第五章 市場散歩と王子殿下の不機嫌
精霊祭の翌日、ひまりは王都の市場を歩いていた。
もちろん一人ではない。レオンが「余計な騒ぎを起こすな」という名目で同行し、セレナも調査ついでに付き合っている。表向きは王都の祭後の確認だが、ひまりにとっては実質はじめての異世界観光だった。
「すごい……パンの種類が多い」
「最初の感想がそれか」
「大事ですよ、食文化」
焼きたての香りに吸い寄せられるひまりの袖を、レオンが無言で引いた。通りを荷馬車が横切るからだ。さりげないのに、気づいたら庇われている。これだから王子は困る。
市場では祭りの成功を喜ぶ声が多かった。
「巫女さまだ!」
「昨日の舞、きれいだったよ」
「広場の流れが良くてねぇ、店も助かった」
声をかけられるたび、ひまりは照れくさくて頭を下げる。自分の力だけではないのに、と何度思っても、喜んでもらえるのはやっぱり嬉しい。
そんな中、果物屋の青年が赤い実を差し出した。
「昨日のお礼です。巫女さまにぜひ」
「え、そんな、悪いです」
「なら王子殿下の分もどうぞ」
人の良さそうな笑顔に、ひまりが受け取ろうとした瞬間、横から伸びた手が先に実を一つ取った。
「代金は払う」
レオンである。
果物屋がぎょっと目を丸くする。
「お、王子殿下、いえ、贈り物ですので」
「贈り物をもらう理由がない」
「殿下、それはそれで感じ悪く」
「ならおまえが払え」
「私に厳しくないですか」
結局、なぜかひまりが自分の財布代わりに持たされていた小銭袋から代金を払うことになった。納得いかない。
市場の外れまで来たころ、セレナがくすりと笑った。
「殿下、分かりやすいですわね」
「何がだ」
「市場の青年への態度が」
レオンは無表情のまま歩き続ける。だが耳がほんの少し赤い。ひまりはそれに気づかず、果物を齧って首を傾げた。
「もしかして殿下、あのお店の果物あんまり好きじゃなかったですか?」
「違いますわ」
「違う」
セレナとレオンが即座に同時否定した。息ぴったりである。
『やきもちー』
ココが腹を抱えて転がっている。ピィもひまりの髪の上でくるくる回りながら笑っていた。
「静かに」
「また独り言ですの?」
「ちょっと精霊さんが」
「最近はそれで通る気がしてきましたわ」
セレナが本気で慣れ始めているのがすごい。
市場を抜けた先に、小さな橋があった。橋の下を流れる水は細く、ところどころ濁っている。ひまりが立ち止まると、トトが悲しそうに川面へ降りた。
『ここ、つらい』
「やっぱり」
ひまりには、水の匂いが少し苦しいものに感じられた。
橋の欄干の装飾は美しい。けれど川沿いの石畳は割れ、植え込みも干からびている。かつては人が憩う場所だったのだろう。今は通り過ぎるだけの道になっていた。
「ここも直したい顔をしていますわね」
セレナが諦め半分に言う。
「顔っていうか、声というか……でも、少し手を入れたら変わりそう」
「王都の全部を直す気か」
レオンは呆れたようだったが、その瞳は橋の向こうを見ていた。王都の息の浅さを誰より感じてきたのは、たぶん彼なのだ。
ひまりは欄干の上に手を置き、流れの音を聞いた。水は流れているのに、届くべきところへ届いていないような感覚がある。川そのものより、川を囲む人の営みと切れてしまっている感じ。
「……人がここで立ち止まらなくなったのも、関係あるのかな」
「どういう意味ですの」
「誰も座らなくて、笑わなくて、花もないと、水もひとりぼっちになる気がして」
セレナは何か言い返そうとして、やめた。理屈としてはおかしいのに、全く的外れとも言えないのだろう。
レオンが川辺を見下ろしたまま言う。
「昔はこの辺りにも露店が並び、夏の夜には舟灯りが出たらしい。今は危険だからと禁止されている」
「危険だからやめる、を繰り返してるうちに、街から息が抜けたのかもしれませんわ」
珍しくセレナが柔らかい口調で言った。
ひまりは二人を見て、ふと思う。
この王子とこの魔導士令嬢は、方法は違っても、きっとずっとこの国をどうにかしたかったのだ。
帰り道、小さな男の子が荷車にぶつかって転びそうになった。ひまりが反射的に駆け寄るより早く、レオンが片腕で抱え上げる。
「気をつけろ」
低い声なのに怖くない。男の子はきょとんとしてから、ぱっと笑った。
「ありがとう、おにいちゃん!」
レオンの背後で護衛騎士が噴き出しそうになっている。ひまりもつい笑ってしまい、本人だけが微妙な顔になった。
「……王子に向かっておにいちゃんはどうかと思います」
「咄嗟でしたので」
「そうか」
しかし彼は男の子の頭を軽く撫でてから地面へ降ろした。やっぱり優しい。
その夜、ひまりは部屋へ戻ってから、ふと窓の外を見た。橋の川が遠くきらめいている。
街のあちこちに、まだ眠った場所がある。
もし少しずつでもそこへ人の笑顔を戻せるなら、自分がここへ来た意味も見つかるのかもしれない。
そう考えたとき、扉がノックされた。
開けると、レオンが立っている。手には昼に買った果物と同じ赤い実の小皿。
「食べそびれただろう」
「えっ」
「市場の件だ」
「もしかして、わざわざ?」
「……通りがかっただけだ」
絶対に嘘だ。
ひまりが受け取ると、レオンは一瞬だけ視線を逸らした。
「今日はよく働いた。無理はするな」
それだけ告げて去っていく後ろ姿に、ひまりは頬の熱を自覚する。
精霊たちの囃し立ては、聞かないふりをするしかなかった。
幕間 橋の上の夕暮れ
市場の橋は、祭りのあとから少しずつ人が戻り始めていた。
ひまりはセレナと一緒に橋の様子を見に行き、欄干に寄りかかって流れを眺める。以前より水がやわらかい。完全ではないけれど、立ち止まる人が増えたおかげか、川の表情が違って見えた。
「本当に、人が立ち止まるだけで変わるのですわね」
セレナが感心したように言う。
「人も変わるし、場所も変わるのかも」
「不思議ですわ」
「理屈にすると長くなりそう?」
「ええ、ものすごく」
二人で笑っていると、以前果物をくれた店の青年がまた手を振ってきた。
「巫女さま! 今度はお代取りますけど、試食どうです?」
「え、いいんですか」
ひまりが近寄ろうとしたところで、背後から低い声がした。
「本日は遠慮しておけ」
振り向けばレオンである。どこからともなく現れるのはやめてほしい。
青年は王子の顔を見るなり気まずそうに背筋を伸ばした。
「し、失礼しました!」
「失礼はしていない」
そう言うわりに圧が強い。
結局ひまりは青年とまともに話せないまま、橋の向こうへ移動することになった。セレナは隣で眼鏡の奥を楽しそうに細めている。
「殿下、橋の視察にしては随分と絶妙なタイミングですわね」
「偶然だ」
「ふふ」
王子本人だけが納得しているようだった。
橋の真ん中まで来たところで、ひまりは水面へ視線を落とした。夕焼けが細く揺れている。
「ここ、いいですね」
「ああ」
「人がちょっとだけ止まるのに、ちょうどいい」
レオンはひまりを見ずに答える。
「だから、守る価値がある」
その横顔が夕焼けを受けてやわらかく見えて、ひまりは少しだけ息を止めた。
幕間 市場の迷子
王都の市場は、朝と昼で匂いが違う。
朝は焼きたてのパンと果物の甘さ、昼は香辛料と布と人の体温。ひまりはそのにぎやかさが好きになりつつあったが、ある日、その市場で小さな騒ぎに巻き込まれた。
「お母さんがいないの」
果物屋の端でしゃがみ込んでいた女の子が、泣くのをこらえながらそう言ったのだ。
ひまりは思わず腰を落とす。
「お名前は?」
「ルゥ」
「お母さんのお名前は?」
聞き取りながら周囲を見回すと、精霊たちが一斉に飛んでいく。
『あっち』
『布のとこ』
『急いでる人いる』
たぶん母親らしき気配を見つけたのだろう。ひまりは果物屋の青年へルゥを頼み、自分はそちらへ走りかけた。
「どこへ行く」
低い声に肩が跳ねる。今日は護衛役だと聞いていたレオンが、いつの間にか背後にいた。
「迷子のお母さんを」
「一人で走るな」
「でも急いだ方が」
「だから私が行く」
言うが早いか、彼は近くの騎士へ指示を飛ばした。市場の出入り口へ伝令を走らせ、自分は最短で布商人の並ぶ通りへ向かう。
結局、母親はすぐに見つかった。買い付けに夢中で子どもと離れたことに気づいていなかったらしい。広場へ戻ってきたルゥが母親へ飛びつくのを見て、ひまりは胸を撫で下ろした。
「よかった……」
「おまえも」
レオンの一言に、ひまりはきょとんとする。
「え?」
「迷子に話しかけるのはいい。だが、自分が迷子になるような走り方はやめろ」
「なってません」
「なる」
断定された。
ルゥの母親が何度も礼を言い、去っていったあと、果物屋の青年がひまりへ桃を一つ押しつける。
「巫女さま、これお礼」
「え、いいんですか」
「王子殿下が怖い顔してるんで、早く受け取って帰ってください」
「怖い顔?」
振り向くと、レオンは本当に少しだけ不機嫌そうだった。
「……別に怖くないです」
「その言い方がもう怖いんですけど」
思わず言ってしまい、ひまりは自分で吹き出した。市場のざわめきの中で笑うと、王都の息が少しずつ深くなっている気がした。
幕間 神殿前の雨宿り
市場からの帰り道、ひまりは突然の通り雨に降られた。
王都の雨は故郷の山雨より粒が細かい。逃げ込んだのは神殿前の回廊で、石の床へ雨脚が白く跳ねている。
「巫女さまも濡れるんですねえ」
果物屋の青年が冗談めかしてそう言った。彼も同じように雨宿りしていたらしい。
「そりゃ濡れます」
「てっきり精霊が傘になってくれるのかと」
『やろうか?』
「やらなくていい」
ひまりが答えたところへ、少し遅れてレオンが現れた。護衛騎士を振り切るような速さで来たせいか、外套の肩が少し濡れている。
「殿下?」
「急に降った」
「見れば分かりますけど」
レオンはそれ以上何も言わず、自分の外套の端をひまりの方へ寄せた。果物屋の青年が気まずそうに咳払いする。
雨が上がるまでの短い時間、ひまりは石畳を打つ音を聞きながら、王都にもこういうただの天気の時間があるのだと思った。危機も奇跡もない、でも確かに誰かと並ぶ理由になる雨だった。
幕間 紙片の鳥と王城の子どもたち
西の中庭を整え始める前、ひまりは使用人の子どもたちと仲良くなっていた。
きっかけは紙片の鳥だ。古文書の写し損じを捨てに行く途中、ひまりが何となく折っていた紙の鳥を、掃除係の女の子が目を丸くして見ていたのが始まりだった。
「それ、飛ぶ?」
「飛ぶのもあるよ」
ひまりが紙飛行機に近い形を折って飛ばしてみせると、子どもたちは大歓声を上げた。たちまち「もう一個!」「わたしも!」の声が飛び交い、気づけば中庭の隅で簡単な折り紙教室が始まっていた。
王城の子どもたちは意外と器用だ。紙の質が違っても工夫して折るし、ひまりより綺麗に角を合わせる子までいる。
そこへ通りかかったレオンは、十人近い子どもに囲まれるひまりを見て足を止めた。
「何の騒ぎだ」
「折り紙です」
「おりがみ?」
「紙を折る遊び。殿下もやります?」
「なぜ私が」
と言いながらも、子どもたちは逃がしてくれない。「王子さまも!」「やって!」の大合唱である。
結局レオンは、不器用な顔で紙の角を折ることになった。手先は器用なはずなのに、力加減が硬くて妙にきっちりした鳥になる。飛ばすとまっすぐ飛びすぎて壁に刺さり、子どもたちが大笑いした。
その日以来、ひまりは子どもたちの間で“紙の巫女さま”という変なあだ名まで付けられた。
後に西の中庭ができたとき、真っ先にそこへ寝転んだのも彼らだった。
子どもは場の変化に正直だ。ひまりはそれを見て、余白のある場所はちゃんと伝わるのだと知った。
幕間 沈黙の森の前夜
沈黙の森へ向かう前夜、ひまりはなかなか眠れなかった。
窓の外には王都の灯りが見える。以前より少しやわらかくなった光だ。精霊たちも今夜は珍しく静かで、ココだけが寝台の端へ丸くなっている。
『こわい?』
唐突な問いに、ひまりは苦笑した。
「少しだけ」
『森のこと?』
「うん。私に何ができるのか、まだよく分からないから」
ココは尻尾をひとつ振る。
『分からなくても行く』
「そうだね」
そこへ、控えめなノックがした。こんな時間に誰だろうと扉を開ければ、立っていたのはレオンだった。
「起こしたか」
「いえ、まだ起きてました」
彼は短く頷き、手にした小さな包みを差し出した。
「携帯灯だ。森へ入るなら持っていけ」
「ありがとうございます」
受け取ると、魔石の中に淡い光が眠っているのが分かった。
「殿下も眠れないんですか」
「明日の配置を考えていた」
「真面目」
「おまえに言われたくない」
軽い言い合いのあと、沈黙が落ちる。レオンはすぐ帰るつもりだったらしいが、ひまりがふと口を開いた。
「明日、もし私が何もできなかったら」
「それはない」
「まだ言い終わってません」
「それでもない」
即答だった。
ひまりは少しだけ目を丸くする。
レオンは視線を逸らさずに続けた。
「おまえは、できることをやる。できないことは周囲が埋める。それだけだ」
それは慰めというより、事実を確認するような言い方だった。だからこそ、ひまりの肩からふっと力が抜ける。
「……分かりました」
「だから寝ろ」
「殿下も」
「努力する」
珍しくそんなことを言うから、ひまりは笑ってしまった。
翌朝、森へ向かう足取りは思っていたより軽かった。




