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第十九章 世界のECHO

水の中へ落ちた、と思った。

 けれど息は苦しくない。冷たくもない。ひまりの身体は、暗く広い場所へふわりと浮かんでいた。上も下も分からない空間に、無数の光の筋が走っている。それは糸のようでもあり、水脈のようでもあり、人の記憶が編まれた地図のようでもあった。

『ここは記録のあいだ』

『声のたまり』

『世界のこだま』

 今度は精霊たちの声がはっきりと聞こえる。懐かしくて泣きそうになった。

「ココ、トト、みんな……!」

『いる』

『ずっといた』

『聞こえなくなっても、いなくなったわけじゃない』

 光の群れがひまりのまわりを取り囲む。その一つ一つが、見慣れた精霊たちの気配と、もっと大きな何かの一部を帯びていた。

 やがて正面に、人の形をした淡い影が現れる。年若い巫女のようでもあり、ひまり自身の未来の姿のようでもある。顔ははっきりしないのに、ひどく親しい。

「あなたは……」

『聞き手の記憶』

 影はそう答えた。

『一人ではない。何人もいた。土地ごとに、時代ごとに。あなたもその流れに触れた』

「私は、選ばれたんですか」

『選ばれた、だけではない。あなたが聞こうとしたから、道がひらいた』

 ひまりはその言葉を胸の中でゆっくり受け取る。

 森で聞いた声も、庭で感じた息づかいも、突然押しつけられた力ではなかった。もともと世界にあるものへ、自分が耳を澄ませてしまった。その結果、道が繋がったのだ。

「祭壇は、何なんですか」

 問いかけると、空間の光が一斉に流れ始めた。ひまりの前に王都の模型のようなものが浮かぶ。塔、広場、水路、庭園、橋、温室、工房。都市そのものがひとつの生き物のように脈打っている。

『祭壇は心臓ではない』

 影は言う。

『人と土地が集めたものを、混ぜて、返す場所』

「返す……」

『祈り、喜び、季節の変化、手仕事、祭りの歌。人の営みが土地へ返り、土地の恵みが人へ返る。その循環の結び目』

 ひまりは息をのんだ。

 つまり祭壇は、ただ強い力を生む装置ではない。人と自然が互いに影響し合う“関係”そのものを循環させる場だったのだ。

『昔の都市は、建物だけでできていなかった』

 模型がさらに変わる。人の流れに合わせて光が動き、水が折れ、風が抜け、夜になると灯りが集い、朝には鳥が橋に降りる。

『広場は人を集めるためだけではなく、空へ祈りを放つ場。庭は飾りではなく、気配を休ませる場。橋は向こう岸へ行くためだけでなく、水と人が出会う場』

 ひまりの胸に、自然彫刻という言葉が浮かぶ。

 何もないところへ無理やり形を押しつけるのではない。もともとある流れと記憶を読み、その場所が喜ぶ形へ彫り起こす。

「じゃあ、ヴァルドさんのやり方は」

『結び目から、力だけを引き抜いている』

 影の声が少し沈んだ。

『循環がなくなれば、都市は明るく見えてもやがて乾く』

 王都の模型の周囲が灰色になり、森や川の光が細っていく。その一方で中心だけが不自然に眩しく光る。

 ひまりはぞっとした。

 今の王都そのものだ。

「止めるにはどうしたら」

『止めるだけでは足りない』

「え」

『心臓を止めれば、人も都市も一度苦しくなる。必要なのは、返し方を取り戻すこと』

 模型の上へ、ひまりが西の中庭で作ったような小さな庭が浮かぶ。次に橋、広場、水路、温室、祠。ひとつずつの場所が線で結ばれ、やがて都市全体へ柔らかな脈が走る。

『一つの巨大な術式ではなく、街全体を共鳴させる』

「街全体を……」

『人も参加する』

 ひまりははっとする。

 祭り。

 村の祠。

 人が歩き、座り、笑い、歌うことまで含めて場をひらく。それが共鳴の本来の姿なのだ。

「でも、そんな大がかりなこと」

『できる』

 影は迷いなく言った。

『あなた一人ではなくてもいい』

 その瞬間、ひまりの脳裏に次々と顔が浮かんだ。

 セレナ。レオン。王城の庭師。祭りの職人。リュン村の人々。西の中庭で笑う使用人たち。

 そうだ。全部を一人でやる必要はない。

 自分はつなぐ側なのだ。

「……分かった」

 ひまりが頷くと、光の群れが嬉しそうに弾けた。

『もう一つ』

 影が近づき、その額がひまりの額へ触れる。

『帰る道もある』

 その言葉に、胸が大きく揺れた。

 暗い空間の向こうに、神社の石段と朝の鈴の音が一瞬だけ見えた。

「帰れるの?」

『共鳴がひらけば、道は選べる』

 選べる。

 その言葉は甘くて、怖かった。

 家族のいる元の世界と、この王都と、レオンのいる場所。そのどちらかを選ぶ日が来る。

『まずは、いま』

 影の声が遠ざかる。

『あなたが戻れば、鍵がそろう』

 光が一気に溢れ、ひまりは反射的に目を閉じた。



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