。だが母がいなくなり、庭はすぐ枯れた。私は、あのとき初めて目に見えないものが国を支えていると知った」
ひまりは黙って聞く。
「兵力や金だけでは足りない。人が暮らし、笑い、ここにいてよかったと思える何かが必要だ。だが私はそれを作る術を知らない」
「……殿下は、もう知ってる気がします」
「何をだ」
「守りたいものが何か」
レオンがひまりを見た。月明かりのせいで、その瞳がいつもより近く感じる。
「おまえは、時々妙なことを言う」
「褒めてます?」
「半分は」
「また半分」
頬が熱いのを隠すように笑うと、レオンは短く息を吐いた。
「冷える。戻るぞ」
「はい」
立ち上がったひまりの足もとが、湖畔の石で少し滑った。その瞬間、レオンの手が腰を支える。
距離が近い。
近すぎる。
「だ、大丈夫です!」
「大丈夫そうには見えなかった」
「それはそうなんですけど」
心臓がうるさすぎて困る。
館へ戻る短い道のりの間、レオンはさりげなくひまりの歩幅に合わせてくれた。
その優しさが、いちばん危ない。
幕間 湖畔の帰り道
湖畔での会話のあと、迎賓館へ戻る道は行きよりずっと短く感じられた。
けれど短いからこそ、ひまりは余計に落ち着かない。隣を歩くレオンの気配が近く、さっき言われた言葉が胸の中で何度も反芻される。
帰れなくても困らぬよう、こちらで守る。
王子の口から出るにはやさしすぎる言葉だった。
「足もと」
ぼんやりしていたひまりが小さな石へつまずきかけ、レオンが肘を取る。
「す、すみません」
「今夜は謝ってばかりだな」
「殿下のせいです」
「私の?」
「だって、変にやさしいこと言うから」
言ってから、ひまりは自分で赤くなった。
だがレオンはからかうでもなく、ほんの少しだけ目を細めた。
「変ではない。必要なことを言っただけだ」
「必要でも、心臓に悪いです」
「そうか」
それきり彼は何も言わない。けれど、迎賓館の扉が見える直前まで、肘を取った手は離れなかった。
中へ入ってからようやく自由になった腕が、妙に心もとない。ひまりは自室へ戻るなり寝台へ倒れ込んだ。
『近かった』
『近かったねえ』
『もうつきあう?』
「つきあいません!」
精霊たちの冷やかしに全力で否定しながら、ひまりは枕へ顔を埋める。
けれど否定の勢いほど、胸の奥ははっきりしていなかった。




