第一章 保護という名の半拘束生活
王都ルミエルへ向かう馬車の中で、ひまりは三回、自分の頬をつねった。
一回目は「夢かもしれない」と思ったから。
二回目は「でも痛い」と分かったから。
三回目は、向かいに座る王子殿下が本当にいるのか確かめたかったからだ。
「さっきから何をしている」
「現実確認です」
「成果は」
「残念ながら現実でした」
レオンは眉ひとつ動かさずに「そうか」とだけ答えた。反応が薄い。薄いのに、なぜだか圧がある。
馬車の窓から見える景色は、ひまりの知る日本の山道とは違っていた。石畳の道の脇に広がる草原、遠くに見える白い塔、風に混じる乾いた花の匂い。異世界、という言葉がいちばんしっくり来る。
もっともしっくり来すぎて困る。
さっきから、ひまりの膝には白い狐みたいな精霊がちゃっかり丸まり、窓際では水滴みたいな精霊が景色に歓声を上げていた。騎士たちは誰も気づいていないらしい。
『人の城だ』
『高いところある?』
『台所ある? 火のあるところ!』
「静かにして」
『聞こえる子が怒った』
『でもかわいい』
「かわいくありません」
「何か言ったか」
レオンに問われて、ひまりは反射的に首を振った。
「いえ、独り言です」
「癖か」
「今日はたぶん、そうです」
本当は癖でも何でもなく、精霊たちが騒がしいだけなのだが、説明したところで信じてもらえる気がしない。そもそも、ひまり自身まだ整理しきれていない。
やがて馬車は、白い城壁に囲まれた大きな都へ入った。尖塔やアーチの多い美しい街並みで、窓辺には花が揺れ、市場では色とりどりの布がはためいている。なのに、どこか息が浅い。道行く人々の顔に翳りがあるし、噴水の水音も思ったより弱い。
ひまりが首を傾げると、膝のココが鼻をひくつかせた。
『やせてる』
「やせてる?」
『街が。息が浅い』
ぞくりとする。意味はうまく分からないのに、なぜか納得してしまった。
王城へ着くと、ひまりは応接室のような場所へ通された。豪奢な部屋だったが、飾り気より整然とした実務の気配が強い。たぶん王子の趣味か、少なくとも彼の領分なのだろう。
「しばらくここで待て。衣服と湯を用意させる」
「ありがとうございます」
礼を言うと、レオンは一瞬だけ目を伏せた。
「礼はまだ早い。事情も身元も不明の異界人だ。今のところ客人扱いだが、危険があると判断すれば拘束する」
「今のところ、の幅が狭いですね」
「幅を広げたければ騒動を起こすな」
その忠告は、ほんの一時間後に見事破られることになる。
案内された浴室は、日本の家風呂の十倍は広かった。
「すご……」
感嘆したのも束の間、水精霊トトが嬉々として湯船へ飛び込み、湯がざっぱーんと溢れた。
「きゃあああ!?」
『海だー!』
「海じゃない! お風呂!」
慌てて抑えようとすれば、今度は火の精霊ピィが照明の魔石へじゃれつき、ぱっと火花が散る。風精霊リリまで混ざって湯気を渦にし、最後には土精霊モフが床の目地から芽を出し始めた。
「待って待って待って! 一人ずつ!」
『いや』
『むり』
『楽しい!』
楽しいのは分かるがこっちは全然楽しくない。結局、侍女が駆けつけるころには浴室は半分水遊び場と化していた。
しばらくして、びしょ濡れのひまりの前へ再び現れたレオンは、静かに天を仰いだ。
「……半日も経っていないのだが」
「すみません。私のせいじゃないんです」
「では誰のせいだ」
「精霊さんたちです」
「そうか」
完全に信じていない顔だった。
だが、ひまりが肩を落とした次の瞬間、レオンの視線がわずかに浴室の空間を追った。見えてはいないはずなのに、何かを感じているようだった。
「おまえの周囲だけ、魔力の乱れ方が異常だ。原因は不明だが放置はできない」
「つまり」
「保護する」
「監視の間違いでは」
「どちらでも大差はない」
あっさり言われ、ひまりは口を尖らせる。
けれど、その後に用意された部屋は客人用の上等な一室だった。陽当たりのいい窓、やわらかな寝台、白いレース越しに見える中庭。半拘束生活とは思えない待遇である。
もっとも、その部屋へ入った途端、精霊たちが雪崩れ込んできたのだが。
『広い!』
『巣にする!』
『ここ、ひまりの部屋!』
「巣にしないで!?」
ココが枕を占領し、ピィが暖炉へ飛び込み、トトが花瓶へ入り、リリはカーテンをぶわりと膨らませる。室内は一瞬で大騒ぎだ。
そこへノックもそこそこにレオンが入ってきて、今度こそ立ち尽くした。
枕は床に落ち、カーテンは天蓋へ絡まり、暖炉の火は妙に楽しげに踊り、花瓶の水は明らかに無事ではない。
「……説明を聞こう」
「私にも分からないんですけど」
「分からないまま破壊するのはやめてくれ」
「だから私じゃないんですってば!」
思わずむきになって反論すると、レオンは数秒の沈黙のあと、ほんの少しだけ口もとを緩めた。
笑った、のだろうか。
あまりに一瞬で、ひまりは見間違いかと思った。
「明日、宮廷魔導士に診せる。それと――」
彼は落ちた枕を拾い上げ、寝台の上へ戻した。
「何か必要なものがあれば言え」
「え?」
「おまえは今、事情不明の客人だ。最低限の不便は減らす」
ひまりはぱちぱちと目を瞬いた。
冷たい人だと思っていた。いや、冷静ではあるのだろう。けれど、必要なところへちゃんと手が届く。そんな人らしい。
「……ありがとうございます」
素直に礼を言うと、レオンはわずかに視線をそらした。
「礼を言われるほどではない」
そう言い残して去っていく背を見送りながら、ひまりはひとつ息をつく。
知らない世界で、知らない城に連れて来られて、知らない人たちに囲まれている。
それでも、不思議と完全には怖くなかった。
窓の外の中庭では、枯れた噴水の縁に小さな花がひとつ咲いている。さっきまでは蕾だったはずなのに。
『ひまりが来たから』
ココが得意げに言う。
「私が?」
『世界が息をする』
「意味が大きすぎるのよ」
つっこみながらも、ひまりはもう一度、中庭を見た。
枯れかけているのに、捨てられてはいない庭。
なんとなく、助けを待っているみたいに見えた。
幕間 浴室は洪水注意報
王城へ来た初日の夜、ひまりは「精霊たちは可愛いけれど集団になると災害だ」という身も蓋もない真理を知った。
原因はもちろん浴室である。
湯気の立つ広い浴場は、トトにとっては湖、ピィにとっては遊び場、リリにとっては風の実験場だったらしい。
『お湯がいっぱい!』
『きらきら!』
『回る!』
「回らない!」
ひまりが叫んだ時にはもう遅く、湯面は大きく波打ち、床には湯があふれ、魔石灯はぱちぱちと不穏な音を立てていた。侍女たちが駆けつけたとき、ひまりは桶を抱え、トトへ「落ち着いて」と説得し、ピィへ「そこは熱すぎる」と叱り、リリへ「天井近くに渦を作らないで」と懇願するという、何とも形容しがたい格好だった。
さらに悪いことに、その直後、部屋へ戻っても精霊たちの興奮は収まらない。
ココは寝台のふかふかさに感動して枕へ潜り込み、モフは鉢植えの土に幸せそうに埋まり、ピィは暖炉の火と意気投合し、トトは花瓶へ頭から飛び込んだ。
「だめ、全員いったん止まって!」
『むり』
『楽しい』
『ひまりの巣』
「巣じゃありません!」
泣きそうになっているところへ、ノックもそこそこにレオンが現れたのはある意味最悪だった。
彼は惨状を見渡し、次いでひまりを見る。
「……湯浴みの延長だと言われたら、私は今後おまえへ一切の自由行動を許さない」
「待ってください、私の意思じゃないです」
「その主張を裏づける証拠は」
その瞬間、トトが花瓶から勢いよく飛び出し、レオンの肩口を水で濡らした。
ひまりは凍りつく。レオンも一瞬だけ目を閉じた。
そして低く言う。
「……今のは」
「たぶん証拠です」
数秒の沈黙のあと、レオンは額へ手を当てた。
「見えていなくても分かる。確かに何かいる」
「信じていただけました?」
「信じたくはないが、現実らしい」
そこでひまりは、なぜか少しだけ嬉しくなってしまった。自分の言葉がただの妄言ではないと、誰かに認められた気がしたからだ。
もっとも、その直後にレオンが告げたのは、「今夜から部屋の外にも見張りを置く」という、ますます半拘束生活らしい処置だったのだけれど。
幕間 夜食の牛乳
王城の夜は思ったより静かだ。
部屋をあてがわれた最初の晩、ひまりは寝台へ入っても目が冴えてしまい、窓の外の中庭を眺めていた。知らない世界、知らない城、知らない王子。平気なふりをしていたけれど、心臓はずっと忙しい。
そこへ侍女が湯気の立つ杯を運んできた。
「殿下からです」
「殿下?」
「温めた乳に蜂蜜を落としてあります。眠れぬときは飲むとよい、と」
まさかの差し入れに、ひまりはしばらく固まった。
レオンはたしかに冷静で、必要なことしか言わない。けれど、こういうところだけ妙に細かい。
杯を受け取ってひと口飲むと、甘さの奥にハーブの香りがした。体のこわばりが少しだけほどける。
『やさしい王子』
ココが寝台の端で丸くなりながら言う。
「そうかも」
『好き?』
「そこはまだ早い」
言いながらも、頬が少しだけ熱くなる。
ひまりは窓の外を見た。中庭の噴水はまだ弱々しいが、月光を受けて静かに光っている。この世界で最初にもらった優しさが、温かい牛乳だったことを、きっとしばらく忘れないだろう。




