第二章 枯れた中庭と見えない声
翌朝、ひまりは早く目を覚ました。
慣れない寝台に少し緊張していたせいもあるが、それ以上に窓の外が気になって仕方なかった。昨日見た中庭のことだ。朝の光の中で見れば、余計に分かる。噴水の縁には細かなひびが入り、植え込みは形を失い、中央の大樹も半分ほど葉を落としている。手入れを怠っただけではなく、何かもっと根本的な調子の悪さがあるように見えた。
ひまりが窓際でうーんと唸っていると、狐精霊がふわりと肩に乗った。
『気になる?』
「気になる。だって、まだ生きようとしてるもん」
『分かる?』
「なんとなく」
神社の庭も、放っておけばすぐ荒れる。落ち葉や枝を片づけるだけじゃだめで、水の通り道や日当たり、風の抜けまで見ないと、植物は元気にならない。木や石には、それぞれ落ち着く位置がある。父に教わったわけではない。けれど、小さいころから何となく感じていた。
朝食の席でその話をすると、レオンはパンを切る手を止めた。
「庭が気になる?」
「はい。あの中庭、どこか息苦しそうで」
「息苦しい?」
「庭って、ちゃんと呼吸してる感じがあるじゃないですか」
向かいに座っていた侍女が、うっすらと困惑した顔をした。普通、庭は呼吸しない。
だがレオンは、意外にも真面目に聞いていた。
「あの庭は十年近く前から不調だ。庭師も魔術師も手を尽くしたが改善しない。母上が生前もっとも愛した庭だった」
最後の一言だけ、少し声が低くなる。ひまりは思わず居住まいを正した。
「ご、ごめんなさい。勝手なこと言って」
「いや。気になるなら見てみるか」
「え?」
「昨日の浴室の惨状に対する信頼は皆無だが、庭を壊す前に止められる距離にはいてやる」
「信頼ゼロなんですね」
「大いに自覚はあるようで安心した」
そんなわけで、朝食後ひまりはレオンに連れられて中庭へ向かうことになった。
近くで見る庭は、窓から見るよりずっと疲れていた。
大樹の根もとに敷かれた石は微妙にずれていて、噴水へ引かれる水路は途中で詰まっている。花壇の縁石はきれいだが、きれいすぎる。角が立ちすぎていて、風がそこでぶつかっている感じがした。
ひまりはしばらく無言で庭を歩き、しゃがみ込み、葉を触り、石に手を当てた。レオンは少し離れてその様子を見守っている。護衛騎士たちは「この娘に何が分かる」という顔を隠していない。
ひまりは立ち上がって、首を傾げた。
「……怒ってるっていうより、寂しいのかも」
「庭が?」
「正確には、この場所」
説明しようとして、言葉に詰まる。どう言えば伝わるのだろう。石も水も木も、ばらばらに置かれているわけじゃない。ひとつの場所を一緒に作っていたのに、今はそれぞれが少しずつ離れてしまったような感じがある。
「この石、少しだけずらしてもいいですか」
「それで良くなるのか」
「分かりません。でも、そこじゃない気がして」
レオンは護衛と視線を交わし、やがて頷いた。
「やれ」
許可をもらうと、ひまりは袖をまくった。大きな石はさすがに一人では動かせない。見かねた騎士が手伝い、ひまりの言う通りに少しだけ位置を変える。たったそれだけで、風の流れが変わった。ほんの少し、庭に抜けができた気がした。
次に水路の詰まりを取り、噴水の縁に積もっていた土を払う。ひまりは枝の向きに合わせて植え込みを整え、花壇の一角だけ縁石を外してやった。
「そんなところを崩して何になる」
護衛騎士の一人がぼそりと言った。ひまりはむっとしながらも、視線は庭から離さない。
「崩すんじゃなくて、戻すんです」
「戻す?」
「この場所が息しやすい形に」
自分でも抽象的だと思う。けれど、これしか言えなかった。
最後にひまりは噴水の前へ立ち、神社で朝に唱える短い祝詞をそっと口にした。異世界で通じる保証なんてない。けれど、声にしてみたかった。風と水と木に、「ごめんね、もう一回よろしくね」と頼むみたいに。
すると、足もとにいた水滴精霊がぴょんと噴水へ飛び込み、狐精霊が石の上へ乗り、風精霊が枝先をくすぐった。
次の瞬間、からりと乾いていた噴水の底に、ちょろ、と細い水が落ちた。
誰かが息をのむ。
もう一筋。
さらに一筋。
やがて噴水は頼りないながらも水を吐き出し始め、大樹の枝先で小さな若葉がひらいた。
「うそ……」
ひまり自身がいちばん驚いた。
ざわ、と庭全体に気配が戻る。香りが変わる。朝の光の色まで柔らかくなった気がした。
周囲の騎士たちが目を見張る中、レオンだけは大きく動じなかった。だが、その青い瞳には確かな驚きが宿っている。
「今、何をした」
「分かりません。ちょっと整えて、お願いしたら……」
「お願いで庭が蘇るか」
「普通は蘇らないと思います」
「普通ではないと自覚しているなら結構だ」
呆れたように言ってから、彼は噴水に近づき、指先に落ちる水を見た。その横顔が、昨日より少しだけやわらかい。
「母上なら喜んだだろう」
ぽつりとこぼれたその言葉に、ひまりは何も返せなかった。ただ、大切な庭だったのだと分かった。
しばらくして、レオンはひまりへ向き直った。
「宮廷筆頭魔導士の弟子が来る。おまえの件を調べさせる」
「私、やっぱり実験台ですか?」
「城を水浸しにし、枯れ庭を蘇らせた娘を放置するほど王宮はのんびりしていない」
「否定しないんですね」
「だが、少なくとも危険人物として拘束する気は今はない」
「今は?」
「今はだ」
不穏なようでいて、昨日よりは信用されている気もする。その“今は”を悪い方に伸ばさないためにも、ひまりは自分にできることを考えなくてはならない。
ふと、若葉のついた枝が風に揺れた。
『ありがとう』
声がした。木そのものが、そう言った気がした。
ひまりは思わず目を丸くする。
「木もしゃべるの?」
『しゃべるわけじゃない。響く』
狐精霊がえらそうに胸を張った。
『おまえは、響きを聞いてる』
響き。
ひまりはその言葉を胸の中で転がした。
森で聞いた声も、さっきの庭の気配も、全部それなのかもしれない。
世界のどこかに、ずっと鳴っているものがある。
そして自分は、たまたまそれを聞いてしまったのだ。
幕間 庭師の古地図
中庭を整えた翌日、ひまりは老庭師のグレイスに呼び止められた。
「巫女さま、昨日は驚きました」
白髪交じりの大柄な庭師は、無愛想な顔のわりに声がやさしい。彼は使い込まれた筒を抱えており、その中から何枚もの古びた図面を取り出した。
「これは?」
「昔の庭の図面です。今の中庭とは少し形が違う」
広げられた紙には、噴水の位置、木々の間隔、歩道の幅まで細かく記されていた。現在の庭よりずっと余白が多く、中央だけでなく外周にも小さな腰掛けや水盤が置かれている。
「こっちの方が、息がしやすそう」
ひまりが思わず言うと、グレイスは片眉を上げた。
「やはり分かりますか」
「なんとなくですけど」
「先代王妃さまが好んだ配置でした。人が一人で考えごとをする場所と、二人で並ぶ場所を分けていたんです」
「二人で並ぶ場所」
そこだけ、なぜかやけに耳に残る。
ひまりが図面を覗き込んでいると、後ろからレオンの声がした。
「何を見ている」
「古い庭の図面です」
答えると、レオンはすぐ隣まで来た。近い。ひまりが妙に姿勢を正してしまう横で、彼は図面へ視線を落とす。
「昔の形か」
「はい。今より余白が多いんです。ここ、たぶん一人で座る場所。で、こっちは……」
ひまりが指先を滑らせると、レオンはごく自然にその先を見る。
「二人で並ぶ場所、か」
グレイスが何とも言えない顔で咳払いした。
ひまりの方が先に赤くなる。レオンは平然としているのがずるい。
「べ、別に、今すぐ並ぶとかそういう話では」
「誰もそういう話はしていない」
していないが、余計に恥ずかしい。
結局その日、ひまりとグレイスは図面を元に庭の外周へ小さな腰掛けを戻す相談をし、レオンは黙ってそのやり取りを聞いていた。話が決まったあと、老庭師は帰り際にだけ小さく呟いた。
「古い庭は、人の距離まで設計していたのかもしれませんな」
ひまりは返事ができなかった。隣にいる王子殿下との距離が、急に意識されてしまったからだ。
幕間 侍女たちの評判
ひまりが王城へ来てから三日目には、侍女たちのあいだで妙な評判が立っていた。
「例の巫女さま、殿下に怒られてもめげないのよ」
「むしろ言い返しているわ」
「それでいて礼儀はちゃんとしてるのが不思議なのよね」
本人のいないところで交わされる会話を、ひまりは知らない。
だがある朝、部屋の支度をしていた若い侍女がつい口を滑らせた。
「殿下、ひまりさまのことになると少しだけ声が違います」
「え?」
「い、いえ、何でもありません!」
慌てて取り消されても、気になるものは気になる。
ひまりが首を傾げていると、リリがくるくる回りながら笑った。
『違うよ』
『やさしいよ』
「精霊さんは全部そう言うじゃない」
それでも、その日レオンと廊下で会ったとき、いつもより少しだけ声の調子が気になってしまった。
「どうした」
「いえ、何でも」
「顔が何でもではない」
「殿下こそ、ちょっとだけ声が」
「声が?」
そこでひまりは言葉に詰まり、結局「何でもありません」と逃げた。
逃げたのに、その後一日じゅう、侍女たちの言葉が耳の奥でこだまして困った。
幕間 庭番の犬
西の中庭の裏手には、庭師たちが飼っている年老いた犬がいた。
名前はブラン。大きな白犬で、片耳だけが茶色い。いつもは日向で眠っているが、ひまりが庭へ出ると必ずむくりと起き上がってついてくる。
「こんにちは、ブラン」
しゃがんで頭を撫でると、犬は喉を鳴らして満足そうに目を細めた。
グレイス曰く、ブランは昔から「息のいい場所」を好んで移動するのだという。温室が元気な頃はそちらへ、噴水が枯れたあとは倉庫の陰へ、西の中庭を整え始めてからはまたこちらへ戻ってきた。
「犬は嘘をつきません」
老庭師が言い切るので、ひまりは笑ってしまった。
その日の午後、レオンが書類を持って庭へ現れたとき、ブランはひまりの足元から動かなかった。むしろレオンが近づくほど、ひまりへぴたりとくっつく。
「……嫌われているのか」
珍しく本気で不満そうな声だった。
「犬にも分かるんですよ、殿下が怖いって」
「怖くはしていない」
「してます」
ひまりが即答すると、ブランが同意するように一声鳴く。レオンはしばらく犬と見つめ合い、それから不本意そうに屈んで手を差し出した。
ブランは少し考えたあと、その指先だけは嗅いでやった。
「認められましたね」
「仮免だろう」
たぶんその通りだった。だが、その不器用なやり取りが妙におかしくて、ひまりはしばらく笑いが止まらなかった。




