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第二十章 王子の選択

目を開けたとき、ひまりは祭壇奥の記録庫に倒れていた。

 頬に冷たい水が触れる。どうやら水盆がひっくり返ったらしい。耳鳴りはしているが、意識ははっきりしていた。そして何より、久しぶりに精霊たちの気配が鮮やかだった。

『ひまり!』

『戻った!』

『おそい!』

 ココが勢いよく胸の上へ飛び乗り、ひまりはむせそうになる。

「ただいま……!」

 その声へ応えるように、記録庫の外から怒号と金属音が聞こえる。まだ暴走は続いている。

 ひまりはよろめきながら立ち上がり、外へ飛び出した。

 広間では、レオンが騎士たちを指揮し、セレナが防御陣を支えていた。ヴァルドはなおも停止を拒み、祭壇中心の制御を維持しようとしている。

「殿下!」

 ひまりの声に、レオンが振り向いた。その顔に走った安堵は一瞬だったが、確かに見えた。

「無事か」

「はい。やり方が分かりました」

 ひまりは息を整えず言い切る。

「祭壇を止めるだけじゃだめです。王都全体に返す道を作らないと」

 ヴァルドが冷笑する。

「そんな時間があると?」

「あります。作ります」

 ひまりは祭壇の紋様を指さした。

「この祭壇は王都の中心でしかない。全部をここで賄おうとするから無理が出るんです。広場、水路、橋、庭園、神殿、温室、工房――街のあちこちに残ってる“結び目”を繋ぎ直せば、祭壇は力を吸い上げるんじゃなく返す場に戻せる」

 セレナの目が大きく見開かれた。

「都市全体を分散共鳴式に?」

「できますか」

「理論上は……でも、街じゅうに人手が要りますわ」

「集めます」

 レオンが即座に言った。

 ひまりは彼を見る。青い瞳は迷いなくこちらを見返していた。

「それを実行すれば、今夜のうちに王都は一度暗くなる」

 ヴァルドが低く告げる。

「民は混乱し、責任は王家に向く。それでもやると?」

「やる」

 レオンの声は、驚くほど静かだった。

「偽りの光で民を黙らせるより、一度暗くても呼吸できる国を選ぶ」

 その言葉に、広間の空気が変わる。

 騎士たちの目がまっすぐになり、セレナが頷いた。

「研究棟を開きます。古い導路図、全部使いますわ」

「騎士団は広場と水路を押さえろ。工房街には職人を集める。神殿へも伝令だ」

 次々に命令が飛ぶ。動き出した人々の中で、ヴァルドだけが取り残されたように立ち尽くす。

「殿下、本当にそれで民を守れると?」

「守るのは私一人ではない」

 レオンはひまりを見た。

「この国には、もう声を聞く者がいる」

 ひまりの胸が熱くなる。

 信じられている。

 それが怖さよりも先に力をくれた。

「ヴァルドさん」

 ひまりは彼へ向き直った。

「あなたが守りたかったもの、たぶん間違ってません。でも、急ぎすぎると人も街も息ができなくなる」

 ヴァルドの表情が僅かに揺れた。

 反論はしない。代わりに視線を伏せ、掠れた声で言う。

「……一夜で結果を求められ続けると、人は回り道を信じられなくなる」

 それは言い訳ではなく、疲れきった本音のように聞こえた。

 ひまりは返事をしなかった。今は責める時間ではない。

「殿下、準備が整ったら、私は祭壇の真ん中へ入ります」

「一人で行かせると思うか」

「でも」

「そばを離れるなと言ったはずだ」

 こんな時にまでそれを言うのか。

 ひまりは泣きそうになりながら笑った。

「はい」

 王都を救うための、長い夜が始まる。

幕間 王子の机の引き出し

 共鳴の祭の準備が佳境に入ったころ、ひまりは書類を届けにレオンの執務室へ入った。

 本人は不在だったが、机の端には見覚えのある木片がいくつか置かれている。小さな鳥、葉、そして耳の大きな狐。

「……増えてる」

 以前、ひまりが削ったものを一つ渡しただけのはずなのに、明らかに数が増えていた。しかもどれも少しずつ形が上達している。

『練習した』

 いつの間にか現れたココが得意げに言う。

「見てたの?」

『夜にこっそり』

 想像しただけでおかしい。あの王子が、夜中に一人で木片を削っているのだ。

 ひまりが笑いをこらえていると、背後で扉が開いた。

「何をしている」

 当人だった。

「いえ、その……机の引き出しの文化を勉強してました」

「意味が分からない」

 レオンは机へ近づき、木片が見えていることに気づくと、ほんのわずかに動きを止めた。

「見たのか」

「はい。狐、上手です」

「練習した」

「知ってます」

 そこだけ妙に素直なのがずるい。

 ひまりが一つ手に取ると、耳の削り方に迷いの跡が見えた。真面目な人の不器用さがそのまま出ていて、なんだか愛おしい。

「これ、共鳴庭園に置きましょうか」

「まだ下手だ」

「だからいいんです」

 言うと、レオンはしばらく何も言わなかった。

 やがて小さく息をつく。

「……好きにしろ」

 許可が出たので、その小さな狐は後に水鉢のそばへ置かれることになる。


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